ボッセのハイドン 〜がんばれ在阪オケ!その2〜2009年04月08日

 さあ、春のがんばれ在阪オケ 第2段。今日は大フィルさんのハイドン。え、大フィルさんはがんばれ大フィルさんだろうって? まあ、それはそうなんだけどさ。今回はイズミホールの特別演奏会だし、せっかくの新シリーズなんだから、お客さんもほしいじゃない。気にしない気にしない。
 そう、今日は、ボッセのオールハイドンプロ。ちょっと前なら見向きもしなかったプログラムだけれども、バッハでいい演奏をたくさん聴かせてくれる大フィルさんだからね、ハイドンもさぞかし。結構楽しみだったんだよね。

 そうそう。
 ちょっと前に、菊地成孔の、東京大学のアルバート・アイラーっていう本を読んだんだよね。菊地さんっていうのは、ジャズのサックス吹きなのだけど、東大の教養でジャズに関する講義をした。その講義録としてまとまったのがこの本で、ジャズの歴史についてとてもおもしろくまとめていて、そのうち独立した記事として紹介しようと思っているのだけれど。
 その本曰く、音楽は過去に三度、記号化されていると。三度の記号化とは、十二音平均律、バークリー・メソッドそしてMIDIであると。バークリー・メソッドと時を同じくして発生したビバップと呼ばれるジャズは、分析の方法論としての記号を最初から持ち合わせていた希有な音楽であり、そのことが自覚的にモダン、プレモダン、ポストモダンを区別する独特の発展をした。ということなのだけれども。
 簡単にいえば、ドレミファソラシドっていう音階を作ることで、音楽は方法論を持ったよ、それ以後の音楽は、みんなそれにとらわれているんだよ、ってこと。
 誰もが再現することができるように音楽を書き表すこと、それが記号化。五線譜にオタマジャクシを書いて、これが音楽だってみんながわかるようになったのは、たぶんバッハの時代なんだよね。(違ってても受け付けないけれど)
 そして、誰もが理解できる記号化は音楽の裾野を間違いなく広げて。バッハが作った楽典と記号化の広野でなんの疑問もなく楽しめた時代、その音楽がバロック音楽なんだろうね。
 ちょうどチャーリー・パーカーが作ったバップという方法論の中で、カインド・オブ・ブルーによって夢から醒めるまで、みんながモダンジャズを謳歌したようにね。

 その、五線譜とオタマジャクシの幸せな時代、現在に残されている量から考えて一番と言っていいほど楽しんだのがハイドンだよね。十二音平均律の権化。
 この本を読んでから、僕の中でのバロック、あるいはその時代の音楽は、心地よいけれど退屈なラウンジのBGMから、何の不安もなく音楽をする喜びにあふれた時代の、パワー溢れる音楽に変わったんだよね。
 だから、じいさんボッセのハイドン、楽しみだったなあ。

 あ、演奏会だったね。
 
 予想に反して、といったら失礼だけれども、結構の大入り。この前のフーガの技法よりずっと入ってるよね。ボッセじいさん、人気者なのかな。ヴィンシャーマンもなかなかのものだと思ったけれど。

 演奏はね。
 曲とかあんまり知らないから、演奏の細かいところがどうとかそんなことを気にするきもなくて。
 ただ、音楽の楽しさ、ボッセじいさんのビジュアルからもきている暖かさを堪能したよ。
 五線譜とオタマジャクシが何でも表現できると単純に信じられた時代の音楽らしく、本当に鷹揚でね。きちんと音にしていったらそのまま形になりまっせっていう。その中にちょっとずつ、いたずらにも似たギミックを滑り込ませるのがハイドンの常なんだろうけれど、少人数の大フィルさん、そんなギミックもなにもかも正攻法で突き進む。
 気持ちがひねているときには、それが退屈に聞こえるのだと思うけど、アルバート・アイラーのおかげでハイドンの見方となった耳には、心地よさだけが強調されて聞こえたんだよね。

 二曲目、ヴァイオリン協奏曲のソリストは、15歳の男の子。郷古君。この子のヴァイオリン、僕は好きだなあ。音が太いんだよね。太くて、大きい。細かい技術や色っぽさが求められる曲じゃないから、その太さ、大きさがよく合うんだ。余りに気持ちよくてうとうとしちゃったけれど、気持ちいい夢うつつ状態だったな。
 アンコールは、同協奏曲の2楽章と、バッハの無伴奏から。唄ものいいね。また聞きたいな。

 ワーグナーとは違った意味で無限軌道のバロック音楽。金太郎飴ともいうけれど。でも、堪能しました。
 結局僕は、おじいさん指揮者が好きなだけなのかな、とか楽しく悩んでみたりもするけれど、いいやん、それでも。

 楽しいんだから。

 ただ、それだけのはなし。

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2009年4月7日
いずみホール特別演奏会Ⅰ〈ハイドン没後200年記念〉
大阪フィルハーモニー交響楽団
ゲルハルト・ボッセ:指揮
郷古 廉 :ヴァイオリン

ハイドン:
交響曲 第85番 王妃
ヴァイオリン協奏曲 第1番
交響曲 第104番  ロンドン

センチュリーのロマンティック 〜がんばれ在阪オケ! その3〜2009年04月11日

 さあ、どんどん行くよ。
 春のがんばれ在阪オケ、第3弾。今度は大阪センチュリー交響楽団のブルックナー。
 
 このごろブルックナーのメジャーな曲を聴く機会があんまりなくってね。高関さんの5番が最後、なのかな。あ、メジャーな曲っていうのは、4,5,7,8,9番のことね。長調ではなくて、僕の好きな、っていう意味で。だから、シンフォニーホールに響くロマンティック、聴き逃す訳にはいかないよね。
 センチュリーは、もしかしてはじめてかな。どんな音がするんだろう、わくわく。
 
 第一部は、フルート協奏曲。
 ブルックナーばっかりに目がいって、こっちのほう全然気にしてなかったけれど、知ってたら二階席じゃなくって一階席を取るんだったな。やっぱりフルートのソロは近くで聴きたいものね。
 しかも、ソリストのピエルーさん、綺麗。
 ああ、一階席にすれば良かった。
 
 演奏はね、指揮者の小泉さんは前に前に行きたがるのかな。最初の速いパッセージ、結構転びまくっていて。弦がね。弦が転びまくるようなパッセージ、ソロフルートの音が朗々と響き渡る訳もなく。どうしたものかと思ったのだけれども。
 でもそれは、演奏者が悪い訳ではなくってね。朗々としたところでは音響き、そしてロングトーンの長さ、いい感じに聴かせてくれました。
 このピエルーさん、センチュリーのフルート吹きなんだね。ゴージャスだなあ。
 
 協奏曲はあくまで前座でね。僕の目当てはブルックナー。
 プログラム見てびっくり仰天したのだけれど、何とセンチュリー、今年度9回の定期演奏会のうち、ブルックナーを3回もやるんだね。しかもライブ録音でまとめてCD販売予定。しかも4,5,6番。もしかして来年は7,8,9番?
 ちょっとうきうきしちゃう企画だけれど、いかんいかん、まずは4番をきっちり聴いてから。喜ぶのはそれからにしよう。
 
 シンフォニーホールのブルックナーといえば、もちろん大フィルさんのそれと比べてしまうのはしょうがないよね。違うオケの、違う演奏だっていうのは百も承知だけれども。
 そういう眼で見ると、やっぱり編成の大きさの差って気になるよね。特に二階席からステージを俯瞰すると。大フィルさんの第一ヴァイオリン16人、ホルン8人(あとは推して知るべし)に比べて、ヴァイオリン10人、ホルン5人ではやっぱりステージの後ろがすーすーするのはしょうがないよね。ヴァイオリンの後ろの方にひな壇を作って、すり鉢状のステージ。一体感を重視した配列なのかな。どんな音が出てくるんだろう。
 
 結果的にいえば、めちゃくちゃ楽しいブルックナーだったよ。え、結果早すぎ?
 
 一楽章。朗々と流れるホルンのソロが、びっくりするくらいゆったりとしていて。
 4番の始まりって、原始の霧っていわれている弦のトレモロから、ホルンのソロで遙か彼方の山の稜線が見えて、楽器が増えるごとに近くの景色にピントが合っていって、チューバの二拍三連ですべてが噛み合って世界が動き出す。そんな感じで大好きなんだけど。
 テンポの遅さは否応なしに緊張感を高めて。その緊張感を保ちながら決してシリアスにならないで。なんていうんだろう。
 とっても楽しい。
 そして、とってもブルックナー。
 
 右奥のひな壇前方に固まったホルンの人数が見慣れた景色より少ないから、その後ろのトロンボンの前にがっぽりとスペースがあって。そのせいかトロンボンのコラールがダイレクトに聞こえてきて気持ちがいいんだよね。ラッパのアタックはちょっと刺激的なところもあったけれど、すぐにそんなの気にならなくなってね。
 
 おいおい、まだ1楽章だよ。
 っていいたくなるくらい、ブラスも弦も飛ばす飛ばす。
 CD発売が前提の演奏会なんて、きっとそんなに頻繁ではないだろうし。これはセンチュリーさん、本気やな。
 それも玉砕覚悟の。
 
 その本気度がダイレクトに伝わってきて、思わず背筋を正したよ。ああ、これもブルックナーなんだよね。
 
 フレーズの中の音は朗々とテヌートっぽいのに、フレーズの終わりは結構ぶっきらぼうなことが多くって、慣れるまでちょっとだけ違和感があったんだけど、まあそれもオルガンらしい、ってことなのかな。
 
 ゆったりした1楽章とは対照的に、スケルッツォは今度は飛ばす飛ばす。ホルンのタンギングとかちょっと苦しそうに聴こえるくらい飛ばすんだけど、その一直線さ加減がまた楽しいんだ。もう何でも受けまくりモードだからね。出てくる音がみんな愛おしいよ。
 
 玉砕覚悟で突き進んだ分、最後のコーダの、もうひとつぐわっと来る盛り上がりというか緊張感はさすがになくって。拍手とブラボーのタイミングがちょっと早かったのは残念だけれども。
 でも、そんなこと関係ないくらい楽しい演奏だったよ。ありがとう。
 
 僕を含めて朝比奈信者は、うのこーぼーの言葉にだまされていてね。「ブルックナーの演奏には正解が一通りしかない」とか、「二人のじいさんが死んだ今、本物のブルックナーを生で聴くことはもうできない」とか。
 もちろん、そんなの嘘っぱちだよね。今日、はっきり分かったよ。
 そりゃあ、じいさんのブルックナーをCDで聴くのもいいけれど、元気なオケで生のブルックナーを聴くのとは全く違うよね。ホルンが落ちないか、弦が転ばないか、そういうはらはらどきどきまで含めて、やっぱり生は楽しいよね。
 
 演奏が終わったあと、チケット売り場に行って、ファンクラブに入っちゃったよ。
 だって、あと2回のブルックナーもそうだけど、次回は芥川也寸志のトリプティークだもんね。
 楽しみ楽しみ。
 
 ただ、それだけのはなし。

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大阪センチュリー交響楽団
第140回定期演奏会
指揮:小泉 和裕
フルート:ニコリンヌ・ピエール

イベール:フルート協奏曲
ブルックナー:交響曲 第4番 ロマンティック
ザ・シンフォニーホール

山下洋輔と、京都市響の悲愴 〜がんばれ在阪オケ! その4〜2009年04月13日

 さて、急ピッチで進めてきた春のがんばれ在阪オケシリーズ。早いもので第4弾、そして最終回となりました。
 第4弾は京都市交響楽団の大阪特別公演。あれ、在阪オケじゃないやんって。まあいいじゃない、細かいことは。
 
 今日のお目当ては、もちろん山下洋輔。ラプソディ・イン・ブルー。
 京都市響と山下洋輔のラプソディ・イン・ブルー、てっきり前にも聴いたことがあると思ってて。コンサート聴いたときには全く誤解していたのだけれど。今調べてみたら、京都市響で聴いたのは、山下洋輔の作曲したEncounterという曲で、ラプソディ・イン・ブルーは、佐渡裕の大フィルさんだったんだね。どっちにしても20世紀の話だけれども。
 
 そういう訳で、どちらにしてもひさびさの山下洋輔のガーシュイン。ジャズマンの弾くラプソディ・イン・ブルーは、ちょっと前にオオウエエイジと小曽根真の組み合わせでやったっけ。あんまり定かではないけれど。
 
 山下洋輔に目が行っていたから、他に何をやるのか気にしてなかったんだよね。開場についてプログラムを見てみると、カルメンと悲愴。大阪特別公演だからね、精一杯気張って集客出来るプログラムを考えたんだろうね。そのおかげで、場内ほぼ満員。凄い。
 僕の席は、1ヶ月前くらいにとったにしては凄くいい席。K列のど真ん中。一つ前のJ席は大フィルさんでいうS席だからね。ほぼ特等席。わーい。
 
 もちろん山下洋輔目当てなんだけれども、プログラムを見てもうひとつ、興味が湧いたんだよね。ガーシュインのジャズのアーティキュレーションと、外連味たっぷりとはいえ正統派クラッシックの悲愴。どうやって演じ分けるんだろう、ってね。そこの切り替えが、今日のもうひとつの見所。
 
 最初はカルメン。
 タンタカタカタカタンタカタカタタンタタタンタタン、のおなじみのメロディを期待していたら、いきなりなんか物々しい音楽が始まって。えっ、とか思っていたら、一区切りのあとにラッパのファンファーレが始まった。
 このファンファーレを聴いてね。ああ、ガーシュインの練習をたくさんしたんだな、って思ったよ。
 つまり、アーティキュレーションがクラッシックじゃなくって、ジャズのそれになってるんだ。
 ランタカタンタンタンタンランタカタンタンタンタン、っていうのが普通のクラッシックのタンギングだとしたら、きょうの京都市響のラッパは、カッカカカカッカッカカッカカカカッカッカっていう、舌でべったり音を切るタンギングをしてるんだよね。音の始まりと終わりをきっちり定義する音型。僕らはカマボコ音型っていってるんだけどね。音の始まりと終わりでビートを表現するポピュラー音楽の発音法。それをしてるんだよね。
 ラッパだけじゃなくって、弦楽器を含めたみんなが、ね。
 もちろんカルメンはフラメンコを基調にしたビートのはっきりした音楽だから、それはとっても正しいアプローチで、楽しかったんだけどね。
 意識的にそういう音を作るオケって、今まであんまり聴いたこと無いなあ。
 
 そして、ピアノをステージ真ん中に運んで、山下洋輔の登場。
 いつ以来だろう。20世紀最後のガーシュイン以来なんだろうか。久しぶりだね。ちょっと白髪が増えたのかな。
 もちろん冒頭のクラリネットやラッパとトロンボンのプランジャーや、聴き所いっぱいなんだけど、そりゃあやっぱり洋輔さんのソロだよね。
 プログラムによれば、山下さんがフリーに演奏できるカデンツァは4カ所あるらしいけれど。もう、どこがどうとかそんなことどうでも良くて。山下洋輔節全開。
 他の人は絶対出来ない高音部パラパラ系の手癖も、左手の肘打ちも。持てる業を惜しみなく投入しての、汗まみれのガーシュイン。
 全身全霊を込めた猫背の洋輔さんを見てるのも楽しいのだけれど、僕の席からその後ろに見えるセカンドヴァイオリンの女の人が、ものすごく嬉しそうに洋輔さんの一挙手一投足を見つめていて。肘打ちなんか出た日にはもう、楽器を放り出して拍手するんじゃないかっていうくらい嬉しそうに見ていて。それを見ている僕も嬉しくなったなあ。
 当然のことながら、プログラムに16分って書いてある演奏時間は延び延びで。
 でも、楽しいなあ。
 佐渡さんの兵庫オケとやったやつはチケット取れなくて悔しかったけど、その分を補って余りある楽しさ。ありがとう。
 
 おまけに、アンコールのピアノソロ。枯葉からスイングしなけりゃ意味ないね。って枯葉のメロディほとんど弾いてないやん。
 
 休憩は、ホールの窓から枯葉ならぬ風に舞う桜の花びらを愛でながら、ワインを一杯飲んだよ。いっぱいじゃないからね。
 
 そして。
 悲愴。
 僕は実は、かなりと言っていいくらいのチャイコフスキーファンで。とはいえ5番6番に限定されるのだけれども。この、恥ずかしげのないロマンティストさ加減が、好きなんだなあ。
 悲愴も、この10年で何度となく聴いてきたけれど、今日はどういう演奏をしてくれるんだろう。楽しみだなあ。
 今日まで曲を知らなかったから、余計得した気分。
 
 頭の方で、ガーシュインから悲愴への切り替えが今日の聴き所、っていったけれど。
 最初の音が鳴ったときに分かったよ。
 こいつら、切り替えるつもりなんか無いんだ、ってね。
 クラッシックよりはジャズの語法に近い、始まりと終わりにビートを持たせた四角い音でチャイコフスキーを演奏していく京都市響。拍子をはっきりさせた、ラジオ体操のような広上さんの指揮。
 結果として出てくる、パートごとの分離のいい、即物的な、そしてものすごく魅力的な、音。
 
 いやあ。
 でもね。
 3楽章まではそれでいいな、って思ってたんだよね。メロディのはっきりした、脳天気と言っていいほどの明解な音楽だから。
 でも、4楽章はどうなんだろう。聴きながら、それが気にかかってたんだよね。
 3楽章の大盛り上がりに耐えきれずおこる拍手をてで制して、広上さんは気を抜かずに4楽章へ。
 そして、驚くべきことに。
 4楽章も変わらないんだ。はっきりした音型で、すべてのパートを主張させて音楽を作っていく。
 そして、それがいいんだ。
 トロンボンのコラールが終わって、チェロと弦バスの後始末。3楽章まであれほど楽しかった音楽が、やっぱり悲愴として終わって。
 終わって。
 
 ホールを満たした低弦のザッっていう響きが消えて。
 それでも広上さんの背中から緊張が消えるまで、十分な、静寂。
 
 大きなブラボーコールと、拍手。
 僕はそれに激しく同意しつつも、すぐには拍手できなかったよ。
 とりあえず鼻と口を手で覆って、涙を堪える方が先決だったから、ね。
 
 凄いな、京都市響。
 失礼かも知れないけど、アマチュアオケが目標とする演奏って、これじゃないかなあ。
 精神性とか、官能とか。音楽雑誌の頭の悪い批評家が使う訳のわからない言葉じゃなくって、ものすごく具体的な、音。
 その具体的な音で、この交響曲が悲愴っていうタイトルがつけられている、その意味を見事に表現してくれたね。
 
 アンコールのリャードフの前に、広上さんが、今度は京都に来て下さい、っていっていたけれど。
 ホントに遊びに行きたいな、京都に。
 ブル9もやるんだね。楽しみ。
 
 ありがとね。山下洋輔さん。そして、京都市響の皆さん、広上さん。
 
 桜の花びらにまみれながら、いい気持ちで家まで歩いて帰ったよ。
 
 ただ、それだけのはなし。

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京都市交響楽団
大阪特別公演
広上 淳一:指揮
山下 洋輔:ピアノ

ビゼー:カルメン 組曲第1番
ガーシュイン:ラプソディ・イン・ブルー
 en. 枯葉〜スイングしなけりゃ意味ないね
チャイコフスキー:交響曲 第6番 悲愴
 en. リャードフ:8つのロシア民謡 より 遅歌

オオウエエイジの、ブラ3 〜がんばれ大フィルさん〜2009年04月19日

 さて、番外編が一段落して。
 大フィルさんの、新学期が始まったよ。
 オオウエエイジの7年目のシーズンになるんだね。今年も楽しい演奏、いっぱい聴かせてね。
 
 新年度の第一弾は、オオウエエイジのごった煮。
 ブラームスとバーンスタインとストラヴィンスキーなんて、名曲コンサートでなければごった煮っていうしかないプログラムだよね。
 でも多分、本人にしたら大まじめに、十八番を集めたプログラム、ってことなんだろうね。
 おととしのドタキャン以来、ブラームスはオオウエエイジにとって大事なプログラムになったんだろうね。大事に、一年一曲プログラムに入れて。バーンスタインは言わずもがなだし、ストラヴィンスキーだって、結局実現しなかった大フィル就任前のミネソタで持ってこようとしたのが春の祭典だったから、十八番の一つなんだろうし、ね。
 僕は、オオウエのハルサイはあんまり感心しなかったから、火の鳥はちょっと楽しみ半分のこりは、、って感じだったのだけれども。
 
 ともかく、今年もおんなじ席で楽しませて頂きます。
 
 ブラームスの、3番。
 ブルックナーほどではないけれど、ブラームスのCDもいくつかは持っているんだけどね。全集を買うと、大体3枚組で2番3番は1枚のCDに収まっているんだよね。そのおかげで、3番だけを集中して聴く、っていうことがあんまりなくて。つまりは聴いたことはあるけれど良く知らない曲なんだ、僕にとってはね。
 その3番。
 前に書いたことがあるけれど、ブラームスの音って、独特の響きがあるよね。ブラームスフィルターって呼んでいるんだけれども。つまり、どんなによく鳴るオケがどんなにフォルテをならしても、ヴェールを一枚かけたような、蓄音機の向こうから聞こえてくるような響き。それがブラームスフィルター。多分中音域の厚さのせいだと思うんだけどね。
 オオウエの3番も、ご多分に漏れなくて。十分しっかり鳴っているんだけれども、なんかどっか他のところで演奏しているような、他人行儀感がつきまとってたんだよね。
 第1楽章はね。
 
 ところが。
 演奏中に後ろのお客さんが、鈴付きのおさいふか何かをごそごそやっていて。その音から逃れるために途中からちょっと前のめりになって聴いていたのだけれど。
 そしたら。
 いや、前のめりになったせいではないと思うのだけれど、途中から。
 突然、音が生々しくなった。
 薄い緞帳のようなブラームスフィルターの、内側に入ったような感じ。
 こうなったらもう、何でも受けてしまう状態なのだけれど。この状態で聴く3番。なんて立派な曲なんだろう。
 途中全休符がいくつかあるのかな、何楽章を演奏しているのか、途中から分からなくなったのだけれども、多分3楽章かな、ホルンのソロ。完璧。
 大フィルさんのホルンのソロでは、いつぞやのパヴァーヌのソロがものすごく印象的でね。そのおじさんは多分去年に退官しちゃったから、それ以後ちょっと寂しかったのだけれども。でも、今日のソロは凄いね。技術的に完璧かとかそういうことではなくって、歌として完璧。終演後にソリスト立たせたときに、思わずブラヴォーコールしちゃったよ。2回目だな、ソリストにブラヴォーしたの。そのくらい凄かった。
 そんなこんなで、前座にするにはもったいないブラ3、面白かった。
 
 第一部は弦バスが後ろに並んだ両翼の配置だったのだけれど、休憩中に戻してね。バーンスタインは打楽器が後ろに来るおなじみの配列で(このごろこっちがスタンダードって言えなくなってるけれど)。
 始まったバーンスタイン。キャンディードの軽快なファンファーレ。
 だと思ったら、そうではなくってね。
 
 ああ、そうか。
 星空コンサートとかで良くやるやつは、キャンディード序曲で、今日は組曲なんだ。
 僕はアメリカものはコープランドくらいしか聴かないから、キャンディードの組曲もはじめてなんだけれど。先週の京都のガーシュインと違ってクラッシックアーティキュレーションのミュージカルメドレー、楽しく聴きました。
 拍手を受けるオオウエエイジが、ヴァイオリンの楽譜を取り上げて、バーンスタインに敬意を表していたけれど、彼の師匠は作曲家バーンスタインだっただろうか?
 
 火の鳥。
 ティンパニと弦の急襲。最初の一撃だけは乱れちゃったけれど、その後のアンサンブルが完璧でね。こういうアンサンブルで聴くストラヴィンスキーは、楽しいよね。
 僕の中の火の鳥は、ムーティ/フィラデルフィアの息切れよれよれ大団円の演奏と、映画ファンタジア(2000だったっけ?)の演奏がリファレンスなのだけれど。
 そのイメージからするとオオウエエイジの火の鳥は、ゆっくり大事に進んでいくんだよね。ハルサイの時もそう感じたのを想い出したけれど。
 もうちょっと、ノリに任せて突き進んで欲しいな、っていうところもあったけれど、キメのところを一つ一つ大切に、正確にクリアしていくこの演奏も、ちょっと好き。汗かきべそかき大運動会になりやすいフィナーレも、結構余裕でクールに決めて。
 
 とか思ったらね。
 音には現れないんだけど、一人だけ、クールじゃない人がいたよ。
 コンマスの、長原君。
 ラス前の、ヴァイオリン渾身の伸ばし。
 8分音符かもっと早く、弦を上下させる最強奏の場面でね、長原君が一人だけ浮いているんだ。ビジュアル的に、ね。
 何でかな、ってよく見てみると。
 一人だけ、必死の形相。そして、もっと目を凝らすと。
 細かく往復する右手の弓。その弓の使い方が、他の奏者と全く違うんだ。
 他の奏者が弓の根本から3分の1くらいを使ってギーギーやってるのに比べてね、長原君だけは、弓の半分以上を使って弾いているんだ。
 つまり、他の人の倍、弓を使ってるってこと。弓の速さも倍なら、手の動きも倍。そこから出てくる、渾身のオーラ。
 ああ、これがオオウエエイジ御用達の、コンマスなんだよね。コンマスとしての長原君、ちょっと見直したな。
 それを見ながら追随しない1stヴァイオリンってどうよ、とは思うけれど。
 
 ああ、楽しかった。
 
 今年もこういう演奏会、いっぱい聞かせてね。
 がんばれ、大フィルさん。
 
 そうそう、さらに痩せちゃったね、オオウエエイジ。ダイエットならいいけれど。
 健康にも気を遣って、がんばってね。
 
 ただ、それだけのはなし。

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大阪フィルハーモニー交響楽団
第427回定期演奏会
大植英次:指揮

ブラームス:交響曲 第3番
バーンスタイン:組曲 キャンディード
ストラヴィンスキー:バレエ組曲 火の鳥 1919年版

ザ・シンフォニーホール

遅ればせながら アフターダーク by 村上春樹2009年04月26日

 雨と晴れの交錯する、忙しい一日だったね。
 僕は、埃だらけの車を雨粒でまだらに染めながら、昔通った山の中腹の図書館に行って。iPodに入ったグレゴリア聖歌3時間分を聞く間だけ理系の勉強に没頭して。
 渋滞の道をむかし懐かしいALFEEのアルバムを聴きながらやり過ごして、家では、ハードディスクに録画したコルトレーンのライブを音だけ聞きながら、本を読んだよ。

 村上春樹の、アフターダーク。

 僕には、変な癖があってね。
 村上春樹という作家を、ご多分に漏れず僕も好きで、小説はほとんど欠かさずハードカヴァーで購入しているのだけれど。
 でも、読むのは、次の小説が発表されてから、なんだよね。特にこのごろは。
 ちょっと前に話題になった海辺のカフカも、発売日に買ってるし、評価高いのも知ってるんだけれども、読んだのは結局、アフターダークのアナウンスがされてから、だったんだよね。何でかわからないのだけれども。
 というわけで、今のところの最新作、アフターダークも、04年の発売以来、家のリビングルームに飾ってあったんだよね。文庫が出たのも気にせず、大事に、ね。
 昨日、新作の予約をアマゾンで済ませたから、っていうわけではないのだけれど、今日、ようやく手に取って。
 コルトレーンのライブと、それが終わってからはベートーヴェンのピアノ曲を聞きながら、一気に読んだよ。

 アフターダーク。上下巻の、内容的にはともかく分量的には重たいカフカのすぐ後に出たイメージがあって。それに薄目の本だから、軽いお話なんだろうな、っておもってたんだ。内容的に、ではなくって、村上春樹の位置づけ的に、ね。たとえば国境の南、太陽の西とか、スプートニクの恋人、みたいに。

 そう思って読んでいったのだけれどもね。これ、僕が思っていた以上に軽い話だったみたいだね。何度もいうけれど、内容が、ではなくて位置づけが、ね。
 つまり、短編としてのお話が、たまたま長くなっちゃって、だから一つだけで書き下ろしで本にしちゃおうか、みたいな。

 つまり、長編に向かう新たな方法論を確立する一環としての短編小説のあり方、TVピープルみたいな、そんな位置づけのお話なんじゃないかなあ、っておもったんだよね。
 つまり、これを肥やしにして創られるお話を抜きにして、この物語の価値を云々できるのだろうか、って。
 もちろん、そろそろノーベル文学賞をとるんじゃないか、っていうエラい人の作品をどうこういうつもりはないのだけれど。でも、起承転結っていうか、物語のあるお話を、やっぱり読みたいよね。長編だったら。

 一つだけ。ファイブスポット・アフターダークがちょっと前に、TVのコマーシャルで大量露出されたのは、外国に住んでいる大先生は知らなかったんじゃないかなあ。
 「今どきファイブスポット・アフターダークを知っている女の子がいるなんて」っていう台詞から、どうしても同時代性を感じ取れなくなっちゃったんだよね。有名な曲だもの。
 元々無国籍、無時代性の強い作家だからそれでもいいのかも知れないんだけどね。


 私たちの視点。結局なんだったんだろう。
 次のお話は長そうだね。久しぶりに、リアルタイムに読んじゃおうかな。

 ただ、それだけのはなし。


 追伸。
 ファイブスポット・アフターダークがCMで流れてたのって、今から20年も前の話だったね。5年前のいまどきの女の子が知らなくても、そっちの方があたり前だったね。
 僕がその当時トロンボン吹きで、カーティス・フラーのソロを一生懸命コピーしたりしていたから、ついこの間のことだと思ってしまいました。
 ごめんなさい。