天童荒太のエスエフ? ペインレス2024年12月13日

 ペインレス 天童荒太


 「永遠の仔」に衝撃を受けてね、そこから発表順の前後に拡がって、天童荒太を読んでいたんだよね。

 「家族狩り(ハード)」があって、永遠の仔を挟んでもう一度「家族狩り(文庫)」それから「悼む人」とか「包帯クラブ」とかあって、「ムーンナイト・ダイバー」くらいまでかな。ぱっと思い出せるのって。


 この前、新聞の下面の広告で新刊が出る、っていうから、図書館の本棚を覗いてみたら、読んだことのない本がいくつかあって。その中の一冊、実際には上下巻だから二冊だけど、を読んでみたよ。「ペインレス」。


 僕が通う図書館の本には、最初のめくりのページに、帯から切り貼りした情報がのりで貼ってあるんだよね。ハードカヴァーって、帯がなくなるとどういう本なのか全く分からないから、ものすごく助かるのだけれど。

 ペインレスの帯(だった物を貼り付けたページ)には、「医師として診察したいんです、あなたのセックスを」って言う刺激的な文言が書いてあって。天童荒太って、こういうものを書くヒトだったっけ、って思いながら借りたんだよね。

 どうも、「悼む人」のイメージが強くって。同時期に読んだ「包帯クラブ」もそうだし、「ムンライト・ダイバー」もある種そうなんだけど、悼む人って、天童荒太の作品群を良く表した言葉だよね。悼む人っていう小説が、天童荒太を良く表している、という事とはちょっと違った意味で、ね。

 何らかの理由で喪われた、あるいは背負わされたモノを、祈ることで、弔うことで、折り合いをつけていく。それが、悼む、ってこと。初期の、家族狩りのような、暴力的な憑きもの落としから、自省的な永遠の仔を経て、寓話としての悼む人やその前後の作品にたどり着いた、っていうのが、僕の中の天童荒太のイメージ、なんだよね。


 なので、たどり着いちゃった天童荒太は、そこで完成型なんだ、って勝手に思って、発売日には必ず手に取る、っていうフォローの仕方を辞めたんだよね。


 だから、しばらくぶりの天童荒太。ペインレス。


 これがね。

 面白いんだよね。


 先天的な理由で心に痛みを感じない女性と、後天的な理由で身体に痛みを感じない男性。他人と異なる感覚は、他人と異なる人格・精神を形作り、それが人類の進化であるのでは、と考えて、、、

 そういう話だったのか、そういう話ではなかったのか、読みおわった今も、よく分からないんだけどね。


 ペインレス、っていう題名だから、必然的にペイン=痛みが題材になっていて。痛みの発生する機構や、その治療法、実際の手技について(特に肉体的な痛みについては)良く書き込まれていて、それは分子生物学を囓った僕にはものすごく親和性があるのだけれど。そのサイエンスを下敷きにして、人類の進化の可能性、っていう大ボラが進行していく。一つ一つは、(ちょっと自分には遠いけれど)ないことではないな、っていうエピソードを重ねて、壮大な妄想を成立させる。

 あれ、それってサイエンス・フィクション=SFじゃん。

 そう、この物語は、天童荒太のエスエフ小説、なんだよね。


 脳科学を題材にしたエスエフって言うと、「パラサイト・イヴ」を書いた瀬名秀明の二作目、「ブレイン・ヴァレー」が金字塔としてあるのだけれど(個人の感想です)、超常現象が起こって神とはなんだ、に迫る純然たるエスエフとしてのブレイン・ヴァレーとは違って、医療の知識を丁寧に小道具にしながら、ありうるかもしれないニュータイプの出現を描くペインレスは、エスエフじゃなくってもっとブンガクよりのサイエンス・フィクション、なんだよね(あくまでも個人の感想です)。


 思えば、天童荒太の初期作品は、グロテスクなホラーっぽかったよね。家族狩り(ハード版)とか。永遠の仔も長い長いサスペンスだし。

 だから、挑発的な性の描写とか、倒錯的な世界感とか、そんなに違和感を持つべきものでは無いんだね。悼む人でいい人いい人のような宣伝のされ方をされていたから、ちょっと先入観を書き替えられてしまったかな。反省。


 パラサイトイヴの瀬名君が、ブレインヴァレーで本格エスエフを書き上げて、そのあとロボットモノでとてつもない傑作にたどり着く様に、天童荒太もいろいろにテーマや作風を変えて、まだまだとてつもない傑作を出してくれるんだろうなあ。

 楽しみ、楽しみ。


 ただ、それだけのはなし。



13坪の本屋の奇跡 大阪の本屋さんのものがたり2024年12月05日

 もう、ずいぶん前になるけれど、近所の本屋さんが無くなっちゃったんだよね。一階が駐車場になっている高床式の建物のチェーン店だったけど、駅からの帰り道の夕涼みを含めて、いろんな本を手に取ったな。

 だけど、本屋さんの店員さんとお話をする機会って、そうないよね。新聞の広告に載っていたあの本どこにありますか? とか、今日発売日だと思ったけど売れちゃったかな?とか。そういう話はしても、この本読んだらどうですか、みたいなおすすめされることって、まあないよね。


 だから、なのか分からないけれど、フェイスブックで書店の人が本をおすすめしてくれる、っていうサービス(?)をしてくれているのに、飛びついたんだよね。

 それが、この本の主役となっている隆祥館っていう谷六の本屋さんがやっているサービスで。


 自分がどんな人で、どんな本を読んできて、っていう問診票(?)を送って、返ってきたおすすめリストの中に入っていた一冊がこれ、だったんだよね。自分の宣伝がちゃっかり入ってる、と思ったのだけれど、著者は別の人で、面白そうなタイトルだったから、そのままリストに入れてもらって。

 というより、勧められた本は断らない、って決めてたんだけどね。だって、おすすめしてもらう、ってそういうことだもんね。


 とはいえ、

 今もそうだけれど、買う本と読む本がなかなか釣り合わず、積ん読状態の本棚のスリム化が喫緊の課題だった数年前に届いた本で。他で買ったものや図書館で借りたものも含めてちょっとずつ読んでいる状態で、ようやく読んだよ。


 木村元彦著 13坪の本屋の奇跡 ころから(出版社の名前ね)


 読みはじめてからはほぼ一気に読んでしまったのだけれど。面白いからね。


 本屋さんって、大変。

 ロングテールで回転率の悪い昔の本を含め、開業時に膨大な在庫を抱え込んで。定価でしか売れない再販制度と、売れない本は返本できる委託販売制度は、零細本屋さんをイカサズコロサズに存続するための救済措置、なのだと思っていたのだけれど。

 この本を読むとその救済措置のおかげで卸との間に上下関係があって、それがイロイロな問題を生じていて。志のある本屋さんを、画一的な品揃えののっぺりした本屋に留め置こうとする力にもなっていて。


 その中で自分の店を守る、ひいては街の本屋さん、という文化を守ろうと奮闘するパワフルな一家のものがたり。なのかな。


 それを意気に感じた、「オシムの言葉」の著者の木村さんが取材しているのだけれど、引退した大手卸の会長さんに取材したり、本にする、という事も含めて、やっていることは側方援護射撃だよね。

 だから、もちろん、というか。

 読んでいる僕の方も大阪の街の本屋さん、応援したくなるよね。


 常連さんの顔と本の好みを憶えていて、隆祥館さんのおすすめなら読んでみるわ、で何百冊も売り上げる信頼関係を築いている本屋さん。近くにあったら嬉しいだろうなあ。

 ギリギリ自転車で行けそうな距離だから、今度ちょっと覗いてみようっと。選んでくれた本のお礼も言わないといけないし、ね。


 ただ、それだけのはなし。


虚人たち by 筒井康隆 に魅せられて2024年12月04日

 なんかね、軽く考えてたんだ。

 「まだ何もしていない彼は、なにものでもない」で始まって、「もう何もしていない彼は、なにものでもない」で終わるお話を、いくつか作れないか、って。

 いろんな主人公を設定して、いろんなシチュエーションを、この前後二行の中に挟めるんじゃないか、ってね。

 そう、軽く考えてたんだよね。


 もちろん、元ネタは、筒井康隆の「虚人たち」で。

 とはいえ、虚人たちを読んだのは、たぶん大学生の頃で、当然記憶はほとんど抜け落ちて、最初の文章もうろ覚えだったんだよね。

 別に元歌取りとかパロディーとかを考えていた訳ではなく、物語のはじめたと終わり方の練習にどうかな、って思っていたのだけれどもね。

 軽く、ね。


 でもまずは、本家の「虚人たち」を読み直さなくては、という事で、中公文庫を買い直してね。本のカヴァー見たら思いだしたけど、これ、ハードカヴァーで持ってたよな、確か。断腸の思いで自炊したライブラリには入ってないけど、どこ行ったんだっけ? まあいいや。


 久しぶりに読む「虚人たち」。

 ぶっ飛んだよ。


 改行なし、句読点なしでマシンガンのように浴びせられる言葉は、小説の、物語のお約束をことごとく自覚的、露悪的、挑発的につまびらかにして。つまり何気ない風景の描写、登場人物の位置、間合いにはこれだけの意味が込められている、っていうのをこれでもか、って突きつけてくる。

 ちょっと前に読みはじめた花村萬月の小説教室に、「作家はとことん頭が良い」って書いてあって、その呪にかかって読むと、あまりに膨大な文学的教養と知識がないと読み進められない、っていうことになって。

 イヤこれは筒井康隆だから、って無理くり思いだして、これはパブリング創世記的な、ケムニマクブンガクなんだ、ハンブンエセ衒学なんだ、って。とりあえずエンターティンメントとして飲み込んだのだけれども。

 それにしても、圧倒的な。圧倒的ななんだろう、もう、この小説の空間が何で満たされてているかすらよく分からない程の、圧倒感に圧倒されたんだよね。


 筒井康隆って、エスエフ作家なのだと思っていたのだけれど。

 エスエフって、その昔は、サイエンスフィクションではなく、センスオブワンダーの事だったよね。(SFという略にはならない事は百も承知だけれど)

 ブンガクの中に収まらない、虚人たちや脱走と追跡のサンバとか。そういう小説を、発表する場としてエスエフ、ってい言葉が便利だったのかな。

 僕がエスエフを読み出したのは、その頃のエスエフ作家が良く回想していた「浸透と拡散の時代」を過ぎた頃、なのだと思うのだけれど。筒井康隆については、結構な著作を読んでいると思うのだけれど、イメージはずっと「あらえっさっさの時代」のドタバタスラップスティックなんだよね。


 今、「カーテンコール」っていう、最後の短編集(と本人が言っている)ものを読みかけているけれど、それが終わったら、虚構船団と、あといくつか読み直そう。家族八景とか、唇に残像をとか。

 図書館にある筒井康隆全集、片っ端でもいいかな。


 なんか、昔読んだ本を片っ端から読み返したくなった。

 それもいいかな。


 ただ、それだけのはなし。

大博物学時代 への航海2024年07月21日


 「一人の人間が、この世界の全てを識ろうとすることが許された最後の時代」


 高校の時、図書委員に可愛い女の子がいてね。部活のいっこ下の学年の子なんだけど。

 元から本好きだったから、別にその娘目当て、というわけではないのだけれど、結果的に良く図書館に通ってたんだよね。


 まあ、図書館に通っていたら、いろんな本を手に取る機会があるわけで。当時、栗本薫や夢枕獏や菊地秀行とかの小説は、友達同士で部活の朝練で渡されて、放課後の部活動までに二人の手に渡って帰ってくるなんて生活を送っていたから、どんな本を図書館で読んでいたのかあんまり記憶がないのだけれど。

 ダンテの神曲の新装版を頼んで入れてもらってたりしたのかな。


 そんな中で、多分図書館で借りた本の中で、忘れられない一節があったんだよね。

 僕の生き方とか考え方を、その後40年経っても左右する、それくらいの忘れられなさ。


 それが、冒頭の。

「一人の人間が、この世界の全てを識ろうとすることが許された最後の時代」

 40年も前に一回読んだきりの、うろ覚えの一節なんだけどね。


 その後、大学に行って、企業の研究職について、博士号もとったりして。

 専攻は分子生物学、その頃はやっていたバイオテクノロジーってやつで。大学の頃は細菌の遺伝子相同組み換えとか、大学院に行ったらDNA複製の調節機構とか、そういうものを研究していたんだよね。

 要は、顕微鏡でも見えない、ミクロの世界。細菌っていう小さな、単純な生物が生きて営んでいるシステムの、ほんのほんの、ほんの一部分が、どのようになされているのか、それを研究するのが、分生生物学だったんだよね。

 企業での研究も、もちろんその分子生物学っていう槍を持って入っているから、その延長線上で。

 

 だから、その頃は、顕微鏡で見えない小さいものをどう理解しようか、って躍起になっていたんだよね。

 この世界の全てを識ろうとする事とは、全く反対にね。


 企業に入って、少し視野が広がっても、この世界で起こっていることを知るっていうのは、学術論文や特許を読んで、競争相手の同じ研究をしている研究者や、同じ薬を創ろうとしている製薬メーカーの成果や動向を理解すること、だったんだよね。


 それはそれで、顕微鏡よりもさらに小さい分子の世界を理解することで、病気を治すことが出来て、食い扶持を得ることができる、とても大切なことなのだけどね。

 なのだけれど。

 研究は続ければ続けるほど、深く入り込めば入り込むほど、領域が細分化されて、他の人のやっていることが理解できなくなってきて、自分のやっていることを理解させることができなくなってくるんだよね。

 もちろん、研究成果がたとえば薬になって、大勢の患者さんを救える可能性だってあって(皆それを目指してやっていて)、やりがいだってあるのだけどね。


 でも。

 僕が一流の研究者ではなかったからなのかもしれないけれど。


 なんか、他の事もしてみたくなったんだよね。

 その時には、高校生の時に読んだ本の一節なんて、全く頭によぎったりしたわけではないのだけれど。


 それで、研究職から、ライセンス導入の部署に移ったんだ。今で言うオープンイノベーションの先駆け、になるのかな。


 顕微鏡のその先の、ミクロな研究は他の人に任せて、その研究の成果を社会に役立てるために、発掘して、薬を創るノウハウとお金を(アカデミアの研究者よりは)持っている企業にと、薬を創るための共同研究をマッチングする。そんな仕事なんだけどね。

 その頃は、ちょうど大学発ベンチャーって言うのが流行っていて。大学発ベンチャー1000社計画とか、大学の研究成果を企業に導出するためのTLO(テクノロジートランスファーオフィス)とか、そんなこんなで大学の研究成果を社会に使ってもらおう、って言う機運が高まっていてね。

 そういう流れから、少しベンチャーを創るお手伝いをしてみたり。


 そういうことをやっていると、会社のこととか、お金の流れのことが気になってきて。運良く職場の近くにあった大学で、経営学、って言うものを少しかじってみたりしたんだよね。


 僕が今までやっていた、生物学とか分子生物学っていうのは、大きなくくりでいうと自然科学、ってやつなんだよね。自然で起こっていることを理解しましょうって言う学問。自然界で起こっている現象(ヒトは受精卵から個体になって、熱いものにさわると火傷する、とか)をどう理解しようか、あるいは理解した上で少し運命を変える(病気を治すとか、寿命を延ばすとか)ことを考える人たち

の学問。


 それに対して、経営学って、人間の営みに対して、それを理解しようとする学問なんだよね。社会科学、って言うのだけれど。

 それってものすごく大きな違いで。

 例えばヒトはだいたい十月十日で生まれてくるし、桜は同じ環境にあるものは、だいたい3月の終わりか4月に一斉に咲くよね。

 だけど、経営って、会社って。同じ環境にある隣の会社が上手くいったって、こっちの会社が上手くいくとは限らないし、同じ期間で育っていくわけではない。だいたい大半は潰れていくし。

 研究する分野だって、ヒトモノカネのは位置を考える経営戦略から、お客さんに買ってもらうためのマーケッティングから、良い組織を作るためのリーダーシップとモチベーション論とか。何でもあり。

 要は、経済の営みである会社経営、っていうものを、いろんな視点から見ていきましょう、そういう学問なんだよね。


 それって学問っていうのかな。

 って最初のうちは思ったのだけれど。

 でも、それが、全部を見る、全部を識るための方法なのかな、って思ったんだよね。


 世界の全てではないけれど、経営学は、ヒトの営みの、経済(ではないかも知れないけれど)の大きなプレイヤーである会社のことを識るための道具にはなるんだな、って。


 その頃から、なのかな。

 冒頭の一節が、わりと頭をよぎるようになったんだよね。


 世の中って、しらないこといっぱいあるよね。

 何で戦争やっているのかとか、何で朝焼けきれいだと雨が降るのかとか、ブルックナーはなにを目指して作曲したのかとか。チャットGPTがどう世界を変えていくのか、とか。


 このごろ、思うんだよね。

 世界を識りたい。って。

 もちろん、世界の全てを識ることができるほど世の中は単純じゃないし、僕に残された時間もそんなにはない。

 だから、全部を識りたいなんて大それた事ではなく。僕の好きないくつかのことを、もっと楽しめるように、その成り立ちや背景や、それを創るための技術、そういうものを知りたいな、って。


 その上で。

 できるならば。

 世界を創りたい。


 そんなに大それたものでは無くてね。

 絵だって音楽だって、物語だって皆一つの世界だよね。

 背景成り立ちを理解して、技術を身につけながら先人の作品を味わいながら。

 最終的に自分の世界を、一つでもふたつでも、創ってみたいんだ。


 それが、40年頭の中に熟成した、大博物学時代、

「一人の人間が、この世界の全てを識ろうとすることが許された最後の時代」

 への憧れ、なんだろうな。


 ちなみに、古本屋さんで黄ばんでいた荒俣宏さんの大博物学時代を入手したのだけれど。

 この言葉は、僕が思っていたはじめにのところにはなかったんだよね。内容的には同じ事をいっているのだけれど。

 でも、まずその憧れへの第一歩として、もう一度、全部読むところからはじめよう。40年間のうろ覚えが、どのように変化しているかを楽しみに、ね。


 ただ、それだけのはなし。



三体 ってすごい2024年06月24日

 ちょっと前に、かなり話題になっていた、中国作家の書いたSF、三体。

 ようやく、読みおわったよ。


 話題になった割には、どのようなお話なのか、どういうジャンルのエスエフなのかすら、よく分からなかったんだよね。まあ、ネタバレ防止のために、意識的に情報を遮断していた、って言うのもあるのだけれど。

 だから、どんな話なのか、全く分からないまま読みはじめたんだよね。

 もちろん、三体ってなんなのか、もね。


 三体って言う物語は、三体I,II,IIIの三つの本からなっていてね。日本ではIIとIIIは上下巻に分かれているから、計5冊、それも結構厚めの本なんだよね、それぞれが。

 だから、最初は一冊目だけをKindleで買ってみて。

 しばらく積ん読してから、読みはじめたのだけれど。


 これがなんていうかね。

 面白い。

 近代中国の、文化大革命とかを思わせるムードから、どんどんスケールが大きくなって。無国籍になって。中国がどうとか、そんなこと関係なくなる大風呂敷。

 危機一髪のタイトロープダンシングを繰り返しながら、振幅がどんどん大きくなって、どんどん法螺が大きくなって。

 なんだけど限りなくロマンチックで。


 しかも、驚くべき事に。

 きちんとしたエスエフなのに、読んでて面白いんだよね。翻訳のに人たちが相当がんばってくれたおかげで、日本の読み物として、凄く自然に読めるし。


 エスエフなのに、面白い。これって、結構普通じゃないんだよね。

 なんて、学生時代SF研にいた僕が云ってはいけないのだけれど。

 でも、僕が読んでいたのは、平井和正であり筒井康隆であり、小松左京でありといった日本のエンタテ作家であって。彼らの作品でホントのサイエンスフィクション=エスエフって言うのは、小松左京の復活の日や日本沈没や、そういうものだものね。その小松左京が本気でエスエフした「虚無回廊」は、僕はまだ読んでいる途中だし、日本のハードエスエフという人たちの作品も、ほとんど(学生時代には)途中で投げ出してしまっているものが多いし。

 ホントにエスエフファンなのかな、俺、って不安になることもあるんだよね。

 JPホーガンとかはよく読んだけど、これは「SFだから」面白い、って言う類の物語であって、間違っても一般の人たちが話題にして本屋で平積みになる様な、「エスエフなのに」面白い、ではないと思うんだよね。


 そういう中でね、三体は。

 まず、めちゃくちゃ面白い。

 そして、サイエンスの匂いを真正面から纏っている。物理の法則や技術の進歩が、物語を前に進めている、って言う意味でエスエフ以外の何者ではない。のだけれど。

 のだけれど、多分普通の人が読んでも、なんやら分からないけれど、これらの用語が物語に重要な事は分かるし、最低限理解したような気にさせてくれるし、何より物語が面白いから読んで行こう。って思うと思うんだよね。(考えてみると、これって京極夏彦の衒学小説と一緒だね)


 それって、凄い。

 小松左京の「日本沈没」がまさにそう云う感じだったのだと思うのだけれど、それを世界規模で巻き込んでいった、っていうのが、凄いよね。


 エスエフ的に考えると。

 ファンタジーはリアルに宿る、という言葉に則ると、空想科学小説(エスエフ)の中では、周りをリアル(これまでの科学技術の延長線あるいは十分に実現可能だと皆が考えるくらいの与太話)で固めて、ひとつだけ、乾坤一擲の大ボラを吹く、って言うのが望ましいよね。

 あれもこれも「うそだあ」ではなく、なんとなくホントで固めた中に、「これは嘘やろ」って云うのが、あってもひとつだけ。これがエスエフのお作法。

 って僕が勝手に考えているだけなのだけれど。

 その意味で言うと、三体の、第1巻には、その大ボラが、まあ、ひとつといえる範囲に収まっているんだよね。


 ここからは、なかなか中身に触れずに進めるのは難しいので、近い将来三体読むよ、とか、ドラマ見るよ、という方はそのあとの方がいいかもしれません。

 ネタバレあるかも、です。


 三体って、ファーストコンタクトの話、なんだよね。

 ある日突然、四光年の先に、地球よりもちょっとだけ進んだ文明があり、それが地球を攻めようと迫ってくる。


 存在確認と位置のやりとりは、光の速度で(片道4年)で行われて。

 艦隊が攻めてくるまでには、(光速の100分の一で進むから)400年かかって。地球はそれまでに迎撃の準備をしなければいけない。

 先発隊の無人機は、光速の10分の1で進めるから、到達まで40年かかる。

 

 この時間軸が、魅力的でね。

 「急げヤマト、地球の滅亡まであと○日」って毎週観ながら育った世代としては、壮大な人類のあがきを描くのに400年っていう設定は凄いな、と思っていたのだけれど。


 ここで、ひとつの嘘が登場するんだよね。

 「智子」

 原子より電子より小さい、質量を持たない素粒子みたいな粒子が、光速で移動し、止まる、曲がる自由自在。フィルムを感光させたり、物理実験を邪魔したり。

 なにより4光年離れていても、一組の智子はシンクロするため、リアルタイムで4光年先のことが分かる、コミュニケートできる。

 この大嘘を、どのくらい許容するか、それが三体を楽しめるかどうかの分かれ目になるだろうね。


 僕は、好きだけどね。

 ファーストコンタクトに使った通信よりも速く、大容量の通信の確保と、先方の嘘がつけない、包み隠せないという「人類補完計画」後の世界のような性質で、科学技術としては全く勝ち目のない相手に対して「コン・ゲーム」を仕掛けて互角に持って行くところとか、ものすごく上手い使い方をしているし、なにより、そのとんでも理論(物語後半にはいろいろ出てくるのだけれど)も、全て事前に登場するVRゲームや、登場人物が語る寓話の中に伏線として入っているところは、ちょっと脱帽してしまううまさだよね。


 人類の存亡をかけた大騒ぎと、そのための大がかりな基礎科学から応用科学への技術の進歩を、人工冬眠でスキップしながら俯瞰していって。

 そしてたどり着くあっけない結末。

 そこからの、なんてありがちで、なんてロマンティックな、もう一つの最終地点。

 と思ったら、、、、


 なんか、長い長い物語を読んできて。

 最後の数十ページでどこまで行くねん、というこの広がり方。

 そして、その落ち着き方。

 これが、エスエフだよね。エスエフと関係ない人たちを引きつけながら、最後、堂々とエスエフの終わり方に持って行ったその力業。

 感服です。


 解説の方は、これってシンエヴァだよなあ、って言ってたけど。

 いや、これは、

 「トップをねらえ」だよねえ。


 そのネタバレは、さすがにかけないけれど。


 ただ、それだけの話。