1980年、カテドラル教会でのじいさん、ブル82008年10月08日

 個人的なことだけれど、この十月は、僕の中でひとつの、大切な時期であってね。
 それとは全く別に、今年は、じいさんの生誕百周年で。20世紀の最初の年の、大フィルの第九の終楽章が鳴り響く頃になくなったじいさんは、もう七回忌も済んでいてね。
 
 そういう時期に、まだ、初めてのじいさんの演奏を聴けるっていうのは、幸せなんだろうね。勿論生演奏じゃないっていうのは、致し方ないとしても。
 
 これまでにいくつかの演奏を復刻してくれているタワーレコードからね、出たんだよ。じいさんの、ブルックナー。それも、4枚組。
 1980年に、カテドラルのホールで行われた連続演奏会の、初CD化。
 
 この頃、Bentoっていうデータベースのソフトを買ってね。じいさんの、我が家のディスコグラフィーなどを入力して遊んでいたのだけれど。
 その中で、1980年のカテドラルのライブって、ビクター盤の、いわゆる2回目の全集に集まっているのかなあ、っていうイメージがあったんだよね。初CD化って、ホントかなあ、って。
 序曲ト短調なんて初めて見る曲があったり、4枚で3000円ならだまされてもいいかな、っていうことでうちに持って帰ったのだけれど。やっぱり(あたり前か)初CD化なんだね。全集とは違う演奏でした。
 
 ということで、大フィルさんの第8番を、聴いたよ。
 ただただ呆れることに、僕のうちにある、じいさんのブルックナー8番の、13番目の演奏、ということになるのだけれど。
 
 いやあ。
 びっくりするね。これがじいさんの8番なんだ。
 ひと言で言えば、ただただ異質。
 
 何度も言っているけれど、僕の中でのじいさんの8番は、1994年の演奏と、それから2001年の、サントリーホールの演奏。ディスクの中ではね。
 それらの演奏と、今日聴いた演奏はね、えっ、っていうくらい違うんだよね。
 それが録音の違いなのか、実際の音が違うのかは定かではないのだけれど。
 
 カテドラル教会の、聖マリア大講堂って、僕はいったことがないのだけれど、かなり残響が凄いみたいなんだよね。お風呂場かカラオケボックスみたいな。
 そういうところで、100人もの団員がいっせいに音を出すと、訳分からなくなるんだよね。会場がハレーションを起こしたようになって。
 その訳のわからなさが、1楽章の出だしにもろに出ていて。
 弦のアタックが全然分からない、だからテンポが掴めない。
 チェリビダッケみたいに、遅く遅くしようとする棒と、そこまで遅くできないブラスのずれとか。全体に訳のわからない緊張感に包まれていて。
 異質、なんだよね。枯れた透明感にあふれた94年、01年と比べると。
 勿論、比べることになんの意味もないのだけれど。
 
 演奏が進むに従って、だんだん呼吸が合ってきたのか、耳が慣れてきたのか、違和感は気にならなくなって。
 代わりに、ブルックナー休止の、とてつもない美しさが、降ってきたよ。
 残響に包まれた3楽章のワグナーチューバとか、フィナーレの最後の音の消える余韻とか。
 残念ながら、このCDは拍手をカットしてるのだけれど、きっとここにいた聴衆のみんなも、この余韻を味わったんだろうなあ、って、うらやましくなったよ。
 
 こんな演奏、まだ残ってたなんて。
 ありがとね。タワーレコードさん。
 
 どうせなら、01年の大阪での2つの8番、CD化してくれないかなあ。ね、エクストンさん。
 
 ただ、それだけのはなし。

アンモナイトと、枯山水2008年10月18日

 このごろ、何人かの文人の話を聞く機会があってね。文化人じゃなくって、文人。
 文人ってなんだ? っていう人も多いよね。僕も実はその一人なのだけれども。ここでは、風流人とか、文化的道楽者、とかって定義をするね。
 詩や俳句や書や茶や、そういうものをたしなんで、でも芸術家として究めようとする訳ではなく、あくまでもコミュニケーションのツールとしてそれらに親しんでいる。それもとても真剣に。そういう人を文人、って呼ぶことにするね。この文章では。
 
 具体的に僕が講演を聴いたのは、アレックス・カーさんと、茶人の木村宗慎さん。木村さんはプロフェッショナルの茶人なのだけれど、茶は究極のコミュニケーションツールだ、って云っていたから、文人と云っても怒られないよね、きっと。
 この二人の話を聞いてね、共通していたのが枯山水への想い、だったんだよね。
 枯山水。茶室から観るために創った、擬似の風景。これへの想いって云うのが、文人の必須アイテムであり、日本の教養人のアイデンティティーなんだな、って。
 
 日本人は、あるいは日本家屋は自然との共生を志した、ってよく言われるよね。西洋人が自然を組み伏せて支配しようとした、っていうのと対比させて。
 でもそれって、本当なのかな、って思うよね。枯山水に美を感じることを良しとする文化を持つ日本なのに、って。
 枯山水って、自然との共生なんてこれっぽっちも考えていないよね。動かない石と砂の箱に自然を再現して、狭い茶室って云う決まった位置から眺める、っていうルールの中で私がどれだけの心配りをしたのか当ててご覧なさい、っていう自己顕示欲の塊が枯山水。そう考えると侘びも寂も奥ゆかしさも、そんなのはウソじゃないか、って思えてくるよ。
 侘びはともかく寂は、もともとそんな意味でもニュアンスでもないようだけどね。
 あ、脱線したね。
 今日の話題はそこではなくってね。
 
 カーさんの公演は、ほとんどがスライドショーで。日本の国土開発がどれほど景観を無視したヒドいものか、っていう写真をこれでもか、って見せられた。
 カーさんの著作を読んで期待して出かけた僕にはちょっとどころではなく物足りなかったのだけれど。
 その写真はね、たとえば渓谷とかで、こんなにいい景色がありますね、って見せて。その後でおんなじ場所からその左右や後ろなんかを写した写真を示して。そこにはお店の看板やら、護岸工事でコンクリに塗り固められた川原とかが写っているのだけれど。それを見て、日本の国土開発はひどいですね、って。あなたがたは日本らしさをどんどん失っているんですよ、って。
 そういう講演だったのだけれども。
 ちょうどその頃、坂口安吾の日本人論を読んだばっかりの僕は、「日本人は日本人らしさを論じるより前に日本人である」って云う安吾の主張にかぶれていて。だからカーさんの説を素直には受け入れられなかったのだけれど。
 でも、それも今日の話題ではなくって。
 
 今日はね、そういう、特定のアングルで観たらとてもきれいな風景が見えて、でも違う角度を観るとどうしようもなく汚いものが目に飛び込んでくる日本の風景。それって、枯山水の文化と一緒だね、ってことを云いたいんだよね。
 
 茶室の狭い窓から観ることだけを想定して、背後の山を借景までして作り込んで。たとえば横から見たら意味をなさない精緻な小宇宙を作り上げた文人達。その思想って、ある場所からある角度で観たときだけ、つまり記念写真を取るアングルだけはきれいな風景で、視線をずらすとコンクリの壁、っていう思想と見事に重なるよね。
 現代の文人が、一方で枯山水を崇拝して、一方で国土開発を嗤う、っていうのは、そう考えるとどうなのかな、ってちょっと思ったよ。
 
 そんなことを考えていたら、ふっとアンモナイトのことを思いだしたんだ。
 アンモナイトって、ジュラ紀だか白亜紀だか知らないけれど、大昔のいつかの時点で絶滅しちゃうんだよね。
 何で絶滅したか、知ってる?
 
 アンモナイトの化石を見ていくとね、最初は単純なうずまき模様の貝だったのが、だんだん巻き数が増えて、そのうちうずまきの数に貝の大きさが間に合わなくなって、どんどんうずまきの形が歪んでいくんだよね。それで多分、自分の体が貝に入らなくなって滅んでいったんだって。
 そのうずまきが、DNAに支配されていたのなら、アンモナイトは誕生したときに、既に滅びをプログラムされていたんだよね。悲しいね。
 その、どんどん複雑怪奇な進化を遂げていく様がね、枯山水の思想の進化と重なって。もしそれが日本人の根底と一致するのなら、文人の、日本の景色の、日本人の行く末は、ってそんなことを考えちゃたよ。
 
 まあ、アンモナイトの滅びの過程って、人類の今までの歴史よりも、ずっとずっと長いのだろうけど、ね。
 
 ただ、それだけのはなし。