大阪市民管弦楽団の、ブル4 ― 2023年03月21日
春だね。
東京ではもうすっかりお花見日和らしいけど。大阪では、ようやく最初の数輪がほころびかけた、そんな陽気の中、久しぶりに行ってきたよ。僕の友達、というより大先輩が所属する、大阪市民管弦楽団の第96回定期演奏会。
96回って、凄いよね。年2回やったとして、ほぼ50年。僕がよちよち歩きの頃からやっているんだね。
今回の演目は、モーツァルトのコジファントゥッテ序曲、ワーグナーのローエングリンより。そして、ブルックナーの4番。
もちろん、楽しみのメインはブルックナーなのだけれど。
この演奏会の前の日、フェスで大フィルさんの幻想交響曲を聴いたあとに、通りがかったクラシックカフェみたいなところに入ったのだけれど。
なんかの拍子にブルックナーが好き、という話をしたら、マスターにブルヲタ扱いされてちょっと心外だったんだよね。
僕は、ブルックナーを好きではあるけれど、ブルヲタではないよ。
「不機嫌な姫とブックナー団」、って言うブルヲタの生態を描いたマイナーな小説があるのだけれど、その中にブルヲタ診断テストって言うのがあって。9項目のマニアックな質問に少なくとも8項目くらいは答えられなければいけないらしいのだけれど、僕はひとつだけしか該当しなかったからね。だから、名実ともにブルヲタではないんだ。まあ、そういう小説を買って読むほどにはファンなのだけれどもね。
まあいいや。
ゆっくりランチを食べてからホールでもらった席は、RB席。ステージの向かって右側のバルコニー席。弦バスの上、弦と管の境目のあたり。
いつもはもちろん、前から見る事が多いオーケストラの演奏会。今回はちょっと違う角度から愉しもう、っと。
ステージに置かれた椅子に、三々五々団員が集まってきて。
僕を招待してくれた友人は、ちょっと前に緊急入院をしてしまって、心配していたのだけれど、無事にステージ上に発見。良かったね。
この席から、演奏を見るとね、面白いことに、演奏している奏者がよく見えるんだよね。
そんなのあたり前、と思う人もいるかもしれないけれど、前方席から見ると、ステージが高いせいで、ひな壇があってもそんなに視界が広がる訳でもなく、譜面台や指揮者の背中もあって、吹いているのがオーボエなのかクラリネットなのかよく分からなかったりするんだよね。
それが、横から見ると、誰が音を出しているかがよく見えるんだ。
前の日に行ったクラシックカフェで、カラヤンのダフクロを見たのだけれど、あのカラヤンアングルみたいに演奏者、というか演奏している楽器のドアップみたいな見え方を、ここからはするんだ。と思ってね、新鮮。
だから、モーツァルトのオーボエやクラリネットのアンサンブルを僕はすごく愉しんだんだ。
金管が活躍するワーグナーでは、トロンボンのベルがあっちの方向を向いているのが、ちょっと淋しかったりもしたけどね。ただ、金管の咆哮が、ホールの後ろの壁を跳ね返って左耳からも(遅れて)聞こえてくるのは、面白かったな。
ブルックナーはね。
交響曲、って言う形式を作ったハイドンや、あふれ出る才能を好き勝手に入れ込んだモーツァルトの時代を過ぎて、実は、もっと巨大なものを容れられる、あるいは封じ込められる巨大な器だ、って言う事にみんなが気がつきだして。
その巨大な器を、人間の感情で埋めつくそうとしたベートーヴェン、きれいなメロディがどこまではいるか試みたドヴォルザーク、火傷しそうな情念で満たそうとしたチャイコフスキー。
そういう時代を通って、ブルックナーは、「神様が見ている世界」、を音楽で再現しようとしたんだと思うんだよね。そこが、自分が神になって世界を作ろうとしたマーラーの交響曲とは絶対的に違うところで。
8番で、神様が見ている世界に近いものを現出させて。9番でそのヴェールをもう一枚剥がそうとしたところで、「そろそろもういいんじゃない」って、神に召されたんだろうなあ。そんな風に思うと、それぞれの曲が愛おしいよね。
そんな、世界を、自然の風景を作ろうと悪戦苦闘していたブルックナーが、テレビのセットのような段ボールの書き割りの山や森ではあるけれど、ようやく、決まった一点から観て、だけど風景を描くことができた3番交響曲と、凄く立体的な、立派な石積みの巨大建造物を構築することに成功した5番の間で、山や森を作ろうとしたのが4番、だと思うんだよね。
ちょっと見る角度がずれると、段ボールだったりベニヤ板で描いた平面の藪や森が見えてしまう、テレビ番組のスタジオみたいにとてもフラジャイルな3番を引きずりつつ、大伽藍にいたる研鑽を積んでいる、そういう4番を、誰がどの音を出しているかよく分かる、この席で聴くのは、ちょっと楽しみだよね。
1部の終わりがワーグナーだったから、2部のセッティングはちょっとびっくりしたのだけれど。ブルックナーって、大フィルさんになれているからかもしれないけれど、弦が倍になったり、金管も思いっきり増やす大編成のイメージがあるのだけれど。実は、木管は凄くシンプルなんだね。
ワーグナーの時には3人ずついたと思ったクラもダブルリードもフルートも、二人ずつ8人。そうなんだね、今まで気がつかなかった。
曲はね、弦のトレモロから、ホルンの唄。それが左右の耳から別々に入ってきて。ホルンの本数が増えて、トロンボンも入っての二拍三連は、どうしても金管に目が行ってしまうけれど、そこでしゃかりきになって弾いている弦楽器の人たちの姿も音も、ここからはよく見えたし聴こえたよ。
特に、ここ一番の時のヴァイオリンのリズムのダイナミックさ。こういうところの、確信に満ちた音量の上げ下げとか、揃っている弓使いとか音の長さとか。曲に対する練習量の多いアマチュアオケのいいところだよね。
それにしても、ホルンって、ずうっとソロなんだね。かっこいい。
2楽章だったかな、ビオラが他のパートを伴奏にして延々と歌うところ。ブルックナーの弦の色っぽさって、ビオラの音なんだね。凄い良かった。
僕の好きな8番の最初のところもそうなのかな。チェロかと思ってた。今度注意して聴いてみよっと。
シンフォニーホールといえば、天上の反響板が名物だと思うのだけれど、客席の上は、パステルカラーの間接照明の三角形の反響板なんだけど、ステージ上は、もっとごっつい反響板が、もっと低い位置にあるんだよね。
その反響板のせいか分からないけれど、楽章終わりの静寂とか、いわゆるブルックナー休止の音の吸い込まれ方は、やっぱいいね。特にフィナーレの終わり、反射板の隙間から天上に届いた音が、天上と反射板の裏側で何度も反射しながら減衰していく。そういう、音がないのにまだ音があるんだよ、って言う感覚は、視覚的なものかもしれないけれど、シンフォニーホールでブルックナーを聴く醍醐味だよね。
多分、それは、シンフォニーホールでブルックナーを演奏する醍醐味でもあって。その響きを、演奏している方々も存分に味わった演奏だったんじゃないかな、と思います。
もちろん、聴いている僕らも堪能したからね。
ありがとうございました。
病み上がりのOさんは、美味しいお酒、という訳には行かなかったかもしれないけれど、勝利の美酒に酔ったことと思います。
ステージ乗れて、良かったね。
ただ、それだけのはなし。
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