戦場で 〜ガンダムはララアに逃げたのか?〜2007年12月09日

 ちょっと前に、京都でやっていた安彦良和原画展、っていうのに行ってきたことがあって。
 その際に買った「Cut」っていう雑誌の、ガンダムの「哀しみ」を越えて、っていう特集号を読んだこともあって。
 数日前に開局した新しいBSデジタルの放送局が、福井晴敏をホストにしてガンダム特集の番組を長々とやっていたこともあって。
 そんなこんなで、ちょっとガンダムモード、なんだよね。
 
 今回のテーマは、ライナーノートについてです。
 ガンダムのBGM集第二弾、戦場で。
 僕が小学生の頃に、何ヶ月分かのお小遣いを一生懸命に貯めて、ようやく買ったレコード。安彦良和の絵がとってもかっこよくって買ったのだけど、音楽は当時の僕でもちょっと?と思うようなものだったな。今聴けば、お金かけて本物のストリングスで録った演奏は、そんなに古びてもいないのだけれど、歌はね。。
 
 まあ、いいや。
 今回のテーマは、ライナーノートだから、ね。
 このレコード、戦場で、には、ガンダムの生みの親である富野喜幸(改名前ね)が一文を寄せているのだけれど。最近それをあらためて読んだらね。
 「所詮、ガンダムはララアに逃げて終わったではないか」って。
 多分小学生にはなんのこっちゃ解らなかったと思うのだけど。この頃良く、考えるんだよね。ガンダムはララアに逃げて終わったのか、って。暇だね。
 
 つまりそれは、ガンダムのようなリアリティのある物語を描ききるのに行き詰まって、ララアに代表されるニュータイプっていう便利な概念を使って、そのハードさをうやむやにしたじゃないか。ってことなんだろうと思うのだけど。
 確かに、ガンダムの評価って、そのハードでリアル(ロボットのもにしては、ね)な部分と、ニュータイプっていう新しい概念(ロボットものにしては、ね)を提唱した、っていう二点に対して与えられているモノだと思うのだけど。ニュータイプは、逃げ、なのかなあ。
 
 確かに、ヒトが生活域を拡大していって、それに順応するために新しい能力を身につけた個体が出現して、それと古い世代が対立する、っていうのは、ものすごく古くて普遍的な図式だよね、エスエフでは。竹宮恵子の地球へとか、そのものずばりだし。
 ガンダムにおいても、最初はヒトの革新とされてきたニュータイプが、戦争の道具になって、ついにはパイロット適正のある人のこと、っていう定義になってしまうあたり、(シリーズものの中では)メイン・テーマとしての意義を失っていったけど。
 
 でも、この時点(まだオリジナルガンダムしかない時点)では、ニュータイプはメイン・テーマたり得るものであって、ララアも必然だった、と思えるのだけど、ね。
 何より富野の大好きな人の革新を巡る対立軸の、明確なスタンダードが「ニュータイプを生み出す宇宙の人々」と、「生み出さない地上の人々」に設定されていたからね、最初から。
 
 とかいろいろ考えていたのだけれど。
 最初にいった、安彦良和原画展で買ったCutの富野由悠季のインタビュー読んでたらね。ああ、ララアって、必然であり、逃げだったのね。なるほど。
 それは、富野の中のドラマツルギーでっていう意味で、なのだけれど。
 
 今になってから、こういうインタビューがよく出てくるけれど、当時ガンダムを作っていた人たちの年齢を超えた僕が読むと、それは味気ない種明かしであったりもするのだけれども、あのアウトプットを出すための方法論、っていう意味ではとっても参考になるだよね。
 何よりおもしろい、し。
 
 ただ、それだけのはなし。

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