新年度の、7番 大フィルと尾高さんの、知性の輝き ― 2012年04月21日
凄まじい、演奏だったね。
いつもなら、桜が咲いているのに、寒いね、とか。いつの間にやら、新学期だね、とか。そういう時候の挨拶からはじめるところなのだけれども。
でも、とりあえず真っ先に書いておかなくちゃいけないよね。
凄まじい、演奏だったね。
って。
あの、オオウエエイジの8番から2週間も経たないうちに、大フィルさんはもう一度ブルックナーを、今度は定期で演奏したんだ。
オオウエエイジのいなくなった新年度、初っぱなの演奏を、ね。
7番。
まあ、とにかく一番書きたいことは書いたから、順序をおっていくとね。
前半は、モーツァルトのピアノ協奏曲。
ピアノの萩原麻未さんは、若くて、取ってもチャーミングな人なのだけれども。
ピアノの音がね。ちょっと濁っているんだな。
僕にはそれが、プレイヤーのせいなのか、ちょっとしめった天気のせいなのか、調律のせいなのか、オケのピッチのせいなのかがよく分からないのだけれども。
ポロン、と単音で残るピアノの余韻に、済んだ緊張感と説得力が感じられなくて、ちょっと残念だったな。
まあ、僕はもともとピアノ協奏曲を語る言葉を持っていないから、それはいいのだけれど。
休憩終わって、7番、だね。
コンマスも指揮者も変わって、新しい音楽を、聴かせてくれるのかな。って、ちょっと楽しみだったり不安だったりしたのだけれど。
最初の数秒でね。
これはただ者ではないぞって。背筋を伸ばしたよ。
7番は、他の多くの交響曲と同じように、弦楽器のトレモロの中から、次第になにか、巨大なものが浮かび上がってくるのだけれど。
その浮かび上がってくる、っていうのにいろいろあってね。
次第に霧が晴れて全貌が明らかになるやつとか、
文字通りなにか巨大なものが浮上してくるようなやつとか。
もちろん、霧は霧で、それがいきなり晴れて、ただ大きなものがそこに在る、っていうのもあるね。
それは、曲によって、というよりも、演奏によって、僕の受けるイメージ、浮かんでくる絵が違う、っていうことなのだろうけれど。
この7番はね。
月のない、満天の夜空に峻厳とそそり立つ万年雪の山。漆黒の闇に蹲る、ヒマラヤのように巨大な山たち。
その山に、朝が近づいて。
昏い空に同化していた稜線がだんだん明らかになったかと思ったら。
山を見ている僕の後ろから昇った太陽が、頂上から雪山を照らして。
そして、その光が、どんどんと下に、麓に広がっていく。黄金色に輝く山肌が、顕わになっていく。
そういう、神々しいイメージを、まざまざと描いたんだよね。僕は。
それは、弦楽器の密度であったり、それと一体になったブラスの重量感であったり、その上の輪郭を形作るラッパの思いきりの良さであったり。
そして何より、思い切った遅いテンポですべてを支配しようとする、尾高さんの醸す緊張感、なんだろうね。
しかも、その緊張感と密度が、ずっと続いて。
すごい、演奏だったよ。
じいさんが亡くなって10年以上経つのに、オオウエエイジの最後の演奏会にブル8をリクエストする大阪の観客。
その大半は、もちろんじいさんの振るブルックナーが大好きで、大フィルのブルックナーを聴くときは、どこかでそれと比べるのだろうけれど。
そして、7番には、聖フローリアンの7番っていう、技術や解釈を超越した、神に祝福された名演奏、というのが絶対的にあって。
それぞれが、(宇野さんの解説などでさらに神格化された)その演奏の記憶を持って演奏会に来ているのだろうけれど。
僕の場合は、フェスで聴いたじいさん最後の7番。その時にはその演奏の良さは良く感じられなかったのだけれど、EXTONからでたその時の演奏を聴くと、すごく良い演奏でね。僕の7番のリファレンスになっているのだけれど。
そういう演奏と比べても。
もちろん、そういう演奏の再演を求めながら聴くのは間違いなのだけれど。でも、心のどこかでそういう聴き方をしている僕にとっても。
凄まじい、演奏だったよ。
そして、じいさんを感じられた。
3楽章までのゆったり感に比べると、4楽章はきびきびしてたけれど、そういうのも、好きだなあ。
本当に久しぶりに、僕は年甲斐もなく、ブラヴォーコールをしたよ。
ありがとう、尾高さん。
僕は、これからも、純粋に良い演奏に逢いに、大フィルさんのコンサートに出来るだけ通う事にするよ。
だって、聴き逃したらもったいないもの、ね。
終演後、ロビーに降りるエスカレーターで、
「すごい良かったけど、背筋が震えるほどじゃなかったな。4楽章だけ何であんなに軽いんだろう」って喋っているおっさんがいたよ。
このオッサンも、きっとじいさんの振った演奏会や、聖フローリアンの演奏と重ねて、そして自分の中での合格点をつけたんだね。
僕も同意だよ。
これからが、楽しみだね。
ただ、それだけのはなし。