お疲れ様でした! Mt.Uji Jazz Fes.2025 ― 2025年12月17日

くつろぎのジャズフェス@福井=ジャズ井 UAと山下洋輔の饗宴 ― 2025年11月27日


ウィーンフィルの、ブルックナー5番 ― 2025年11月09日
さて、アイナちゃんの次は。
ウィーン・フィルの演奏会に、行ってきたよ。
クリスティアン・ティーレマン指揮
ブルックナー 交響曲第五番。
ウィーンフィルは、コロナの時も含めて、毎年来てくれているんだよね。世界最高のオケの演奏を大阪で聴ける機会なのだけれど、お財布の事情から毎年聴きに行く、というわけにはいかないのだけれども、ね。
前回は、というよりこれが初めてのウィーンフィルだったのだけれど、ズービン・メータ指揮のブルックナー8番。何年前だっけ? それ以来のブルックナー、ということではあったのだけれど、今回はちょっとの間、チケット取るのを躊躇したんだよね。ティーレマンって名前は知っているけれど、CDとかでも聴いたことないし、5番って云う無骨な交響曲が、ウィーンフィルで聴くのにあっている曲なのかもあんまりイメージできなかったし。
それでも、バンバンくる宣伝や、どんどん少なくなる残席を見ているうちに、やっぱりチケット買っちゃったんだよね。買っちゃえば、なんで悩んでたんだろう、って忘れるくらい、楽しみにしていたのだけれど。
悩んだ分、席は一階席の後ろ側で、でも、指揮者の真正面(真背面?)のど真ん中で。いつも大フィルさんを聴いている席から10列ほど後ろの席。どんな音がするのかな。
オケは、第二ヴァイオリンが右側に、弦バスが左側に位置した両翼の構え(っていうんだっけ?)。ラッパが右に、トロンボンが左にいる。ワグナーチューバはこの曲では使わないんだっけ。ホルンは一列に並んでる。
オケが入場して、チューニングが済んで。
颯爽と入場するティーレマン。
かすかな、ピチカートから、曲が始まって、そしてすぐに金管のトゥッティ。
聴き慣れた5番のはじまりなんだけど、ちょっとだけど、確実にある、違和感。
なんだろう、ってもっと耳を澄ます。
ピチカートの音。消え入りそうな、でも澄み切った、音。こんなにイントロ長かったっけ。多分、家で普通の音量で聴くCDでは、ほとんど聴こえないから、なかったことにされているんだね。
そして、金管のコード。こんなにバリバリと粒の粗い音を出すんだ。ウィーンフィルの金管。それでも、いつもより10列後ろの席までは、あんまり届かない。張り出した二階席のせいで天井が低いからかな。
そして、ティーレマンの指揮。テンポが揺れる。フレーズの中でアッチェランドやリタルダンドをくり返す。ブルックナーはインテンポ、っていうのを宇野こうほうに叩き込まれ、朝比奈さんの演奏でそれをすり込まれた僕にとっては、違和感。第5番は、壮大な音のバロック建築。そのバロック建築が、不揃いの石でくみ上げられていく。すき間が存在する。
そういう、違和感。もちろん、偏った演奏を偏愛する僕が感じているだけ、なのだけれども、ね。
でも、だからってつまらないとかよくない、とかではなくて。そして、アンサンブルが狂っている、という事でももちろんなくて。
うねりのある、多少デコボコの山道を駆け下りていくハイジとペーター、そんな絵を思い浮かべながら、ブルックナーの若い演奏ってこういうものなのかも、と思いながら聴いてたんだよね。何しろ、僕が好んで聴いているブルックナーは、90歳前後のおじいさんの演奏が多いから。
その、うねったバロック建築の隙間を埋めて有り余るのが、木管楽器の凄さ。特にオーボエとクラリネット。こんなに太くて自信に満ちて、ただ一人でホールを包み込む毅然としたオーボエの音、ってあるんだ、っていうくらいの存在感。そのオーボエやホルンとカラムクラリネットのあったかい音色。木管のソロは、オーケストラに対して全く埋没しないで、うるさくない存在感を主張する。
そして、弦楽器。どの瞬間か忘れちゃたけど、「あ、ビオラの胴が鳴ってる」って思った瞬間があったんだよね。こういう瞬間のために、大枚はたいてこれからも生の演奏を聴きに行きたいなあ、っていう、そういうしあわせの瞬間。
高校時代のブラバンのコーチが、「ウィーンフィルは音程がピタッと合っているわけではないけれど、それぞれの楽器の響きが豊かだから合っているように聴こえる」って言っていたのだけれど。音程が合っていない弦楽器が、トゥッティでこんなに澄んだ音を出せますか、って。ピチカートもフレーズもコードも、左側の弦バスとか、いつもと違う方向から聴こえてくる、いつも聴いている音とは違う、響き。すごいな。
最初、バリバリと粗い印象を持った金管だけど、途中でとてつもない繊細さと透明感のコラールなどもあって、わざとやっている事が分かったのだけれども。
その勢いで最終楽章。5番の4楽章って、金管が大活躍で、まさにこれまで築きあげてきた壮大なバロック建築の大伽藍に響き渡るファンファーレ、っていう所なのだけれど。
僕は、ブルックナーを聴き始めの頃、ブルックナーの金管のコラールは、さらば宇宙戦艦ヤマトの、宇宙空母アンドロメダが率いる地球防衛軍の核酸波動砲一斉放射みたいだな、って思っていて。あるいは、ウルトラマンのスペシウム光線に対する悟空のカメハメハ砲とか。
何が言いたいかっていうと、点光源でやってくるのではなくて、面で迫ってくる音、それがブルックナーのコラール、なんだよね。
第5番の最後って、音量的にも、それまで一時間以上吹き続けてきた金管楽器に獲って、きついところで更に一段ギアを上げる必要があるのだけれど。
朝比奈さんは、この最後のコーダのために、金管を倍管にして控えさせていたくらいで。(朝比奈さんがシカゴ響を振ったときに、コーダのためにホルンのアシスタントをつけようとして、楽団員から「オレたちが倍の音で吹くからアシをつけるのは辞めてくれ」と言われた、っていうエピソードがあるんだよね。)
もちろん、ウィーンフィルにもアシなんてなくって。
一組のティンパニを内側と外側、二人の奏者で叩き、全員の競争の上に金管の雄叫びが炸裂するコーダ。
音が天井に吸い込まれて。
ティーレマンの指揮棒が下りて、弛緩するまでの永い間の静寂。
そして、拍手とブラヴォー。
すごいな、ウィーンフィル。
また来てね。たまに、行くからね。
ところで、この円安、物価高の世の中で、そんなにチケット代が上がっていないのは、スポンサーの大和ハウスさんががんばってくれているのかな。ありがとうございます。
ただ、それだけのはなし
なにわブルースフェスティバル2025 おっさん達の大宴会 ― 2025年10月09日
ちょっと前にね、なにわブルースフェスティバルを観に行ったのだけれど。3日間開催の、3日目。千秋楽。
なんばHatchで行われているこのフェスティバル、もう10回目になるんだね。区長が出てきた初回から、僕は毎回というわけではないけれど、とびとびで5,6回目くらいなのかな。
なにわのブルースといったらこの人、木村充揮はもちろん毎回の中心人物なのだけれど、大阪のブルースを作ってきた有山じゅんじ、上田正樹。日本のブルースを支えてきた永井ホトケや、今回はいなかったけれど近藤房之助とかのブルースミュージシャンに混じって、けんけんのお母さん、金子マリやら、泉谷しげる、BEGIN、とかの大御所だったり、大西ユカリとか、韻シストとか、今回だったらT字路sとか、Hillandonとか。ライブハウスでがんばっている若い人たちも一遍に聴くことができる、お得なフェス、なんだよね。
ブルースって、特になにわのブルースっていったら、憂歌団とか、上田正樹と有山じゅんじのアルバム、ぼちぼちいこかとかのイメージが強いと思うのだけれど。
それはそれで、彼らが聴いて、影響を受けたアメリカ音楽のブルースっていうものを、彼らなりに消化して、昇華して作ってきた、なにわのブルース、なんだよね。
もともとのブルースって、南部の木綿畑で奴隷として働かされていた黒人が、日曜の前の晩に、疲れた身体を、明日は労働がないっていう開放感で鼓舞して、毎日の暮らしは辛いけど、今この瞬間は楽しく踊ろうぜ、って。ギター一本で、即興の歌で、終わりのない踊るための音楽。
音楽家が採譜して、分析して。やれ1コーラスが12小節だの、ブルーノートだの。そういうのはみんな後付け。
とはいえ、ロバートジョンソンが綿花畑で歌ってたのか、それとも分析された後のブルース野郎なのか、そんなことも僕は知らないのだけれどもね。
花村萬月、っていう小説家が、その名も「ブルース」って云う小説を書いていてね。そこからちょっとだけ引用させてもらうけど。
===引用===
ブルースは、その音楽的構造はシンプルでも、魂は複雑だ。
哀しいから、哀しい曲調で唄うといったことをしない。詞はヘヴィイでも、ヴギだ、シャッフルだ、哀しいからこそ思いきり跳ねてみる。
ブルースのほとんどは長音階でできている。わざとらしい泣き節の短音階のブルースは、わざわざマイナー・ブルースと注釈がつくほど少ない。
露骨に泣かない、あるいは涙は出尽くした。
ブルーノートでちょっとだけ打つな音をつぶやくように出しておいて、思いきり陽気にジャンプする。“トラベル・イン・マインド”も、よく跳ねる曲だ。
===引用ここまで===
なんでこんな事いってるかっていうと、今年のフェスには、こういう日本化していない、オリジナルのブルースのスタンダードを、きちんと聴くことができたから、なんだよね。
blues, the-bucher-59213っていう、永井“ホトケ”隆のバンドなんだけど。
永井ホトケ隆ってね。関西のブルースシーンの、精神的支柱、っていうイメージなんだよね。憂歌団も上田正樹も、ブルースやR&Bをベースにした日本の歌を作っていったのに対して、永井さんはあくまでアメリカのブルースにこだわった。あくまでイメージだけどね。
その永井ホトケが、ニューオーリンズのギタリスト、山岸潤史をゲストに迎えてのブルースバンド。その山岸さんは、フライングVっていうアルバート・キング愛用のギターを持ってきて(亡くなったブルース仲間の遺品を借りてきたらしい)、キレキレのカッティングから、泣きのソロまで。
ああ、ブルース・フェスなんだ。って堪能しました。
もちろん、内田勘九郎と木村充揮のデュオとかも感動的だったし。上田正樹のところのYoshie.Nも、聴くたんびに凄みが増していってるし。
前回(って僕が聴いた前回だから2年前、なのかな)、泉谷しげるが、吉田拓郎のえビュー曲「イメージの詩」を歌って、「18の時にこんなすごい曲を作った、すごいやつなんだ。またステージに戻りたいって云うかもしれないけど、その時は暖かく迎えてやってくれよな」っていったときも泣いたけど。いつもの安定のプログラムに加えて、たまのアクセントが効くんだよね。
4時から始まった最終日、10時前には終わったのかな。ああ、面白かった。また、来年か再来年を楽しみにしてるよ。
ただ、それだけのはなし。
高橋真梨子 last days ― 2022年09月30日
売れたら、世の中を巻き込んで流行を創って、そして忘れられていく。そういう刹那の匂いのする音楽が、流行歌、歌謡曲。
そういうことで言うと、僕が好きなのは歌謡曲ではないのかも知れないな。子供の頃や学生の頃に聴いた、あの曲やこの曲、忘れちゃったのももちろん多いのだろうけれど、昔から今までずっと好きなものも、多いんだよね。
考えてみると、むかしから、ちょっと前の曲が好きだったな。数年前とか、十年前とか。それこそ忘れ去ろうとしていた流行歌を、なんの拍子にか想い出して、ベスト盤のCDをかってみたりして。それを愛聴して今に至る、みたいな。
有線放送で言うと、ヤングナツメロってチャンネルを良く聴いていたんだよね。
え、何で有線放送なんだって? それはね。就職でやってきた大阪の単身アパートに、有線放送が備え付けられていてね。聴き邦題だったんだ。多分お代は会社が持っててくれたんだろうけれど。今で言うサブスク? 曲単位では選べないけれど(電話をかけるとリクエストに応えてくれるちゃんねるもあるけどね)、440チャンネルもあって、好きなジャンルを聴き放題。ぼくは、さっき言っていたヤングナツメロと、あとお経のチャンネルを良く聴いていたな。それは別のはなしだけれど。
そういう僕が、リアルタイムからずうっと聴き続けてきた人たちは、あたり前のことだけれども結構なお歳を召した方が多くって。やっぱり、必然的に、いつまで聴けるのかな、って心配することが多くなるんだよね。
吉田拓郎も引退作を発表したし、中島みゆきもラストツアーのライブ盤を発売したし。山下達郎だって何年ぶりのアルバムだ? この間隔でつぎはあるのか? って感じだし。
太田裕美だってそろそろ50周年だし。
そういうわけで、一回くらいは生で見たい、っていう人達が、たくさんいるんだよね。
そういう、一回くらいは生で見たい、っていう人の一人、髙橋真梨子。ずっと観たかったんだよね。
ずっと観たかったんだけれども、何年か前の紅白歌合戦のときの声の調子の悪さが印象に残ってて、あれでは聴いてて悲しくなっちゃうなって思うとなかなか行けなかったんだよね。
それが、WOWOWでやっていた去年くらいのライブではすごい魅力的な声で唄っていて。
これなら聴きたい、と思ってチケットをとったんだ。ちょっと前に。
そしたら、楽しみにしていたその日、なぜかピンポイントで高熱を発してね、僕が。泣く泣くあきらめたんだ。
その顎、僕が行けなかったフェスティバルホールに、もう一回ツアーでやってくる事に気がついて。それと同時にラストツアーって銘打っている事にも気がついて。
もうチケットも残り少なそうだったけれど、それでもいいや、ってチケット取って。
行ってきたよ、髙橋真梨子。
フェスティバルホールの3階席。
新しくなったフェスには何十回も行っているのだけれど、3階席ははじめてかな。結構見やすいんだ、傾斜がきつくて、ステージの奥行きが一望できる感じ。
このところ、Popのライブはライブハウスとかビルボードとかだったから、ちゃんとしたセットのあるステージって、新鮮。あゆのライブに行かなくなって久しいから、それ以来かも。
もちろん、あゆみたいにダンサーやパフォーマーが跳んだり跳ねたりする訳ではないのだけれど。
そして。唄。
ツアーとしては最後になるからか、ヒット曲のオンパレード。僕のmusicには、髙橋さんのアルバムは4枚入っていて。ベスト盤とオリジナルが一枚と、あとはカヴァーアルバムなのだけれど。それでもほとんどの曲を知っている。そして歌えちゃう。そんな選曲。
一度は聴きたい、って言って聴きに行く人の中で、そのライブの評価の一つとして「現役感」って言うのを結構気にしながら聴くんだけれども。
その現役感を一番感じるのは、「知ってる曲の少なさ」だったりするんだよね。
つまり、僕が持っているベスト盤のような、往年の名曲をてんこ盛りで歌うだけじゃなく(それだってものすごく凄いんだけど)、新曲やアルバムの曲、そういう曲をどんどん歌っているライブだと、「毎年のライブの、今年はこういう選曲」って言うポリシーを感じて、ああ、現役なんだ、って思うことが多いんだよね。
髙橋さんのライブは、そういう意味では、ヒット曲のオンパレード。それは、最後のコンサート、という事で見に来た、僕のような一見さんに対するサービスなんだと思うのだけれども。
でも。
髙橋真梨子の「現役感」は、それは、歌声そのものなんだよね。
もちろん、といっては失礼なのだろうけれど、ちょっと引っかかりのある高音の伸ばし、それはCDで聴くものとは違うのだけれども。
でも、そこじゃなくって。
髙橋真梨子を髙橋真梨子たらしめているもう一つの声。なんていうんだろう。首の付け根から頭蓋骨の中でおでこの裏側に声をぶつけて頭頂部ちょっと後ろからふわっと外に出す、みたいな声。張りと濁りを同時に持った、コントロールが難しそうなその、声。桃色吐息の最初の数小節に凝縮されたようね、その結晶のような声。
その声がね、聴けたんだよ。
たっぷりと。
嬉しいなあ。
来て良かった。これて良かった。
最初にチケット取ったのは、平日だったからかな、ひとりで行こうと思ってたんだよね。
今回、週末だったから、家人も誘ってふたりできたのだけれど。
最初は、5番街しか知らない、とかいっていたけれど、聞いたことある曲は多かったみたいで。生で聴くあの声の歌唱力に、ふたりでやられっぱなしだったよ。
髙橋さん、長い間のツアー、ご苦労様でした。
まだディナーショーとかもあるみたいだけれど。アコースティックでビルボードとかだったら、すぐチケット取っちゃうな。
ああ、聴けて良かった。
ただ、それだけのはなし。