クレギオン・シリーズ by 野尻抱介2007年12月03日

 読書の秋ってしゃれ込んでいるわけではないのだけれどもね。11月はたくさん本を読んだな。15冊くらい、かな。
 こんなにたくさん読んだのは、シリーズもののまとめ読みがあったからなのだけれど。
 前に紹介した模倣犯よりも前に、全7冊をまとめ読みしたシリーズもの、紹介するね。
 
 ちょっと前に紹介した、太陽の簒奪者の野尻抱介。彼のデビュー作から続いているクレギオン、っていうシリーズなのだけれど。
 太陽の簒奪者があまりにおもしろくって、このクレギオンの第一巻をすぐに買ったのだけれども、かなりの間、未読の本棚に放置してたんだよね。期待と不安が入り交じる、って感じで。
 
 立て続けにあった東京出張の、新幹線のお供として読み始めて。そして後悔。
 なんでこんなおもしろいもの、本棚の肥やしにしてたんだろう、って。
 それから第2巻をアマゾンで注文して。来るのを待ちきれずに3から7巻を古本屋でまとめ買いして。
 4日で6冊、読み倒したのだけれど。
 
 野尻抱介ってね、ハードエスエフの作家なんだよね。多分本人はそのつもりなんだろうと思うんだ。
 エスエフ考証がしっかりしている、っていう意味ではもちろん、紛れもないハードエスエフなんだけどね。だけど、ロケットガールもそうだけれど、エスエフには萌えが不可欠、って信じている人でもあるんだよね。(エスエフには、っていうか富士見書房には、っていうのかも知れないけれど)
 
 このクレギオン、っていうシリーズは、50がらみのオッサンと、妙齢のおねえさんと、16歳の女の子のいる運搬屋が繰り広げるどたばたエスエフなんだ。
 第一巻はね、この作家のデビュー作ってこともあって全然こなれてないのだけれど、まだ読者層をつかみきれずに、どっちにころんでもいいように描いてるんだよね。その分、印象は散漫で下手さが目立つのだけれど。でもハードエスエフを描こう、っていう意気込みはもう、鳥肌立ちまくるくらいに感じられて。
 ただ、このときゲストキャラとして登場した16歳の女の子をそれからの主人公に設定した時点で、第1巻で匂わせていたハードボイルドの匂いや、大人の恋の匂いを完全に消し去ってしまったのはちょっと残念だったけど。
 
 でも、毎回違ったエスエフ舞台を設定して、僕みたいなオッサンはもちろん、萌え〜のアキバ系や、16歳の女の子を同世代としてみる男の子達まで、ストーリーと語り口で魅せながら、きっちりハードエスエフを味合わせるっていうこのシリーズ、7巻でおしまいじゃあもったいないよ。
 クラッシャージョウやダーティー・ペアに匹敵するエンターティメント。高千穂遥とは比べものにならないハードエスエフの魅力を満載したこのシリーズ。早川に版権移ったのをきっかけに、再開して欲しいなあ。
 もうちょっと、大人のものがたりを入れて、ね。
 
 ただ、それだけのはなし。

戦場で 〜ガンダムはララアに逃げたのか?〜2007年12月09日

 ちょっと前に、京都でやっていた安彦良和原画展、っていうのに行ってきたことがあって。
 その際に買った「Cut」っていう雑誌の、ガンダムの「哀しみ」を越えて、っていう特集号を読んだこともあって。
 数日前に開局した新しいBSデジタルの放送局が、福井晴敏をホストにしてガンダム特集の番組を長々とやっていたこともあって。
 そんなこんなで、ちょっとガンダムモード、なんだよね。
 
 今回のテーマは、ライナーノートについてです。
 ガンダムのBGM集第二弾、戦場で。
 僕が小学生の頃に、何ヶ月分かのお小遣いを一生懸命に貯めて、ようやく買ったレコード。安彦良和の絵がとってもかっこよくって買ったのだけど、音楽は当時の僕でもちょっと?と思うようなものだったな。今聴けば、お金かけて本物のストリングスで録った演奏は、そんなに古びてもいないのだけれど、歌はね。。
 
 まあ、いいや。
 今回のテーマは、ライナーノートだから、ね。
 このレコード、戦場で、には、ガンダムの生みの親である富野喜幸(改名前ね)が一文を寄せているのだけれど。最近それをあらためて読んだらね。
 「所詮、ガンダムはララアに逃げて終わったではないか」って。
 多分小学生にはなんのこっちゃ解らなかったと思うのだけど。この頃良く、考えるんだよね。ガンダムはララアに逃げて終わったのか、って。暇だね。
 
 つまりそれは、ガンダムのようなリアリティのある物語を描ききるのに行き詰まって、ララアに代表されるニュータイプっていう便利な概念を使って、そのハードさをうやむやにしたじゃないか。ってことなんだろうと思うのだけど。
 確かに、ガンダムの評価って、そのハードでリアル(ロボットのもにしては、ね)な部分と、ニュータイプっていう新しい概念(ロボットものにしては、ね)を提唱した、っていう二点に対して与えられているモノだと思うのだけど。ニュータイプは、逃げ、なのかなあ。
 
 確かに、ヒトが生活域を拡大していって、それに順応するために新しい能力を身につけた個体が出現して、それと古い世代が対立する、っていうのは、ものすごく古くて普遍的な図式だよね、エスエフでは。竹宮恵子の地球へとか、そのものずばりだし。
 ガンダムにおいても、最初はヒトの革新とされてきたニュータイプが、戦争の道具になって、ついにはパイロット適正のある人のこと、っていう定義になってしまうあたり、(シリーズものの中では)メイン・テーマとしての意義を失っていったけど。
 
 でも、この時点(まだオリジナルガンダムしかない時点)では、ニュータイプはメイン・テーマたり得るものであって、ララアも必然だった、と思えるのだけど、ね。
 何より富野の大好きな人の革新を巡る対立軸の、明確なスタンダードが「ニュータイプを生み出す宇宙の人々」と、「生み出さない地上の人々」に設定されていたからね、最初から。
 
 とかいろいろ考えていたのだけれど。
 最初にいった、安彦良和原画展で買ったCutの富野由悠季のインタビュー読んでたらね。ああ、ララアって、必然であり、逃げだったのね。なるほど。
 それは、富野の中のドラマツルギーでっていう意味で、なのだけれど。
 
 今になってから、こういうインタビューがよく出てくるけれど、当時ガンダムを作っていた人たちの年齢を超えた僕が読むと、それは味気ない種明かしであったりもするのだけれども、あのアウトプットを出すための方法論、っていう意味ではとっても参考になるだよね。
 何よりおもしろい、し。
 
 ただ、それだけのはなし。

Mt. Uji Jazz Festival '07 with PLUE NOTE2007年12月29日

 本当に、久しぶりに。
 いってきました。Mt.Uji JAZZ FESTIVAL。
 Specioal宇治金時Lunchtimesっていうバンドがね、年に一回開催しているお祭り。
 
 Specioal宇治金時Lunchtimes(長いから、以後宇治金ね)は、ジャズのビッグバンドで、もう20年以上も前から活動しているのだけれど、今回のMt.Ujiは、そのバンドを中心に、ピックアップメンバーによるコンボもいくつか参加した、長時間の本格的なフェスティバル。
 僕も十年前までは、このバンドの末席を汚していたことがあってね。それ以降は、たまにライブ録音のCDを聴かせてもらうくらいで、生演奏にはご無沙汰だったのだけれども。時折録音で聴かせてもらう演奏は、もう僕のいた頃とは比べものにならないレベルでね。
 
 というわけで、十年ぶりの浦和に、足を踏み入れたんだ。
 ああ、ビックリ。
 これが、浦和?
 浦和ってね、ただでさえ存在感のない埼玉県の、本当に存在感のない(新幹線さえ止まらない)県庁所在地だったのだけれども。それがびっくり、合併してさいたま市になって、名実ともに政令指定都市の県庁所在地になった自信からか、浦和駅もものすごく様変わりしていてね。昔は見晴らしが良かった(気がする)東口に、でっかいパルコなんかできていて。
 今回の会場の、ホーリィクリエイティブスペースっていうのは、昔は駐車場の2階にあったのだけれども、それが今ではパルコの敷地。さて、あたらしいHollyはどこだろう。
 東口、徒歩二分、コンビニの上、ってキーワードを頼りにね、ちょっと探し回ったけれど、見つけました。こぎれいなレンタルスペース。
 ちょっと緊張してたんだよね。
 宇治金のライブ、十年ぶりだし、最後にメンバーと会ったのも、メンバーの結婚式以来、四年ぶり?
 お前誰? とかいわれたらどうしよう、って。
 もちろん、杞憂なんだけどね。
 
 パーマ液くさいエレベーター(2階が美容院なんだね)を4階で降りると、リハの音。そして、踊り場には知った顔が思い思いに休憩を取っていて。
 その瞬間、もう十年ぶりなんてことは関係なくって。
「よう、げんき?」
「はい、元気です」
 それだけで、ずっと逢っているような位置関係。
 そういうのって、いいよね。
 
 もちろん、十年前にはいなかった人たちや、その頃には中学生だった人たちなんかもいたりするんだけれども、前にここのメンバーだったんだよ、っていうだけですんなり受け入れてくれて。
 ありがとね。
 
 演奏はね、今回はコンボ三つとジャムセッション、そしてトリにビッグバンドだったのだけれども。
 
 最初のFunFuctory type-Rは、ロックバンド。宇治金はジャズのバンドだけれども、だからって他のジャンルを否定する人なんていなくてね。普段はラッパやトロンボン吹いてる人たちがギターに持ち替えて奏でる往年のロック。
 これをロックっていうかわからないけれど、公家さんのたどり着いたらいつも雨降り、かっこよかったなあ。
 このバンドには強烈な飛び道具が用意してあってね。ゲストボーカルのちえるちゃん。サディスティックミカバンドの曲を何曲か歌ったのだけれども、ああ、トレーニングを積んでいるボーカリストっていうのはやっぱり違うんだな、って。ホントにトレーニングを積んでいるのかは知らないけれど。
 声や容姿のコケティッシュさ(生足のミニスカートまで含めてね/(^O^)\)もそうだけれど、キレの良さとリズム感が、気持ちいいんだなあ。ジッタリンジンなんて唄って欲しいなあ。
 帰ってから、早速タイムマシンにおねがい、iTunes Storeで買っちゃったよ。
 
 次のバンドはうって変わって、オヤジだらけのワンホーン。ドジャズってやつ。
 これは宇治金の中核メンバーの鳥井のセッション仲間らしいけれど、こいつら変態。唄うベースとねちっこい太鼓と、我慢のできる切れ切れサックス。
 なんて表現していいかわからないけれど、アマチュアじゃなかったらできない、生演奏じゃなかったらおもしろくない、でも、めちゃくちゃスリリングでおもしろくって、しかもバラードではほろっと来てしまう。大学ジャズ研のOBが学祭にあそびに来て、余裕たっぷりにセッションをしている、そんな感じでおもしろかったなあ。
 差し入れにボジョレヌーヴォー持って行ったのだけれども、ほとんど一人で飲んでいて、なんか涙が出てきたよ。
 
 お次は、MMJG。Mixi Modern Jazz Groupだったっけ? この面子で仙台までいって演奏してきたらしいお馬鹿集団。
 ホントにこの人達は。
 学生のような莫迦さ加減と、四十がらみの経験と、セミプロのアレンジを一緒にして。
 しかもピアニカやらオカリナやら持ち出して。
 反則。
 いいなあ。
 梅酒とウイスキー、手酌でどんどんいってました。
 
 そういう芸達者が多いからね、セッションも大いに盛り上がって。今までうずうずしてただろう後藤匠(ts)も加わってほとんどテナーマドネス。もう朦朧としていたけれどね、僕は。
 
 最後のバンドは、みんな揃ってビッグバンド。
 いきなりちえりちゃん出てきて、なんと、残酷な天使のテーゼ。
 そういえば、僕にエヴァを教えてくれたくにやすさん(ds)がいないな。なんでも仕事で缶詰になってドタキャンらしい。多分くにやすさんと鳥居でしくんだこの曲、叩けなくて無念だろうな。
 
 二時半から7時くらいまでだから、たっぷり4時間以上。ご苦労様でした。みんな。
 
 打ち上げにも参加させてもらって、ホント楽しかった。
 今度は10年後じゃなくって、近いうちにまた行くね。
 では。
 
 ただ、それだけのはなし。

オオウエエイジの第九 一日目2007年12月30日

2007年12月29日
大阪フィルハーモニー交響楽団 創立60周年記念講演
大植英次 ベートーヴェン 交響曲全曲演奏会 IV
大植英次:指揮
スザンネ・ベルンハート(ソプラノ)
スザンネ・シェーファー(アルト)
シュテファン・ヴィンケ(テノール)
クリストフ・シュテフィンガー(バリトン)
大阪フィルハーモニー交響楽団
大阪フィルハーモニー合唱団
三浦宣明:合唱指揮

ベートーヴェン:交響曲 第9番 合唱付き

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 今日は、じいさんの七回忌、だね。
 そして、オオウエエイジ、ベートーヴェンチクルスの、最終日。オオウエの第九。
 僕は、この日のチケットを、最初に大フィル会員になった席のすぐそばにとったよ。じいさんを食い入るように見つめた角度から、オオウエの、第九を観たくてね。
 
 久しぶりのフェス。改修工事で、椅子が新しくなったのかな。真っ赤なフェルトをまとった椅子は、ふかふかな座り心地。
 それはいいんだけれど、座席番号が椅子の背もたれじゃなくって、座る部分に書いてあるものだから、お客さんがみんな入ったあとに滑り込むと、座席番号がさっぱりわからない。それでなくてもフェスの座席番号はわかりにくいんだから、どうにかして欲しいなあ。
 あ、なんでわかりにくいかっていうとね、普通のホールって、おんなじ列だったら左から一番二番ってなってると思うんだけど、フェスは、ど真ん中が中心で、そっから右にRの一番二番、左にLの一番二番ってなってるんだ。通い慣れてる人はいいけれど、たまに来る人はちょっととまどうよね。どうでもいい話だけれど。
 
 オオウエが大フィルに来てはじめて振る第九。もちろん会場は満員でテレビカメラ付き。わくわくするよね。
 
 木管が数人練習しているステージに、最初に入場したのはコーラス。そして管弦楽。ソリストはあとから入ってくるんだね。
 そして、オオウエエイジ。
 
 人類の宝、第九。
 出てきた音は、
 
 正直、ちょっととまどったんだよね。
 普段、シンフォニーホールで聴いている位置よりも多分近い位置なんだけれど、音に満たされた感じがない。反響のない、生音だけが、それもフェルトを通したみたいに聴こえてきて。
 ああ、フェスなんだ。デッドなホールなんだ、って妙に納得したりして。
 それと、となりのお客さんが妙に顔を動かして拍をとるのが横目に気になって、ちょっと入り損ねちゃったんだけれども。
 でもその分、両翼に拡がったヴァイオリンのステレオ効果とか、冷静に楽しんでたりして。
 
 もちろん、そんな余裕はすぐになくなったんだけどね。
 僕の耳がデッドなホールに慣れたのか、出てくる音が白熱してきたからなのか定かではないんだけど、1楽章の後半、2楽章に入ったあたりではもう、僕は音の洪水に埋まっていた。
 それは本当に、潮が満ちてくるみたいに歴然としていてね。もうとなりのおじさんの首の動きなんて、全然気にならなくって。(ただ、カメラの移動のきしみ音はどうにかして欲しかったなあ)
 
 
 そして。
 ソリストが入って(どうでもいいけれど、メゾのおねえさんキレイ)、客席の動きを気にしたコンマスの制止を振り切って、オオウエが振り始めた3楽章。
 僕は、耳を疑ったよ。
 何が起こったのか、わからなかった。
 
 いきなり、音の海の深いところに、僕はいたよ。
 2楽章でも、音が満ちてきたのはわかったんだけれども、まだ波打ち際に築いた砂のお城が崩れるくらいだったんだけれど、3楽章はいきなり、深海。ぶくぶくぶく。上もしたもわからない。ぶくぶくぶく。
 思えば、2楽章の最後、コードが途切れるときに弦バスだけちょっと残ったところから、罠にかかってたんだね、きっと。
 
 今回、それが譜面通りなのかどうかよくわからないんだけど、長原君が走るんだよね。ヴァイオリンのアンサンブルが、それで乱れることが多かった。
 それが、3楽章くらいから合うことが多くなったことも関係あるのかもしれないけれど。
 
 何が起こったかっていうとね。
 いきなり、音が厚くなった。
 それまでは、ベートーヴェンだってこともあり、フェスだってこともあり、オオウエが創ってきた分厚い響きを感じることがあんまりなかったのだけれど。3楽章に入って、いきなり分厚い音。
 それまで苦しげに吹いていたラッパも、いきなり豹変して。あ、苦しげっていうのはいわゆるベートーヴェンの音、っていう意味で、技術的にどうこう、っていうのとは全く官界ありません。
 分厚い音でぎちぎちとシリアルに音を運んでいって。そして、その緊張感を和らげるように、時々オオウエエイジが横を向いて横顔を見せてくれる。ニコニコした、嬉しそうな顔をね。
 その顔で、ああ、ベートーヴェンの音楽は、喜怒哀楽の音楽なんだ、って、少しリラックスして聴けるようになって。
 
 奇蹟の3楽章。
 
 そんなことばが、聴いている間中頭の中を駆けめぐって、瞼が腫れぼったくなったよ。
 
 そして、休み無しに4楽章。
 今回は、って第九ではいつもそうなんだけれど、オオウエエイジがどうって云うよりも、曲に圧倒されたんだ。
 ミーハー感を嫌悪して、第九や運命とは距離をとりたがる僕だけれど、やっぱり人類の宝、すごい曲だね。
 最初の、バリトンのソロ。このおじさんは、長原君と対照的にあとのりなんだ。ソロの間、どんどん曲が重くなっていって。まあそれもスリルなんだけれど。
 オオウエエイジの指揮は、いくつかリタルダンドでケレンを見せる以外はいたって自然で。ちょっと速めなのかな、晩年のじいさんと比べたら。でもそんなこと全く気にならなくて。あたり前だけれど。
 
 手に汗握る、っていうよりもただただ圧倒され続けて、曲が終わったよ。
 
 ソリスト、合唱指導の先生も交えての長いカーテンコールのあと、蛍の光は無しなんだね。第九の夕べじゃないからね。
 
 半年間、ベートーヴェンに向かい合ったオオウエエイジと大フィルの皆さん。
 ありがとう。
 なんだかんだいってきたけれど、やっぱりベートーヴェンってすごいし、オオウエの振る大フィルを聴くのは、楽しいなって再確認したよ。
 来年の定期のプログラム、また冒険に満ちたプログラムだね。つき合うよ。
 
 さて。
 オオウエのチクルスは今日でおしまい。
 あしたは、年末の第九、聴きにいくよ。
 
 じゃね。

大植英次の第九 二日目2007年12月31日

 さて。
 昨日に引き続き、今日もいってきたよ。オオウエの第九。ばかだね。
 昨日は、ベートーヴェンチクルスの最終日。そして今日は、年末恒例の第九を気楽に楽しむつもりだったんだけれども。直前に連絡が入ってね、祈りの第九になったんだ、個人的なことだけれども。

 今日の席は、二階席の一番前。B列だから二番目だと思っていたのだけれど、端の方にちょこっとA列があるから、大体はB列が最前列なんだ。
 ちょっと左寄りで、僕がシンフォニーホールでベートーヴェンを聴いていた角度に近い席。

 上から見下ろすステージは、でっかいね。でっかいオケに、合唱が入ってもまだまだ余裕のある感じ。あほなおっさんが、マーラーの千人の交響曲を千人で演奏したステージだもんね。

 さて。
 進行はもちろん、昨日とおんなじだから、簡潔に言うね。

 今日の第九は、完璧に、オオウエエイジの第九だったよ。
 何がどう、っていう訳じゃないのだけれど。

 上から見下ろすステージから出てくる音はね、きちんと響くのだけれど、でも全体像がつかめて、微妙な機微まで俯瞰できるって言う絶妙のコンディションで。
 それはもう、1楽章の頭からエンジン全開で。
 昨日みたいに、やや響きが頼りなく聞こえたりすることなんてまるでなくって、大植英次が作り上げてきた分厚い音の大フィルサウンド、そのまま。
 あの音でベートーヴェンをやると、それはもう、昨日とは全く違った曲。昨日の音楽は、じいさんに捧げたのかな、と思うくらい。
 もちろん、どっちがどうって言うものではなくってね。でも、オオウエエイジの指揮から出てくる音としては、今日の方が好きだな。
 ただ単に、座った位置の関係、っていう可能性のほうが、大きいのだけれどね。

 昨日は奇蹟の3楽章、だったけれど、今日は1楽章からずっと奇蹟。それが曲なのか演奏なのかは、相変わらず分からないけれど。
 2楽章後半からかな。後ろの方から、鼻をすする音がずっと聞こえてきて。ああ、嗚咽を堪えきれないんだろうな、と思うと共感もするけれど、その音が僕を現実に引き留めてくれたんだね。
 飲み会で、誰かがつぶれちゃうと酔っぱらえなくなるの一緒でね。
 4楽章からは、その音もやんで、僕も曲の中にずっぽり入っていったんだ。
 音の厚いところはね、もうこれはオオウエ節全開なんだけれど。薄くなったところ、すごいね。クライマックス前にソリストの掛け合いがあるんだけれど、その時に、クラリネット2本とファゴットだけの部分があって。え、そんな音がするんだ、って。久しぶりにステージを探したよ。金管楽器のロングトーンみたいな音なんだけれど、今まで聴いたことがない響き。昨日も聴いてるんだけれど、気がつかなかったなあ。

 昨日もずっこけれたけれど、最後の合唱のトゥッティ前、ホルンのリタルダンドはやっぱりやりすぎだよなあ。オオウエエイジ。

 昨日よりずっと多かったブラボーコールを浴びながら、満面の笑みを浮かべるオオウエエイジ。
 年の瀬に第九を聴く習慣って、素敵だね。何となくそう思えてきたよ。
 ありがとね。

 30日まで働いた楽団員の皆さん、ご苦労様。
 良いお年を。