大博物学時代 への航海2024年07月21日


 「一人の人間が、この世界の全てを識ろうとすることが許された最後の時代」


 高校の時、図書委員に可愛い女の子がいてね。部活のいっこ下の学年の子なんだけど。

 元から本好きだったから、別にその娘目当て、というわけではないのだけれど、結果的に良く図書館に通ってたんだよね。


 まあ、図書館に通っていたら、いろんな本を手に取る機会があるわけで。当時、栗本薫や夢枕獏や菊地秀行とかの小説は、友達同士で部活の朝練で渡されて、放課後の部活動までに二人の手に渡って帰ってくるなんて生活を送っていたから、どんな本を図書館で読んでいたのかあんまり記憶がないのだけれど。

 ダンテの神曲の新装版を頼んで入れてもらってたりしたのかな。


 そんな中で、多分図書館で借りた本の中で、忘れられない一節があったんだよね。

 僕の生き方とか考え方を、その後40年経っても左右する、それくらいの忘れられなさ。


 それが、冒頭の。

「一人の人間が、この世界の全てを識ろうとすることが許された最後の時代」

 40年も前に一回読んだきりの、うろ覚えの一節なんだけどね。


 その後、大学に行って、企業の研究職について、博士号もとったりして。

 専攻は分子生物学、その頃はやっていたバイオテクノロジーってやつで。大学の頃は細菌の遺伝子相同組み換えとか、大学院に行ったらDNA複製の調節機構とか、そういうものを研究していたんだよね。

 要は、顕微鏡でも見えない、ミクロの世界。細菌っていう小さな、単純な生物が生きて営んでいるシステムの、ほんのほんの、ほんの一部分が、どのようになされているのか、それを研究するのが、分生生物学だったんだよね。

 企業での研究も、もちろんその分子生物学っていう槍を持って入っているから、その延長線上で。

 

 だから、その頃は、顕微鏡で見えない小さいものをどう理解しようか、って躍起になっていたんだよね。

 この世界の全てを識ろうとする事とは、全く反対にね。


 企業に入って、少し視野が広がっても、この世界で起こっていることを知るっていうのは、学術論文や特許を読んで、競争相手の同じ研究をしている研究者や、同じ薬を創ろうとしている製薬メーカーの成果や動向を理解すること、だったんだよね。


 それはそれで、顕微鏡よりもさらに小さい分子の世界を理解することで、病気を治すことが出来て、食い扶持を得ることができる、とても大切なことなのだけどね。

 なのだけれど。

 研究は続ければ続けるほど、深く入り込めば入り込むほど、領域が細分化されて、他の人のやっていることが理解できなくなってきて、自分のやっていることを理解させることができなくなってくるんだよね。

 もちろん、研究成果がたとえば薬になって、大勢の患者さんを救える可能性だってあって(皆それを目指してやっていて)、やりがいだってあるのだけどね。


 でも。

 僕が一流の研究者ではなかったからなのかもしれないけれど。


 なんか、他の事もしてみたくなったんだよね。

 その時には、高校生の時に読んだ本の一節なんて、全く頭によぎったりしたわけではないのだけれど。


 それで、研究職から、ライセンス導入の部署に移ったんだ。今で言うオープンイノベーションの先駆け、になるのかな。


 顕微鏡のその先の、ミクロな研究は他の人に任せて、その研究の成果を社会に役立てるために、発掘して、薬を創るノウハウとお金を(アカデミアの研究者よりは)持っている企業にと、薬を創るための共同研究をマッチングする。そんな仕事なんだけどね。

 その頃は、ちょうど大学発ベンチャーって言うのが流行っていて。大学発ベンチャー1000社計画とか、大学の研究成果を企業に導出するためのTLO(テクノロジートランスファーオフィス)とか、そんなこんなで大学の研究成果を社会に使ってもらおう、って言う機運が高まっていてね。

 そういう流れから、少しベンチャーを創るお手伝いをしてみたり。


 そういうことをやっていると、会社のこととか、お金の流れのことが気になってきて。運良く職場の近くにあった大学で、経営学、って言うものを少しかじってみたりしたんだよね。


 僕が今までやっていた、生物学とか分子生物学っていうのは、大きなくくりでいうと自然科学、ってやつなんだよね。自然で起こっていることを理解しましょうって言う学問。自然界で起こっている現象(ヒトは受精卵から個体になって、熱いものにさわると火傷する、とか)をどう理解しようか、あるいは理解した上で少し運命を変える(病気を治すとか、寿命を延ばすとか)ことを考える人たち

の学問。


 それに対して、経営学って、人間の営みに対して、それを理解しようとする学問なんだよね。社会科学、って言うのだけれど。

 それってものすごく大きな違いで。

 例えばヒトはだいたい十月十日で生まれてくるし、桜は同じ環境にあるものは、だいたい3月の終わりか4月に一斉に咲くよね。

 だけど、経営って、会社って。同じ環境にある隣の会社が上手くいったって、こっちの会社が上手くいくとは限らないし、同じ期間で育っていくわけではない。だいたい大半は潰れていくし。

 研究する分野だって、ヒトモノカネのは位置を考える経営戦略から、お客さんに買ってもらうためのマーケッティングから、良い組織を作るためのリーダーシップとモチベーション論とか。何でもあり。

 要は、経済の営みである会社経営、っていうものを、いろんな視点から見ていきましょう、そういう学問なんだよね。


 それって学問っていうのかな。

 って最初のうちは思ったのだけれど。

 でも、それが、全部を見る、全部を識るための方法なのかな、って思ったんだよね。


 世界の全てではないけれど、経営学は、ヒトの営みの、経済(ではないかも知れないけれど)の大きなプレイヤーである会社のことを識るための道具にはなるんだな、って。


 その頃から、なのかな。

 冒頭の一節が、わりと頭をよぎるようになったんだよね。


 世の中って、しらないこといっぱいあるよね。

 何で戦争やっているのかとか、何で朝焼けきれいだと雨が降るのかとか、ブルックナーはなにを目指して作曲したのかとか。チャットGPTがどう世界を変えていくのか、とか。


 このごろ、思うんだよね。

 世界を識りたい。って。

 もちろん、世界の全てを識ることができるほど世の中は単純じゃないし、僕に残された時間もそんなにはない。

 だから、全部を識りたいなんて大それた事ではなく。僕の好きないくつかのことを、もっと楽しめるように、その成り立ちや背景や、それを創るための技術、そういうものを知りたいな、って。


 その上で。

 できるならば。

 世界を創りたい。


 そんなに大それたものでは無くてね。

 絵だって音楽だって、物語だって皆一つの世界だよね。

 背景成り立ちを理解して、技術を身につけながら先人の作品を味わいながら。

 最終的に自分の世界を、一つでもふたつでも、創ってみたいんだ。


 それが、40年頭の中に熟成した、大博物学時代、

「一人の人間が、この世界の全てを識ろうとすることが許された最後の時代」

 への憧れ、なんだろうな。


 ちなみに、古本屋さんで黄ばんでいた荒俣宏さんの大博物学時代を入手したのだけれど。

 この言葉は、僕が思っていたはじめにのところにはなかったんだよね。内容的には同じ事をいっているのだけれど。

 でも、まずその憧れへの第一歩として、もう一度、全部読むところからはじめよう。40年間のうろ覚えが、どのように変化しているかを楽しみに、ね。


 ただ、それだけのはなし。



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