つかむ手と、つなぐ手。 闇の子供たち@シアターキノ ― 2009年01月31日
昨日から、札幌に来ていたのだけれど。
昨日とはうって変わって、札幌は突き刺すような空気に包まれていてね。とはいえ、天気は晴れで風もなし。突き刺すように寒いっていったら、地元の人には怒られちゃうと思うんだけれどもね。
それでも。
大阪では絶対に着ることのない肉の付いたコートとマフラーで武装してきた僕が、ああ、この装備も無駄にはならなかったな、と思って、なおかつでもちょっと外を歩いてみるか、っていくらいの突き刺され感でね。
つまりは、絶好のお散歩日和。
まあ、お散歩の話題はちょっと後回しにするとして、十分に朝寝坊した僕は、札幌にある懐かしい映画館に向かったんだよ。
別にそこに足しげく通ったわけではないし、もしかすると一回もいったことないんじゃないかな。何度も前は通っていたのだけれども。何度もっていっても、この20年間で3回か4回くらいだけれどもね。
懐かしいっていうのは、大昔、この映画館をホームシアターにして、映画紹介のWebページを立ち上げていた人のページに、よく行ったんだよね。今ではもう、そのページはなくなちゃったんだけれども。
中でも、ヒロスエの秘密の紹介は名文でね。ぜんぜん覚えてないけれど。ああ、女の人ってそう感じるのか、って思った紹介文。もう一回読みたいなあ。
あ、映画の話だよね。
その映画館で、今回僕が見たのは、闇の子供たち。
梁 石日の小説で僕が読んだのは、たぶん血と骨だけなのだと思うけれど。その僕が考える梁 石日らしいタイトルって、この闇の子供たちが一番じゃないかしら。
まあ、あんまり予備知識もなく見たのだけれど。
タイ。
子供たちの人権保護施設のNGO。そこのボランティアとして働いている宮崎あおい。
日本の子供の臓器移植が、タイで行われる。その取材に来ている新聞記者、江口洋介。
貧民街の幼児売春窟にとらわれている子供たち。
タイの臓器移植のドナーは、決して脳死の子供なんかじゃなくって。その事実を知った上で取材をしようとする江口。手術を止めようとする宮崎。
お互いをなじる、薄っぺらい正義感と大人の処世術。
なじっている間にも、ゴミ袋で捨てられる子供、選ばれるドナー、消される命。
「一つ命を救ったって、仕組みが無傷なら、また新しい命が犠牲になるだけ。それを止めるには、取材して、書くだけ。」
たぶん、書き続けることが大切なことなのに。その情熱の原因は、書き続けることを許さなくて。
何一つ解決しないまま、物語も解決しないまま、胸一杯のやりきれなさと、桑田の歌とともに僕は投げ出されたよ。
ラスト前。
江口の部屋を片づけている妻夫木と同僚。
目隠しのカーテンを取り去って見えた、壁いっぱいに張りつられた幼児誘拐報道の切り抜き。それを見て唖然とする妻夫木。その後スクリーンは突然暗転して。
長い、沈黙。
そして、結局救われなかった少女がすがった大木に見守られながら水辺で遊ぶ子供たち。
あまりにも唐突なあの暗転が、映写のミスなのか、それとも演出なのかはちょっとわからないけれど。
たぶん、演出なのだと思うのだけれども。
余りに親切な、いたせりつくせりのハリウッド映画を見慣れている僕には、こういう放り出され方って、ちょっと新鮮だったな。
結局、なにが江口を駆り立てていたのだろう。
答えは、つかむ手と、つなぐ手。なんだろうね。
生け簀から子供を選び出して、個室へと連れていく客は、いつも子供の手をつかんでいて。逃げないように、しっかりと。
一方、銃弾の中を子供と逃げる宮崎の手は、子供としっかりつながれている。
そして。
回想シーンの江口は、子供の手をつかんでいて。手を離してよ、って子供ににらまれる。
手をつかむのは、悪い人。
江口のトラウマは、子供の頃の記憶? それとも。
この映画は、もちろん。
タイの幼児売春、臓器売買の闇を、幼い正義感が解決しました、っていう単純なヒーローの物語ではなくて。
闇の深さ。かすかな希望。無惨な現実。
その中の子供の絶望とほほえみ。
そして、大人の世界のどうしようもない汚さ。よそものの自分勝手さ。
そういうものを、提示して終わっちゃったよね。それもあり、なのだとは思うけれど。
闇の子供って、誰のことなんだろうね。
予告編でやっていた、未来を移した子供たちだっけ。あれとセットで見るべきなのかな。
サザンではない、桑田の歌がやけに生々しく耳に残ったよ。
耳がかじかむ、冷たい空気に身を切らせながら、インドの学校のためにっていって自分の裸を売るタレントを笑えなくなったことに気がついたよ。
ただ、それだけのはなし。
昨日とはうって変わって、札幌は突き刺すような空気に包まれていてね。とはいえ、天気は晴れで風もなし。突き刺すように寒いっていったら、地元の人には怒られちゃうと思うんだけれどもね。
それでも。
大阪では絶対に着ることのない肉の付いたコートとマフラーで武装してきた僕が、ああ、この装備も無駄にはならなかったな、と思って、なおかつでもちょっと外を歩いてみるか、っていくらいの突き刺され感でね。
つまりは、絶好のお散歩日和。
まあ、お散歩の話題はちょっと後回しにするとして、十分に朝寝坊した僕は、札幌にある懐かしい映画館に向かったんだよ。
別にそこに足しげく通ったわけではないし、もしかすると一回もいったことないんじゃないかな。何度も前は通っていたのだけれども。何度もっていっても、この20年間で3回か4回くらいだけれどもね。
懐かしいっていうのは、大昔、この映画館をホームシアターにして、映画紹介のWebページを立ち上げていた人のページに、よく行ったんだよね。今ではもう、そのページはなくなちゃったんだけれども。
中でも、ヒロスエの秘密の紹介は名文でね。ぜんぜん覚えてないけれど。ああ、女の人ってそう感じるのか、って思った紹介文。もう一回読みたいなあ。
あ、映画の話だよね。
その映画館で、今回僕が見たのは、闇の子供たち。
梁 石日の小説で僕が読んだのは、たぶん血と骨だけなのだと思うけれど。その僕が考える梁 石日らしいタイトルって、この闇の子供たちが一番じゃないかしら。
まあ、あんまり予備知識もなく見たのだけれど。
タイ。
子供たちの人権保護施設のNGO。そこのボランティアとして働いている宮崎あおい。
日本の子供の臓器移植が、タイで行われる。その取材に来ている新聞記者、江口洋介。
貧民街の幼児売春窟にとらわれている子供たち。
タイの臓器移植のドナーは、決して脳死の子供なんかじゃなくって。その事実を知った上で取材をしようとする江口。手術を止めようとする宮崎。
お互いをなじる、薄っぺらい正義感と大人の処世術。
なじっている間にも、ゴミ袋で捨てられる子供、選ばれるドナー、消される命。
「一つ命を救ったって、仕組みが無傷なら、また新しい命が犠牲になるだけ。それを止めるには、取材して、書くだけ。」
たぶん、書き続けることが大切なことなのに。その情熱の原因は、書き続けることを許さなくて。
何一つ解決しないまま、物語も解決しないまま、胸一杯のやりきれなさと、桑田の歌とともに僕は投げ出されたよ。
ラスト前。
江口の部屋を片づけている妻夫木と同僚。
目隠しのカーテンを取り去って見えた、壁いっぱいに張りつられた幼児誘拐報道の切り抜き。それを見て唖然とする妻夫木。その後スクリーンは突然暗転して。
長い、沈黙。
そして、結局救われなかった少女がすがった大木に見守られながら水辺で遊ぶ子供たち。
あまりにも唐突なあの暗転が、映写のミスなのか、それとも演出なのかはちょっとわからないけれど。
たぶん、演出なのだと思うのだけれども。
余りに親切な、いたせりつくせりのハリウッド映画を見慣れている僕には、こういう放り出され方って、ちょっと新鮮だったな。
結局、なにが江口を駆り立てていたのだろう。
答えは、つかむ手と、つなぐ手。なんだろうね。
生け簀から子供を選び出して、個室へと連れていく客は、いつも子供の手をつかんでいて。逃げないように、しっかりと。
一方、銃弾の中を子供と逃げる宮崎の手は、子供としっかりつながれている。
そして。
回想シーンの江口は、子供の手をつかんでいて。手を離してよ、って子供ににらまれる。
手をつかむのは、悪い人。
江口のトラウマは、子供の頃の記憶? それとも。
この映画は、もちろん。
タイの幼児売春、臓器売買の闇を、幼い正義感が解決しました、っていう単純なヒーローの物語ではなくて。
闇の深さ。かすかな希望。無惨な現実。
その中の子供の絶望とほほえみ。
そして、大人の世界のどうしようもない汚さ。よそものの自分勝手さ。
そういうものを、提示して終わっちゃったよね。それもあり、なのだとは思うけれど。
闇の子供って、誰のことなんだろうね。
予告編でやっていた、未来を移した子供たちだっけ。あれとセットで見るべきなのかな。
サザンではない、桑田の歌がやけに生々しく耳に残ったよ。
耳がかじかむ、冷たい空気に身を切らせながら、インドの学校のためにっていって自分の裸を売るタレントを笑えなくなったことに気がついたよ。
ただ、それだけのはなし。