尾高さんの、バリバリの、ブルックナー6番 ― 2024年01月23日
1月だね。今年はあまり明けましておめでとう、という感じではない年明けだけれども。
1月って言うと、はじまりと言うより、第4四半期のはじまり、つまりは終わりの始まり、という慌ただしさが頭にくるようになっちゃったんだよね。いつからかな、職業病だな。
まあいいや。
僕は、大フィルさんは定期会員って云って、毎回同じ席ので聴いているのだけれども。そのチケットは、定期演奏会10枚が一冊になった綴りのチケットなんだよね。
この数年、もっとかも知れないけれど、その綴りのチケットで、半券がまだついているやつが結構残ったんだよね。つまりは、行けなかった演奏会がたくさんあったの。行けなかっただけじゃなくって、行かなかったものも結構あるのかな。
それが、今年はね、1月だから、8回目の演奏会なのだけれども、全てのチケットが半券切られてるんだよね。つまり皆勤賞。あたり前のことなんだけどね、ちょっと嬉しい。
とはいえ、他のコンサートはチケット取っても行けなかったやつも結構あって、ちょっと残念なのだけれど。
まあいいや、そんな訳で、ここには書いていないけれど、大フィルさんを聞くのをやめた訳じゃないよ、という事です。
あらためて、そんな訳で、1月の定期。
尾高さんのブルックナー、6番。
ちょうど会場で、7番のCDが発売になってたんだ。今年は生誕200年のブルックナーイヤーらしいから、いろいろな曲がなまで聴けそうだね。
という事で、今年の大フィルさんのブルックナー1発目は、6番。
渋いね。そのあとも、尾高さんの特別演奏会では、0番、1番、2番って続くようなのだけれども。
どれもこれも、もしかしたら生で聴くの初めての曲? もちろん、せっかくブルックナーだったら、他の大曲も聴きたいのだけれど、まず6番、どういう演奏になるんだろう。
生では聴いたことない、とはいえ、CDではもちろん聴いたことがあって、知らないフレーズ、って言うのはあんまりない、筈だったんだけどね。
尾高さんのブルックナー、面白いね。
何が面白いって、そのバランス、って言うか、鳴りの良さ。
木管楽器のソロが結構多いのだけれども、そんなに気張って吹いている訳ではないのに、飛び抜けて聞こえてくるのは、弦の透明感があるから、なのかな。
聞こえてくるべきメロディーがあって、確かにそれは聞こえてくるのだけれど、でも、主役はそこではなく、ああ、こんな事をやっていたんだ、これが主役なんだね、っていう所が結構たくさんあって。それは家でCDで聴くのと音質も音量も集中力も違うからなのだと思うけれど。
そして、僕の頭の中の6番と一番違うのが、トロンボン。
大フィルのトロンボンは、このごろものすごくてね。特にトップの福田えりみさんの音色と高音から低音まで質感が変わらない、ダイナミックレンジの広い音が僕は大好きなのだけれど。演奏の姿勢がいい福田さんは、1階席のど真ん中で聴いている僕に、常にベルを向けている状態で演奏してくれるから、そのせいもあると思うのだけれど、常にベルを揺らさないで演奏するって、なかなかできないんだよね。
でも、今日はトップの福田さんではなく、バストロかな。前列の人数の関係で、トップのベルの真ん前はファゴットの人の頭が来ていて、その分バストロのベルががら空き。そして、バストロの方の姿勢も良くって。
そして、演奏がえげつない。
ブルックナーの金管のコラールって、ホルンとトロンボンで成り立っていてね。指揮者やオケによって、ホルンが主体のバランスのところと、トロンボンが主体の演奏や曲があって。
トゥッティで、音量的には互角で、音色的にトロンボンが少し前に出る、って言うのが僕の好きなパターンなのだけれど。
この日のトロンボン、というかバストロとチューバなのか。
なんかのたがが外れてるのか、って言うほど、吹きまくり。バリバリ。
もちろん、音が割れている訳でも外れている訳でもなく、音楽なのだけれど、それでもあんまり聴いたことがないバランス。
それを止めない尾高さん。
フルトヴェングラーのタンホイザーって、こういう感じだったんだろうか、って思いながら、聴いてたよ。
なんか、爽やかな演奏だったな。曲のせいかな。パンフレットの解説にも書いてあったように、小難しい5番が、演奏家に受け入れられずに演奏されず、シンプルな6番を作曲した、みたいな感じらしく。
小難しいハードボイルドが全く売れず、開き直って書いた単純明快な新宿鮫がばか売れした大沢在昌みたいだな、と思ったんだよね。
ちょっと話がずれたけど。
こんな良い演奏、録音しないのもったいないなあ、と思ったら、この曲持って東京に討ち入りに行くんだね。
そういえば、尾高さんの録音は東京のものが多いのかな。まあ、機材とかエンジニアとか、大阪に来るのは大変なのだろうけれど、大阪の人が聴いた演奏、それを録音してほしいなあ。「俺これ聴いたんだぜ」補正って、間違いなくあるもんね。
まあいいや。
東京で、このバリバリの6番やって、大受けして、CDも発売してください。
待ってるから。
ただ、それだけのはなし。
大阪フィルハーモニー交響楽団
第574回定期演奏会 @フェス
指揮:尾高忠明
曲:武満徹 オーケストラのための「波の盆」
ブルックナー 交響曲 第6番
Originと、Originalと。 ~安彦カントクの、ククルスドアンの島〜 ― 2022年06月19日
GWから夏休みの間なんて、本来オフシーズンだよね。映画って。
それを、なんと3本も連続して観にいっちゃんだから、映画産業も大忙し、なのか、我々オッサンはお呼びじゃない、のか。
どっちなのかよく分からなくなってきたけれど。
この週末、どんくらい振りかよく分からないけれど、映画のはしごなんてして、5月のオッサン向け映画、片つけてきたよ。
先々週のトップガンに続いて、ガンダムとウルトラマン。
ガンダムはね、70年代のファーストのときに富野カントクの下でキャラデザインや原画ををやっていて、その後The Originって言うガンダムマンガを描いた安彦良和が監督した、ククルス・ドアンの島。ファーストのTVシリーズの第15話を膨らませた2時間の長編映画。
安彦ガンダムは、マンガのThe Originを描いたあと、アニメ版としてシャアとセイラの子供時代から1年戦争の開戦前までを描いたOriginを創って。そのあと1年戦争を全部アニメ化する、とか安彦さんが云っているのを観たような気がするけれど、結局実現したのがこのククルスドアン。
まあ、そりゃあそうだよね。キャラ描いたって漫画描いたって、ガンダムは富野さんの作品であって、安彦さんのものでは無いし。ストーリーも演出も、それは富野カントクのものだもの。
後からちょっと解釈付け加えたって、いくら魅力的な絵で描いたって、ガンダムは安彦さんのものじゃないものね。
とはいえ、まあ、リアルタイム世代としてはやっぱり1年戦争の新しい作品、って言ったら避けては通れないんだけれどもね。
観て思ったのは。
ああ、ずいぶんオリジナル版(ファースト)に寄せてるな、ってこと。
寄せている、って言うか、気を遣っているって言うか敬意を払っている、って言うか。なんていえばいいかよく分からないけれども。
アニメ版のThe Originは、ファーストでは語られなかった時代の物語で、なので完全な新作としてあんまり気を遣わずに作ったと思うんだよね。
The Originは僕はスクリーンではなくテレビで観ただけで、ククルスドアンはスクリーンで観ているので、その違いが大きいのかもしれないけれど。
ククルスドアンを観ながら、寄せてるな、って言うのは、たとえば。
セル画の(っぽいだけかもしれないけれど)解像度の低い、って言うか輪郭線の太い人物とか、筆のタッチが活きている、絵そのもの背景とか。
すごくアナログを感じたんだよね。
The Originがきれいなデジタルを感じさせたのとは違って。
そういう意味で、安彦さんは、ずいぶんファーストに気を遣っているんだな、って。もちろん、それは僕にとっては嬉しいことなんだけどね。
物語は、いろんなヒトがいろんな事を云っているから、ぼくは愉しみました、だけでいいと思うのだけれど。
最初のシーン、ブライトの艦長室(?)に飾ってあった写真、あれ、フラミンゴの写真だよね。それって結構後の話なのでは? ってところに引っかかってたんだよね。ずっと。
まあ、いいのだけれど。
あらためて、アムロを観てみると、その人見知りさが、こんなにだっけ、って思ったり。エヴァンゲリオンの碇シンジが出てきたときに、庵野カントクがガンダムの第1話をすごく意識した、っていう話を聞いて、いやシンジはアムロよりずっとひどいから、と思っていたけれど、結構いい勝負だったね。
という描写から、どんどん心を開いていくところはきめ細かくていいなあ、と思っていたのだけれど、最後のザクを沈めるところは、急すぎて心情的について行けなかったり。
富野だったらもう少し、、と思ってみたり。
でも、戦争ではヒトが死ぬんだし、メカなんか消耗品なんだ、って言うところは、安彦さんとしてきちんと協調したかったんだろうなあ、って言うのは伝わってきたよ。
人物のアナログ臭さに比べて、メカのGCっぽさが鼻についていたのだけれど、来館のおまけでもらった安彦さんの原画の複製見たら。正確なメカ描写なのに、どうしようもなく安彦さんの画、なんだよね。参った。
ああ、あと。
古谷徹。ありがとう。
スタッフロール見てたら、古谷さんと池田秀一くらいしか知った声優さんがいなかったのだけれど。
他の人はともかく、やっぱり古谷さんがいなかったら、ガンダムのククルスドアンじゃないよね。
すごく、良かったよ。
ただ、それだけのはなし。
Top Gun Marveric ― 2022年06月05日
喜んでいるのは、オッサンだけなのかもしれないけれど。
でも、そりゃあ喜ぶよね。
30年以上振りの、Top Gunの続編。
前作が、1986年だっけ? ちょうど高校生のとき。部活と受験に忙しかったその時に映画館に観に行ったかどうかは、実はあんまり定かではないのだけれど。
それでも、TVやDVDで、結局何回も観て。
軍用ジャケットでバイクに2ケツするTomのカッコ良さや、
酒場で歌いながら愛の告白をする陽気なアメリカンのカッコ良さや、
ビーチバレーのウエストが絞り切れていないTomの、これまたカッコ良さや。
そんなこんなが先行して。
ドッグファイトの迫力とか、同僚を目の前で死なせてしまう慟哭とか悩みとか。
そういうものが入ってきたのって、結構最近になってから、だったんだよね。
もちろん、そこからスター街道を駆け上るTomを一映画好きとしては斜めに見ながら、Top Gunは、カクテルやハスラー2のトムクルーズの、アイドル映画の一本から、いや、やっぱりかっこいい代表作の一つに格上げされつつあったんだよね。
何年か前、続編を創る、って聞いたときには、冗談かと思ったのだけれども、ね。
という訳で、観に行ってきました。
トップガン マーヴェリック。
見事に。
号泣。
ほぼ、最初から最後まで。
36年ってさ、続編、って言うには長すぎる時間が経っていて。
ゴッドファーザー1から2とか、スターウォーズ新たな希望から帝国の逆襲とか、そういう時間軸とは全く違って。
ハスラーからハスラー2ともまた違う。
007の最初から最新作とか、日本で言えば寅さんの最初と最終作とか。そう言うのに近い時間が流れているけれど。でも例に出した二つは1話完結、前の出来事がなかったことにされる永劫回帰の物語で。
強いて言えば、ランボーの最初と最終作、みたいな関係かな。ランボーの2作目以降が全くなく、唐突に最終作が。40年近く経ってから発表される。
そういう時間が経ってるんだよね。Top Gunから今回のマーヴェリックまで。
若くて、生意気で、怖いものなしのひよっこパイロットの物語から、いきなり、定年(なんてものがあるのなら)間近のベテランの物語にならざるを得なくって。
そしてもちろん、Tomはかっこよくなくてはいけないし、前評判として、CGを拒絶した本物のドッグファイトでなければいけないし。
そんな制約を世界中からかけられながら、Top Gunの新作は、なんと、ホントに完成したんだね。
まだまだ絶賛上映中だから、これから観に行くヒトは、これからは読まない方がいいけれど。
もう、号泣。
最初のDanger Zoneから泣いているのはオッサンの郷愁なのだけれども。
CGなしのリアルな映像、という縛りを頭に入れてれてみれば。
空母に着艦するときのワイヤーの暴れ方とか、
編隊飛行に下から割って入るF-18とか。模擬戦闘シーンとか。
2:15のときの背面飛行とか。
そして、Tomが乗るTom Cat(F-14)とか。
戦場で何が起こっているかを伝えるためなら、CGで俯瞰で組み立てた方がいいのだろうけれど。
そうでなく、かかるGに歪む頬とか、キャノピーの外で反転する背景とか、翼から出る飛行機雲とか。
このごろ、エリア88をまた読んだんだよね。ミグやファントムが混在する、戦闘機乗りの傭兵の物語。
そのマンガで、戦闘機乗りの気質とか、渓谷を飛ぶことの難しさとか、いろんな事を(まるでこの映画を観る予習のように)知ったのだけれども。
エリア88に唯一文句をつけるとすれば、超音速の感覚が伝わってこないんだよね。ドッグファイトなんて一瞬のすれ違いの筈なのに、相手を視認したり後ろを振り返ったり。そう言うのってマッハの速度域の中でどうなんだろう、って。
そういうところを含めて、眼がサラになったよ。
繰り広げられるのは、スカイ・クロラのプロペラ機の悠長な決闘ではなく、マッハの戦闘機と容赦ないミサイルの、Gの我慢大会。
手に汗握り、叫び声を上げながら、マスクが涙と鼻水に濡れていく。
いいなあ。
ドラマの面では。
相変わらずのヤンちゃなTomの軍人人生最後のミッション。舞い戻った古巣。
新しい世代と過去のしがらみと。
変わる世の中と受け継がれていく精神と。
昔、陽気なアメリカンを教えてくれた映画が、オッサンから観た陽気なアメリカを、また、教えてくれて。
結局、老いも若きも、男も女も、夢中になるのは、かっこいいアウトローが仲間のためにその汗を絞り尽くす、そういう物語なんだよね。
ドラマだけじゃなく、その映像だけとっても、その本気が伝わってきたよ。
トム・クルーズ、恐るべし。
ただ、それだけのはなし。
スピルバーグの、West Side Story ― 2022年03月07日
ミュージカルって、苦手な人いるよね。
喋っている途中に突然歌い出すとか、
歩いている途中に突然踊り出すとか。
訳分からん、って。
僕は、ミュージカルって大好きなんだよね。あ、ミュージカル映画のことだけど。
映画って、ワケワカランものだよね。
宇宙人をかごにのっけた自転車が空飛んだり、
鉱山の荒くれ男が宇宙に行って地球を救ったり。
そういうワケワカラナサを愉しむのが映画、だと思うんだよね。ミュージカル映画も一緒。
そんな中で、なんと。
West Side Storyが再映画化されたんだ。
それも、スピルバーグ監督で。
West Side Storyって、もう60年以上前の有名な映画なんだけど。
大好きなんだよね、僕。
あの、最初の10分間。映画の完璧って、ああいうことを言うんだろうなあ、って。最初だけ何十回も観たくらい、好き。最初だけじゃないけどね。
白黒だとか、サイレンス映画だとかなら分かるけど、
カラーで、70mmで、非の打ちようがない名作を、スピルバーグが再映画化。
おっかなびっくり、観てきたよ。
あまりに有名な映画であり、ストーリーだから、詳しいことは省くけど。
面白かったよ。
面白かったんだけど、ね。
何でスピルバーグが、これを再映画化したかったのか。再映画化して、なにをこの名作に付け加えたかったのかが、よく分からなかったんだよね。
最新の映像で、最新のダンスを魅せたかったのかな?
もちろん、リメイクだって言っても焼き直しではないから、ちょっとずつの変更点、というか工夫の跡も見えるのだけれど。
たとえば、
移民対土着、ではなく、移民2世が移民1世?を差別する図式が鮮明になったこと。
Jetsもスラムの鼻つまみ者であることを明確にしたこと、居場所をなくす再開発という時限爆弾を設定したこと
そのせいで?、アメリカ国歌が無くなって、プエルトリコのアンセムが唄われたこと
あとは、トニーがどっしりした兄貴分ではなくなったりとか、何よりもOvertureの線画が無くなったりとか、いろいろかわってることもあるけれど。
そういう眼でずっと観ちゃったんだよね。
もちろん、マンボの迫力とか、動き回るカメラワークとか、そういう楽しいところだっていっぱいあったのだけれども。
でも。
だから、この評価の定まった名画をリメイクして、
スピルバーグは何を見せたかったんだろう、って。考えちゃうんだよね。
俺ならもっとこうしたい、って言う部分がどこだったんだろう。
それが分からなくって、
俺だってできるよ、って言う映画に見えちゃったんだよね。
ちょっと残念だったなあ。
ただ、それだけのはなし。
完璧な、映画。 かぐや姫の物語 ― 2013年12月15日
徹頭徹尾、1シーン、1カットにいたるまで、後悔はないんだろうなあ。そういう、映画。
かぐや姫の物語。
宮崎駿が、苦手でね。
いや、カリオストロの城っていう、不朽の名作を創った宮崎さんだから、苦手なのは、最近の宮崎さん、なのだけれど。
とにかく、もののけ姫を観に行って、あんな面白くない(=エンターティンメントではない)、救いのない話が、興行収入1位の責任をとれるのか、って憤って以来、宮崎さんの新作は苦手なんだよね。紅の豚とか、テレビでやってたら喜んで観ちゃうんだけれどもね。
まあ、興行収入1位は、宮崎さんのせいではないから(おかげだとは思うけれど)、ただの八つ当たりなのは百も承知、なのだけれどもね。
だから、この前までやっていた、宮崎駿の新作はパスして。
でも、この。
高畑勲のこの新作だけは、やっぱりパスできなかったんだよね。
高畑勲は、僕が物心ついたときには、既に神格化されていた演出家でね。
パンダコパンダとか、ホルスとか、そういう、僕がリアルタイムで観ていないような作品についてどういういうつもりもないし。
セロ弾きのゴーシュとか、火垂るの墓とか。中学校の時の感想文コンクールを思い出すような、教科書的な作品をあげつらうのではないけれど。
そういうのが無意識に積み重なって。
そうして、大人になってから観た、となりの山田くん。
確か、公開の次の日に観に行った筈なのだけれども、広い映画館に、4人。高校生の時に男の友達と二人だけで見たグレムリン以来の不入り。
でも、打ちのめされたんだよね。
すごい手間と、最先端の技術を使って、4コママンガで十分表現できる狭い世界、小さなエピソードを、大の大人が、真剣に映像化している。
その真剣さに打たれた訳では、たぶんなくってね。
絵柄と、矢野顕子の鼻歌が醸し出す、脱力した雰囲気。その雰囲気を、パッケージして届けるのにベストな、これしかあり得なかった手法。
簡単にできそうなのに実際には手間暇もお金もかかる。しかも成果は4コママンガの雰囲気の再現。
そんなことに、そんなバカなことに。
大まじめに取り組む大人がいるんだ。って。
寒空の中、鼻歌を歌いながらほっこりして帰ったのを、良く覚えているよ。
ああ、かぐや姫の物語、だったね。
もう、ね。
完璧。
絶世の美女。顔も姿も見る前から、声と琴の音だけで、既に絶世の美女。
そういう存在を、逃げずに真正面から美女として描いて。
そして、それだけではなく。
血肉通った、感情を持った人間として、確かに存在させて。
長い映画の、どの一コマをとっても、ポスターとして、絵はがきとして成立するような、そしてそれが動き回る、奇跡のような画面。
芸達者な役者さんの、優しくてあったかい、声。
いいたいことは、あるよ。
かぐや姫の声が、どうしても島本須美の声に聞こえてしまうとか、
最後のほう、画面が滲んで、きれいな絵が堪能できないじゃないか、とか。
せつない、物語なんだよね。
かぐや姫の罪と罰。
月から降ろされた罪と罰。
地球をあとにしなくてはいけない、罪と罰。
(このあと数行、まだ見てない人は、読まずに劇場に行ってね。)
そして、
全ての感情に、なんの解決も与えられないままに、無情にかけられる、月の羽衣。
全ての、終わり。
感情にけりをつけられないままの状態を、せつない、って、呼ぶんだよね。
久しぶりに、泣いたよ。
せつなさに、思いっきり感情移入して。
唐突な終わりのあと。
なんのおまけもないスタッフロール。
こんな大阪の、満員のシネコンなのに、誰一人席を立つこともなく、終演後の明かりが灯ったよ。
すごい、映画だね。
僕は、明かりが灯ってもしばらくは、まだまだ滲み出る涙を、シャツの袖で拭いていた涙をハンカチで拭き直したり、あまっていたポップコーンを食べたりして、立つことが出来なかったよ。
もし、これからこの映画を観に行く人がいたら。
もし、その人が、映画のパンフレットを買って、開演前に読む、という人だったら。
この映画に限っては、パンフレットを先に読まない方がいいよ。
特に、高畑勲さんのお話は。
高畑勲が竹取物語に振りかけたスパイス。パンフレットで細かく解説してくれているけれど、それは、映画を観て味わった方が、言葉で語られるよりもずっとずっと、ずっとずっと良いと思うよ。
僕は、見終わったあとで我慢できなくてパンフレットを買って、本当によかった、って思うよ。
高畑勲さん。
ありがとう。本当にありがとう。
そして、よかったね。こんなものを、後世に残すことが出来て。
万歳。
ただ、それだけのはなし。