踏んだり蹴ったりな幸せ者 ― 2024年02月08日
このごろね、
知り合いの何人かが、本を出す、っていう話をしていて。実際に手元に取ることのできる紙の本を出した人も何人かいるんだよね。
職業的に本を書くのが仕事、という人たちではなくって、という事だけれども。
学生時代に、ワープロで印刷した物語を、自分でハードカヴァーをつけてボンドだらけの本を作っていた身としては、いいいなあ、って思うんだよね。
そういう、僕の知り合いが書いた本。読んでみたよ。
踏んだり蹴ったりの幸せ者
アラサー女性の半生記、って書くとどうなんだろ、っていう感じになるんだけど、このヒトの場合は波瀾万丈、って言うかね。
タイトル通り、踏んだり蹴ったり。
病気になったり彼氏と別れたり、いくつかの命と永別したりしながら。
それらを背負い込みながら、それらの重みを十分に感じながら、ふらふらになりながら、全速力で走り続ける。
そんな、話だけ聞いたら重いなあ、って思ってしまう人生のエピソードを、なんとまあ。
軽妙洒脱に、面白おかしく。
ライトに読めて、そして元気を分けてもらえる。
そういう読み物に、なってるんだよね。
すごいな。
僕の、ある方面での知り合いっていうのは。やりたいことがありすぎて、だけど自分の思う速さで走れなくて。足も頭も空回りして地団駄踏んでいる、そういう人が多いのだけれども。
彼女も例に漏れず、常に自分が行きたいところがあるのに、それが上手く人に伝わらないもどかしさを、必死に周りに訴えている、そういうヒトで。
でも、上手く伝わらないけれど、本人の中に確かに、不変のものとしてある(ありそうな)モノに惹かれて人が集まってくる。そんな大勢の人の中心にいつの間にかなって、ムーヴメントを起こしていく。そういうヒトなんだ、と思っていたけれど。
この本を読んでみて、その情熱、その方向、行き着きたいコアな部分が、こういう風にできていたんだ、って言うのがちょっとだけ見えた気がしたんだよ。
半生記だから、僕の知っているエピソードも少し入っていて。
その時の、そしてそのあとの彼女の気持ちの動きや、決断も、なるほど、って思うところが多かったのだけど。
でも、なにより。
彼女のことを全然知らない人が(大部分だと思うけど)読んでも、感情移入して、はらはらして、でもだいたいは笑いながら応援したくなる。
そして、これが一番大事なことだけれども。
そうこうしているうちに、最後のページまで行き着いてしまう。
その文体、とても心地よかったな。
自分の人生だし、やりたいようにやったらいいよね。
ああ、おもしろかった。
ただ、それだけのはなし。
ミッキーの、最後の定期 狂乱のショスタコ13 ― 2024年02月16日
小澤征爾が、なくなったね、
まずは、合掌。
僕は、小澤征爾を生で聴いたことが、結局ないんだよね。
高校の頃、カラヤンの来日公演をがんばって公衆電話からチケット取ろうとして。ようやくつながったのだけれど、10円玉がなくなってとれなかった公演が、結局カラヤンが体調不良かなにかで、小澤征爾が代役で指揮した事があって。それが一番近いニアミスかな。
大学の頃、後輩が入っていたジュニアフィルの欧州遠征かなにかで、小澤に振ってもらった、っていう話をしてたっけな。
それくらい、もう30年以上前から、小澤は誰もが知っているスーパーヒーローだったのだけれども。僕にはあまり近くなかった存在だったかな。
このごろは、小澤フェスで振ったとか振らないとか、聴けるのか聴けないのか分からない日々が続いていたけれど。
それにしても。
小澤征爾の訃報を伝えるニュースの多いこと。凄い存在だったんだね。
小澤征爾もそうだけれど、オーケストラの指揮者って、年齢を重ねてもできる職業だよね。あるいは、年齢を重ねてからの方が評価が高くなって、なかなか辞め時が見つからない職業でもあるよね。
朝比奈のじいさんも、93歳でまだまだ演奏予定があって、自分が振る予定だった演奏会の最中に、天に召されたしね。
そういう、辞め時の難しい職業である指揮者を、「来年いっぱいで辞めます」って宣言した人がいるんだよ。
人気の指揮者だからね、必然的に、「カウントダウン」とか、「最後の定期演奏会」とか、そういう演奏会が続くのだけど。
そういうキャリアの終わり方って、いいよね。
せっかく取ったチケットが、体調不良で中止になったり、生前最後の演奏会になるか、って不純な動機でチケットが取り辛くなったりするより、よっぽど建設的。
あ、それって、井上道義、ミッキーのことなんだよね。
ミッキーは、朝比奈さんの時代から大フィルさんの重要な客演指揮者の一人だったし、オオウエエイジの後を受ける形で数年間、首席指揮者もしてくれたし、アンサンブル金沢を率いて大阪に来てくれてもいる、生で聴く機会の凄く多い指揮者なのだけれども。
今年、2024年末で、指揮者を引退するんだって。
今回は、大フィルさんの最後の定期演奏会。シンフォニーホールでの「カウントダウン」コンサートはまだまだいっぱいあるのだけれど、でもひとつの区切りのコンサート、なんだよね。
プログラムは、ミッキーの区切りのコンサートと言えば、他に考えられない、ショスタコーヴィッチプログラム。
ショスタコーヴィッチは、ソ連時代の作曲家でね。中高生には、吹奏楽でも良く演奏される交響曲第5番「革命」で有名なのだけれど。
なかなかその音楽は、実直というか垢抜けないというか。縦のりの農耕民族の音楽なんだよね。
4番とか7番「レニングラード」とか。そういう大曲でも、鍬で地面を耕すようなリズム感が、ちょっと苦手なのだけれど。
でも、ミッキーのライフワークだからね。聴き届けようっと。
とはいえ、最初の曲は、シュトラウスのポルカ。
ウィーンフィルのニューイヤーコンサート以外では、あんまりポルカとかワルツとかに接する機会がないのだけれど、首席指揮者時代に頑なにドイツ語圏以外の音楽を取りあえげたミッキーらしいな。
この曲は、カッコーのさえずりを笛で、いろんなプレイヤーが吹くんだよね。曲の合間に、調子外れだったり、照れくさそうだったりする弦楽器や管楽器奏者の笛の音が挿入されて。
あれ、いつもは一部には出てこないホルンの高橋さんや、トロンボーンの福田さんがティンパニの並びにいる、と思ったら、こちら笛要員でしたね。珍しい姿を堪能しました。
続くショスタコは、映画音楽。
これはもう、トロンボーンの福田さんのスタンディングソロ。座っているときには背筋をピンと張って、ベルの位置をほとんど動かさずに吹く福田さんだけれども、くねくね系のミッキーに合わせたのか、身体を揺らしながらのソロ。これもまた良きかな。
映画音楽の組曲だけあって、いろんな場面の組み合わせが楽しかった。
休憩はさんで、同じくショスタコの13番。
バスのソリストと、海外から招聘した男声合唱。
唄の内容は、スターリン時代のナチスに迫害されたユダヤ人とソビエトへの反体制と。
「革命」とか「レニングラード」とか呼ばれる曲を作り、ソビエトへの批判とおもねりと身の危険と。そういう中で曲を作ってきたショスタコーヴィッチだと思うと、聞いているだけでもはらはらしてしまう内容なのだけれど。
曲はね、ショスタコの縦のり農耕民族っぽさは全く気にならず、男声合唱、それもヨーロッパの、プロの男声合唱の迫力と、バスのこれまた迫力に気圧されて。
ミッキー、最後にすごいもん持ってきたな。
って言う演奏だったよ。
もちろん、お客さんは、これがミッキー最後の定期演奏会だ、って百も承知で。
そしてなにより、曲と演奏が凄くって。
だから、
必然的に拍手の嵐なのだけれど。
その拍手を、堂々と、無駄な謙遜もせず、全霊で受ける井上道義。
歌手を、楽団員を、合唱団をたたえながら、今日の拍手は俺のモノだ、って全身で受けるその姿。
特大の花束をもらって、堂々と掲げて、最後にはばらばらにして全てを客席に投げ入れてしまうその姿。
千両役者やのう。
長身で、手足も長いから、腕を拡げたり投げキッスをしたりするその姿がいちいち様になるのだけれど。
そうではなく、正当な評価としての拍手を正当に喜びながら全身で受ける。それだけの演奏をしたんだ、という満足をみんなに伝えながら、拍手を会場の喜びにしていく。
やっぱり凄いな、ミッキー。
つぎは、カウントダウンのブルックナー、楽しみにしているよ。
ただ、それだけのはなし。
大フィル 大575回定期
井上道義
バス:アレクセイ・ティホミーロフ
合唱:オルフェイ・ドレンがー
J.シュトラウスⅡ世/ポルカ「クラップフェンの森で」
ショスタコーヴィチ/ステージ・オーケストラのための組曲(ジャズ組曲第2番)〔抜粋〕
ショスタコーヴィチ/交響曲 第13番 変ロ短調 作品113「バビ・ヤール」
2024年2月10日
@フェスティバルホール