再会 フルトヴェングラーのワーグナー ― 2021年12月31日
今年は、まだ、かろうじて2021年で。
昨日の12月30日に気がついたのだけれども。朝比奈のじいさんが亡くなってから、20年経ったんだね。
大フィルさんがいつもやっている12月29日、30日の演奏会の、一日目は地上から、二日目は天上から見守ったのが21世紀初めての年末だったから、12月29日が命日なんだね。
だからか。
今年はやけに朝比奈さんの再発モノが多かったよね。いろんな名目でのボックスセットが、限定700個生産で、毎月のように再発されていた。
もちろん、喜んで全部買っちゃう、僕のような人たち向けの商売なんだけどね。
このごろ、家のオーディオを新しくしたんだよね。
20年ほど使い続けた、自作のバックロードホーンのスピーカーをメインからサラウンドに追いやって、フランスのメーカーのトールボーイを買ったんだよね。
そうしたら、今度はアンプが欲しくなっちゃって。スピーカーと同じくらいの値段がいいよ、って誰かに言われて。だからこれも20年近く使っていたAVアンプを、買い換えたんだ。20年近く前のAVアンプは、HDMIに対応していないし、Blu-Layのオーディオフォーマットにも対応していないから、Blu-Layプレイヤーは、5.1chのアナログ出力が必須で。これは10年近く前なのかな。その時既にマルチチャネルのアナログ出力を備えたプレイヤーって日本製ではほとんどなくて。苦労して探したんだよね。今ではスマホメーカーになってしまったOppoのプレイヤー。
買ってからは、ディスクで映画を観ることもあんまりなくなって、ほぼUSB DACになっていたのだけれど。
まあ、そんなことがあって。
そして、最近はコロナとは関係ないところであんまり外に出ない生活を送っていたので、アップグレードしたオーディオセットと向き合う事が多かったんだよね。
そんな中で、朝比奈のじいさんの演奏が、SACDでバンバン再発されて。
ちょっと前から、ようやくスピーカーとアンプのエイジングが整ってきたのか、SACDがよく鳴る様になってきたんだよね。しあわせなことに。
そういうシステムで、Amazon Musicを聴いたり、じいさんの演奏を聴いたりしていたのだけれども。
この前、偶然。
僕が30年近く、もう一回聴きたいな、と思っていた演奏に再会することができたんだよ。
フルトヴェングラーの指揮でね。
ワーグナーのタンホイザー序曲。
高校生の頃、ユーフォニアムからトロンボーンに楽器を持ち替えた僕は、トロンボーンの活躍する曲をいろいろ探していたんだよね。いろいろ探して、って言っても、レコード買うお金はないし、FMのエアチェックはノイズが入るし、レンタルレコード二はクラシックはほとんど置いていないし、という事であんまり集められなかったんだけどね。
そんな中で、どうやったんだろ、多分運良くレンタルレコード屋さんに置いてあったのかな、カセットテープに録音して、聴きまくったんだよね、当時高校生だった僕は。
ワーグナーって言うのは、長い長い楽劇(オペラとどこが違うか、よく分からないのだけれど)をたくさん創った人でね。トロンボンを中心にした金管楽器が活躍するから、中高生のブラバン小僧がクラシックを聴き始める一つの道、なんだよね。
このアルバム、というかカセットには他にもワルキューレの騎行とか、いろいろナ曲が入っているのだけれど、僕がその後ことあるごとにもう一回聴きたいなあ、と思ったのは、タンホイザー序曲、だったんだ。
この曲には、というかタンホイザーのオペラには、巡礼の合唱って言われる有名な曲があってね。
オペラの序曲って言うのは、その劇中のメロディのいいところを短くまとめた曲なのだけれど、声楽は入っていないから、その巡礼の合唱をトロンボンが主体となって演奏するのだけど。
フルトヴェングラーの、この演奏の巡礼の合唱はね、それはもう。
全てのバランストかテンポとか、音楽を上手く聴かせるための要素を全て取っ払って。ただトロンボンに唄わせて、泣かせる。それだけに全てのお膳立てをする。
そういう演奏なんだよね。
合唱の前の見得の切り方、他のパートの押さえ方、そして、朗々と歌いあげるトロンボンの、ちょっと濁った響き。周囲を圧倒する音量。
これがオーケストラのトロンボンだ、って僕に教えてくれた演奏だったんだよね。
その後、JAZZに夢中になって一人暮らしをする頃には、カセットテープを聴く習慣がなくなって、テープもどこかに行ってしまったのだけれど。
大人になって、フルトヴェングラーのワーグナーをいくつか聴いてみたんだけれど、どれもしっくりこなくって。想い出補正なのかな、と思ってちょっと淋しい思いをしていたのだけれど。
そういうわけで、オーディオセットもすっかり大人仕様になったこのごろ、ふと思って検索してみたら、フルトヴェングラーのワーグナーがSACD化されていたのを見つけたんだよね。しかも第一集、第二集ってカセットテープにつけたタイトルと似ている気もしてきて。
じいさん以外の新品のCD買うなんて久しぶりだけど、ポチッとカートに入れてみたんだ。

そしたら。これ。
1952年のモノラル録音なんだけどね。ウィーンフィルの演奏で。
これこれ。
フルトヴェングラーの見得も、トロンボンのやり過ぎ館満載のソリも、高校生の時にむさぼるように聴いていた演奏。安物のミニコンポで聴いていた想い出補正と、SACDの音がちょうど交わり合って、どんぴしゃ思っていた音。
嬉しいなあ。
僕のクラシックの原点、また逢えた。
ハイレゾとかリマスターとか、どうなん? って思っていたけど。
良い演奏を良い音で聴けるって、嬉しいね。
ただ、それだけのはなし。
コロナ渦一過の、ベートーヴェン 〜大フィル第539回定期演奏家〜 ― 2020年07月19日

ウィーンフィルの、ブル7 ― 2016年10月22日
もともと、あんまり外国のオケの来日公演って、聴きに行かないんだよね。
物見遊山で来た、旅行疲れのオケに高い金払うより、地元に根を下ろして、必死に気合い入れた演奏が聴ける大阪のオケをたくさん聴いた方がいいんじゃないか、と思うし。
幸いにも、海外のいろんな所で、その地元のオケを聴く体験も出来てるし、ね。
あ、それから。
大阪には、あんまり超有名処が来ることがないんだよね。東京に比べて。それも理由のひとつ、なのかな。
そうだったんだけどね。
今回は、その信念(というほどのものでは無いのだけれど)を曲げて。
行ってきたよ。
ウィーンフィルの大阪フェスティバルホール公演。

大フィルさんの演奏会、8回分。その値打ち、あるのかなあ。
って、ずっと迷ってたんだよね。
なんだけど。
これまで、いろんな所で、わりと幸運にも、その地方の有名なオケって、聴けてたんだよね。自由になる夜なんて、一つか二つしかない仕事での出張の中で、ね。
ムーティのシカゴ響とか、ミュンヘン、ニューヨークフィルとか、この前のサンフランシスコとか。オペラで言えば、スカラ座、ミュンヘン、そしてウィーンのフォルクスオーパー。
なんだけど。
ウィーンでは、誰もが納得のウィーンフィルと国立歌劇場のオペラは、まだ見れてないんだよね。公演がなかったり、チケットが売り切れだったり。その分、ゲヴァントハウスとか、ウィーンシンフォニーをステージ上で聴いたりとか、楽友会館には2度ほど行ったのだけれどもね。
その楽友会館が作った、ウィーンフィルの響き。「音程なんか合ってなくても、響きが豊かだから合って聴こえるんだ」ってかっちゃんが絶賛した響き。
物見遊山でも旅行疲れでもいいから、一度は聴いてみたくってね。
大枚はたいたよ。Apple Watchが買えるくらいの二階席。
という訳で。
どんな演奏会なんだろう。わくわく。
心なしか客層も違うのかな。おしゃれをした人が多そうなホール。
そこに整然と入場する団員たち。わき起こる拍手。
あ、今回。ウィーンフィルとプログラムだけでチケット買ったから、指揮者のことノーチェックだったんだよね。
というか、何度見ても憶えられない名前。ズービン・メータ。
知らない訳じゃないんだよね。メータ。
高校の頃、飽きるほど通ったレコード屋さん。その頃のレコードには、わりと派手な帯がついていてね。「メータの巨人」とか、派手な書体ででっかく書いてあった。
その頃は、カラヤン、バーンスタインが現役スターとしてがんばっていて、小澤やムーティで飛ぶ鳥の勢いで。そして、中堅処としてロリン・マゼール、メータと、もう一人いたんだよね。同じよう名前の人が。カール・ベームだったっけ。
まあ、いいのだけれど。
とにかく、ズービン・メータっていう名前、演奏中にも想い出そうとがんばったんだよ。まあ、どうでもいいのだけれども。
僕の隣に座った若いカップルの女の子が、メータはゾロアスター教のインド人、と教えてくれて(僕にじゃないけどね)、それでzから始まるんだ、って憶えられてからは、名前を呼び出すのが少し楽になったのだけれどもね。
ほんとに、どうでもいい話だね。
という訳で、ウィーンフィル。
もうねえ。
なんというか。
モーツァルトの36番、なのだけれど。
なんというか。
言葉が浮かんでこないんだよね。
今まで聴いてきた物と、違いすぎ。
休憩に入る前に、さっきの若いカップルのおねえさんが、ひと言だけつぶやいたんだ。
なんて上品なんだ。
ああ。そうか。
こういうのを、上品って言うんだ。
半分納得もしたのだけれど。その上品さの中に潜むぎらっとした迫力も、聴くことが出来たんだよね。
とにかく言えるのは。
ものすごく心地いい。
ってだけ。
しあわせ。
さて。
お次はブルックナー。七番。
オーストリアのオケの奏でるブルックナー。どんなだろうね。
もちろん。
ものすごく心地いい。
それだけで話を終わらせることが一番いいのだろうけれど。
でも、その思いを少しでも具体的に頭に焼き付けたいからね。少し無理して言葉にしてみると。
僕は、生でオーケストラを聴いたとき、一番の判断基準は、音が届くか届かないか、なんだよね。
コンサートに何回も行っていると、ステージからの距離によって、楽しみ方が違うことが分かるよね。
かぶりつきで見て、その音楽の中にどっぷり浸って愉しむやり方と、ステージで行われている演奏を、わりと外から客観的に愉しむやり方。
ロックフェスで一挙手一投足に悲鳴を上げているヒトと、後ろでバーベキューでもしながら寝転んでいるヒト、みたいな、ね。
オーケストラの演奏会も同じでね。演奏の内側に入って、感情移入出来るときと、同じ席なのに、なんか入り込めなくって客観的に見ちゃってるときと。
もちろん、入り込んだ方が楽しいんだけどね。
その、入り込む状態、それはオケの醸す音が球状に広がって、その球の内側に入るかはいらないかっていうイメージなんだよね。演奏によって、球の大きさが違うから、同じ席でも入れるときとは入れないときがある。
この、ウィーンフィルはね。
広いホールの2階席にも関わらず。
ブルックナーの、最初のトレモロ。
音が聞こえるか聞こえないか分からないくらいの時に。
すでに、音楽の球の内側に入り込んでいたんだよね。
しかも。
そこから、参加する楽器が増えて、クレシェンドで強奏になるコラール。そこまで、音質が変わらず、シームレスに行くんだよね。
なめらかなのに、柔らかい音のまんまなのに。
楽そうな音のままなのに、気がつけば最強奏。
上品、ってばかりじゃないんだけどね。
音の入り方、切り方が揃っている訳でもないんだけどね。
一人一人の音さえ聴き分けられるように思うくらい、遠い二階席からでも臨場感にあふれた音。
ヴァイオリンの、オーボエのたった一人でも、このフェスティバルホールを音楽の球で包み込む、音。
トロンボーンも、持ち替えじゃないワグナーチューバも。ラッパもクラも、なにもかもが魅力的に響いて。
こういう世界が、あるんだね。
ウィーンの楽友会館って、そんなに大きくないんだよね。いずみホールくらいの。
そんな中で鍛えられたウィーンフィル。フェスを満たすことが出来るの?って半分意地悪に持っていたんだけどね。
ごめんなさい。
そして。
ありがとう。
僕の良く知っている、ブルックナーの七番。良く知っている分、どのくらい終わりに近づいたかも分かってしまうのだけれども。
永遠に終わらなければいいのに。
って、思ったよ。
外タレオケ。
侮るべからず、だね。
大フィルさん8回分。
しっかり愉しんだよ。
ただ、それだけのはなし。
東京ジャズ 15周年 ― 2016年09月11日
ウィントン・マルサリスは、本当にジャズを殺したのか? 中山康樹の遺作 ― 2015年12月12日
このごろ、読むジャズに触れる機会が多くってね。
大抵は、マイルスがらみなのだけれど。
まあ、それはあとでゆっくり書きたいな、と思っているのだけれど、マイルスから、「マイルスを読め」の中山康樹さんにたどり着いて。今年の初めになくなった中山さんの、最後の本が、ウイントン・マルサリスに関する本だったから、読んでみたよ。
ウィントン・マルサリスは、本当にジャズを殺したのか?

まあ、僕には、本当にジャズが殺されているのか、死んでいるのか、本当に死んでいるとして、それがウィントンの前だったのかあとだったのか、よく分からないのだけれどもね。
ウィントンは、同世代に生きる、影響力の大きなミュージシャンであり、僕の中でも、一般的にも毀誉褒貶の激しいヒトであって。しかも村上春樹に「ウィントンの音楽はなんて退屈なんだろう」なんて書かれてしまって、メディアにすっかり嫌われている印象があってね。
でも、大学時代に、出たがりウィントンの圧倒的なライブを目にすることが出来た僕は、新譜を見つけたり、来日公演を見つけたりするとせっせと買ったり足を運んだりするくらいのファンではあってね。
ジャズを殺したのがウィントンだなんて言うのなら、あの世の中山さんに文句のひとつもたれてやろう、と読んでみたんだよ。
もちろん、中山さんは、好きな物を魅力的に書くヒトだから、こてんぱんにはなっていないだろう、とは思っていたのだけれどもね。
ウィントン・マルサリスはね、僕がジャズに興味を持った1980年代に、すごい勢いで台頭してきた、ジャズのラッパ吹きで。
僕も金管楽器を吹いていたから、いや、楽器を演奏したことのない人にも多分ヒト耳で分かる、圧倒的なテクニックを、最初から持ってたんだよね。そう、マイルス・デイビスなんて相手にならないほどの、圧倒的なテクニック。
ただし、水掻きのついた、いかにも肉厚のモネ製のラッパから出てくる音は、どっちかって言うとクラシックの音で。マイクの前で仁王立ちになって、足の位置を動かさずにクールに圧倒的なソロを吹く様は、ハイトーンに逃げたり、音を外したりという、ジャズを聴き始めの高校生にとっての「分かりやすい」熱さがないから、ちょっと近寄りがたかったんだよね。
その頃のぼくらのアイドルは、火を噴くトランペット、クリフォード・ブラウンだったからね。
大学のジャズ研に入っても、まあみんなの印象もそんな感じで。その頃聴いてたのは、ハンコックや、メッセンジャーズのやつだったかな。高校の時には、ブラックコーズとか聴いてるやつもいたな。
その評価が、僕の中で一変したのは、マウントフジジャズフェスに、ウィントンが来たとき。
マジェスティ・オブ・ブルースが出た頃かな。ディキシーウィントンっていわれてた頃の、7重奏団。
もちろん、自分のバンドはそれはそれで、すごかったのだけれども。でも、やっぱりディキシーでは、二十歳そこそこの若者は燃えないんだよね。
なんだけど。
ウィントンは、三日と二晩、あらゆるセットに、ラッパを持ちながら袖で控えててね。
ジャムセッションや、ジャムっぽいディジー・ガレスピーのビッグバンドなんかに出ずっぱり。ジミー・スミスもいたっけ?
他人の出番のステージに招かれて、嬉しそうに出てくるウィントンを、ぼくらの仲間が「出たがり〜」ってやじったら、カメラマンのおっさんが、こっちを向いて大受けしてたな。
そんな、大先輩のバンドに飛び入りし多ウィントンは、吹ける喜びに満ちあふれた、熱い、圧倒的なソロを繰り広げてね。
エレクトリックベースがチョッパーしている横で、モネのラッパでオールドスタイルなソロを取るウィントンに、ぼくらは両手を挙げて喝采を送ったんだよ。テレビ放送を見てとやかく言う輩には、生で観なきゃわかんないんだよね〜、って、同情したりして。
そこから、昔のも含めて、ウィントンを聴きだしたんだ。四半世紀も前の話だね。

だから、リアルタイムで聴いたのは、マジェスティ・オブ・ブルースから。それから、クリスマスカード、Tune in Tomorrowあたりは、大好きだったな。一番聴いたのは、Standard Time Vol.3の、オヤジさんと一緒にやった、Resolution of Romanceだな。この、音色の多彩さ、これが僕にとってのウィントン。
あとは、エルビンとやったPitInnのライブかな。
その後の南部3部作、それからリンカーンセンターの音楽監督になっちゃって、なかなか新譜も来日もしなくなっちゃったけれど。
でも、今でも新譜が出る、って分かったら、結構マメに買ってるんだよね。
そうそう、中山さんの本だよね。
60年代に生まれ、70年代って言う、「ジャズのない時代」に、デビューして、マイルスやクリフォードなど、伝説の大物の再来、にしたがるレコード会社をすり抜けながら、「勉強したジャズ」を演奏する、クラシックの演奏家。やがてジャズの歴史に傾倒し、アメリカ音楽のアイデンティティを伝承する意志を固めていく。
結果を観ると、そういうことになっていくんだよね。
ウィントンの評価を巡る、日米の乖離。それは、この本ではじめて気がついたけれど。確かに、昔騒いだほどには、ウィントンの新譜も話題にならないよね。
ただ、スウィングジャーナル無き今、なかなか海外ジャズの情報が無いんだよね。
僕がスウィングジャーナルを読んでいたのは、気がついたら中山さんが編集長をしていた時代と重なっていて。
そうか、中山さんにすり込まれたんだな。ウィントン。
でも。
リンカーンジャズセンターの監督になってから、あんまり聞こえてこなかった、ウィントンが、アメリカでこんなに評価されている、っていうのは、嬉しいよ。
なんだかんだいっても、同世代のスターだしね。
ただ、それだけのはなし。