岡鹿之助と、東山魁夷の、白 〜ブリヂストン美術館 岡鹿之助展〜2008年05月11日

 このまえ、ブリヂストン美術館に行って来たよ、また。常設展示が主体のいつもとは、ちょっと様子の違う、個人展覧会。
 岡 鹿之助っていう人の、特集なのだけれども、知ってる? この人。
 僕は知らなかったんだけれどもね、名前は、ね。絵を見たら、いつものブリヂストンにも、多分ひとつ飾ってあったから、ああこの人か、って、すぐに思ったのだけれど。
 個人的には、ちょっと複雑なんだよね、このヒトの絵については。
 
 点描を中心に、絵画って言うよりイラストみたいに見えるし、一番多い、建物の絵なんか、常に正面からで、絵の中だけで全てが完結しているアングル。具体的には、たとえばお城みたいな建物とか、その脇に立っている木も含めて、キャンバスに収まりきれずにはみ出す、ってことがほとんどなくって、常に左右には余白がある。そういう箱庭的なアングルがほとんどなんだよね。
 この、いつもブリヂストンにあるから僕が見慣れている絵が代表作のひとつみたいなんだけれど。この絵は珍しく、山は途中だし、建物遠近法によって斜めになっているけど、何となく分かるでしょ、箱庭的、って言うの。
 
 この頃思うのだけれども、僕にとって、絵は窓なんだよね。ウィンドウ。部屋から見える風景を切り取っている窓でもいいし、異世界へのウィンドウでもよいのだけれど、とにかくその視野は外で起こっていることを切り取るための窓であって、箱庭のように世界を再構築するための枠ではないんだよね。あくまでも僕にとって、だけれども。
 だから、アングル的に、この人の絵は素通りしたくもなるのだけれど、それでも、なんだかすごく気持ちいいんだ。ゴッホなんかよりずっと細かい点描で綴られた絵が、ね。
 大キライなフュージョンで 泣けそうな自分が嫌 by 桜井和寿
 みたいな感じ。
 
 でもね、そんな中に。
 あったんだ。
 
 箱庭のアングルをあきらめて、窓から眺めた世界を描いた絵が、ね。
 この、「林」っていう絵なのだけど。雪の林の向こうに、かすかに見える家、っていう、言葉にすると陳腐になってしまう絵なんだけれど。
 厳しい雪に閉ざされた、葉っぱのない木々。その野性味を、あくまでも優しく心地よい点描で描ききって。そのコントラストがね、すごいインパクトで。僕はくぎ付けになったよ。
 それは、ムラカミハルキの「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のインパクトと同じだね。つまり、表現手法の優しさ(点描とか文体とか)と、内容の厳しさの対比、っていう事において、だけれども。
 
 それからもうひとつ、この人の絵の中の白、っていう色がとっても魅力的でね。たいがいは雪の色として使われているのだけど、なんだろう。言葉で言えば、白、なのだけど、輝いていたり、くすんでいたり、でも、いつもアイキャッチとなる、白。
 最初の、雪の発電所もそうだけど、薄暗い林に輝く白の、はっとする美しさ、ぜひ本物を見て欲しいなあ。
 
 なんか、この人の絵を見ていたら。この人の絵の白を見ていたら。前に山種美術館で観た東山魁夷の絵が、山村に雪が降り積む、静かな絵が見たくなったんだよね。もう一度。
 この絵は、山村の茅葺き屋根に積もった雪が、月明かりに照らされてるっていう絵で、白っていうよりも蒼いのだけど。でも、その蒼の、薄昏いあったかさ。それが本当に。
 「太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪降り積む」っていう、小学校の国語の教科書に載っていた詩、多分こんな風景から生まれたんだろうなあ、って。
 
 そんなことを思いながら、帰りに立ち寄った八重洲ブックセンターで、ちょうど東山魁夷の版画の即売会をしていたので、ちょっとのぞいたのだけれど。
 それは、ちょっと唖然とするほど、僕の中の東山魁夷とはかけ離れていて。もちろん、山村の雪の絵(「年暮る」)ではなかったのだけれども。
 シルクスクリーンになった魁夷は、こんなにも何もかも、デリカシーがなくなってしまうのか、って。そう思ったら、ちょっと寂しくなったよ。
 やっぱり、好きな絵は美術館に会いに行くのが、いいね。

 帰りに思い出したのだけど、東山魁夷展、国立でやってたんだね。そっち見に行けばよかったな。時間ないから無理だったけれど。
 
 ただ、それだけのはなし。

じてんしゃ図書館館長 土居一洋さん2008年05月22日

 白状すると、僕はこの頃新聞というものをあんまり読んでないんだ。
 一応、日経新聞は購読しているのだけれども、一度も開かないまま、チラシを挟み込んだままで廃品回収に出す事が本当に多いんだよね。いけないな、とは思うのだけれども。
 職場でもおんなじ日経新聞を取っていて、なるべく朝刊には目を通すようにしているのだけれどもね。特にこの頃。
 
 そんな中、お昼休みに日経を開いていて、はっとする記事があったんだよね。危うく涙がこぼれそうになる記事。
 もう今からは入手できないし、とってる人も新聞置きに行っちゃったかも知れないかラ、今更紹介するのは申し訳ないとは思うのだけれども。
 でも、やっぱりいっときたいな。
 
 5月21日の、日経朝刊の、最終ページ、文化面。
 ここにね、土居一洋っていう人がコラムを書いていて。
 この人は、じてんしゃ図書館館長という肩書きで、自転車で全国を回りながら、環境に関する本を道行く人に貸し出している、そういう奇特な人なんだ。
 自動車整備の専門学校を中退して、ものづくりの会社を転々として。独立資金を貯めているときに出逢った一冊の本。「百年の愚行」っていうその写真集は、人間の、文明の行ってきた負の部分に焦点を当てた写真集で。それにショックを受けた土居さんは、その本を全国の図書館に入れよう、と動き出して。その動きはすぐに挫折してしまうのだけれど、だったら自分で本を貸そう、って。
 そして、自転車に乗って道行く人に本を貸す、そういう旅を始めたんだ。
 
 もちろん、旅から旅だから、貸した本が返ってくる事なんてないよ。ただ、読みおわったら誰かに又貸ししてね、っていう約束をして、一人でも多くの人に自分の薦める本が読まれる事を願って、そういう旅をしている人なんだ。
 貸した本に、木の絵を描いてね、葉っぱを一枚描いて渡すんだ。
「読んだら、葉っぱを一枚描き加えて、誰かに又貸しして下さい」って。
 
 なんて、純粋なんだろう。
 
 似合わないネクタイなんか締めて、オフィスの昼休みにコーヒー飲みながら日経開いて、そんな自分がなんか恥ずかしくなるくらいな、純粋さだったよ。
 それが、日経のコラムであって、しかも僕の一人称のとっても魅力的な文章で綴られていて。
 つまり、僕は土居さんに嫉妬したのだけれども。
 
 生涯に一度でいいから、葉っぱのいっぱい描かれた本が、土居さんのところに戻ったら、いいね。
 僕のところにも、きて欲しいなあ。葉っぱが茂って、ボロボロになった本。
 
 世知辛い世の中だけれども、日経がこういう人を探し出してコラム書かせるなんて、そういう粋な事も起こるんだね。
 
 この日の日経の文化面には、僕がこのまえ行った岡鹿之助展の事にも触れていて、雪の発電所の絵も引用されていたんだ。
 なんか、ちょっと嬉しいな。
 
 ただ、それだけのはなし。

AYUMI HAMASAKI 20082008年05月25日

 結局、去年のあゆのコンサートの記録を、僕は書く事ができなかったんだよね。
 去年のあゆ、それは僕のあゆ仲間の、ずいぶん大きな転機と重なっていてね。だから、もしかしたらこれで最後になってもしょうがないなあ、回数も二桁に乗ったし、っていう事で、ずいぶんナーバスになってたんだろうな、きっと。
 コンサート自体は、初のアジアツアーっていう事で、懐かしのメロディーてんこ盛りで、それは楽しめたのだけれども。でも、久しぶりにスタンド席から観た事もあって、それはなんか、ノスタルジーに浸ってしまうコンサートだったんだ。
 あ、これは去年の話ね。
 
 結局、今年もいつもの通り、なじみのあゆ仲間と再会を果たす事ができたのだけれども。
 
 と言うわけで、一年ぶりの城ホール。今日はアリーナ、それも花道かぶりつき。
 
 正直に云うと、僕はこの頃のあゆの熱心な聴き手ではなくってね。CDもDVDも購入するけれど、CDは一度二度聴いてあとはiPodのランダム再生だし、付録のDVDはおろか購入したDVDもほとんど観てない状態なんだよね。
 だから、あんまり偉そうな事は言えないのだけれども。
 僕の中で、浜崎あゆみのピークはね、ずいぶん昔の話になって申し訳ないのだけれど、アルバムDUTYの、Dutyとvogueの間、なんだよね。つまり、この2曲が極大点。それからずいぶん経ったけれど、未だに輝きを失ってない2曲なんだよね。
 
 今回のステージはね、そんな僕におあつらえ向きの、懐かしの、この頃あんまり聴けなかった曲のオンパレード。
 そういうと、この頃の曲がおもしろくないみたいだけれど、そうではなくってね、僕が一緒に歌えるのが、A BESTの頃の曲だけだっていうのが一番大きな理由なのだけれどもね。
 
 今回もアジアツアーっていう事で、これまでのライブのいいとこ取りプラスαを狙ったんだと思うけれど。ピンクのミニの制服からSM系ボンテージなどなど、おいしいところ詰め合わせ。しかも今回は花道かぶりつきだから、あゆが花道に着たときには、最短推定5メートル。あゆかわいい。昨日の打ち上げの後遺症か、ちょっと顔ぱんぱんだけれども。でもかわいい。
 
 今回のクライマックスはね、これまでに全く観た事がない、吊しもののダンス。白い布が二本ずつ垂れ下がっていてね、そこを三人のダンサーさんが昇っていって、出初め式のような舞を舞うのだけれども。
 これはね、今までのあゆステージの中でもダントツの舞。どうやったって命綱が張れるタイミングじゃないところを、腕と、アシに巻き付けた布の摩擦係数だけで身体を支えて。あまつさえ推定10メートル以上を落下して、唄ってるあゆのすぐ上で、布の締め付けだけを頼りに身体を止めたりして。
 ごめん、全く描写ができていないのだけれども。つまりはものすごいアクロバット。
 そして、下で唄ってるのはEnd Roll。
 
 もう戻れないよ
 どんなに懐かしく想っても
 あの頃確かに楽しかったけど
 それは今じゃない
 
 君は、どこにいるの
 君は、どこに行ったのか
 遠い旅にでも出たんだね
 一番大切な人と
 
 そして、
 衣装替えのあとの一発目が、SURREAL。
 
 lalala
 どこにもない場所で
 わたしは、わたしのままで立ってるよ
 ねえ君は、君のままでいてね
 そのままの、君でいて欲しい
 
 僕は、想いだしたよ。
 アイドルなんてケッ、って思ってた十年近く前の僕が、なんであゆを好きになったのか。
 僕のあゆ友は、長瀬君の思いでコンサートだったね、っていっていたけれど。でも、この曲達は、長瀬君と別れる、ずっと前にできてた曲なんだよね。
 つまり、ずっと痛みに耐える準備をしてたんだよね、あゆは。
 その、痛みに耐える強さや弱さを飛び越えて、常に痛みに備えなければいけない、それ自体の痛みに、僕は共鳴したんだよね。
 その痛みは、アルバムI am...を頂点にして、強さに置き換わっていくのだけれども。
 その頃のあゆの、まだ喉も出来上がってなくって、ツアーの途中で声が涸れてシャウトするしかなかった頃の、あの痛さが久しぶりに甦ってきたよ。
 
 ボンテージを着て、推定5メートルで唄うあゆの後ろ姿を観てたら、露わになった肩から二の腕にかけて、年齢相応の脂がのっているのに気がついたんだ。
 なんか、安心したな。
 エイベックスを一人でしょってた頃の、体脂肪一桁のあゆもいいけれど、でも、やっと。人間らしいスタンスをやっと手に入れたんだな、って。
 余計なお世話かもしれないけれども、嬉しかったな。
 
 PAの問題なのか、ちょっと耳を気にする様子があって、少しだけ気になったのだけれども、プロフェッショナルのボーカリストに、それは失礼な心配だよね。
 
 ともあれ。
 久しぶりに近くから見る等身大のあゆ。

 やっぱり、あゆかわいい。

ご苦労様、鈴木亜久里2008年05月26日

 ここ数年、僕は決してF1の熱心なファンというわけではないのだけれど。(なんかそんなことばっかりいってるね、この頃)
 それでも、僕が熱心にF1を観ていた頃に活躍していた鈴木亜久里が、自分のチームを率いてがんばってる姿がテレビに映ってたこの頃は、琢磨の分かりやすいキャラクターもあって、応援してたんだよね。スーパーアグリ。
 
 F1ドライバの、どのくらいの人が自分のチームを作りたいって思うのか分からないけれど。でも、僕がF1見始めてから20年くらい経つけれど、元ドライバの名前を冠したチームって、プロストとアグリくらいしか思いつかないよね。
 だとしたら、プロストに次ぐ、快挙、なんだよね。
 
 もちろん、弱小チームだからお金もなくって、ホンダから型落ちのクルマもらってちょこちょこ改良してがんばってたのだけれども。
 それでも、たまには予選でベスト10に入ったり、決勝だって8位入賞とか、6位入賞なんて奇蹟も見せてくれたりして。
 フェラーリとマクラーレンとウイリアムズとルノー。その間はずいぶん離れちゃってるけれど、4強が歴然としているエフワン界で、更にトヨタもホンダも本気になってる中で、ワークスチームが8位だ6位だって、優勝したような騒ぎになるのも当然なんだよね。
 
 そんなチームが、このまえのトルコから、消えちゃったんだ。解散。
 もちろんずっと、資金難だったのは知ってるんだけれどもね。
 
 僕はよく分からなかったんだよね。
 僕は地上波でしかエフワンを観られない人なのだけれども。そしてフジテレビのエフワン中継にはホントに我慢できない人なのだけれども。
 でも、それしか観られないからしょうがなく観ていて。
 そして、よく分からなかったんだ。
 なんで、スーパーアグリの、佐藤琢磨の話題が少ないんだろう、って。
 そりゃあ、日本人初のエフワンドライバ、中嶋悟の息子が、しかもウイリアムズに乗ってるとなれば、それも絵になるけれど。
 でも、判官贔屓の日本人。ワークスチームを、私財をなげうって(かどうか知らないけれど)作って、貧乏にあえぎながら希望に満ちたレースをするアグリと琢磨が、理不尽に無視されてる気がしたんだよね。特に今年の中継で。
 
 そして、トルコGP直前の、解散宣言。
 
 世事に疎い僕は、まだよく分からなかったんだけれども。
 
 今日、Numberのスーパーアグリの記事を読んでね。ああ、そういう事なのか、って。
 つまんない事なんだけどね。
 
 つまり、スーパーアグリの解散は、スポンサー探しの失敗と、レギュレーションの変更によるワークスチームの運営費上昇にあるのだけれど。
 決まっていた大手スポンサーの契約金不払いとか、交渉中の大手スポンサーの理不尽な撤退とか。決まりそうだったスポンサーには、ホンダから規模が小さいとかケチがついたりとか。
 結局、兄貴分のホンダが、弟分を見捨てたっていう風に断じる海外の新聞もあったりして。
 
 その理由が、ある人の推測によると。
 大手メーカーは、(自分のマシンやエンジンを使っている)弱小ワークスチームが、自分より人気があったり前を走ったりするのが許せない。って。
 
 確かに、去年の成績を見てみると、
 第4戦で1ポイント、そして第6戦で奇蹟の3ポイントを獲得したスーパーアグリは、終盤戦でがんばったHONDAに結局抜かれてしまうけれど、ずいぶん長い間、HONDAよりもポイントで勝ってたんだよね。しかも琢磨がいるから、日本での人気もおいてかれてたし。
 型落ちのマシン恵んでやってんのに、生意気な、って思ったのかも知れないよね。
 
 エフワン中継だって、ホンダのスポンサードだからね。生意気なスーパーアグリに時間を割くな、なんてこともあったかも知れない。
 わかんないけどね。
 でも、そうでも考えなかったら、ジャパンパワーなんて無様な標語を絶叫するエフワン中継で、琢磨や亜久里の話題は少なすぎたよね。
 もちろん、中嶋一点主義っていう短絡的なフジテレビの選択だって事も大いにあるのだけれど。
 
 でも、そんな可能性に思い当たってしまったら。そんなっていうのは、HONDAによるアグリいじめってことだけれども。
 そんな可能性に思い当たってしまったら、もう、スーパーアグリのいないエフワンなんて、見たくないな。
 少なくとも、アグリを見捨てた(のかも知れない)HONDAと、フジテレビの中継は、見るのも嫌だな。
 
 モナコでハミルトンが勝って、今年もやっぱりおもしろくなりそうなのだけれども、ね。
 
 鈴木亜久里さん。
 鈴鹿の表彰台とか、最後にスポットで出てリタイアしたあと、川井チャンのインタビューで「次がんばって下さい」っていわれて、「次はないよ」っていった寂しげな顔とか。名シーンが多かったね。
 結局日本人で一番速かったんだよね。
 
 ありがとね。
 スポーツは若いヒトの情熱を楽しむものだけれども、オッサンの情熱、確かに伝わったよ。
 エフワンを、嫌いにならないでね。
 おねがい。
 
 
 ただ、それだけのはなし。