北方謙三、大水滸伝、完結!!! 〜岳飛伝、最終回〜 ― 2016年01月20日
ついに。
この日が、来たね。
北方謙三の大水滸伝。最後を飾る、岳飛伝。完結。
あ、小説すばるの、雑誌の連載の方ね。単行本は、もう少し後。
僕は、この岳飛伝、小説すばるを年間購読して、毎月楽しみにしていたんだよ。
もちろん、北方謙三の○○伝っていう物語の、終わり方はひとつしかないのだけれど。そして、その終わりが近づいているのは、それはもう、ひしひしと、ひしひしと感じていたのだけれど。
でも、先月。
来月最終回、っていう予告を見て。
やっぱり、淋しかったんだよね。今月号が届くまでの一月。
雑誌が届いたら、すぐ読むのかな、それとも、しばらくは飾っておくのかな、って。いろいろ考えてもみたのだけれど。
結局は、届いた次の日の、東京出張の新幹線の中で読んでしまったんだよね。
岳飛伝。
水滸伝、楊令伝と続いてきた、北方謙三の大水滸伝の完結編。
水滸伝は、もちろん有名な中国の物語なのだけれど。
キャラクターとそれにまつわるエピソードだけが重要で、まとまったひとつのお話、という訳では無かったこの物語を、血湧き肉躍る革命の物語として我田引水した「水滸伝」。
完全にオリジナルの物語として、祭りの後始末と、破壊の跡の構築の孤独を描いた「楊令伝」。
実在の人物岳飛を使って、虚構と史実の狭間に、伝説から歴史へと移り変わる人たちの人生の決着をつけ続けた、「岳飛伝」。
すごい、力業を、成し遂げてくれたよね。
水滸伝を貫いた、宋江が作った替天行道の旗と志。
楊令が背負わされた、その旗と志は、血が騒いで参加した単純で若い革命戦士の意図から離れて、もっとぶっ飛んだ、でも見た目は地味な形に変わっていって。
楊令亡き後、革命戦士の二世たちが、親世代の背中を見ながら、志を自分なりに消化し、英雄たちを語り継ぎながら、新しい世界の形を作っていく。岳飛伝。
その軸を通すのは、もちろん。
楊令に子供扱いされていた岳飛ではなく。
誰よりも死に場所を欲しがって、誰からも与えられない九紋龍。
生ける伝説、湖塞の最後の生き残り、九紋龍史進。
その生き様が、僕の中では、岳飛伝の大きなテーマであり、それはそのまま大水滸伝の軸、なんだよね。
まだ、単行本が発売前だからね。
その結末は、お楽しみに。
今は、ただ、満足感と喪失感に浸ることにするよ。
王進と林沖から始まった物語。最初から読み直すのも、いいな。
ただ、それだけのはなし。
優柔不断のクルマ選び 〜マツダ車一気乗り!! CX-3、アテンザ、ロードスター〜 ― 2015年10月16日
いいシーズンだよね。
さすが体育の日、っていうか。
ちょっと肌寒さを感じる、体育の日の三連休。
インドア派の僕でも、ちょっと外に出たくなって。行ってきたよ。
マツダのディーラーに。
マツダの車、いいよね。
かっこいいし、クリーンディーゼルだし、何よりスカイアクティブだし。
SUVはあんまり視野に入らないから、CX-5とかあんまりぴんとこないのだけれど、アテンザ、アクセラ、CX-3はかっこいいよなあ。
そして、もちろん。
ロードスター。
販売前の写真で虜になって。カーグラのTVや特集号買いあさって。ディーラーの展示車を眺めたりして。
でも、乗りに行こう、って思わなかったんだよね。今まで。
もうちょっと、機が熟すまで、待つべきじゃないのかな、って。
我慢してた、んだけどね。
まあ、夏休みがあって、5連休があって。この三連休は、そんなにがつがつ遊びにいく予定もないし。ちょっとお昼を食べに外に出たついでに、行ってみたよ。
MT車のわりとありそうな、マツダのディラーさんへ。
お目当てはね、ディーゼルエンジンと、ロードスター。
VWの騒ぎがあって、Poloに乗っている僕も、肩身が狭い、訳でも無いのだけれども。ディーゼルエンジンは、なんか悪者にされているみたいで。
クリーンディーゼルをがんばって作って、日本に広めようとしているマツダが、その割を食うのか、Made in Japanの底力を見せつけるかは、もうちょっと評価に時間がかかりそうなのだけれども。
でも、昔に比べたら静かになめらかになって、低速トルクが豊かで、燃費も良いのなら、一度どんなモンかは試してみたいよね。
という訳で、ディーゼルの二つのエンジン、乗ってきたよ。
最初に乗ったのは、CX-3。1.5のディーゼルエンジン。AT車。
マツダはね、クラスレスの質感を標榜していて。昔、トヨタの「いつかはクラウン」というコピーが作った、大きいクルマはステータスだ、っていう日本人に染みついた感覚を、どうにかして取り払おうとがんばってるんだ。
つまり、リッターカークラスのデミオ、そのSUV版のように見えるCX-3でも、いい歳したおっさんが堂々と乗れる質感、っていうこと。
内装の革の使い方とか、まさに高級感。
エンジンはね、まあ、1.5だなあ、と。
トルクは豊かなんだけど、アクセル踏んだ2.3秒あとに、カラカラと音をたてながら盛り上がってくる感じで。もちろん、同じ1.5でも、GWにレンタカーで借りたアクセラの1.5ガソリン車とは全く違うのだけれども。僕の乗っている1.4のツインチャージャーに慣れている身体では、なかなか刺激が無いなあ。
刺激を求める車じゃないのだけど、ね。もともと。
お次は、2.2ディーゼル。アテンザワゴン。
いやあ。
これはすごい。
アテンザは、マツダのフラッグシップだからね。如何にクラスレス、といいながらも、やっぱりフラッグシップの高級感はすごい。
外見の押し出しもさることながら、静かさ、アクセルに直結してもりもり湧いてくるトルク、路面の凹凸の上品な拾い方。
いやあ。アテンザすごい。
ただ、でかいんだよね。幅も広いし、長い。ワゴンなげー、って思ってたら、もし購入を考えるとするなら選ぶだろうセダンは、なんと、もっと長いんだね。後部座席にも配慮した結果で、ホイールベースも長いらしい。
もちろん、それを含めての高級感、なんだけどね。でかいなあ。
でも、いいなあ。これ。
同じエンジンを積んだアクセラは、アクセラの中では最上級グレードで、それもかなりの高級グレードと言うことで、値段はあんまり変わらないらしいんだけどね、アテンザと。
でも、扱いやすい大きさだし、ちっちゃいボディーにこのエンジンMTで、っていうのも面白そうだよね。
ただ、このエンジン、というかこのクルマ、スポーティって言うより重厚、って感じだよね。そこまで大人になれるかなあ、僕。
という事で、ディーゼルエンジン比べたあとは。
お待ちかねの、ロードスター。スペシャルパッケージ。MT。
いやはや。
参りました。
さっきの2台は、ディーラーの方が後ろのに乗ってくれて、試乗コースとしては結構長めのコースに行かせてくれたのだけれども。
二人乗りのロードスターは、なんと。
二人で勝手に、どこに行ってもいいですよ。1時間くらいで帰ってきてね。って。
はじめて来た振りの客に、なんて太っ腹。マツダ。
という事で、行ってきました。フリードライブ with ロードスター。
MT久しぶりだから、一回駐車場をぐるっと回らせてもらってから、ね。
ロードスターは、2代目の頃にちょっと試乗した以来かな。先輩が持っていた初代も、運転はさせてもらわなかったし。
下道をちょっと走って。
信号待ちで幌を空けて。
空港をぐるぐる回って。幌閉めて。
阪神高速をぐるぐる回って。
家の前通って、ディーラまで、1時間半くらいかな、結局。
うふふ。
うふふ。
この車のエンジンは、1.5のガソリンで。
GWにレンタで借りて、「走らねー」っていいながら乗っていたアクセラのエンジンがベースなのだけれど。
1トンって軽い車体と、MTの気持ちよさと。オープンの開放感と。
多分、スカイアクティブが狙う人馬一体感。それは運転のしやすい姿勢であったり、FRの頭の軽さだったり、直接聞こえてくるエンジン音だったり。
信号で待ってると、隣から感じる視線であったり。
信号待ちのたびに開閉できるくらい簡単な、クローズとオープンの切替であったり、オープンでもそんなに巻き込まない風であったり。
うふふ。
これ、欲しい。
がんばれば、中くらいの旅行鞄二つは積めるトランクであったり、ちっちゃめのセカンドバッグならどうにか入りそうな収納であったり。
機密性や音もそんなに気にならない厚みのある幌であったり。
実用性だって、無い訳じゃないし。
うふふ。
これ、欲しい。
いかんいかん。妄想が止まらない。
でもね。
今回一番びっくりしたのは。
アテンザの高級感でも、大きさを感じさせない運転のしやすさでもなく。
ロードスターの楽しさでもなく(いや、これが一番かも、、)
マツダのディーラーって、すごい。
前の車を選んでいた5年くらい前、一度別のディーラーに行ったけど、その時とは全くの別物。
予約もせずに振りで行った、1年以上購入予定無いよ、っていっている客に、試乗車3台も用意してくれて、ロードスターはフリーで乗らせてくれて。
ついてくれたお兄ちゃんは、ホントに良くクルマのこと知ってて。マツダ車に誇りを持っていて。
すごいなあ。
ありがとね。
あれ以来、僕の頭の中では、ロードスター、ロードスターってシュプレヒコールが鳴り止まないよ。
いつか、迎えに来るからね。
それまで、待っててね。
マツダの車たち。
ただ、それだけのはなし。
世界最高のバイオテク企業 ― 2015年09月10日
科学者集団であったアムジェンに、経理畑のCFOとして参加して。製品がない時期の資金繰りに苦しみながら会社としての体裁を整え。シンプルかつ強力な社是を制定しぶれずに実行して。急成長していく中で必然的に起こる官僚主義、セクショナリズムを排除し。科学に忠実に、患者によりそうためには、科学者の無関心にも敢然と立ち向かう。
有意義でやりがいのある目標を掲げ、気持ちいい仲間を集めて、気持ちよく働いてもらう。
ただ、それだけのこと。
きっと、難しいんだろうなあ。
科学の成功物語ではなく、会社としてのバイオテク企業の黎明期を、科学者ではない経営者の目線で描いたこの本。いわゆるビジネス書にはあんまり興味もないのだけれど、これは、いろんな人に読んでほしいなあ。
ハッとするところや、なるほど、って思うところが満載で。
何より、元気になるから、ね。
都構想と、北方水滸伝 ― 2015年05月19日
さて。
何から書いたものだろうね。
大阪都構想。負けちゃったね。
静かにメタンガスを吐き出しながら、ゆっくりと朽ちていく地上の楽園、おおさか。その大阪に突如湧いて出た、つむじ風。
知名度だけを頼りに、徒手空拳で府庁に乗り込んだやんちゃ坊主。人と喧嘩するたびに勉強して。熱狂を生み出して。仲間を増やして。
いつの間にか、強大な勢力と明確なビジョンで政策を語るようになった頃には、ふわっとした民意が必ずしも味方にばかりなった訳ではなくって。
それは、改革者なんかでは全くなく。
あくまでも破壊者であり、よく言って革命家。
そう。
橋下徹は、大阪市をぶっ壊して、革命を起こそうとしたんだよね。
僕はね。
実は、橋下徹に票を入れたことが、ないんだよね。一回しか。
最初はうさんくささと、大阪らしい有名人だからこその盛り上がりに辟易してね。そして、強圧的な橋下に票を入れた、と後世の自分の良心から責められるのが怖くて。
棄権したんだよね。知事選を。
市長選もそうだったな。一度目は。
二度目の市長選、シングルイシューのみそぎ選挙。この時には、彼のやろうとしていることが大分見えてきて。そして、判官贔屓を刺激されるほどに弱って見えたから、不覚にも票を投じてしまったのだけれどもね。
都構想。
このままでは、居心地は良いけれど、ゆったりと将来はなくなっていく。
だから、そのしくみを覆さなければいけない。そう志を持った一派と。
これまで続いてきた大きなしくみ。それ自体の自己保存欲。変わる事への忌避、ためらい。より明確な既得権益を持った多数派が、正面から力比べをして。
そして。
負けたね。
僕は、僕の大好きな革命の物語と、幸運なことにその渦中に居合わせた現在の革命の物語を、重ねていたんだよ。
橋下徹は、「北方水滸伝」の中の、誰の役を演じたのだろう。
北方水滸伝ってね、北方謙三の描く、水滸伝を発端とする、壮大な物語。今でも続いているのだけれどもね。
政治に不満を持つ荒くれの若者が結集して、力を蓄え、遂に国を滅ぼそうと最終の大決戦を仕掛けて。そして派手に負ける「水滸伝」。
梁山湖の敗戦のあと、力を蓄えて宋を斃し、革命は成就したけれど。そのあとのことを考えるリーダーが苦しむ「楊令伝」。
伝説は又聞きの想い出話になって、志は個人に応じて形を変える。伝説と歴史の狭間の、死にきれなかった人生はどこに行くんだろう。まだ連載中の「岳飛伝」。
全50巻で終わるかどうか分からないけどね。壮大な、革命の、破壊と後始末の、物語。
この中でね。橋下都構想の大戦(おおいくさ)は、どこに位置するんだろう。
橋下徹は、晁蓋なのか、宋江なのか。はたまた楊令なのか。
圧倒的な力強さと、人を引き寄せる魅力を持ったリーダーでありながら、人を集めた所で逝ってしまった英傑「晁蓋」。
人々の哀しみを見つめ、志を文字にし、梁山泊のシンボルであることを肯んじた「宋江」。
敗戦のあと、リーダーに担がれ、破壊後の構築に一人で向き合った孤独なリーダー「楊令」。
やっぱり、大盛り上がりの大戦。最後に負けたところで自決した宋江、っていうことになるんだろうね。
破壊者橋下の、面目躍如、だね。
そうするとね。
一つ疑問があるのだけれど。
橋下徹は、都構想が成就した時の、その後のビジョンって、持っていたんだろうか?
飛龍伝でヒロスエが言っていた通り、革命家は、革命が成就した時には素早く身を引かなければならないんだよね。なぜなら、その後の構築と統治は、別の個性が得意とするものだから。
チェ・ゲバラのようにね。(カストロではなく)
だから、もしかしたら。
都構想が勝っても負けても、橋下はやめる準備をしていたのではないかなあ、と思うんだよね。
だから、壊すだけ壊して、あとを託す誰かを準備していたのなら。
壊しきれなかったけれど、十分に弱体化したオオサカを、中途半端な構築だけれども、志と方向性を受け継いで、これから育てていく。
橋下のあとに求められている個性、楊令のような存在を、ぼくらに示して欲しいなあ。
ああ。北方水滸伝、また読みたくなっちゃった。
北方謙三の水滸伝、読んだことのない方、ごめんなさいね。全く訳分からない文章だったね。
でも。
読んだことのないのは、人生の損失だよ。
かっこいい漢の、生き様と死に様にどっぷりと浸りたい人。是非、北方水滸伝を手に取ってみてね。
10ページ読んだら、もう、やめられなくなるよ。
ただ、それだけのはなし。
満島ひかり in ハムレット 〜with 藤原竜也、蜷川幸雄〜 ― 2015年03月07日
ましま、って呼んでるんだけどね。自分の中では。
好きなんだよね。満島ひかり。
若者たちとか、ごめんね青春とか。映画の夏の終わりにとか。トヨタのCMとか。
そういうのを、喜んで見る位には、好きなんだよね。
だから、ましまのポスターに惹かれて、チケット取ったんだ。
ハムレットの。
あとから気がついたのだけれど、これは、シェイクスピアのハムレットであり、蜷川演出の舞台であり、藤原竜也主演の演劇でもある訳で。
それは、ただましまを観に行くだけではもったいない、あるいは恐れ多い、と。
久しぶりに、本を読んで予習をしてから、観に行くことにしたんだよ。
シェイクスピアって、多分名前を知らない人は、僕の世代には誰一人いないのだろうけれど、実際にその作品を読んだことのある人って、どのくらいいるんだろう。
僕は、読書量はまあまああるのかなあ、と思うのだけれど、純文学とか、お教養とか好きじゃなかったこともあって、英文学専攻の姉を持つにもかかわらず、多分、読んだことなかったんだよね。
本屋に行って、目についたのが、河合祥一郎さんという方の、新訳ハムレット。
シェイクスピアって、ずうっと昔の方で。その英語はかなり今の言葉と違っていて。そして、いつの翻訳か分からない、日本語としても古くて意味不明な岩波文庫とかはちょっと勘弁して欲しいなあ、と思ってたからね。ちょうど渡りに舟。
読んでみたら、これが面白くてね。
野村萬斎の舞台の脚本として訳されたもののようなのだけど、だからリズムが自然で、頭の中で音読する僕にとっては、すごく読みやすいんだよね。
ハムレットって、生きるべきか死ぬべきかだけ有名だけれども、それがどんな場面の台詞なのか、っていうか、物語について何にも知らなかったなあ、と思いながら読み進めていくうちに。
ああ、これは悲劇のお話なんだ、って。
そりゃあ、シェイクスピアだもんね。(偏見)
という訳で、ひさびさに行ってきたよ。元飛天。と思ったら、元飛天でやってたのは宝塚? 同じビルの地下の劇場でしたね。
列を作っているのは、見渡す限り、女性、女性、女性。あれ、ましまって女の人に人気なの? 蜷川ってこんなに一般的に人気? と思ったら、入ったところには、藤原fan clubの入会カウンター。ああ、そうなのか。
身毒丸からデスノート、カイジ。最近では藁の縦なんかの、濃いイメージだと、そんなに女の人に人気、ってよく分からないのだけれどもね。
ホールに入ると、日本家屋のセット。
ああ、演劇なんだ。これ。
演劇って、決してよく見に行く訳ではないのだけれど。
広末涼子、つかこうへいの「飛龍伝」。
松たか子、野田秀樹の「贋作罪と罰」。
遡ると、学生時代の友達が脚本を書いていた、なんていうタイトルだっけ。もうすぐ虹が砕け散り、全てが闇に包まれるからその前に、って言うアマチュアのの演劇。
そう考えると、いつも女優で観に行ってるね。
という訳で、演劇、ハムレット。
偶然なんだけど、今回の訳者も、僕が読んだ河合祥一郎さんで。
ホンの2、3日前に読んだ戯曲が、目の前で命を吹き込まれている。
なんか、不思議な感覚。
今まで見てきた数少ない演劇は、みんなオリジナルで、演出より先に戯曲家として有名な人たちの作品だったからね。(贋作罪と罰は、おりじなるだよね?)
シェイクスピアって、そんなに崩す訳にも行かないし、みんなが知っている、物語だけでなく、台詞の一つ一つも知っているものを、どうやって自分の作品です、っていうんだろう。
そんなことを考えながら見ていたのだけれども。
生身の役者さんに命を吹き込まれて、ハムレットの苦悩にも、オフィーリアの狂気にも、ボローニアスのしょうもなさ振りにも、本で読んだ時よりもずっと説得力のある物語を見せられて。
オリジナルとかそうでないとか、そんなこと、どうでも良くなったよ。
そもそも、僕はこういうシチュエーション、よく知ってるんだった、って思いだしたしね。
誰もがよく知っている作品を、いじることなくそのまま演じて、なおかつそこにオリジナリティを見いだす。
これは、クラシック音楽と全く同じだよね。
ベートーヴェンやブルックナー。200年も前から変わらないスコアで演奏されて。みんな同じ楽譜を見て演奏しているのに、フルトヴェングラーはどう、チェリビダッケはどう、朝比奈はどう、って。同じ作品に好き嫌いをつけて喧々がくがく。
でも、クラシックの場合、どんな名演奏が歴史的にあったって。目の前で繰り広げられる生演奏には、かなわないんだよね。
結果的には、名演奏の方が良かったとしたって、これから繰り広げられる演奏が、どんな演奏をも凌駕する奇跡を生み出す「かも知れない」っていう期待の前には、過去の名演奏なんて、なんの価値も持たないんだよね。
シェイクスピアだって、きっとそうなんだよね。
誰それの演技が、誰それの演出が伝説的に良かったとしたって。それを凌駕する可能性に胸を膨らませたり、全くの門外漢にその世界の素晴らしさを教えたりするのは、今、目の前に繰り広げられる,っていうことが必要で。
だから、満島ひかり演じるオフィーリアの、親兄弟に言いなりになる弱さのせいで少しずつ侵される狂気のこわさとか。その中の可憐さとか。澄んだ声で奏でられる歌に潜んだ狂気の、どうしようもない怖さとか。
そればっかりに目をとられるのではなく。
本を読んだだけでは唐突感のある、「生きるべきか死ぬべきか」に見事に命を吹き込んで、苦悩と復讐と未来への希望を体現した藤原君の熱演とか。
僕にとって述べートーヴェンやブルックナーの演奏会のように、ある人たちにとっては、「今日のハムレットは良かった/悪かった」と評価されるべき世界の一端を垣間見ることが出来た。そして、それがとても魅力的に見えたことが、とっても嬉しかったよ。
もちろん、ましまが一番良かったのだけれども、ね。
最後に出てきたフォーティーンブラスが、なんであんなに小さいぼそぼそ声だったのかは、今後考えるべき課題だね。
ただ、それだけのはなし。