関西4オケスペシャルコンサート 大阪交響楽団 ― 2022年09月23日
さて。
あんなにうるさかった蝉も、いつの間にか夕方の鈴虫に取って代わって。気がつけば夜も長くなって。
すっかり秋、だね。
コンサート、特にクラシックのコンサートには、夏休みっていうものがあってね。暑いところではチューニングがやりづらいから、なんていう人もいるけれど、単純に暑いところで聴きたくないもんね。
そういう意味でも、秋はコンサートの季節。このところあんまり熱心な聞き手ではないのだけれども、今年はなんか、チケットだけはいっぱいとっていて。
聞き捨てはもったいないから、なるべく記録として書いておこう、と思うんだよね。
最初は、シンフォニーホールの40周年記念のイベント。
そうか、シンフォニーホール、40周年なんだね。ってことは、僕が大阪に来たときには、まだ10年くらいの新しいホールだったんだ。オオウエエイジの時代から、フェスティバルホールが新しくなるまで、よく通ったな。
そのホールの、記念イベントとして、関西の4つのオーケストラが、それぞれ得意な曲を持ち寄って4回のコンサートをやるんだ。関西4オケ、とはいうけれど、それぞれシンフォニーホールを根城としている(していた)オケだから、大阪のオケだよね。
一回のコンサートで、4つのオケがそれぞれ短い曲を披露するコンサートは何回か聴いたけれど、今回はじっくり二時間ずつ。それもここ一発の選曲で。
普段は大フィルさんしか聴かないけれど、楽しみだな。大阪のほかのオケって、どんな音がするんだろう。
というわけで、一回目は、大阪交響楽団 原田慶太楼で、バーンスタイン曲集。
キャンディード、ウエストサイドとかのミュージカルものと、交響曲第1番。ショウビズとシリアスと両方楽しめます、ということなのだけれども、僕はやっぱり、ミュージカルものが楽しみだな。
特に、この前スピルバーグのウエストサイド見たところだからね。楽しみだなあ。
というところで、休憩後のウエストサイドストーリー。歌手が入っての「演奏会用組曲」第1番。ウエストサイドはロミオとジュリエットだから、マリアとトニーだけいればそこはもうウエストサイド。生歌で聴くのは初めてだけど、いいなあ。
だけど、もっといいのがその次の、シンフォニックダンス。
バーンスタインのミュージカル系は、ガーシュインみたいなジャズ系ではなくて、その名の通りシンフォニックな、でもダンス、何だよね。映画ではビッグバンドが演奏しているマンボとかのダンスホールの音楽を、フルオーケストラで演奏する、その気恥ずかしさや、音の分厚さを感じることが多いのだけれども。
でも。大阪交響楽団のシンフォニックダンスは、すごい。
なんだろう、キレキレ。大人数のオーケストラでやっているとは思えないグルーブ。聴いてて、思わず体が動いてしまうリズムや掛け合いや、そういう仕掛けがこの曲にはいっぱいあるのだけれど、そういう仕掛けを全部拾ってそのまま音にして。クラシックの演奏会だから、みたいな気取ったお客さん(僕のことだけど)が、もう体を動かしたくてうずうずする、そんな演奏。すごい。
ほかの、あんまり面白くないと思ってしまう演奏と何が違うんだろう、って思いながら聴いてたんだけどね。吹っ切れたドラムセットなのか、やらしく歌うサックスなのか、咆哮するラッパやトロンボンなのか。カチッとした弦の合奏なのか。それは結局、ビックバンドの音作り、何だろうな、と思いながらウキウキしてました。
いいなあ。
原田さんの指揮で、ガーシュインとか聴いてみたいな。
ほかのオケも、楽しみだなあ。
ただ、それだけのはなし。
ガーシュイン! ガーシュイン!! ガーシュイン!!! ― 2022年08月28日
ぼくは、その演奏は聴いていないのだけれども。
でも、やっぱりうれしいよ。おめでとう。
ぼくの所属しているバンドには、いろんな人がいて、その中には、中学校の先生とか、編曲者とかも含まれる。その中学校の先生は、ついでに吹奏楽部の顧問なんていうものをしていて、そのバンドは、普通のクラッシック編成ではなくて、ジャズの、ビックバンドといわれる編成だったりする。
吹奏楽部の主な活動っていうのは、まあ学校によってちがうのだけれども、夏のコンクール、っていうのはほとんどどのバンドにとってもかなり大きな活動になるよね、きっと。
その、コンクールというのは、お堅い新聞会社が主催しているから、というか当然のことなのだけれども、クラッシック、といわれている音楽を演奏するところが多い。というか他の音楽を聴いたことは、ない。
この中学校のバンドは、ビックバンド編成だから、いわゆるクラッシックっていうのは普段から演奏しないんだけど、それでもコンクールにはでることにしたんだ。この編成のまま。ガーシュインという、アメリカの、ジャズっぽいクラッシックを作曲する人の曲で。
そして、編曲は、ぼくが属しているのバンドの編曲者。
最初にもいったけど、ぼくはこの演奏は聴いていないんだ。
コンクールの結果は、一次予選を勝ちあがり、県大会出場。
おめでとう。ほんとにおめでとう。
譜面が揃ったのが5日前で、それからきちっと練習した生徒たちに、おめでとう。
公の場で評価される譜面を書き上げた編曲者に、おめでとう。
波紋を呼ぶのを覚悟の上で、まったく評価されない可能性もあったのに、敢えて挑戦した先生、ほんとうにおめでとうございます。
なんか、ぼくまでほんとうにうれしいです。
なにより、演奏者の人たちがきっと楽しんでいただろうことが。
そして、当然クラッシックを期待してきているだろう審査員の人たちに、それなりに評価されたことが。
楽しいでしょ? 音楽って。
今度の合同演奏会も、楽しくやろうね。
楽しいでしょ? 音楽って。
Originと、Originalと。 ~安彦カントクの、ククルスドアンの島〜 ― 2022年06月19日
GWから夏休みの間なんて、本来オフシーズンだよね。映画って。
それを、なんと3本も連続して観にいっちゃんだから、映画産業も大忙し、なのか、我々オッサンはお呼びじゃない、のか。
どっちなのかよく分からなくなってきたけれど。
この週末、どんくらい振りかよく分からないけれど、映画のはしごなんてして、5月のオッサン向け映画、片つけてきたよ。
先々週のトップガンに続いて、ガンダムとウルトラマン。
ガンダムはね、70年代のファーストのときに富野カントクの下でキャラデザインや原画ををやっていて、その後The Originって言うガンダムマンガを描いた安彦良和が監督した、ククルス・ドアンの島。ファーストのTVシリーズの第15話を膨らませた2時間の長編映画。
安彦ガンダムは、マンガのThe Originを描いたあと、アニメ版としてシャアとセイラの子供時代から1年戦争の開戦前までを描いたOriginを創って。そのあと1年戦争を全部アニメ化する、とか安彦さんが云っているのを観たような気がするけれど、結局実現したのがこのククルスドアン。
まあ、そりゃあそうだよね。キャラ描いたって漫画描いたって、ガンダムは富野さんの作品であって、安彦さんのものでは無いし。ストーリーも演出も、それは富野カントクのものだもの。
後からちょっと解釈付け加えたって、いくら魅力的な絵で描いたって、ガンダムは安彦さんのものじゃないものね。
とはいえ、まあ、リアルタイム世代としてはやっぱり1年戦争の新しい作品、って言ったら避けては通れないんだけれどもね。
観て思ったのは。
ああ、ずいぶんオリジナル版(ファースト)に寄せてるな、ってこと。
寄せている、って言うか、気を遣っているって言うか敬意を払っている、って言うか。なんていえばいいかよく分からないけれども。
アニメ版のThe Originは、ファーストでは語られなかった時代の物語で、なので完全な新作としてあんまり気を遣わずに作ったと思うんだよね。
The Originは僕はスクリーンではなくテレビで観ただけで、ククルスドアンはスクリーンで観ているので、その違いが大きいのかもしれないけれど。
ククルスドアンを観ながら、寄せてるな、って言うのは、たとえば。
セル画の(っぽいだけかもしれないけれど)解像度の低い、って言うか輪郭線の太い人物とか、筆のタッチが活きている、絵そのもの背景とか。
すごくアナログを感じたんだよね。
The Originがきれいなデジタルを感じさせたのとは違って。
そういう意味で、安彦さんは、ずいぶんファーストに気を遣っているんだな、って。もちろん、それは僕にとっては嬉しいことなんだけどね。
物語は、いろんなヒトがいろんな事を云っているから、ぼくは愉しみました、だけでいいと思うのだけれど。
最初のシーン、ブライトの艦長室(?)に飾ってあった写真、あれ、フラミンゴの写真だよね。それって結構後の話なのでは? ってところに引っかかってたんだよね。ずっと。
まあ、いいのだけれど。
あらためて、アムロを観てみると、その人見知りさが、こんなにだっけ、って思ったり。エヴァンゲリオンの碇シンジが出てきたときに、庵野カントクがガンダムの第1話をすごく意識した、っていう話を聞いて、いやシンジはアムロよりずっとひどいから、と思っていたけれど、結構いい勝負だったね。
という描写から、どんどん心を開いていくところはきめ細かくていいなあ、と思っていたのだけれど、最後のザクを沈めるところは、急すぎて心情的について行けなかったり。
富野だったらもう少し、、と思ってみたり。
でも、戦争ではヒトが死ぬんだし、メカなんか消耗品なんだ、って言うところは、安彦さんとしてきちんと協調したかったんだろうなあ、って言うのは伝わってきたよ。
人物のアナログ臭さに比べて、メカのGCっぽさが鼻についていたのだけれど、来館のおまけでもらった安彦さんの原画の複製見たら。正確なメカ描写なのに、どうしようもなく安彦さんの画、なんだよね。参った。
ああ、あと。
古谷徹。ありがとう。
スタッフロール見てたら、古谷さんと池田秀一くらいしか知った声優さんがいなかったのだけれど。
他の人はともかく、やっぱり古谷さんがいなかったら、ガンダムのククルスドアンじゃないよね。
すごく、良かったよ。
ただ、それだけのはなし。
Top Gun Marveric ― 2022年06月05日
喜んでいるのは、オッサンだけなのかもしれないけれど。
でも、そりゃあ喜ぶよね。
30年以上振りの、Top Gunの続編。
前作が、1986年だっけ? ちょうど高校生のとき。部活と受験に忙しかったその時に映画館に観に行ったかどうかは、実はあんまり定かではないのだけれど。
それでも、TVやDVDで、結局何回も観て。
軍用ジャケットでバイクに2ケツするTomのカッコ良さや、
酒場で歌いながら愛の告白をする陽気なアメリカンのカッコ良さや、
ビーチバレーのウエストが絞り切れていないTomの、これまたカッコ良さや。
そんなこんなが先行して。
ドッグファイトの迫力とか、同僚を目の前で死なせてしまう慟哭とか悩みとか。
そういうものが入ってきたのって、結構最近になってから、だったんだよね。
もちろん、そこからスター街道を駆け上るTomを一映画好きとしては斜めに見ながら、Top Gunは、カクテルやハスラー2のトムクルーズの、アイドル映画の一本から、いや、やっぱりかっこいい代表作の一つに格上げされつつあったんだよね。
何年か前、続編を創る、って聞いたときには、冗談かと思ったのだけれども、ね。
という訳で、観に行ってきました。
トップガン マーヴェリック。
見事に。
号泣。
ほぼ、最初から最後まで。
36年ってさ、続編、って言うには長すぎる時間が経っていて。
ゴッドファーザー1から2とか、スターウォーズ新たな希望から帝国の逆襲とか、そういう時間軸とは全く違って。
ハスラーからハスラー2ともまた違う。
007の最初から最新作とか、日本で言えば寅さんの最初と最終作とか。そう言うのに近い時間が流れているけれど。でも例に出した二つは1話完結、前の出来事がなかったことにされる永劫回帰の物語で。
強いて言えば、ランボーの最初と最終作、みたいな関係かな。ランボーの2作目以降が全くなく、唐突に最終作が。40年近く経ってから発表される。
そういう時間が経ってるんだよね。Top Gunから今回のマーヴェリックまで。
若くて、生意気で、怖いものなしのひよっこパイロットの物語から、いきなり、定年(なんてものがあるのなら)間近のベテランの物語にならざるを得なくって。
そしてもちろん、Tomはかっこよくなくてはいけないし、前評判として、CGを拒絶した本物のドッグファイトでなければいけないし。
そんな制約を世界中からかけられながら、Top Gunの新作は、なんと、ホントに完成したんだね。
まだまだ絶賛上映中だから、これから観に行くヒトは、これからは読まない方がいいけれど。
もう、号泣。
最初のDanger Zoneから泣いているのはオッサンの郷愁なのだけれども。
CGなしのリアルな映像、という縛りを頭に入れてれてみれば。
空母に着艦するときのワイヤーの暴れ方とか、
編隊飛行に下から割って入るF-18とか。模擬戦闘シーンとか。
2:15のときの背面飛行とか。
そして、Tomが乗るTom Cat(F-14)とか。
戦場で何が起こっているかを伝えるためなら、CGで俯瞰で組み立てた方がいいのだろうけれど。
そうでなく、かかるGに歪む頬とか、キャノピーの外で反転する背景とか、翼から出る飛行機雲とか。
このごろ、エリア88をまた読んだんだよね。ミグやファントムが混在する、戦闘機乗りの傭兵の物語。
そのマンガで、戦闘機乗りの気質とか、渓谷を飛ぶことの難しさとか、いろんな事を(まるでこの映画を観る予習のように)知ったのだけれども。
エリア88に唯一文句をつけるとすれば、超音速の感覚が伝わってこないんだよね。ドッグファイトなんて一瞬のすれ違いの筈なのに、相手を視認したり後ろを振り返ったり。そう言うのってマッハの速度域の中でどうなんだろう、って。
そういうところを含めて、眼がサラになったよ。
繰り広げられるのは、スカイ・クロラのプロペラ機の悠長な決闘ではなく、マッハの戦闘機と容赦ないミサイルの、Gの我慢大会。
手に汗握り、叫び声を上げながら、マスクが涙と鼻水に濡れていく。
いいなあ。
ドラマの面では。
相変わらずのヤンちゃなTomの軍人人生最後のミッション。舞い戻った古巣。
新しい世代と過去のしがらみと。
変わる世の中と受け継がれていく精神と。
昔、陽気なアメリカンを教えてくれた映画が、オッサンから観た陽気なアメリカを、また、教えてくれて。
結局、老いも若きも、男も女も、夢中になるのは、かっこいいアウトローが仲間のためにその汗を絞り尽くす、そういう物語なんだよね。
ドラマだけじゃなく、その映像だけとっても、その本気が伝わってきたよ。
トム・クルーズ、恐るべし。
ただ、それだけのはなし。
デュトワは来た! 本当に来た!! ― 2022年06月01日
デュトワは実在した(いた)!
そして、デュトワは、本当に、来た!!
世界規模のパンデミックで、風景ががらりと変わったよね。
みんなの口元を見ることが無くなったし、消毒液やパーティションや、体温検知器なんかもおなじみの風景になった。
そして、街からは、外国人が消えたよね。
外国からの人々は、街から消えただけではなくて、コンサートホールからもほとんど消えたんだよね。毎年来てくれたウィーンフィルが奇跡の来日、といわれるくらい、コンサートホールで外国の演奏者を観ることが無くなって、もう2年以上になるんだよね。
もう、2年以上。
去年も、その前の年も楽しみにしていたのに、ラインナップに入っていたのに、実現しなかった外国人指揮者。その筆頭が、大フィルさんの定期に来るはずだった、シャルル・デュトワなんだよね。
デュトワは、1980年代にブラバン小僧だった僕らにとっては、ムーティと並んで同時代のヒーローなんだよね。
ブラバンで楽器をはじめて、それまで聴かなかったクラシックなんていう音楽を興味本位で聴き始めたときに、カラヤンやバーンスタインは既に生ける伝説で。そしてデュトワやムーティが新進気鋭で新譜を出しまくっていたんだ。
交響曲はやっぱり難しくって手が出せない、って時に、二人のレパートリーがラヴェルやストラビンスキーやレスピーギみたいに、派手な音楽が多かったのも良かったよね。
その中で、デュトワは、当時モントリオール響を率いていて、幻想交響曲や、ダフニスとクロエのような、今でもその曲だったらこの演奏、って言うディスクを出しまくっていたんだ。
その、デュトワが大フィルさんにブッキングされたのは、一昨年。2020年の定期だったよね。曲はペトルーシュカ。
ペトルーシュカはストラビンスキーの中では、ハルサイとかに比べて演奏機会が多くない曲でね。大フィルさんで最近演奏した時、なんと僕は聴き逃しているんだよね。
だから、凄く楽しみにしていた、デュトワのペトルーシュカ。
にっくきパンデミックのせいで、コンサートが中止になったり国内演奏家に変更になったり、もちろんデュトワも来ることができなかった。
そして、去年も。
その間に、ムーティは何回も来て、振っているのに。と思わないことも、無かったけどね。
デュトワは、本当はいないのじゃないか、と思ったりもしたのだけれど。
N響や、パリ管で来日した大昔、聞いたこともあったけど、あれもまぼろしか? とか思ったりして。
でも。
デュトワは実在した(いた)!
そして、その日は、来た。
という訳で、大フィルさんの第558回定期。
シャルル・デュトワ 指揮
ハイドン 交響曲第104番 ロンドン
ラヴェル 組曲クープランの墓
ストラヴィンスキー ペトルーシュカ 1911年版
とはいえ、会場に行くまで今回がデュトワの回だって知らず、デュトワが振るのも、ペトルーシュカ以外は知らなかったのだけれど。
凄いプログラムだよね。
ラヴェルとストラヴィンスキーは、まあ分かるよ。デュトワだから。
でも、その前にハイドンって言うのが、よく分からないよね。煌びやかな近代曲の前にこてこての古典。しかもハイドン。
???って言う感じだったのだけれどもね。
聴き始める前は。
久しぶりのほぼ満員のホール。
ハイドン用の、小さな編成のオケ。
2ベル鳴ってから入ってくる楽団員。
そして、デュトワ。
外国人の指揮者が振る大フィルさん。なんかとっても久しぶり。
そして、ハイドンが始まった。
始まったとたん。
なんだ、これ。
最初の数小節は、古典らしい、箱庭的な響きだったんだけどね。すぐに。
聴いたことがない音。響き。
なんだ、これ。
音が明るい。演奏が軽い。
木漏れ日が差す明るい森の中みたいな、音。世界。
それも、塗りたくった油絵では無く、さらっと描いた水彩画みたいに、色がないところがたくさんあって、でもそれで完成している、それがいい、そんな、世界。
技術的には、音程がクリアで、音型が揃ってて、特にフレーズの終わりの音の切り方がめちゃくちゃきれいに揃ってる。
ハイドンの、音が切れる瞬間がめちゃくちゃSN比が高くって。それは静寂がめちゃくちゃ静かだから。
みんな、固唾を呑んで聴いているのがよく分かったよ。僕がそうだったからね。
現実世界を、明るく、楽しくしてくれるハイドン。
なんて気持ちがいいんだろう。
指揮者でこんなに変わるんだ、オーケストラって。
すごい。
もうこの曲だけで大満足だったのだけれど。
もちろん、まだまだ演奏会は続いて。
ラヴェルのクープランの墓。
ハイドンがこんなに色彩豊かだったから、ラヴェルはどうなのかと思ったら。
なんと。
第一曲の終わりなのかな。ハープの音が引き金になって。
舞台は現実世界から異界にがらっと変わって。
弦の響きが全く変わって、もうどの曲の事かわからなくなっちゃったけど、金管も木管もソロが凄すぎる。
オーケストレーションの魔術師、って、こういうことだったんだ。
って言うのが手にとるように分かるのは、ハイドンの時もそうだったけれど、フレーズのアーティキュレーションがきちんと揃って、きちんとした唄い方だからなんだろうね。
デュトワも凄いけど、大フィルさん、凄い。
これだって、まだ終わりじゃないんだよ。
ストラヴィンスキーの、ペトルーシュカ。
ラヴェルでは、ハープの音を異世界へのドアとして、現実と異界をさ迷った感じがしたけど、ペトルーシュカはのっけから異世界。結局最後まで帰ってこなかったね。
ペトルーシュカは、なんていうか、とても魅力的な旋律をちりばめながら、決して一所に安定してじっくり聴かせるとかそう言うことがなく、ちっちゃい子供がいろんなオモチャで遊んでいて、次から次に目移りしていく。そういう様を、魔法のようなオーケストラと、ピアノや、木管金管の魅力的なソロが彩っていく、そういう音楽なんだけど。
そのフレーズのたたみかける様な移り変わりが、とっても視覚的でね。ああ、バレー音楽ってこういうことなのか、って思ったんだよね。
僕が学生の頃に良く聴いた、ムーティ/フィラデルフィアのペトルーシュカのレコードでは、それぞれのメロディは魅力的に響くけど、その移り変わりの楽しさまでは分からなかったんだな。
いやあ、凄い。
この切れ目のない、長い音楽を、全然飽きさせないで、今度なに起こるんだろう、って目を皿のようにして観る演奏会って、いつ振りだろう。
ラッパのソロ。
リズムもフレーズもめちゃめちゃ難しそうだけど、すごく格好良くて。何よりも渾身のクレシェンド。フォルテから、オケを支配してホールを満たすまでのクレシェンド、しびれたよ。
クラリネットも、オーボエも、イングリッシュホルンも。フルートは姿が(席の関係上)見えなくて残念だったけど。
ああ、凄い。
そんなに一般ウケのする曲じゃないし、この曲目当てに来ている客層ばっかりでもなさそうなのに。
終わらないカーテンコール。熱のある拍手。
パンデミックにくもった日常も、異世界のドアを開いて帰ってくればいいね。
ああ、気持ちよかった。
ただ、それだけのはなし。