映像版! 北方水滸伝 ~~ありがとうWOWOW~~2026年04月09日


 まず最初に、言わせて下さい。
 WOWOWさん、ありがとう。

 北方謙三の水滸伝、その映像化。
 そりゃあ、耳を疑うよね。
 水滸伝といえば、梁山泊に集いし百八人の英傑の物語。北方水滸伝といえば、英傑に名を連ねない下級兵士もそれぞれに物語を持ち、敵側だって同じ熱量でその生き様、死に様を描き切る、全十九巻の物語。
 人の多さと物語の長さだけ考えても、そりゃあ無理でしょ。
 加えて、十数人の盗賊討伐から、数万人の騎馬戦まで、スケール感の違う戦を描き分ける。ロード・オブ・ザ・リングだってメインのキャラクターは七人だよ。

 はじめて聞いた時から、当てにしないけど、ポシャらないでよね、って祈っていたよ。

 それが、現実になったんだよね。
 全七話の、ドラマになって。

 宋江、織田裕二。晁蓋、反町隆史。
 あれ、水滸伝って、義憤に駆られた若者たちの革命物語じゃなかったっけ? ちょっとおっさんすぎへん? とか思ったこともあったけれど。
 でも、全七話、見終わった今では。

 ありがとう、WOWOW。
 ありがとう、NTT。
 この映像を遺すのに携わった、すべての人に、ありがとう。

 僕は、北方水滸伝は、文庫で買って通しで七回は読んでいるし、続く楊令伝は、ハードカヴァーで買って二回、岳飛伝は雑誌で買って文庫で買って二回、少なくとも読んでいるのだけれど。
 とはいえ、水滸伝を最後に読んだのは、十年とはいわないまでもずいぶん昔のことなのだけれども。

 ドラマ版はね。
 民が苦しむ国ではいかん、との義憤から替天行道をしたためた宋江。宋江をして英傑と言わしめた晁蓋。そこに参じる魯智深、林沖、楊志。
 若い役者を充てた迷える未来の英傑に対して、兄代わり、親代わりとなる宋江、晁蓋、そして王進。
 中国の古典によくでてくる、凡庸なリーダーの代表格、宋江。織田裕二の慈愛に溢れる困り顔がピタッとはまってたよね。これぞ英傑、晁蓋の見得も、またまたはまっていて。
 幼さの残る楊志、武松、林沖、そして史進。それぞれ愛おしい。

 もちろん、全七話のドラマでは、そんなに物語が動くわけもなくて。梁山泊に集まった英傑はまだ二十人ほど、というところで終わってしまったのだけれど。

 僕が印象に残ったのは、女性陣の華やかさ。
 水滸伝は、特に北方謙三の水滸伝は、漢の生き様、死に様の物語、と思っていたからね。
 林沖の妻、張藍(泉里香)。楊志の妻になる済仁美(波瑠)。宋江に使える馬桂(松雪泰子)、閻婆惜、鄧礼華。みんな綺麗で、みんな生き生きしていて。そして、それぞれの生を生きていた。生を全うした人たちもいたけれど。

 北方水滸伝の序盤は、男たちが傷つき、集い、女たちが死んでいく物語だったんだね。

 お金のかかった映像であることは、素人の僕が観たって一目瞭然。
 それよりなにより、民が喘ぐ国、それは間違っているとあげた音なき声。それに賛同する人たち。闇の塩、青蓮寺、王進が創る子午山。宋江の志、晁蓋の見得。そういうものを、文字から想像していたものを、じっさいに観ることができた。

 嬉しいよね。
 二、三時間の映画では到底まとめられない、壮大な物語を、少しずつ少しずつ、見せてくれて。

 そして、なんと。
 続編も作ってくれるらしい!!

 ありがとうWOWOW。
 続編も待ってるよ。

 ただ、それだけのはなし。

宝島 映画篇2025年11月18日

 このところ、昭和の、あの戦争の頃の映画をいくつか見たのだけれど。

 国宝、は現在お年寄りの若い頃、ということでの60年代。

 遠い山なみの光、は長崎原爆の体験者の回想、ということでの50年代。

 そして、今回見たのは、「宝島」。米国に占領された沖縄のものがたり。


 前の二つが、ブンガク的な映画、だとしたら、宝島は、堂々たるエンターティンメントの大作映画。すごい、楽しい。


 アメリカに占領されて、基地があって、米兵の暴虐に文句も言えない、終戦後の沖縄。

 若いギャング達が、キャンプに忍び込んで物資を調達して義賊を気取るけど、ある日、そのボスは帰ってこなくって。

 時は経って、ある者はボスを探すために刑事になり、ある者はボスに貞節を誓い続けていて、ある者は喰うためにヤクザになり、テロリストに片足を踏み入れている。


 そういう、いろんな立場の人たち、そして群衆の感情が爆発するクライマックス。

 ちまちましたセットとCGではない、と思える熱気と爆発の温度感と。ハウリングを恐れないゲインの高い音と沖縄言葉と入り交じる英語で何言ってるか分からないところもあるけれど。そんなことをものともしない、テンションの高い映画、だったね。

 至るところで爆発する火炎瓶やひっくり返されるクルマや。感情のままにあふれ出す叫び声や啖呵や。世の中やオトナに対して向けられる、欺瞞をさしてえぐり出すナイフのような目や。


 いいなあ。

 ジョゼと虎と魚たち、以来くらいにちゃんと見る妻夫木君も。デスノートのイメージが強い窪田君も。ゆきてかへらぬ、から大正昭和づいている広瀬すずも。

 いいなあ。


 広瀬すず。

 典型的なアイドル女優として、チアダンとか、ちはやふるの印象が鮮烈だった彼女も、いろんなラブストーリーとかラブコメとかピンクのウィッグとサングラスとかを経て、ムシューダのCMではないけれど、「連ドラのヒロイン風ワンピ」とか、もう少し前の時代のドレスとかを着こなす近代物に、たくさん出るようになったね。

 作品数が多くて、ついて行くのは大変だけれど。

 でも、あんまりないけれど、映画を見に行くときに女優で観に行く人の一人になったよ。ラストレターの時には、顔と名前が一致してなかったけれど。


 いいなあ。

 広瀬すず作品としては、遠い山なみの光と同時期に、同時代だけど全く違う作品を残してくれたことが。

 長尺の大作、ということでは、芸を突き詰めた(そして結果的に大ヒットした)国宝と同時期に、エンタメてんこ盛りの作品を堂々と世に送り出してくれたことが。


 なんか、映画って、いいね。

 来週は、何見ようかな。


 ただ、それだけのはなし。

  


遠い山なみの光 映画篇2025年11月18日

 遠い山なみの光


 こわい、映画だったね。思ってたのと、全然、違う。


 1950年代、終戦から、ゲンバクからの復興真っ盛りの、長崎。

 そして、1980年代、携帯電話ができる前の、イギリス。


 この二つの時代と場所を舞台に、二つの物語が進むのだけれど。

 長崎では、会社員の夫を持つ妊娠中の妻。そこに校長をリタイアした義父が訪ねてきて。という舞台に、謎の母子がひょんな事から妊娠中の妻と知り合って。という形で物語が進んでいって。

 イギリスでは、複雑な事情がありそうな母子。離れて暮らす母の家に、原爆の時代の長崎の家族の手記を書こうとしている娘がインタビューする、という形で進んでいく。


 どうやら、長崎パートの妊娠中の妻、悦子(広瀬すず)が、イギリスパートの母親、悦子(吉田羊)であって、インタビューは、彼女が長崎でどういう生活をして、なぜイギリスに来たのか、ということを聞こうとしている様で。


 イギリスの家の古い荷物から出てくる、若い頃のお母さん、悦子の写真は広瀬すずだし、役名もそうなのだけれども。

 悦子は、会社員の夫を持ち妊娠中で、昔ヴァイオリンを弾いていた様だけれど、海外に行きたい、というこれといった欲望もなくて。

 知り合い母子の佐知子(二階堂ふみ)は、GIが頻繁に家に訪ねてくるからパンパンだと街中に思われていて。GIが自分たちをアメリカに連れてってくれる、と信じて準備を進めている。

 英語も、子供の頃から勉強していて、ディケンズの本を原書で読み、観光に来ている外国人とも話ができ、日本を出てアメリカに暮らすのを心待ちにしている。


 イギリスの悦子の娘はどう見ても白人とのハーフで、名前もアメリカ名のニキ。どうやらニキには姉がいたらしいが、自殺して、葬儀にも参列しない程仲が悪かったらしい。姉の方は日本名。


 長崎では、女性が人間として可能性を持つためには、海外に行かなければならない、と信じる佐知子(二階堂ふみ)に感化されてか、悦子(広瀬すず)も嫁いでから自分のやりたいことを見失っていると思い始めて。

 夫に隠しているけれど、実は長崎で被爆した身で子供を授かっていることに不安と恐怖を覚えていて。

 そんなことを経験としてくぐり抜けて、したたかに生きている佐知子(二階堂ふみ)を、どこか眩しく思っている悦子(広瀬すず)。


 イギリスの母親悦子(吉田羊)が、娘に聞かれて思いだした、という、それまで語らなかった終戦後の佐知子(二階堂ふみ)のエピソード。


 長崎では、明日にもアメリカに向けて発つ、その準備をしている佐知子(二階堂ふみ)。娘の飼っていた猫を連れて行く、棄てていくで口論になって。

 その、猫を入れている木箱。その木箱をお祭りの射的で獲った母子の乗る路上電車を、街角から見る目。遠景だけれど、悦子(吉田羊)の目。


 ロンドンでは、これまで入らなかった自殺した姉の部屋に入ったニキ。母が日本から持ってきただろう古い荷物を眺めている。

 昔の写真、義父が帰郷する際に残した手紙、そして、それらを入れている木箱は。

 猫の家にするため、佐知子(二階堂ふみ)の娘が射的で獲った木箱。


 長崎。

 ロープウェイに乗り合わせた海外の観光客と世間話をする悦子(広瀬すず)。むずがる子供を叱る悦子(広瀬すず)。

 ちょっと前には、同じ観光客と喋っているのは佐知子(二階堂ふみ)で、子供を叱っているのも佐知子(二階堂ふみ)のシーンがあって。



 こわいよね、怖い。


 長崎パートは、イギリスで悦子(吉田羊)が娘のニキに語ったことを映像にしているんだよね。

 母親が、娘に、こうであったと思わせたいはなし。母親が、娘に知られたくない、聞かせたくないことを避けた、物語。


 佐知子(二階堂ふみ)に影響を受けて海外に行くことになった、と悦子(吉田羊)は云っていたけれど、佐知子(二階堂ふみ)は本当にいたのか。

 結婚し、妊娠していた悦子(広瀬すず)、イギリスに連れてきて、自殺したのはお腹の中の子供なのか、それとも佐知子(二階堂ふみ)の子供(として長崎パートに出ていた子供)なのか。残された写真からは、佐知子(二階堂ふみ)の子供と同じ人に見えるけれど。


 何かを隠すために、空想、あるいは悪夢の中で佐知子(二階堂ふみ)をこしらえて、自分の物語を佐知子(二階堂ふみ)に仮託しようとした。その物語は、もちろんどこかで破綻をする。その破綻が、バスを見ていた、悦子(吉田羊)の目。

 外国人と観光地で話をし、子供を叱りつける、悦子(広瀬すず)。


 だとしたら、悦子(吉田羊)は、何を隠したかったんだろう。

 会社員との結婚生活。義父の教育者としての、退職後の挫折。それは、ホントにあったのかなかったのか。


 小説読んで、映画もう一度見てみたいな。


 ただ、それだけのはなし


国宝 まずは映画から2025年11月14日

 ちょっと前になるけれど。

 久しぶりに、映画館に行ったよ。


 「国宝」。


 歌舞伎役者の子供と、十代半ばでその家に拾われた、歌舞伎に魅入られた孤児。同い年の二人は共に芸を学び、若くして二人組として人気を博するけれど、、、

 血筋と努力と才能と、そして友情と反発と。

 そういったものを行きつ戻りつしながら、おたがいの生き様と、周りの人を描いた、重厚な物語、なんだよね。


 興行収入一〇〇億円に達しよう、っていう映画だから、良く知っている人も多いと思うのだけれど。若手の俳優二人が、真正面から歌舞伎の、女形の演技に挑んだことで、話題になっていたよね。


 サービスデーなどの特典のない、平日の午前中だったのだけれど、驚くべきことに映画館は4列目以降ほぼ満員でね。ぼくの両隣にも人がいて、ちょっと窮屈だったから、空いている3列目に移動して鑑賞したのだけれど。


 3時間っていう上映時間、退屈しないのかな、って思っていたのだけれど、失礼しました。退屈どころか、もっと長くても良かったかな、って思ってしまいました。


 この映画、もしも観に行こうか迷っていたり、サブスクで見たらいいや、と思っている人がいたら、断然、間違いなく映画館で見ることをおすすめします。

 個人的には、映画館の、前の方の席で、スクリーンの右側と左側を注視するためには首を曲げないといけないくらいの距離で観るのがいいと思うけど、それはまあ、好き好きだけれどもね。


 なんでかって言うと。

 この映画、歌舞伎の場面が多くって。歌舞伎って、常日頃から慣れ親しんでいる人ってそんなに多くないと思うけれど、やたらゆっくりでまどろっこしい、そういうイメージを持っているヒトが多いのかな、と想像するんだよね。

 その、やたらゆっくりでまどろっこしい歌舞伎の。演技の中に秘められた芸や感情を、アップを多用した緊張感の中に見せていこう。そういうことを目論んで、かなりの部分成功している映画、だと思うからね。

 でも、そういうゆったりしたテンポ感の中にある緊張感とか、細部の芸とか感情っていうのは、日常生活から切り離された時間空間で、一点だけを見つめる、そういう鑑賞方法でしか十分には感じられない、と思うんだよね。

 多分、明るいリビングや自室のスマホで、いろいろなことをやりながらこの作品を切れ切れに観たら、歌舞伎のシーンは早回しでいいや、ってことになってしまうと思うんだよね。それって、ホントにもったいない。だから、映画館でみて欲しいなあ、と思うんだよ。



 これから先は、ネタバレも含むから、観た人、これから観る人は観た後にまた、ね。



 この映画、企画して製作して、完成までこぎ着けたこと、ホントに敬意を表します。そして、日本映画史上屈指の興行収入を得るほどの大ヒット、本当におめでとうございます。


 多分、怖かったと思うんだよね。

 この映画の成否って、吉沢亮と横浜流星、その子役達の、歌舞伎の演技にかかってるよね。主演の二人は、何年も練習にかけた、って何かに書いてあったけど、そんなに前から企画が進んでお金を出していた人たちがいる、ってことだもんね。

 もし、この二人が、一見して偽物って分かる素人の女形しかできなかったら、ただのアイドル映画に成り下がってしまう。そのリスクは、結構大きかったと思うんだよね。


 だから、本当におめでとうございます。


 歌舞伎の演技ってすごい、っていうことを、存分に感じることができました。


 それは、吉沢亮と横浜流星の演技そのものであったり、アップを多用したカメラワークであったり、劇中で演技を観ている人たちの反応と台詞であったり。そういう、素人にも分かりやすいしかけが随所に施されていることも承知しつつ、そこに引き込まれることが心地よい、っていう空間だったんだよね。


 もちろん、完璧じゃない、って思うところもあって。

 劇中で流れる時間が長いから、歌舞伎以外のシーンが紙芝居になってしまっているな、と思うこともあるし(高畑充希の心変わりとか、森七菜の突然の登場と退場とか)。

 悪魔に魂を売った、いわゆるありふれたクロスロード伝説の覚悟と「失った物」の大きさが全く感じられなかったとか。

 でもまあ、そういうのは、ストーリーを進めるための仕掛けである、と思っても良いのだけれど。


 ひとつだけ、どうしてもよく分からないところがあるんだよね。

 人間国宝になった吉沢亮がインタビューを受けるところで。「順風満帆の役者人生でしたが」っていわれるところがあって。いや、順風満帆じゃない、っていう話をいままでしていたのに、と思ったのだけれど。

 歌舞伎に復帰してからは永らく順風満帆だったよね、なのか、過去のいざこざなんてなかったことになるんだよね、なのか。いずれにしても何か感情的に引っかかる筈の(そのための)言葉なのかと思うのだけれど、なんかスルーされた気がするんだよね。

 なんのために、フックになるこの言葉を使ったのか、よく分からないままになっちゃったな。


 平日の午前中、観客席を埋めたのはほぼシルバー世代の人たちで。そういう人たちを大挙して劇場に呼べる大人の映画が出現したこと、映画業界にとっても本当に、良かったね。


 吉沢亮さんが成し遂げた偉業を、称賛します。曽根崎心中、すごかったです。


 ただ、それだけのはなし。


天童荒太のエスエフ? ペインレス2024年12月13日

 ペインレス 天童荒太


 「永遠の仔」に衝撃を受けてね、そこから発表順の前後に拡がって、天童荒太を読んでいたんだよね。

 「家族狩り(ハード)」があって、永遠の仔を挟んでもう一度「家族狩り(文庫)」それから「悼む人」とか「包帯クラブ」とかあって、「ムーンナイト・ダイバー」くらいまでかな。ぱっと思い出せるのって。


 この前、新聞の下面の広告で新刊が出る、っていうから、図書館の本棚を覗いてみたら、読んだことのない本がいくつかあって。その中の一冊、実際には上下巻だから二冊だけど、を読んでみたよ。「ペインレス」。


 僕が通う図書館の本には、最初のめくりのページに、帯から切り貼りした情報がのりで貼ってあるんだよね。ハードカヴァーって、帯がなくなるとどういう本なのか全く分からないから、ものすごく助かるのだけれど。

 ペインレスの帯(だった物を貼り付けたページ)には、「医師として診察したいんです、あなたのセックスを」って言う刺激的な文言が書いてあって。天童荒太って、こういうものを書くヒトだったっけ、って思いながら借りたんだよね。

 どうも、「悼む人」のイメージが強くって。同時期に読んだ「包帯クラブ」もそうだし、「ムンライト・ダイバー」もある種そうなんだけど、悼む人って、天童荒太の作品群を良く表した言葉だよね。悼む人っていう小説が、天童荒太を良く表している、という事とはちょっと違った意味で、ね。

 何らかの理由で喪われた、あるいは背負わされたモノを、祈ることで、弔うことで、折り合いをつけていく。それが、悼む、ってこと。初期の、家族狩りのような、暴力的な憑きもの落としから、自省的な永遠の仔を経て、寓話としての悼む人やその前後の作品にたどり着いた、っていうのが、僕の中の天童荒太のイメージ、なんだよね。


 なので、たどり着いちゃった天童荒太は、そこで完成型なんだ、って勝手に思って、発売日には必ず手に取る、っていうフォローの仕方を辞めたんだよね。


 だから、しばらくぶりの天童荒太。ペインレス。


 これがね。

 面白いんだよね。


 先天的な理由で心に痛みを感じない女性と、後天的な理由で身体に痛みを感じない男性。他人と異なる感覚は、他人と異なる人格・精神を形作り、それが人類の進化であるのでは、と考えて、、、

 そういう話だったのか、そういう話ではなかったのか、読みおわった今も、よく分からないんだけどね。


 ペインレス、っていう題名だから、必然的にペイン=痛みが題材になっていて。痛みの発生する機構や、その治療法、実際の手技について(特に肉体的な痛みについては)良く書き込まれていて、それは分子生物学を囓った僕にはものすごく親和性があるのだけれど。そのサイエンスを下敷きにして、人類の進化の可能性、っていう大ボラが進行していく。一つ一つは、(ちょっと自分には遠いけれど)ないことではないな、っていうエピソードを重ねて、壮大な妄想を成立させる。

 あれ、それってサイエンス・フィクション=SFじゃん。

 そう、この物語は、天童荒太のエスエフ小説、なんだよね。


 脳科学を題材にしたエスエフって言うと、「パラサイト・イヴ」を書いた瀬名秀明の二作目、「ブレイン・ヴァレー」が金字塔としてあるのだけれど(個人の感想です)、超常現象が起こって神とはなんだ、に迫る純然たるエスエフとしてのブレイン・ヴァレーとは違って、医療の知識を丁寧に小道具にしながら、ありうるかもしれないニュータイプの出現を描くペインレスは、エスエフじゃなくってもっとブンガクよりのサイエンス・フィクション、なんだよね(あくまでも個人の感想です)。


 思えば、天童荒太の初期作品は、グロテスクなホラーっぽかったよね。家族狩り(ハード版)とか。永遠の仔も長い長いサスペンスだし。

 だから、挑発的な性の描写とか、倒錯的な世界感とか、そんなに違和感を持つべきものでは無いんだね。悼む人でいい人いい人のような宣伝のされ方をされていたから、ちょっと先入観を書き替えられてしまったかな。反省。


 パラサイトイヴの瀬名君が、ブレインヴァレーで本格エスエフを書き上げて、そのあとロボットモノでとてつもない傑作にたどり着く様に、天童荒太もいろいろにテーマや作風を変えて、まだまだとてつもない傑作を出してくれるんだろうなあ。

 楽しみ、楽しみ。


 ただ、それだけのはなし。