行けなかったコンサート 2022 その一、,,2022年05月06日

 ゴールデンウィークだね。

 それも、これまで連休のたびになんちゃら宣言だ、なんちゃらマンボウだって、びくびくしながらのお休みだったのが、なんの行動制限も(表向きは)無い、そういうお休み。

 いろんな所に人がたくさんいるニュースは、観ていてもなんだか嬉しくなるよね。


 あ、僕はね。

 半年ほど前から足の調子が思わしくなかったり、2週間ほど前に風邪をひいてしまったり(コロナは陰性だったんだけどね、そうするとコロナ以外の原因究明だとか、治療を求めるのがなかなか難しいんだよね、このご時世)などで、そんなに遊び倒そう、って言う感じでは無いのだけれど。


 とはいえ、多分自宅から一番近くてリゾートっぽい雰囲気の味わえる宿を取ることができて、美味しいものを食べて、音楽を聴いて、景色を見て、そして本を読む、っていう、僕的には圧倒的に正しいお休みを満喫したりもしているんだよね。


 まあ、それはそれとして。

 新年度だよね。

 もう、五月だけれども。


 昨年度は、なのでコロナとか、骨折とかいろいろあって、なかなか出歩けないストレスがあったんだよね。

 年間チケットを買っている大フィルさんも、多分半分いったか行かないか、ってな事になっていて。

 今年は、その反省も含め、コンサートのチケットは大事にしよう、と思っていたのだけれどもね。

 早速、やらかしちゃったよ。

 それも、二つも。


 一つは、日本センチュリーの263回定期。飯森範親指揮、ブルックナー1番。

 在阪オケがブルックナーを演奏する演奏会はやっぱり観に行かねば、と思ってチケット取ったんだけどもね。

 ごめんなさい、行けませんでした。

 その前の週くらいから、熱が出てね。幸いなことに、コロナは陰性だったのだけれども。ただ、コロナと違って、なんか熱がぶり返すんだよね。一日に1,2回くらい結構上がって。おまけに咳も出てきて。

 そんな、人混みに行ったら迷惑かけるコンディションで、遠慮させて頂きました。

 口惜しいなあ。


 もう一つは、フェスの高橋真梨子。4月25日。

 高橋真梨子は、生で聴いたこと無いんだよね。一度は聴きたい、と思いながら、紅白やWOWOWのライブを観ると、全然声が出ていないときもあったりして。コンディションがいい時に聴きたいなあ、と思っていたんだよね。

テレビでやっていたこのごろの歌が、とってもよくって。だからえい、ってチケットをとったんだけれどもね。

 これも、にっくき風邪のため、ダウン。

 這っていっても、体温モニタで跳ねられるレベルに上がってしまったので、あきらめました。。。

 行きたかったなあ。

 7月にもう一度フェスに来てくれるのだけれど、えり好みしてたらチケットがなくなっちゃった。

 またのお楽しみやね。


 あ、行った演奏会もあるんだよ。

 4月9日の,大フィルさんの定期。

 尾高忠明指揮で、ベートーヴェンのピアノコンチェルト4番とエルガー2番。

 尾高さん、ここ数年で僕は好きになっているのだけれど、エルガー好きなのはちょっと勘弁して欲しいんだよなあ。エルガーとかミッキーが好きなショスタコとか、前拍にアクセントがある縦のりの曲は聴いててつらいんだよね。

 2番は、管楽器のソロはやたらかっこいい、そして最後には大運動会で燃えてしまった凄い演奏だったけれど、徹頭徹尾エルガーなんだよな。。。


 もちろん、あんまりヒトに迷惑かけずに演奏会に行けるのは、それだけですごくうれしいのだけれどもね。(松葉杖2本体制でフェスに行くと、シートまでアテンドしてくれるんだよね。杖も椅子の下何席もとってしまって邪魔になるしで、嬉しいよりも申し訳ないが勝っちゃうんだよね。)


 ただ、それだけのはなし。


スピルバーグの、West Side Story2022年03月07日

 ミュージカルって、苦手な人いるよね。

 喋っている途中に突然歌い出すとか、

 歩いている途中に突然踊り出すとか。

 訳分からん、って。


 僕は、ミュージカルって大好きなんだよね。あ、ミュージカル映画のことだけど。


 映画って、ワケワカランものだよね。

 宇宙人をかごにのっけた自転車が空飛んだり、

 鉱山の荒くれ男が宇宙に行って地球を救ったり。

 そういうワケワカラナサを愉しむのが映画、だと思うんだよね。ミュージカル映画も一緒。


 そんな中で、なんと。

 West Side Storyが再映画化されたんだ。

 それも、スピルバーグ監督で。


 West Side Storyって、もう60年以上前の有名な映画なんだけど。

 大好きなんだよね、僕。

 あの、最初の10分間。映画の完璧って、ああいうことを言うんだろうなあ、って。最初だけ何十回も観たくらい、好き。最初だけじゃないけどね。


 白黒だとか、サイレンス映画だとかなら分かるけど、

 カラーで、70mmで、非の打ちようがない名作を、スピルバーグが再映画化。

 おっかなびっくり、観てきたよ。

 


 あまりに有名な映画であり、ストーリーだから、詳しいことは省くけど。


 面白かったよ。

 面白かったんだけど、ね。


 何でスピルバーグが、これを再映画化したかったのか。再映画化して、なにをこの名作に付け加えたかったのかが、よく分からなかったんだよね。

 最新の映像で、最新のダンスを魅せたかったのかな?


 もちろん、リメイクだって言っても焼き直しではないから、ちょっとずつの変更点、というか工夫の跡も見えるのだけれど。


 たとえば、

 移民対土着、ではなく、移民2世が移民1世?を差別する図式が鮮明になったこと。

 Jetsもスラムの鼻つまみ者であることを明確にしたこと、居場所をなくす再開発という時限爆弾を設定したこと

 そのせいで?、アメリカ国歌が無くなって、プエルトリコのアンセムが唄われたこと


 あとは、トニーがどっしりした兄貴分ではなくなったりとか、何よりもOvertureの線画が無くなったりとか、いろいろかわってることもあるけれど。


 そういう眼でずっと観ちゃったんだよね。

 もちろん、マンボの迫力とか、動き回るカメラワークとか、そういう楽しいところだっていっぱいあったのだけれども。


 でも。

 だから、この評価の定まった名画をリメイクして、

 スピルバーグは何を見せたかったんだろう、って。考えちゃうんだよね。


 俺ならもっとこうしたい、って言う部分がどこだったんだろう。

 それが分からなくって、

 俺だってできるよ、って言う映画に見えちゃったんだよね。


 ちょっと残念だったなあ。


 ただ、それだけのはなし。



つみびととヒトごろし2022年01月10日

 コロナに翻弄された2年間。僕にとっては久しぶりの一人暮らしの2年間だったね。おまけに、最後の3ヶ月は要介護状態の一人暮らし。あんまりいいもんじゃないよね。

 というわけで、久しぶりに、というか初めて家にいたお正月休み。一歩も外に出ない一週間の、最初の日と最後の日に、一冊ずつ本を読んだんだ。長い間、棚に置かれてほこりがたまっていた本を。
 つみびと、と、ヒトごろし。
 正月休みに一気に読む二冊がこれなんて、ろくなもんじゃないね。

 つみびとは、山田詠美が日経朝刊に連載した小説で。渡辺淳一の失楽園枠の小説。
 僕は、頑張って毎日読もうとしていたのだけれど、同じような境遇で名前も似ている母娘の物語が入れ子になる構造を、一日原稿用紙3枚ずつ読むのがつらくなってね。早々に諦めたんだ。
 山田詠美は、夏休みの南の島に持って行く6,7冊の中にいつもはいっている作家で。昔の小説から最新刊まで、いろいろ読んだけれど、この二年間、南の島にも行けないから、ほこりをかぶっていたんだよね。まあ、この本は、南の島で読む本ではないと思うけれど。
 育児放棄で我が子を殺した母親と、育児放棄だけど我が子が死ななかった母親のはなし。子殺しだから、殺人犯だから鬼か、といわれればそうじゃないんだよ。鬼だから我が子を殺せたのかといわれればそうじゃないんだよ。でも、だったら鬼ではないのか、といわれるとそれはやっぱりそうじゃないんだよ。というエピソードを丁寧に積み上げていく。そういう小説を山田詠美に期待するか、といえばそうではないけれど。でもそれは山田詠美っぽくないのか、といえば、どうなんだろう。
 山田詠美の本は、このつみびとの前には、ファーストクラッシュを読んだのだけれども。あれを山田詠美っぽい(ちょっと大人というかそのさらに向こうにさしかかった感はあるけれど)という風に考えると、このつみびとは、でもやっぱり山田詠美っぽいのかな。文章の肌触りとか、ヒトを描写するときのまなざしの角度とか。
 重たさでいえば、トラッシュ、アニマルロジックに並ぶ重たさ。まあ、お休みに腰据えて読む本としたら、よかったんじゃないかな。

 映画と音楽とテレビを消費しまくったお休みの、最後の日。水入らずの半分、元気に動ける方は一足先に雪降る仕事場に出稼ぎに行って。ひとりぼっちの最終日に読んだのは。

 京極夏彦の、ヒトごろし。
 京極夏彦は、新しく出た巷説百物語シリーズも手元に置いてあるのだけれども。あのみっちりした文章は、なかなか連続して短編いくつも読む、というのがつらくってね。途中で補織り出して、こちらも長い間読みかけのままのヒトごろしをチャレンジ。無事完走。
 単行本で1000ページ超える本って、あんまり見たことないよね。花村萬月のたびを、とか風転とかどうだろう。
 でもまあ。京極夏彦だからね。京極堂のシリーズだって、新書であんなに分厚いんだもの、一段組にして単行本にしたらこんなんじゃすまないよね。
 お話は、土方歳三と新撰組のお話。北方謙三でいえば、黒龍の棺。
 僕は、自分の名前が新撰組の旗からとられているといわれているのだけれど、新撰組についてよく知らないんだよね。司馬遼太郎も読んでないし。香取慎吾の大河も見ていない。福山雅治の龍馬伝は見たけどね。
 だから、新撰組のお話は、黒龍の棺がデフォルト。それからこれ。ヒトごろし。
 どっちも、土方がやりたいことをやるためにちょっと足りない近藤さんを担ぐお話なんだよね。新撰組はごろつき集団。
 子供の名前につけるような集団ではないのではないかしら、と思わないこともないのだけれど、司馬とか読んだらまた違うのかしら。
 お話は、一言で言うとネタバレになるから、面白かった、とだけ。池田屋、山南の脱走、龍馬暗殺、大政奉還、五稜郭と、有名エピソード満載の中後半も、それはそれで面白かったけれど。それより人外たる土方歳三の人となり、それから目的のために新撰組を作るところくらいまで、読む速度は上がらないけれど、これぞ京極節、って感じで面白かったな。

 家にあるものとしての本、今年は本棚に飾っとくだけじゃなく、一回はページに風を通そう、っと。

 ただ、それだけの話。リハビリ編。


再会 フルトヴェングラーのワーグナー2021年12月31日

 今年は、まだ、かろうじて2021年で。

 昨日の12月30日に気がついたのだけれども。朝比奈のじいさんが亡くなってから、20年経ったんだね。

 大フィルさんがいつもやっている12月29日、30日の演奏会の、一日目は地上から、二日目は天上から見守ったのが21世紀初めての年末だったから、12月29日が命日なんだね。

 だからか。

 今年はやけに朝比奈さんの再発モノが多かったよね。いろんな名目でのボックスセットが、限定700個生産で、毎月のように再発されていた。

 もちろん、喜んで全部買っちゃう、僕のような人たち向けの商売なんだけどね。


 このごろ、家のオーディオを新しくしたんだよね。

 20年ほど使い続けた、自作のバックロードホーンのスピーカーをメインからサラウンドに追いやって、フランスのメーカーのトールボーイを買ったんだよね。

 そうしたら、今度はアンプが欲しくなっちゃって。スピーカーと同じくらいの値段がいいよ、って誰かに言われて。だからこれも20年近く使っていたAVアンプを、買い換えたんだ。20年近く前のAVアンプは、HDMIに対応していないし、Blu-Layのオーディオフォーマットにも対応していないから、Blu-Layプレイヤーは、5.1chのアナログ出力が必須で。これは10年近く前なのかな。その時既にマルチチャネルのアナログ出力を備えたプレイヤーって日本製ではほとんどなくて。苦労して探したんだよね。今ではスマホメーカーになってしまったOppoのプレイヤー。

 買ってからは、ディスクで映画を観ることもあんまりなくなって、ほぼUSB DACになっていたのだけれど。


 まあ、そんなことがあって。

 そして、最近はコロナとは関係ないところであんまり外に出ない生活を送っていたので、アップグレードしたオーディオセットと向き合う事が多かったんだよね。


 そんな中で、朝比奈のじいさんの演奏が、SACDでバンバン再発されて。

 ちょっと前から、ようやくスピーカーとアンプのエイジングが整ってきたのか、SACDがよく鳴る様になってきたんだよね。しあわせなことに。


 そういうシステムで、Amazon Musicを聴いたり、じいさんの演奏を聴いたりしていたのだけれども。


 この前、偶然。

 僕が30年近く、もう一回聴きたいな、と思っていた演奏に再会することができたんだよ。


 フルトヴェングラーの指揮でね。

 ワーグナーのタンホイザー序曲。


 高校生の頃、ユーフォニアムからトロンボーンに楽器を持ち替えた僕は、トロンボーンの活躍する曲をいろいろ探していたんだよね。いろいろ探して、って言っても、レコード買うお金はないし、FMのエアチェックはノイズが入るし、レンタルレコード二はクラシックはほとんど置いていないし、という事であんまり集められなかったんだけどね。

 そんな中で、どうやったんだろ、多分運良くレンタルレコード屋さんに置いてあったのかな、カセットテープに録音して、聴きまくったんだよね、当時高校生だった僕は。

 ワーグナーって言うのは、長い長い楽劇(オペラとどこが違うか、よく分からないのだけれど)をたくさん創った人でね。トロンボンを中心にした金管楽器が活躍するから、中高生のブラバン小僧がクラシックを聴き始める一つの道、なんだよね。

 このアルバム、というかカセットには他にもワルキューレの騎行とか、いろいろナ曲が入っているのだけれど、僕がその後ことあるごとにもう一回聴きたいなあ、と思ったのは、タンホイザー序曲、だったんだ。


 この曲には、というかタンホイザーのオペラには、巡礼の合唱って言われる有名な曲があってね。

 オペラの序曲って言うのは、その劇中のメロディのいいところを短くまとめた曲なのだけれど、声楽は入っていないから、その巡礼の合唱をトロンボンが主体となって演奏するのだけど。

 フルトヴェングラーの、この演奏の巡礼の合唱はね、それはもう。

 全てのバランストかテンポとか、音楽を上手く聴かせるための要素を全て取っ払って。ただトロンボンに唄わせて、泣かせる。それだけに全てのお膳立てをする。

 そういう演奏なんだよね。


 合唱の前の見得の切り方、他のパートの押さえ方、そして、朗々と歌いあげるトロンボンの、ちょっと濁った響き。周囲を圧倒する音量。

 これがオーケストラのトロンボンだ、って僕に教えてくれた演奏だったんだよね。


 その後、JAZZに夢中になって一人暮らしをする頃には、カセットテープを聴く習慣がなくなって、テープもどこかに行ってしまったのだけれど。

 大人になって、フルトヴェングラーのワーグナーをいくつか聴いてみたんだけれど、どれもしっくりこなくって。想い出補正なのかな、と思ってちょっと淋しい思いをしていたのだけれど。


 そういうわけで、オーディオセットもすっかり大人仕様になったこのごろ、ふと思って検索してみたら、フルトヴェングラーのワーグナーがSACD化されていたのを見つけたんだよね。しかも第一集、第二集ってカセットテープにつけたタイトルと似ている気もしてきて。

 じいさん以外の新品のCD買うなんて久しぶりだけど、ポチッとカートに入れてみたんだ。


 そしたら。これ。

 1952年のモノラル録音なんだけどね。ウィーンフィルの演奏で。


 これこれ。

 フルトヴェングラーの見得も、トロンボンのやり過ぎ館満載のソリも、高校生の時にむさぼるように聴いていた演奏。安物のミニコンポで聴いていた想い出補正と、SACDの音がちょうど交わり合って、どんぴしゃ思っていた音。

 嬉しいなあ。

 僕のクラシックの原点、また逢えた。


 ハイレゾとかリマスターとか、どうなん? って思っていたけど。

 良い演奏を良い音で聴けるって、嬉しいね。


 ただ、それだけのはなし。



ムーティは本当に来た ~ウィーンフィル@大阪2021~2021年11月08日

 ムーティは来た、デュトワは来ない。


 何ヶ月か前の、大フィルさん定期のパンフレットにこういう一文があったんだよね。

 コロナのおかげで、外国から日本に来るのがとっても難しくなって、大フィルさんが気合いを入れてブッキングしたシャルル・デュトワって言う指揮者が、2年連続来れなくなったのを嘆いた一文なのだけれど。

 当時、ムーティがウィーンフィルと一緒に来日する、という事で浮かれていた僕は、「ムーティは来る」の間違いではないのか、と思ったのだけれど。

 そうではなくて、春に東京でやった、オペラのワークショップのことだったんだね。あとで気がついたよ.


 なので、今回のウィーンフィルは、「ムーティはまた来た」と言うことなのだけれど。まあ、僕にとっては「ムーティは本当に来た」の方がしっくりくるかな。

 何回にもわたるコロナの流行で、いろんなイベントやコンサートが、なんの重みもなく直前に中止になったりしたからね。

 僕の好きなクラシック音楽は、観に来る人が紳士淑女で礼儀正しく、大声を上げたりハイタッチをしたりしないと信じられていたから、比較的制限が緩かったけれど、それでも外国から来てくれる人はほぼ皆無だったモノね。


 という訳で。何年ぶりだろう。前回はメータの指揮でブル8を聴かせてくれたウィーンフィルと、これもまた何年ぶりだろう。前回はシカゴ響とブラームスを聴かせてくれたリッカルド・ムーティ。

 現役の演奏家の中では、僕の望める最高の組み合わせ。神々の饗宴。

 例え松葉杖が折れても、這ってでも駆けつけなくっちゃ、だよね。


 ムーティって、僕の高校時代からのマイ・フェイヴァリット。大好きな指揮者なんだ。

 当時、30年以上前のムーティは、若いイタリア人のイメージそのままに、歯切れの良い、ダイナミックな音楽を、ユージン・オーマンディから華麗な音を引き継いだフィラデルフィア管弦楽団で思う存分奏でていたんだ。

 ストラヴィンスキーの春の祭典、ペトルーシュカ。レスピーギのローマ3部作。ラヴェルのボレロとか。今でもこのころのムーティの演奏が僕の中でのベストワン、って言う演奏がたくさんあるんだ。ミラノ・スカラ座とのヴェルディのレクイエムとかもこの時代だよね。

 今あげた曲、このごろ僕が好んで聴いているブルックナーとかベートーヴェン、ブラームスとかの交響曲が全然出てこないよね。それどころか、ドイツ、オーストリアの作曲家も出てこない。

 多分そういう(クラシック音楽から外れたところでファンを獲得している)ところのせいなんだと思うけれど、あの頃のムーティは、音楽評論家からはほぼ無視され、音楽好きからは「ああ、ムーティが好きなんだ」って言う蔑んだ眼で見られる対象だったんだよね。レコ芸とかを立ち読みする限り。

 それが、今では80歳の巨匠だもんね。長生きはするべきだね。


 さて、演奏だよね。


 今回、フェスティバルホールでウィーンフィルが奏でるのは、モーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」と、シューベルトの交響曲第8番「グレイト」の二曲。

 

 モーツァルトはね、僕はモーツァルトの曲の演奏をとやかく言う言葉を持っていないのだけれども。

 だって、誰が演奏してもモーツァルトなんだもの。

 大学生の頃かな。ムーティのモーツァルトのCDをうれしがって聴いていたら、「ああ、ムーティ好きなんだ」と蔑む眼で見る友達が、モーツァルトって言うのはこういうモノだよ、ってかしてくれたのが、セル/クリーブランドのモーツァルト。

 違うのは分かるけど、正直どっちがいいかはよく分からなかったんだよね。それでも伝わってきたのは、ああ、モーツァルトだ、って。


 その頃からモツ耳に関しては全く成長がない僕なので、ムーティの指揮がどう、というのはよく分からないのだけれど。


 それでも、最初の一音から分かるのは。

 ウィーンフィルの、響き。


 なんなんだろうね。

 この音を、たとえばビールに例えたら。いろんなビールに例えられると思うけれど、ただ一つ、スーパードライだけでは絶対にない、そういう音。

 クリアでのどごしさっぱり、というところから、最も遠い音。響き。


 これも高校時代の、吹奏楽のコーチが言っていた、「ウィーンフィルは、音程がピッタリ揃っている訳じゃない。でも、それぞれの音が豊かに響いているから、多少の音程のずれなんて気にならないんだ」って言う言葉を想い出したよ。

 ひとつひとつの音が、裸じゃなくって、なにかをまとって大きく見える。毛皮のコートなのか綿菓子なのかよく分からないけど。でも、それが積み重なっても決して喧嘩する訳じゃなく、その何かが合体してどんどん大きくなって、フェスティバルホールを満たすんだよね。

 モーツァルトじゃなくって、ロングトーンを聴いていても、もしかしたら同じいい気持ちになれたのかも。

 そんなことを考えていたら、すぐに終わっちゃった。もったいないな。


 松葉杖で動きにくいので、休憩時間もじっとして、後半の、グレイト。


 グレイト、って言うのは、巨大な、って言うくらいの意味でね。朝比奈のじいさんは「天国的な長さ」って言っていたけど、とにかく長い。ムーティのCDだと、1時間1分。

 僕はブルックナーの交響曲が好きだから、1時間の交響曲って特に長いと思わないのだけれども、1曲20分が普通だったハイドンとかモーツァルトの次の世代、ベートーヴェンが出てくる前だとすると、そりゃあ長いでしょう。

 そして、その天国的な長さを、シューベルトは、魅力的なメロディで満たしたんだよね。


 交響曲って、表題のない絶対音楽、とかいわれるけれど、なんの制約もない、なんでも入る器、なんだよね。

 形式だけを作って、あとは依頼主の喜ぶ小ネタを入れまくったハイドンやモーツァルト。その形式が、巨大なモノを入れられる容器だと気がついて、そしてそれに人間の感情を入れたベートーヴェン。狂おしい恋愛の劇場だけを入れたチャイコフスキー。神が観た世界を見ようとしたブルックナー。世界を創って創造主になろうとしたマーラー。

 そんな群雄割拠の中で、魅力的なメロディで満たそうとしたのは、ドヴォルザークくらいなんだと思ったのだけれど。

 ちょっと前に予習でこの曲をあらためて聴いてみて、ああ、メロディの曲なんだ、って思ったんだよね。


 素のメロディを、この、ウィーンフィルの音で、響きで。それを生で愉しむ。

 なんて贅沢なんだろう。


 ウィーンフィルって、自分の楽器を使えないんだよね。楽団が持っている楽器を、代々大切に使っていく。150周年がもう20年くらい前の話だからね。楽器だって相当の年月を経ているよね。

 百年を超える時間を、あの響きを奏でて、あの響きの中にいた楽器を、その響きを奏でる一人一人が選んだ楽団員と、楽団員に選ばれた指揮者が奏でるんだもの。ウィーンの小さなホールと破全然違うフェスティバルホールだって、隅々まであの響きに、音に満たされるよね。


 どこまで行ってもあたたかい、決して透明ではないけれど、暗くもならない粒子に満たされた様な音を聴きながら、うちの家人の言葉を想い出していたんだよね。

「美味しい料理はあとに残らない。食べ終わったら、どんな味か想い出せない。残るのは美味しかった、って言う記憶だけ」って。


 この演奏もそうなんだよね。

 しあわせな時間、って言う記憶だけが残って、どんな音なのか、何がよかったのか、そういうことを想い出せない。あるいはそういうことを言葉にできない。


 せっかくのムーティの指揮なのに、ムーティらしいところを見つけるより、ただ、音の響きのここと良さを全身に浴びた演奏だったよ。


 すっかり白髪になったムーティは、相変わらずしゃんとして、うしろすがたが格好良かったし。


 アンコールは、J・シュトラウスのワルツ。

 ムーティはむかしはヴェルディの運命の力序曲をアンコールに演奏していたけれど、そりゃそうだ、今日はウィーンフィルだもの。世界最高のウインナワルツ。堪能しました。


 ああ、しあわせだった。

 ただ、それだけのはなし。


 2011年11月7日

 リッカルド・ムーティ 指揮

 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 フェスティバルホール 1階11列49番