ウィントン・マルサリスは、本当にジャズを殺したのか? 中山康樹の遺作2015年12月12日

 このごろ、読むジャズに触れる機会が多くってね。

 大抵は、マイルスがらみなのだけれど。

 

 まあ、それはあとでゆっくり書きたいな、と思っているのだけれど、マイルスから、「マイルスを読め」の中山康樹さんにたどり着いて。今年の初めになくなった中山さんの、最後の本が、ウイントン・マルサリスに関する本だったから、読んでみたよ。

 ウィントン・マルサリスは、本当にジャズを殺したのか?

 


 まあ、僕には、本当にジャズが殺されているのか、死んでいるのか、本当に死んでいるとして、それがウィントンの前だったのかあとだったのか、よく分からないのだけれどもね。

 ウィントンは、同世代に生きる、影響力の大きなミュージシャンであり、僕の中でも、一般的にも毀誉褒貶の激しいヒトであって。しかも村上春樹に「ウィントンの音楽はなんて退屈なんだろう」なんて書かれてしまって、メディアにすっかり嫌われている印象があってね。

 でも、大学時代に、出たがりウィントンの圧倒的なライブを目にすることが出来た僕は、新譜を見つけたり、来日公演を見つけたりするとせっせと買ったり足を運んだりするくらいのファンではあってね。

 ジャズを殺したのがウィントンだなんて言うのなら、あの世の中山さんに文句のひとつもたれてやろう、と読んでみたんだよ。

 もちろん、中山さんは、好きな物を魅力的に書くヒトだから、こてんぱんにはなっていないだろう、とは思っていたのだけれどもね。

 

 ウィントン・マルサリスはね、僕がジャズに興味を持った1980年代に、すごい勢いで台頭してきた、ジャズのラッパ吹きで。

 僕も金管楽器を吹いていたから、いや、楽器を演奏したことのない人にも多分ヒト耳で分かる、圧倒的なテクニックを、最初から持ってたんだよね。そう、マイルス・デイビスなんて相手にならないほどの、圧倒的なテクニック。

 ただし、水掻きのついた、いかにも肉厚のモネ製のラッパから出てくる音は、どっちかって言うとクラシックの音で。マイクの前で仁王立ちになって、足の位置を動かさずにクールに圧倒的なソロを吹く様は、ハイトーンに逃げたり、音を外したりという、ジャズを聴き始めの高校生にとっての「分かりやすい」熱さがないから、ちょっと近寄りがたかったんだよね。

 その頃のぼくらのアイドルは、火を噴くトランペット、クリフォード・ブラウンだったからね。

 

 大学のジャズ研に入っても、まあみんなの印象もそんな感じで。その頃聴いてたのは、ハンコックや、メッセンジャーズのやつだったかな。高校の時には、ブラックコーズとか聴いてるやつもいたな。

 

 その評価が、僕の中で一変したのは、マウントフジジャズフェスに、ウィントンが来たとき。

 マジェスティ・オブ・ブルースが出た頃かな。ディキシーウィントンっていわれてた頃の、7重奏団。

 もちろん、自分のバンドはそれはそれで、すごかったのだけれども。でも、やっぱりディキシーでは、二十歳そこそこの若者は燃えないんだよね。

 なんだけど。

 ウィントンは、三日と二晩、あらゆるセットに、ラッパを持ちながら袖で控えててね。

 ジャムセッションや、ジャムっぽいディジー・ガレスピーのビッグバンドなんかに出ずっぱり。ジミー・スミスもいたっけ?

 他人の出番のステージに招かれて、嬉しそうに出てくるウィントンを、ぼくらの仲間が「出たがり〜」ってやじったら、カメラマンのおっさんが、こっちを向いて大受けしてたな。

 そんな、大先輩のバンドに飛び入りし多ウィントンは、吹ける喜びに満ちあふれた、熱い、圧倒的なソロを繰り広げてね。

 エレクトリックベースがチョッパーしている横で、モネのラッパでオールドスタイルなソロを取るウィントンに、ぼくらは両手を挙げて喝采を送ったんだよ。テレビ放送を見てとやかく言う輩には、生で観なきゃわかんないんだよね〜、って、同情したりして。

 

 そこから、昔のも含めて、ウィントンを聴きだしたんだ。四半世紀も前の話だね。

 


 だから、リアルタイムで聴いたのは、マジェスティ・オブ・ブルースから。それから、クリスマスカード、Tune in Tomorrowあたりは、大好きだったな。一番聴いたのは、Standard Time Vol.3の、オヤジさんと一緒にやった、Resolution of Romanceだな。この、音色の多彩さ、これが僕にとってのウィントン。

 あとは、エルビンとやったPitInnのライブかな。

 その後の南部3部作、それからリンカーンセンターの音楽監督になっちゃって、なかなか新譜も来日もしなくなっちゃったけれど。

 でも、今でも新譜が出る、って分かったら、結構マメに買ってるんだよね。

 

 そうそう、中山さんの本だよね。

 60年代に生まれ、70年代って言う、「ジャズのない時代」に、デビューして、マイルスやクリフォードなど、伝説の大物の再来、にしたがるレコード会社をすり抜けながら、「勉強したジャズ」を演奏する、クラシックの演奏家。やがてジャズの歴史に傾倒し、アメリカ音楽のアイデンティティを伝承する意志を固めていく。

 結果を観ると、そういうことになっていくんだよね。

 

 ウィントンの評価を巡る、日米の乖離。それは、この本ではじめて気がついたけれど。確かに、昔騒いだほどには、ウィントンの新譜も話題にならないよね。

 ただ、スウィングジャーナル無き今、なかなか海外ジャズの情報が無いんだよね。

 僕がスウィングジャーナルを読んでいたのは、気がついたら中山さんが編集長をしていた時代と重なっていて。

 そうか、中山さんにすり込まれたんだな。ウィントン。

 

 でも。

 リンカーンジャズセンターの監督になってから、あんまり聞こえてこなかった、ウィントンが、アメリカでこんなに評価されている、っていうのは、嬉しいよ。

 

 なんだかんだいっても、同世代のスターだしね。

 

 ただ、それだけのはなし。



三度目の、上原ひろみ 〜JAZZ週間第2弾〜2014年12月24日

 さて、JAZZ週間の第2段は。

 

 もうおなじみの。

 上原ひろみ。

 


 僕にとっては、3回目の、上原ひろみ。なんだよね。

 アンソニー・ジャクソンと、サイモン・フィリップのトリオで、3回目。

 

 最初はね、上原ひろみ、って誰だか全然知らない頃。出張で行ったNYでぽっかり空いた一晩。初めてのNYだから、Blue Noteでしょうやっぱり、って予約したら、それがHIROMI UEHARA、だったんだよね。しかも、多分ほぼ最後の一席。ラッキー。

 そこでぶっ飛んでね。新譜買って帰って、大阪来るといえば喜び勇んでチケット取って。今回で、三回目。

 

 オリックス劇場、っていわれてもよく分からないけれど、旧厚生年金会館っていわれれば、ああ、そうか、っていうほどよい大きさのホールで。今回の席は、2階席の真ん中。ひろみちゃんの手も、サイモンも、もちろんアンソニーだってよく見える席。

 お客さんはね、中高年の夫婦と、若いおネエちゃんが目立つ、子供のいない、コンサート。

 

 それにしても、JAZZっていうカテゴリで、このホールをいっぱいにしちゃうのってすごいよね。ちょっと前だと、綾戸智恵くらいだよ。コマーシャルに成立する、JAZZ。

 

 

 演奏は、そりゃあ、すごかったよ。

 前回は、結構エレピ、というか安っぽいキーボードを多用していてちょっと興ざめ、というか、聴きたいのはピアノなのに、って思った記憶があるのだけれど。

 今回は、ホールに入ったら、あるのはグランドピアノだけ。もちろん、タイコとベースはあるけどね。

 いさぎいいなあ。

 鍵盤と手をじっくり見れる席で、アコースティックの上原ひろみ、堪能したよ。

 

 演奏は、そりゃあ、すごかったよ。

 変拍子を使った、キメの多いパラパラ系アコースティックトリオ。

 新作のALIVEというタイトルも込みで、それは、チックコリア・アコースティック・バンドのイメージともろに重なるのだけれど。

 会場を総立ちに熱狂させるその熱さは、若さだけじゃなくって、他にも秘密があるんだよね、きっと。

 その秘密は何か解き明かそうとして、がんばって聴いていたのだけれどもね。

 

 ミシェル・カミロ系のパラパラ感と、お家芸の「短音連打」のリズム感。今回は、それだけじゃなくって、ミシェル・ペトルチアーニの透明な音色が、実はすごいんじゃないか、って思ったりもしたのだけれどもね。

 

 ただ。

 綾戸智恵にも感じたのだけれど。

 何度か聴くと、「おなじみの」と、「待ってました」の部分が大きくなるんだよね。

 それは、MOVEに代表される、短音連打であり、山下洋輔張りのパラパラ、掌、肘打ちであり、カミロ張りの速弾きであり。

 そのためのオリジナル曲であり。

 

 でも。

 オリジナル曲で埋めつくされた曲を聴いていくと、それが4ビートの古いジャズの範疇からは大きく外れた、でも魅力的な曲達であればあるほど。

 ああ、上原ひろみで、スタンダード聴いてみたいなあ。

 っていうのが、大きくなってくるんだよね。

 


 コンサートの翌日、ジャズが好きで、何十年も週末には練習して年2回コンサートを開く旧友達と、上原ひろみについて話をしていたのだけれど。

 「(東京公演を聴いた人は、)あの面子だもん、良いに決まってる」

 「(いわゆるジャズを聴くとほっとする、という流れで)まだサイモンとやってるの。ジャズじゃないよ、それ」

 「(ピアノ弾きは)曲芸はちょっと食傷気味。音の圧力の凄さは、ペトルチアーニが飛び抜ける。筋肉じゃないんだよね」

 

 それでも、僕は、というよりみんな上原ひろみが好きだし、どこまで大きくなるか見てみたいと思うのだけれど。

 秋吉敏子に迫ろう、という野望と価値観を抱くなら、聴かせて欲しいなあ。そろそろ。

 圧倒的な、スタンダード集。

 

 もちろん、インプロビゼーションこそがジャズである、っていうのも一理だし、それを愉しんでいる上での贅沢だけれども。

 タモリの言う、「ジャズな人」。この部分も、見せて欲しいんだよね。

 それが、魅力的に決まっているから、なおさら、ね。

 

 ただ、それだけのはなし。



山下洋輔スペシャル・ビッグバンド ジャズ週間その12014年12月20日


 それにしても、寒いね。

 まだ12月だって言うのに、大雪とか。

 もちろん、大阪では、雪の心配は新幹線が遅れるとかそんなことくらいなのだけれども、他の地域の皆さんは、大変なんだろうなあ。

 

 という訳で、冬のJAZZ週間がやってきたよ。

 あ、あくまで僕の中で、のことだけれどもね。

 

 その第一段は、これ。

 山下洋輔スペシャル・ビッグバンド。

 


「ジャズって言うのは、ジャズっていう音楽がある訳じゃなくてね。ジャズな人、っていうのがいるだけなんだよね」

 このごろ、ヨルタモリでタモリがしきりに言っているのだけれども、これ、オリジナルは山下洋輔なのかな? 今回のチラシにも(いや、次回のリサイタルのチラシかな?)書いてあったね。まあ、根は一緒なのだけれど。

 

 そう、山下洋輔といえば、タモリや、筒井康隆の一派、っていう印象が強くって。その流れで言えば、山下洋輔のビッグバンドは、パンジャスイングオーケストラ、であるべきなのだけれども。

 今回は、スペシャルビッグバンド。どういう音を聴かせてくれるんだろうね。

 

 会場は、兵庫県芸術文化センター。お久しぶりです、っていつ以来だろう。駅から近いのに、ショッピングモールの方に紛れてしまって、さんざん迷いながら直前に滑り込んだよ。

 ちょっと前目の、右寄りの席。

 プレイヤーよりも、スピーカーに近い席。

 

 この席が災い(?)したのか、それとも僕がジャズを聴くのが本当に久しぶりだからなのか。最初の曲、ロッキンインリズムは著と違和感があったんだよね。

 マイクを通した、ややキンキンした音が、視覚とは別の方向のスピーカーから聞こえてくる、っていう、違和感。

 ポピュラー音楽の生演奏ではあたり前なんだけれど、クラシックの新しい殿堂であるKOBELCOホールで聴く、ちょっとキンキンしたPAの音に、最初ちょっとあれ、って思ったんだ。

 すぐ、慣れたけどね。

 

 さっきパンジャと比べたけれど、このビッグバンドは、フリー寄りのパンジャとは全く違った方向性で。ビッグバンドの編成でクラシック音楽をやろう、っていうすごい試みをするバンドなんだね。

 

 ラプソディー・イン・ブルーは、まあ、分かりやすいよね。JAZZの曲だから。

 でも、オーケストラの多彩な楽器をフルに使ったオーケストレーションを、ビッグバンドの、シンプルな楽器群でどうやって再現するのかな、と思いながら聴いていたら。

 持ち替えでクラリネットとフルートが加わっただけの、ホントのビッグバンド編成で。これは、紛れもなくビッグバンド用に作られた、ラプソディ・イン・ブルー。

 山下洋輔や小曽根や、この前テレビで大西順子の(クラシック版)ラプソディインブルーをたくさん聴いてきたけれど、なんだろう。本当に、最初からこのために作られたんじゃないか、っていうくらいのピッタリ感。スコアに忠実に編曲している訳では決してないのだけれどもね。

 

 でも。

 ラプソディ・イン・ブルーは、分かりやすいよね。だって、元々ジャズの話法を使って作られて、ジャズの奏法で演奏される曲だからね。

 でも。

 つぎの曲。これはどうなんだろう。

 親しみやすいとは言え、バリバリのクラシック。アメリカに関係するとはいえ、ヨーロッパの文脈で作られた、曲。

 ドヴォルザークの、新世界から。

 しかも、全楽章。

 どんな編曲で、どんな演奏を、聴かせてくれるんだろう。

 

 もちろん、

 心配したのは曲が始まる前だけなんだけれどもね。

 

 最初の1フレーズで、ああ、心配ないや、って。これは、間違いなく新世界でありながら、間違いなく、JAZZ。

 中川英二郎の器用さに依存して、ホルンが活躍するこの曲を、薄さも感じさせずに良く編曲しているのだけれども。

 

 でも、聴いていてちょっとだけ感じたのは。

 クラシックの演奏家の、1フレーズの説得力って、半端じゃないんだな、って。

 遠き山に、陽が落ちて。

 の所かどうか忘れちゃったけれど、管楽器がソロで演奏する印象的なフレーズは、ジャズにしたってやっぱりソロで演奏されるのだけれども。

 その時の、唄い方とかね、フレーズの説得力。

 それは、やはりクラシックの演奏家のものなんだろうなあ。

 その分、ここぞという爆発力のメリハリは、オーケストラからは絶対に出てこないものなんだけどね。

 

 曲は、ピアノやいろいろなソロをちりばめながら進んでいくのだけれど。

 4楽章。クライマックスで。

 なんと信じられないことに。

 エリック宮城と、中川英二郎の掛け合い。今回はハイトーンというより、パラパララッパのエリックに、パラパラトロンボンで応酬する英二郎。随所にダブルタンギングで逆襲する英二郎に、循環ブレス括弧指は英二郎括弧閉じるの大技に出るエリック。いやあ、楽しかったなあ。

 

 結構忠実な編曲に、ソロが挟まるものだから、オリジナルより長くなるのはどうかと思うけど、でも、楽しいなあ。

 洋輔さんのパラパラピアノは今度のリサイタルでじっくり聴かせてもらおう、っと。

 

 ただ、それだけのはなし。

 

 山下洋輔スペシャル・ビッグバンド

 ラプソディ・イン・ブルー&新世界

 

 Rockin' in Rhythm

 Rhapsody In Blue

 Symphony No.9 From the new world ドヴォルザーク 松本治編曲

 

 山下洋輔スペシャル・ビッグバンド

 山下洋輔

 金子 健 Bass

 高橋信之介 Drums

 エリック宮城、佐々木史郎、木幡光邦、高橋龍一 Trumpets

 松本治(指揮)、中川英二郎、片岡雄三、山城純子 Trombones

 池田篤、米田裕也、川嶋哲郎、竹野昌邦、小池修 Saxophones

 


交響曲HIROSHIMAの、功と罪2014年02月08日

 僕は、ANAの機内で、HIROSHIMA交響曲を、ほとんど何も予備知識のないまま聴きました。

 幸運にも。

 その曲の、その演奏の狂おしい何かに圧倒され、何回もリピートして聴きました。

 その後、CDを買い、コンサートにも出かけました。


 第九を作曲したときのベートーヴェンの耳が聞こえなかったことが。チャイコフスキーが男色家だったことが。ワーグナーがひでえ奴だったことがその音楽の価値を何も毀損も付加もしないように、この作曲家の耳が聞こえようと聞こえなかろうと、僕には関係ないことでした。


 ブルックナーや、ベートーヴェンを愛聴し、クラシックは、交響曲は過去の遺産、と思わざるをえない僕にとって、同時代に生まれた交響曲は、それだけでも単純に嬉しいものでした。


 今回のことが騒ぎになったとき、真っ先に思ったのは、売るための論理に巻き込まれてしまった可哀想なヒトの一人なのかなあ、佐村河内さんは。ということでした。

あとは、これはなんで、NHKのやらせ事件して報道されないんだろう、ということです。

 何ヶ月も密着取材をしていて、耳が聞こえるかどうか定かではない。本人が作曲した曲なのか、そもそも作曲能力があるのか、そんなことが分からない事があるんでしょうか。

 番組を成立させなければいけないNHK。新人作曲家の交響曲を持って全国ツアーをするなんて前代未聞のプロモーションを組んだサンプロモーション。

こういう大人の事情に巻き込まれたんだろうなあ。

そう思いました。


 真相は、本人の口からの説明も含んだ様々な角度から明らかになるのでしょうが、僕は興味がありません。


 僕は、あの曲が、HIROSHIMAが好きです。

 無人島に持って行く10枚のCDには入らないだろうけれど、100枚のCDの中には、悩みながら入れるかも、というくらいには好きです。

 作曲家が誰であろうが、僕にとっては記号なので、興味はありません。

ベートーヴェンの交響曲が、実はモーツアルトが創ってたんだよ、といわれても興味がないのと一緒です。


 ただ、あの精緻な指示書のもとに発注されたのがHIROSHIMAだとすれば、あの発注書なしにあの曲は絶対に出来なかっただろうな、というのは分かります。

 あの地図があれば、例えばちょっと気の利いた大学のJAZZ研のバンドであれば、1時間の壮大なJAZZを演奏することが可能だと思います。その演奏は感動を呼ぶでしょう。

 そして、その演奏は、その地図なしには決して演奏できなかった種類のものでしょう。


 そういう意味では、あの曲は、武井さんが指摘するように、奇跡のコラボにより期せずして出現した、奇跡の曲、ということなのだろうと思います。


 21世紀に突如出現した、鬼子としての交響曲。

 CDでも聴いて、金聖響/関西フィルの生演奏も聴けたのは、幸運だったんだろうな。きっと。

 終演後にステージに上って、拍手を受けた佐村河内さん。何を思っていたんだろう。

 憤りより、なんか可哀想に思ってしまいました。


ただ、それだけのはなし。
(FBの投稿の転載です)

市民オペラの、モーツァルト2013年11月30日

 

 ドイツ語は、大学時代に他人の二倍も勉強したはずなのだけれどもね。なんでかっていえば、単位を落としまくったからに他ならないのだけれど。

 それでも、ドイツ語なんて、英単語に似た単語が書かれていれば、おぼろげながら意味が掴めるくらいで、聞き取るなんて無理だし、道端の広告も読めない、程度。つまりは、ダンケシェーンとイッヘリーベディッヒくらいしか分からないのだけれど。

 

 それでも、ドイツ語圏を歩いていると、フォルクス、っていう単語によくぶつかるのは、分かるんだよね。

 もちろん、ステーキ屋さんのフォルクスがドイツ語圏にある訳ではなくて。

 フォルクスっていうドイツ語の単語は、市民の、とか、庶民の、とかいう意味なのだと思うのだけれど。

 僕の愛車である、ウィーンでもたくさん走っているフォルクスワーゲンは、大衆車、っていうくらいの意味だし、フォルクスバンク、なんていう銀行もあるんだよね。市民銀行、っていう感じなのかな。

 

 そして、僕が観に行ったのは、フォルクスオペラ。大衆歌劇場、っていうくらいの意味、なのかな。

 

 ウィーンは、もちろん音楽の都で。モーツァルトの街で。ブルックナーやらなんやら、ともかくクラシック音楽黄金期のそうそうたる作曲家たちが闊歩して、今でも銅像を建てたりしてその文化を忍んでる、音楽の都。

 そういう都の、オペラといえば国立歌劇場が有無をいわさず、世界的に大人気。小澤征爾が何年か音楽監督をやったことでも有名なこの国立歌劇団と国立歌劇場。ここで上演されるオペラを是非みたいなあ、と思っていたのだけれど、見事にsold out。難しいんだね、チケット取るの。一週間前じゃ、ね。

 でも、未練たらしくwebを観てたら。ウィーンにはひとつじゃないんだね。オペラハウス。

 という訳で、いってきたよ。

 ウィーン第二のオペラハウス。フォルクスオーパー。市民オペラ。

 

 国立歌劇場は、泣く子も黙る、市内の中心にデン、と鎮座している豪華な建物。なのだけれど、市民オペラは、ちょっと外れた郊外、って云ってもいい場所に位置する、控えめなオペラハウス。

 市内の華やかな繁華街とはちょっと雰囲気の違う地下鉄線に乗って、薄暗い駅におりて。

 駅前すぐにあるはずのオペラハウスも、最初はどこだかわからなくって、いろんなポスターを貼ってあるビルに当たりをつけてひとまわりしたら、正反対の所に入り口があって。それがオペラハウス。

 ちょっとはやめについたから、ボックスオフィスで予約していたチケットをもらって。なんか食べたいなあ、ということで散策。

 30分で出てこれそうなちょうどよいレストランがなかなか見つからなくってね。隣のブロックにあった、アジアンフードの食堂くらいしか選択肢がなく。

 和風と中華のチャンポンのバイキングを、結局たらふく食べて。

 

 そして、いざ、入場。

 この劇場では、入場するときに、なんか黒い袋を配っていて。なんだろうと思ったら、飴ちゃん、というかグミなんだよね。真っ黒い、のど飴のような、のどグミ。ありがたいね。

 

 席は、バルコニー席。

 ここでいうバルコニーっていうのは、2階席。2階正面の、1列目。わーい。オーケストラピットも指揮者も、ステージもよく見えるよ。

 会場は、スカラ座のような蜂の巣の小部屋がいっぱい、という訳ではなくって。普通のホールのように、1階席、2階席、3階席とあって、左右に何個か、十数個ずつくらいかな、個室がある。

 ああいうのは、年間席なのかなあ。

 

 さて、オペラ。

 これまで僕は、ドイツのミュンヘンで、イタリアオペラのアイーダを観て、そしてイタリアオペラの本場ミラノでは、英語のヴェニスに死す、を観たのだけれども。

 今回やっと。ご当地ものの権化。

 ウィーンで、モーツァルトのオペラを観ることができたよ。

 フィガロの結婚。

 

 とはいえ、オペラに明るくない僕には、この有名なオペラも、結局良く知っている訳ではなく。

 前日に、Wikipediaであらすじの予習と、直前にムーティのCD買って一回流し聴き下程度、なのだけれどもね。

 

 「オペラのストーリーなんて単純で、結婚してめでたしめでたしか、みんな死んで可哀想か、そのどっちかしかない」

 っていっていたのは、オオウエエイジだったけれど、フィガロの結婚は、そういう意味では前者、結婚してめでたしめでたしの典型的な明るいオペラ。

 なんだけれど、その話は結構複雑でね。

 タフな女に引っ張り回される、悪徳お代官さまと、実直な若者その他大勢の男たち。

 そういう人たちが繰り広げるどたばた喜劇。

 今、スラップスティックコメディって書いて、それをどたばた喜劇、って書き直したのだけれど。市民オペラのフィガロの結婚。これはもう、どたばた喜劇以外の何物でもないね。

 

 オペラって、しゃなりしゃなりの衣装で着飾った歌手が、声を張り上げてアリア合戦、っていうのが、僕の勝手なイメージだったのだけれども。

 

 フィガロの結婚は、なのか、市民オペラ座は、なのか知らないけれど、しゃなりしゃなりは控えめで、そのかわりユーモラスな動きが満載で、そして、何よりも。

 アリア。

 

 僕でも知っている、有名な「恋の悩み知る君は」を始めとして、男も女も、主役も脇役も、みんな聴かせどころのアリアがあって。

 楽しいなあ。

 

 ドイツ語の唄は全くわからないし、ドイツ語の字幕も読めないし。Wikiで斜め読みした予習はどう考えても不足で、結局何が行われていたかよく分からないけれど。

 愚かな策略の掛け合い、化かし合い。吉本も真っ青のお約束のリアクション。

 やっぱり、楽しいなあ。

 

 重要な二重唱を、チェンバロ一本で伴奏する所とか、結構音が薄くなるところがいっぱいあって。ああ、才能に任せて書き急いだんだろうなあ、と思うところ満載なのだけれど、それがモーツァルト、なんだよね。

 

 ああ、楽しかった。

 

 また、行く機会があったら、今度は計画的に、国立オペラと市民オペラ、聞き比べてみたいな。



 ただ、それだけのはなし。