大植英次スペシャルコンサート カウントダウンオオウエエイジ、完結!!2012年04月07日

 まだまだ寒いけど、桜もそろそろ満開だね。

 もう、春だね。

 そして、新年度。

 新年度、ということは、あたり前だけれど、旧年度は終わった訳で。

 ちょうど一週間前に、旧年度に終わりを告げる、特別なコンサートに、行ってきたよ。

 

 大植英次スペシャルコンサート。

 ブルックナー8番。

 


 この前も書いたけれど、このコンサートは、曲目をみんなからのアンケートで決めたようで。僕は、まだ聴いたことがないブルックナーの5番をリクエストしたのだけれどもね。

 結局、8番になったんだよね。

 

 この選曲。僕はもちろん歓迎するのだけれど。でもこれって、オオウエエイジには結構きつかったのではないかなあ。

 オオウエエイジ/大フィルにとって、ブルックナーって、8番も9番も、じいさんを偲ぶためのコンサートで演奏されてきた曲だものね。オオウエエイジの十八番、ってわけでは、全くないんだよね。

 

 だから、オオウエエイジの9年間という熱狂の年月を過ごしてなお、5番に投票した僕を含めて、大阪の人たちは、やっぱりじいさんの面影を大フィルに求めているんだね。

 オオウエエイジの得意とするマーラーじゃなくって、ね。

 

 まあ、そんなことはどうでも良くって。

 とにもかくにも。オオウエエイジのカウントダウン。完結編のコンサート。

 好きな席で聴きたかったのだけれどね。それよりも電話がつながらなくって取っぱぐれる恐怖感で、FAXによる事前注文にしたんだ。そしたら、いつも定期を聴いている席とほぼ同じ席。大フィルチケットさんありがとね。いい席から、最後のオオウエエイジ、見させてもらうよ。

 

 土曜の昼なのに、お客さんの年齢層はかなり高くてね。定期会員がほとんどなんだろうね。そうじゃなくっちゃチケット取れなかったんじゃないかな。まあ、しょうがないよね。

 

 満員のホールに、マイクやテレビカメラも入ってステージ上も満席。入ってきたオオウエエイジが、暗譜の指揮棒を振り下ろした。

 

 僕は、ずいぶん冷静に、この曲を聴いていたんだと思うよ。

 オオウエエイジだけでなく、この日大フィルさんを卒業する4人の団員さん、正確には誰と誰だかよく分からないけれど、その人、だと思う人たちに目を配ったりして。

 特に、長原君。最後なんだね。寂しくなるね。

 

 もちろん、ほとんどの瞬間、見慣れた角度からのオオウエエイジの背中、じっと見ていたよ。

 

 曲はね。

 難しい、曲だね。

 あらためて、ホールを満たす音の中にどっぷりと浸かって、その中から細部まで聞き洩らすまいと耳を澄ますとね。

 演奏ミスなのか、スコアなのか。1パートだけ半拍ずれたり、急いだり。憶えているところではホルンだったりティンパニだったりするのだけれど、そういうところがいっぱいあるんだね。

 ゴルフボールの芯みたいに、糸みたいなゴムを固く巻いて作ったボール。そのゴムが所々伸びすぎで切れてね、プチプチとballの表面にゴムの切れ端が飛び出している。そんな風に聴こえたんだよね。

 第1楽章は、ね。

 

 ああ。

 もう、いいよね。

 

 細かいところなんて、どうでもいいよね。

 

 僕は、浴びたよ。

 オオウエエイジの、音楽監督としての最後の演奏会。不動のコンマス、長原君との最後の演奏会。

 頂上の見えない巨大な山のようにそそり立つ、ブルックナーの8番。

 

 90過ぎのじいさんのように達観してなくて、まだまだ血気盛んなオオウエエイジが、泣きながら、喜びながら、息を切らしながら、時には滑り落ちながら、ブルックナーの8番に取り組んでいる、その音を、浴びたよ。

 大フィルさんと一緒に取り組んできた、その9年という歳月を、浴びたよ。

 オオウエエイジが取り組んできた、今までの年月。そして、もっと長い、これからという年月。その時間を、浴びたよ。

 

 ゆったりとした弦と、管楽器総出演のコラール。その両極端を行ったり来たりしながら、いろんな事を考えさせてくれたね。

 アダージョのワグナーチューバ。僕はいつもデビルマンの最後のシーン、天使の曼荼羅を思いだしてしまうのだけれども、この瞬間、いろんなものが降ってきたよね。シンフォニーホールの高い天井から。

 

 そして。

 終わらない事を、みんなが望んでいたのだけれど。

 そのためのブル8かって、聴きながら僕はすごく納得したのだけれど。

 でも、やっぱり終わりが来るんだよね。

 

 僕は、人間オオウエエイジが一生懸命に奏でたこのブル8がすごい好きだけれど。でも、この演奏で泣くことはないな、と思っていたのだけれど。

 だけど。

 最後のコーダ。

 音が分厚くなった瞬間にね。

 あれ、が出てきたんだよね。

 

 今まで平面に見えていたステージが、音が。急に奥行きを持って。音楽じゃなくって世界そのものに変わる瞬間が。

 

 交響曲ってね。ヘンだよね。

 題名がないんだよ。あんなに長い音楽なのに。交響詩なら、ローマの松とか、モルダウとか、英雄の生涯とか。分かりやすい、わくわくするような題名がついているのにね。

 何で題名がないか、知ってる?

 それはね。

 

 それは、交響曲が、世界そのものを作るための音楽だから、なんだよね。

 今僕たちが住んでいる、この世界。日本とか地球とかじゃなくって、この宇宙には名前はないよね。それと同じで、世界を作る交響曲にも、題名はいらないんだ。他と区別するために、第何番、それだけで十分。

 

 同じ、世界を作るための交響曲でもね、恋愛に身悶えするチャイコフスキー、喜怒哀楽を爆発させるベートーヴェンと違ってね、ブルックナーは、悠然たる自然そのものが主人公の、世界。

 感情移入するための人間がいないから、ちょっと取っつきにくいけどね。でも、よく見たら一瞬たりとも同じ顔をしていない自然そのもの。

 

 その雄大な自然がね。

 先月の田園とハルサイで、人の営みをステージ上に現出したかと思ったら。

 今度は、ほんの一瞬だけれども、自然そのものの、ブル8の世界を、ステージに呼び出してくれたよ。

 

 これが、オオウエエイジ9年間の成果、なんだね。

 僕は、はっきりと、聴き届けたよ。

 

 オオウエエイジの、到達点を。

 

 今日は、じいさんの写真を掲げなかったオオウエエイジ。

 やっと、自分の音楽に対する拍手を、受け止められたんだね。

 

 ありがとう。

 そして、ご苦労様。

 僕や、多くの、じいさんの面影を聴きにきていたお客、鬱陶しかったでしょ。でも、真正面から取り組んで、最後にオオウエエイジのブルックナーを聴かせてくれたね。

 

 今度は、ゲストとして、ちょっと気軽に振りに来てね。

 大好きなマーラー、でも、バーンスタインの面影を追い求めちゃ、ダメだよ。

 

 ただ、それだけのはなし。