合掌 フレデイ・ハバード2009年01月04日

Maiden Voyage / Herbie Hancock BlueNote
 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしく、ね。
 
 のっけから訃報で恐縮なのだけれど。
 フレディ・ハバードが亡くなったんだね。
 ご冥福をお祈りします。合掌。
 
 高校の頃、クリフォード・ブラウンとデューク・エリントンからジャズにはまっていった僕にとって、フレディは数少ない、生きている巨人(リビング・ジャイアント)だったんだよね。
 実際に見たのは、覚えているかぎりでは、90年か91年の年越しの、今は無き横浜Birdでの年越しライブ。そしてその前かな、ジョージ川口の音楽活動○○周年の、パルテオン多摩でのコンサート。それからその前にマウントフジでも見てるのかな。
 その後、なんかの時に、虫歯で来日中止になったりもしたんだっけ。
 
 フレディって、
 とにかく、かっこいいんだよね。
 高校生に毛が生えた程度の当時の僕では、難しいフレーズに秘めた知性なんてよく分からないのだけれども。
 でも、フレディのカッコ良さはよく分かったよ。
 それは、吹いている姿勢のカッコ良さでもあるし、ハービー・ハンコックのアルバム、処女航海のタイトルチューンのソロのカッコ良さでもあるし。
 そして、同じくハービーと組んだ、VSOPのカッコ良さ、でもあるんだよね。
 
 つまりは、野外コンサートや、おっきな箱でのお祭りライブに欠かせない、お祭りトランペッター。
 
 そういう認識だから、フレディのリーダー作って、実はあんまり聴いてないんだけれどもね。Open sesameくらいかな。
 僕にとっては、永遠のお祭りゲストトランペッター。
 
 この原稿を書くにあたってね、いろいろ考えて、やっぱりBGMはこれにしたよ。ハービー・ハンコックのMaiden Voyage、処女航海。
 この曲の、フレディのソロって、かっこいいよね。ハービー、ロン、トニーの”あの”リズム隊にフレディときたら、それは、ウェイン抜きのVSOP。でも、スタジオ録音の秩序正しさがちょっと窮屈に聞こえるときもあったりして。その中でのフレディのソロのカッコ良さ。
 秩序なんて、ビートなんて、調性なんて糞喰らえ。ハービーさんよ、モードなんてめんどくさい手法を作ったのも、こういうことがやりたかったんじゃないの、っていう心の叫び、聞こえてくるんだなあ。
 もし、この時代のジャズに興味を持っていて、しかもこのソロを聴いたことがないっていう幸運な人がいたら、お勧めだなあ。
 
 その後のVSOPはね。
 高校時代の僕には、それはもうこのグループがかっこよく見えたんだよね。いや、見てないから聴こえたのだけれども。
 もう少し年を取ってから、このバンドの元ネタになったオリジナルを聴いちゃったら、ちょっとその熱は冷めたのだけれど(それは、別の機会に書くことにするね)。でもフレディのカッコ良さは相変わらずでね。
 
 そんなこんなで。
 僕が本格的にJazzを観るようになってから、たくさんのミュージシャンが亡くなってしまったけれど。
 ブレイキーやディズは、逢えたことが幸運な一世代前のミュージシャンだけれども。
 トニー・ウィリアムス、マイケル・ブレッカー、ジョージ・アダムスやドン・プーレン。そして今回のフレディなんかは、ちょっとお兄さん、っていう感じで聞いていたから、ショックなんだよね。
 
 あっちの世界でも、かっこいいラッパ吹いててよね。
 ホント、ありがとね。
 
 ただ、それだけのはなし

生々流転 by 横山大観2009年01月25日

 ただいま。
 東京出張から、帰ってきたよ。
 
 別に、東京への出張は珍しいことではないのだけれど。今回の出張先は、ちょっと珍しかったんだよね。
 東京国立近代美術館。
 去年だったと思うけれど、東山魁夷展を観に行ったあの美術館。その地下の講堂で行われたシンポジウムに行って来たんだ。
 あ、別に美術関係のシンポジウムでは全くなくってね。下世話な、ベクトル的にはほとんど正反対の、シンポジウム。
 
 それはそれで面白かったのだけれども。その後、約束の時間まで少し間があったから、美術館に行って来たよ。
 
 そこで、逢ったんだ。
 横山大観の、生々流転。
 
 40メートルの、巻物に描かれた水墨画なのだけれど。それが、ガラスのケースにずらーっと拡げられていて。
 
 最初はね、冷静だったよ。僕は。
 原始の森の、滝から始まる水の一生の物語。
 右から左に物語が流れていって。
 河や、森や。人の営みや、鳥や。
 ケースに置かれた長い長い絵物語を、一歩一歩歩きながら見ていって。
 白い朱鷺がいて、黒い水鳥がいて。
 広葉樹から、松の雪山から、柳に樹相が移り変わっていって。
 そして、船を曳く人夫達を最後に、大きな海に舞台は移って。
 
 小さいさざ波から、大きな波に。
 そして、巨大な波が弾けたところから、真っ暗な空に緻密に描かれた龍が昇っていく。
 あとには巨大な水のうねりだけが残って。
 
 そして、空白。

 落款。
 
 最後の海くらいからね、ぐいぐいぐいぐい、この世界に入っていって。
 最後までたどり着いたら、虚脱状態。涙も出てこない。
 そして、真下ばっかり見つめていた視線を、今たどってきた右側へと移すとね。
 
 なんだこりゃ。
 
 海がね、うねってるんだよ。
 海がね、生きてるんだよ。動いてるんだよ。
 水墨画だから、ただの無彩色の濃淡なのに。確かに命が宿ってるんだ。
 
 あわてて、振り出しに戻って。最初から見ていったよ。
 一回目は、解説もなんにも読まずに、ただ見ただけだから、二回目の前に、説明のパネルをちょっと観たりして。
 そして、真下だけじゃなくって、左側の、未来の風景を時々眺めながら、もう一度、水の一生の旅を始めたんだ。
 
 そしたらね。
 視線を斜めに向けるだけで、とたんに世界が生き生きするんだよね。
 二つある松の雪山の、あの立体感はどうだろう。
 そして、やっぱり。
 最後の海を、まだ旅立っていない時点から眺めると。
 なんて恐ろしいんだろう。そして、なんて魅力的なんだろう。
 水面がうねって、波がはじけて、最後にうずまきが待ち受けてる。墨の濃淡だけでそれが現されていてね。
 
 そこから見たときに、僕は唖然としたのだけれど。
 今まで、照明のせいだと思っていた、画面の光と影。それって、全部墨なんだ。
 輪郭が全然なくって、でも濃淡にははっきりとした意志があって。でも、水で滲んだあとなんてみじんもなくって。
 これって、どうやって描いたんだろう。
 一つのかげって、50センチとか1メートルとかあるんだよ。筆で描けるような大きさじゃないし、筆で描いたら、っていうより描いたら輪郭が出来るだろうし。エアブラシみたいに下品じゃないし。
 
 どうやって、描いたんだろう。
 
 待ち合わせの時間も迫っていたのだけれど、どうしても立ち去りがたくて、40メートルを早足で戻って、三度目の旅を、満喫したあと、後ろ髪を引かれながら、この壮大な物語をあとにしたよ。
 
 最後の5メートルだけでも、複製でもポスターでもいいから、いつでも見られるところに飾っておきたいな。
 でも、そんなことしたら、吸い込まれちゃうんだろうな。
 
 3月8日まで、竹橋の近代美術館でやっているから、皆さん、是非観に行ってみてね。僕ももう一回観たいな。
 
 ただ、それだけのはなし。

おくりびと2009年01月26日

 僕は、日本映画が大好きでね。
 おまけに、広末涼子の大ファンで、しかも本木雅弘も好きだから、もちろん「おくりびと」も劇場で観たのだけれど。

 その、おくりびと。
 日本の映画賞を総なめにしただけでは飽きたらず、アカデミー賞の外国語映画部門にもノミネートされたらしいね。

 僕は、ヒロスエの大ファンで、本木君も大好きだから、その快挙に素直に拍手を送りたいのだけれど。
 でも、この映画を素直にほめるわけにはいかないんだよね。

 おくりびとってね。 
 小さなオーケストラのチェリストの本木君と、その奥さんのヒロスエ。楽団はあっけなくつぶれちゃって、本木君の田舎に引っ込んだ若夫婦。
 本木君は就職活動中に、ひょんなことから埋葬業の片棒を担ぐことになって。でも死体をさわる仕事への後ろめたさから、なかなかヒロスエには言い出せなくって。
 ある日、旦那の仕事を知ったヒロスエは、それをどうしても認めることができず、「穢らわしい」の言葉を残して、自分の実家にかえっていく。
 それでもその仕事に魅力を感じ、やめない本木。
 そして、縁者の死によって、ヒロスエはその仕事の尊さを感じて、再び本木君の元に戻り、二人は寄り添って。

 っていう物語なのだけれども。

 ものすごく日本の映画、というよりも邦画のにおいがプンプンしていてね。あ、邦画って、松竹、東映、東宝なんかがお正月やお盆にやる、プログラム映画のことね、僕にとっては。

 だから、物語のお涙ちょうだいさ加減は全く評価の対象にならなくて。
 僕にとって、この映画の価値は、ヒロスエの「穢らわしい」がどれだけリアリティを持ち得るか。それにかかっていたんだよね。
 僕が観る前に読んだインタビューで、そこが一番の課題だったってヒロスエ自身がいっていたのもあってね。

 そして。
 結果的にいえば、僕は心情的に全く共感も同情も出来なかったんだよね。ヒロスエの、穢らわしい、に。

 それは、ヒロスエのせいもあるかもしれないけれど、たぶん半分以上は脚本のせいで。
 だいたい、穢らわしい、なんて、日常の会話ではあり得ないでしょう。
 もちろん、汚い、とか、触らないで、では表現できない、皮膚に染み着いた拒絶感、っていうのを表現するために、穢らわしい、っていう言葉をどうしても使いたい、っていうのは十分に理解できるのだけれども。
 それでも。
 身内に、夫に向かってその言葉を吐かせる、という過大な試練をヒロスエに与えたにしては。
 全く説得力が感じられなかったんだよね。

 たぶん、僕は物心ついてからは、あんまり他人の死を意識しないで過ごしてきたせいもあって。そして他人とのつながり感の薄い都会で生活していたせいもあって、この仕事、納棺師にたいして忌避感を抱かなかったせいなのだろうけれど。
 つまり、心情的にヒロスエの側に立てなかったせいなのだろうけれど。
 ヒロスエに、感情移入できなかったんだよね。

 この部分を抜いたら、人間の死、というものに寄りかかった、セカチューとかイマアイとあんまり変わらない映画にしか思えないんだよね。

 だから、僕は、この映画を評価しないし。これからもすることはないと思うのだけれども。
 でも、評価されることに対しては、うれしいと素直に喜ぶことができるよ。

 この機会を逃さず、いろんなところでいい映画にいっぱいでてくれたらいいな、ヒロスエが。

 ただ、それだけのはなし。

つかむ手と、つなぐ手。 闇の子供たち@シアターキノ2009年01月31日

 昨日から、札幌に来ていたのだけれど。

 昨日とはうって変わって、札幌は突き刺すような空気に包まれていてね。とはいえ、天気は晴れで風もなし。突き刺すように寒いっていったら、地元の人には怒られちゃうと思うんだけれどもね。
 それでも。
 大阪では絶対に着ることのない肉の付いたコートとマフラーで武装してきた僕が、ああ、この装備も無駄にはならなかったな、と思って、なおかつでもちょっと外を歩いてみるか、っていくらいの突き刺され感でね。
 つまりは、絶好のお散歩日和。

 まあ、お散歩の話題はちょっと後回しにするとして、十分に朝寝坊した僕は、札幌にある懐かしい映画館に向かったんだよ。
 別にそこに足しげく通ったわけではないし、もしかすると一回もいったことないんじゃないかな。何度も前は通っていたのだけれども。何度もっていっても、この20年間で3回か4回くらいだけれどもね。
 懐かしいっていうのは、大昔、この映画館をホームシアターにして、映画紹介のWebページを立ち上げていた人のページに、よく行ったんだよね。今ではもう、そのページはなくなちゃったんだけれども。
 中でも、ヒロスエの秘密の紹介は名文でね。ぜんぜん覚えてないけれど。ああ、女の人ってそう感じるのか、って思った紹介文。もう一回読みたいなあ。

 あ、映画の話だよね。
 その映画館で、今回僕が見たのは、闇の子供たち。
 梁 石日の小説で僕が読んだのは、たぶん血と骨だけなのだと思うけれど。その僕が考える梁 石日らしいタイトルって、この闇の子供たちが一番じゃないかしら。
 まあ、あんまり予備知識もなく見たのだけれど。

 タイ。
 子供たちの人権保護施設のNGO。そこのボランティアとして働いている宮崎あおい。
 日本の子供の臓器移植が、タイで行われる。その取材に来ている新聞記者、江口洋介。
 貧民街の幼児売春窟にとらわれている子供たち。

 タイの臓器移植のドナーは、決して脳死の子供なんかじゃなくって。その事実を知った上で取材をしようとする江口。手術を止めようとする宮崎。
 お互いをなじる、薄っぺらい正義感と大人の処世術。
 なじっている間にも、ゴミ袋で捨てられる子供、選ばれるドナー、消される命。

「一つ命を救ったって、仕組みが無傷なら、また新しい命が犠牲になるだけ。それを止めるには、取材して、書くだけ。」
 たぶん、書き続けることが大切なことなのに。その情熱の原因は、書き続けることを許さなくて。
 何一つ解決しないまま、物語も解決しないまま、胸一杯のやりきれなさと、桑田の歌とともに僕は投げ出されたよ。

 ラスト前。
 江口の部屋を片づけている妻夫木と同僚。
 目隠しのカーテンを取り去って見えた、壁いっぱいに張りつられた幼児誘拐報道の切り抜き。それを見て唖然とする妻夫木。その後スクリーンは突然暗転して。
 長い、沈黙。
 そして、結局救われなかった少女がすがった大木に見守られながら水辺で遊ぶ子供たち。
 あまりにも唐突なあの暗転が、映写のミスなのか、それとも演出なのかはちょっとわからないけれど。
 たぶん、演出なのだと思うのだけれども。

 余りに親切な、いたせりつくせりのハリウッド映画を見慣れている僕には、こういう放り出され方って、ちょっと新鮮だったな。

 結局、なにが江口を駆り立てていたのだろう。
 答えは、つかむ手と、つなぐ手。なんだろうね。

 生け簀から子供を選び出して、個室へと連れていく客は、いつも子供の手をつかんでいて。逃げないように、しっかりと。
 一方、銃弾の中を子供と逃げる宮崎の手は、子供としっかりつながれている。
 そして。
 回想シーンの江口は、子供の手をつかんでいて。手を離してよ、って子供ににらまれる。

 手をつかむのは、悪い人。
 江口のトラウマは、子供の頃の記憶? それとも。

 この映画は、もちろん。
 タイの幼児売春、臓器売買の闇を、幼い正義感が解決しました、っていう単純なヒーローの物語ではなくて。
 闇の深さ。かすかな希望。無惨な現実。
 その中の子供の絶望とほほえみ。
 そして、大人の世界のどうしようもない汚さ。よそものの自分勝手さ。
 そういうものを、提示して終わっちゃったよね。それもあり、なのだとは思うけれど。

 闇の子供って、誰のことなんだろうね。

 予告編でやっていた、未来を移した子供たちだっけ。あれとセットで見るべきなのかな。

 サザンではない、桑田の歌がやけに生々しく耳に残ったよ。

 耳がかじかむ、冷たい空気に身を切らせながら、インドの学校のためにっていって自分の裸を売るタレントを笑えなくなったことに気がついたよ。

 ただ、それだけのはなし。