大植英次スペシャルコンサート カウントダウンオオウエエイジ、完結!!2012年04月07日

 まだまだ寒いけど、桜もそろそろ満開だね。

 もう、春だね。

 そして、新年度。

 新年度、ということは、あたり前だけれど、旧年度は終わった訳で。

 ちょうど一週間前に、旧年度に終わりを告げる、特別なコンサートに、行ってきたよ。

 

 大植英次スペシャルコンサート。

 ブルックナー8番。

 


 この前も書いたけれど、このコンサートは、曲目をみんなからのアンケートで決めたようで。僕は、まだ聴いたことがないブルックナーの5番をリクエストしたのだけれどもね。

 結局、8番になったんだよね。

 

 この選曲。僕はもちろん歓迎するのだけれど。でもこれって、オオウエエイジには結構きつかったのではないかなあ。

 オオウエエイジ/大フィルにとって、ブルックナーって、8番も9番も、じいさんを偲ぶためのコンサートで演奏されてきた曲だものね。オオウエエイジの十八番、ってわけでは、全くないんだよね。

 

 だから、オオウエエイジの9年間という熱狂の年月を過ごしてなお、5番に投票した僕を含めて、大阪の人たちは、やっぱりじいさんの面影を大フィルに求めているんだね。

 オオウエエイジの得意とするマーラーじゃなくって、ね。

 

 まあ、そんなことはどうでも良くって。

 とにもかくにも。オオウエエイジのカウントダウン。完結編のコンサート。

 好きな席で聴きたかったのだけれどね。それよりも電話がつながらなくって取っぱぐれる恐怖感で、FAXによる事前注文にしたんだ。そしたら、いつも定期を聴いている席とほぼ同じ席。大フィルチケットさんありがとね。いい席から、最後のオオウエエイジ、見させてもらうよ。

 

 土曜の昼なのに、お客さんの年齢層はかなり高くてね。定期会員がほとんどなんだろうね。そうじゃなくっちゃチケット取れなかったんじゃないかな。まあ、しょうがないよね。

 

 満員のホールに、マイクやテレビカメラも入ってステージ上も満席。入ってきたオオウエエイジが、暗譜の指揮棒を振り下ろした。

 

 僕は、ずいぶん冷静に、この曲を聴いていたんだと思うよ。

 オオウエエイジだけでなく、この日大フィルさんを卒業する4人の団員さん、正確には誰と誰だかよく分からないけれど、その人、だと思う人たちに目を配ったりして。

 特に、長原君。最後なんだね。寂しくなるね。

 

 もちろん、ほとんどの瞬間、見慣れた角度からのオオウエエイジの背中、じっと見ていたよ。

 

 曲はね。

 難しい、曲だね。

 あらためて、ホールを満たす音の中にどっぷりと浸かって、その中から細部まで聞き洩らすまいと耳を澄ますとね。

 演奏ミスなのか、スコアなのか。1パートだけ半拍ずれたり、急いだり。憶えているところではホルンだったりティンパニだったりするのだけれど、そういうところがいっぱいあるんだね。

 ゴルフボールの芯みたいに、糸みたいなゴムを固く巻いて作ったボール。そのゴムが所々伸びすぎで切れてね、プチプチとballの表面にゴムの切れ端が飛び出している。そんな風に聴こえたんだよね。

 第1楽章は、ね。

 

 ああ。

 もう、いいよね。

 

 細かいところなんて、どうでもいいよね。

 

 僕は、浴びたよ。

 オオウエエイジの、音楽監督としての最後の演奏会。不動のコンマス、長原君との最後の演奏会。

 頂上の見えない巨大な山のようにそそり立つ、ブルックナーの8番。

 

 90過ぎのじいさんのように達観してなくて、まだまだ血気盛んなオオウエエイジが、泣きながら、喜びながら、息を切らしながら、時には滑り落ちながら、ブルックナーの8番に取り組んでいる、その音を、浴びたよ。

 大フィルさんと一緒に取り組んできた、その9年という歳月を、浴びたよ。

 オオウエエイジが取り組んできた、今までの年月。そして、もっと長い、これからという年月。その時間を、浴びたよ。

 

 ゆったりとした弦と、管楽器総出演のコラール。その両極端を行ったり来たりしながら、いろんな事を考えさせてくれたね。

 アダージョのワグナーチューバ。僕はいつもデビルマンの最後のシーン、天使の曼荼羅を思いだしてしまうのだけれども、この瞬間、いろんなものが降ってきたよね。シンフォニーホールの高い天井から。

 

 そして。

 終わらない事を、みんなが望んでいたのだけれど。

 そのためのブル8かって、聴きながら僕はすごく納得したのだけれど。

 でも、やっぱり終わりが来るんだよね。

 

 僕は、人間オオウエエイジが一生懸命に奏でたこのブル8がすごい好きだけれど。でも、この演奏で泣くことはないな、と思っていたのだけれど。

 だけど。

 最後のコーダ。

 音が分厚くなった瞬間にね。

 あれ、が出てきたんだよね。

 

 今まで平面に見えていたステージが、音が。急に奥行きを持って。音楽じゃなくって世界そのものに変わる瞬間が。

 

 交響曲ってね。ヘンだよね。

 題名がないんだよ。あんなに長い音楽なのに。交響詩なら、ローマの松とか、モルダウとか、英雄の生涯とか。分かりやすい、わくわくするような題名がついているのにね。

 何で題名がないか、知ってる?

 それはね。

 

 それは、交響曲が、世界そのものを作るための音楽だから、なんだよね。

 今僕たちが住んでいる、この世界。日本とか地球とかじゃなくって、この宇宙には名前はないよね。それと同じで、世界を作る交響曲にも、題名はいらないんだ。他と区別するために、第何番、それだけで十分。

 

 同じ、世界を作るための交響曲でもね、恋愛に身悶えするチャイコフスキー、喜怒哀楽を爆発させるベートーヴェンと違ってね、ブルックナーは、悠然たる自然そのものが主人公の、世界。

 感情移入するための人間がいないから、ちょっと取っつきにくいけどね。でも、よく見たら一瞬たりとも同じ顔をしていない自然そのもの。

 

 その雄大な自然がね。

 先月の田園とハルサイで、人の営みをステージ上に現出したかと思ったら。

 今度は、ほんの一瞬だけれども、自然そのものの、ブル8の世界を、ステージに呼び出してくれたよ。

 

 これが、オオウエエイジ9年間の成果、なんだね。

 僕は、はっきりと、聴き届けたよ。

 

 オオウエエイジの、到達点を。

 

 今日は、じいさんの写真を掲げなかったオオウエエイジ。

 やっと、自分の音楽に対する拍手を、受け止められたんだね。

 

 ありがとう。

 そして、ご苦労様。

 僕や、多くの、じいさんの面影を聴きにきていたお客、鬱陶しかったでしょ。でも、真正面から取り組んで、最後にオオウエエイジのブルックナーを聴かせてくれたね。

 

 今度は、ゲストとして、ちょっと気軽に振りに来てね。

 大好きなマーラー、でも、バーンスタインの面影を追い求めちゃ、ダメだよ。

 

 ただ、それだけのはなし。



The Day 大植英次の、最後の、定期2012年02月18日

 遂に、きたんだね。

 The Day。その日が。

 

 

 一年前から分かっていた、オオウエエイジの、音楽監督として最後の定期。もちろん、3月にスペシャルコンサートもあるし、来年度だって定期もマーラーも振るんだから、別にお別れ、っていう訳ではないのだけれど。

 それでも、「神聖な」大フィルさんの定期を、音楽監督として振る、っていうのは、やっぱり観ている方にも、願わくば演奏している方にも特別な意味があるはずであって。

 そういう意味では、一年前から分かっていた、特別な日。The Day。

 

 その、特別な日のプログラム。

 これも一年以上前から分かっていたことだけれども。

 一年以上前から、ちょっと不満だったんだよね、僕は。

 田園交響曲と、春の祭典。

 組み合わせのミスマッチもさることながら、ハルサイか、って。

 オオウエエイジは、前にも定期でハルサイを振ったことがあって。その時の演奏、僕にとってはオオウエエイジの数十回の演奏会の中で、かなり印象に残るくらい、良くなかったんだよね。はっきり言えば、ツマラナイ演奏。

 そのリベンジ、っていうのもあり、だとは思うけれど。でも、限りなくリスキーだよね。

 最後の最後に、その賭に出るのか、って。

 

 だから、今日まで、今日も演奏が始まるまで、ホントに、怖かった。

 オオウエエイジの最後の定期、しょうもない、ってツマラナイ顔して帰ってかなくちゃいけないのかな、って。

 

 あ、前のハルサイがどういう演奏だったかっていうとね。

 僕の中では、ハルサイはムーティ/フィラデルフィアの演奏がお手本としてずっとあってね。ハルサイは聞き比べが面白い曲だから、いろいろな演奏のディスクを持っているけれど、それこそ高校生の時から、お手本の座を譲ったことがないくらい、鉄板の、ハルサイ。

 しゃきっとしたリズムと、刺激的な金管。艶っぽい木管のソロと、全体の、底知れない体力。

 イタリアの若武者ムーティの面目躍如のハルサイ。これと比べるとね。

 前の時のオオウエエイジのハルサイは、とにかくぼったりしててね。遅いテンポの、なんの飾り気もない、ただ譜面を鳴らしただけの、そんな音楽にきこえたんだよね。

 まあ、それだけ印象に残っているんだから、ある意味、すごい演奏だったのかな。

 

 さて、田園だね。

 チケットはもちろん、何ヶ月も前から完売だったのだけれども、思いの外空席もあるね。僕の二つ隣の、前を通るときにいつも律儀に席を立ってくれるおじいちゃんも、来ていない。風邪が流行っているからね。大丈夫かなあ。

 そんなことを考えるくらい、あの席にずっと通ってるんだよね。オオウエエイジを観るために。

 

 ともかく、田園だね。

 先月の英雄が入ったおかげで、このごろのオオウエエイジはベートーヴェン付いてるね。年末の9番から、3番と6番。筋だ。

 6番って、なんか微妙なんだよね。僕の中では。やっぱりベートーヴェンといえば、3,5,7,9の奇数番があって。偶数番はその合間の音楽、みたいに見えてしまうし(わたしの偏見ね)、タイトルのある交響曲って、ちょっと一歩引いてしまうんだよね。これも僕の偏見なのだけれど。しかも英雄は許す、みたいに偏った偏見。さらに5楽章。

 そんなこんなで、あんまりなじみのない曲ではあるのだけれど。

 

 でも。

 オオウエエイジ、最後の「神聖な」舞台から出てきた音を聴いたとたん、曲がどうとか、タイトルが、とか。そんなつまらないことどうでも良くなった。

 

 この曲は、田園っていっても、人間のこしらえた田んぼの風景ではなくて、より原始的な、自然そのものを現した曲、なんだね。

 両翼に張り出したヴァイオリンと、その奥にいる低弦、木管、ホルン。立体感にあふれる音。鳥の鳴き声や雷。

 そういうものに浸りながら、僕は、アバターの星の風景を思いだしていたよ。今までに見たことのない、デティルと立体感を持った、一つの完全な、作られた自然。まだ人の手が入っていない原始の、表情豊かな自然。

 1楽章のホルンのポポポポポポポッ、っていうのが、まるでふわふわ浮いているクラゲみたいなやつに見えてきて。

 まるで立体メガネをかけたように、僕は音楽を聴いているのか、その音楽が作り出した世界を探検しているのかが分からなくなってきた。それと同時に、この、この場を作り出したオオウエエイジが、この雰囲気を感じている僕がリアルなのか、ファンタシーなのかがよく分からなくなってきた。

 

 この感覚。

 僕は椅子に座ってステージ上で奏でられる音楽を聴いているのだけれど、その奥行きを感じられるし、その音楽が創り出す世界を、ファンタジーを感じられる。

 そういう感覚。あんまり記憶がないな。

 音楽に打ちのめされる、のではなくて、音楽が創るファンタジーの中で遊ぶ。そういうのって絶対に生演奏でなければ出来ない贅沢だね。

 すごいところに連れて行ってくれたね。オオウエエイジ。

 

 休憩時間にプログラムをパラパラ読んでいたら。

 このプログラム(ややこしいけれど、曲目のことね)は、オオウエエイジが大フィルさんに来る前に、ミネソタ交響楽団を率いて来日するときのプログラムだったんだね。

 僕もそのチケットをとっていたのだけれど、911の影響で結局実現しなかったんだよね。

 ハルサイばかりに目がいって、もう一曲が田園だとは気が付かなかったけれど。

 田園で、原始的な自然の情景を現出させて、今度はそこで繰り広げられるエネルギーに満ちた宗教儀式を描くんだね。すごい構成の演奏会、10年以上前にもう構想していたんだね。

 

 さて、ハルサイ。

 もちろん、いいたいことはいっぱいあるよ。この演奏に、僕は。主に装飾音だと思うのだけれど、ソロの唄い方がこなれていないとか、断片的なフレーズの組み合わせが、断片的なままで一つの流れになってないとか。

 そりゃあそうだよ。

 ムーティのハルサイは、たった二つのスピーカーから聞こえてくる、再生された音楽で。それに比べて、この、オオウエエイジのハルサイは、こんな広大な、自然界全体を表現できるほど大きいステージで、今、この瞬間しか鳴っていない音楽で。楽器間の距離や、音の速さだってそれぞれ違う中、僕の席にチューニングしている訳でもないんだから。多少の不自然さはあるよ。

 それがいやで、音楽はディスクで聴くものだ、っていう人もいるのだろうけれど。僕は決してそうはなりたくないな。

 だって、そういうずれがちょっとずつ収束して、一丸となったトゥッティの、野卑な破壊力。そこからこみ上げてくる感情。そういうものは、リビングに腰掛けてコーヒー飲みながらでは、決して味わえないもの、だものね。

 特に今回のような、僕の、オオウエエイジの、団員さんの、お客さんみんなの感情が一緒に昂ぶった、異様な破壊力。

 つくづく、オオウエエイジを、大フィルさんをみてきて良かったな。そう思ったよ。

 

 こんな長い曲だったっけ、って思うほどの狂乱の宴も、遂に終わるときが来てね。

 トレモロの中、心持ちタメて、名残惜しそうにオオウエエイジが、最後の一音を振り下ろした。

 

 それから、体感では30分くらい、止むことのない拍手を、オオウエエイジは、ソリストと共に、楽団員と共に、楽団員が退場してからは満身に。ステージの真ん中で、手前で握手しながら、袖で抱きつきながら、客席でもみくちゃにされながら浴び続けた。

 ぼくらも名残惜しかったけれど、オオウエエイジもきっと、名残惜しかったんだね。

 

 ありがとう。

 オオウエエイジ。

 来月も、来年だってあえるけれど、でも、ちゃんとけじめをつけてくれたね。

 

 僕は、チャイコの5番以外はすべての定期と、特別演奏会、第九を楽しませてもらったよ。

 本当に、ありがとうね。

 

 3月31日のスペシャルコンサートは、ブル8になったんだね。僕はブル5をリクエストしていたのだけれど。でも、3度目のブル8、とっても楽しみにしているよ。

 

 ただ、それだけのはなし。



2012年2月17日
大阪フィルハーモニー交響楽団 第455回定期演奏会
大植英次:指揮

ベートーヴェン:交響曲 第6番 田園
ストラヴィンスキー:春の祭典

ザ・シンフォニーホール
1階J列30番

オオウエエイジの、男泣きの、英雄2012年01月27日

 年が明けると、花粉が飛ぶんだね。

 目が、しょぼしょぼするよ。

 

 それから。

 年が明けると、オオウエエイジの退任が、いよいよ迫ってくるね。僕がさぼっているうちに、カウントダウンも、あとは最後の定期と、まだチケットが売り出されていない3月31日の特別演奏会だけになって。

 でも、来年のプログラムを見ると、定期にも顔を出すし、西宮でマーラーも振るしで、急にいなくなっちゃう訳じゃないみたいだね。一安心。

 そうすると、いつの間にかお腹周りにもすっかり貫禄のついた、おぼっちゃま君なんてもう面影もなくなった長原君が辞めちゃう方が寂しいね。大フィルさんには客演コンマスもいるはずなのに、ほとんど観ることがないくらい長原君出ずっぱりだったものね。

 まあでも、東京いくとはいっても、在京のオケに行く訳ではなくて、ソロ中心の活動をするみたいだから、また、今度はソリストで帰ってきてくれるかな。

 前に聴いたシェラザードみたいなソロ、また聴かせてね。

 

 あ、前置きが長くなったね。

 ホントにもう親指と人差し指しか残っていなかったオオウエエイジのカウントダウン。ひょんな事から、もう一回増えたんだよね。

 僕がすごく楽しみにしていたゲルハルト・ボッセが病気で、その代役だから、複雑なんだけどね。

 シンフォニーホールに行く道で、若いカップルの女の子が、「おじいちゃん聴きたかったな」っていっていたけれど、全く同意、なんだよね。

 でも、オオウエエイジの演奏を、しかも僕の大好きな英雄を聴く機会をもらったから、ボッセの代役としては理想的、っていうところだね。

 そういえば、前もボッセがキャンセルしたことがあって、その時はヘムルート・ヴィンシャーマンのバッハ管弦楽組曲だったね。この演奏会、常任指揮者以外の定期では、僕の中でダントツの一番の演奏会になったんだよね。

 結果的に、だけれども。

 今回もボッセの代役の演奏会、期待しちゃうよ。


 

 ハイドンを語る言葉は、僕は持っていないのだけれど。

 

 英雄。

 

 シンフォニーホールのロビーのキオスクでね、CDを売っているのだけれど。じいさんの英雄のCDが、置いてあったよ。

 エクストンの、2000年の2枚組。

 忘れもしない、あの、英雄。

 

 オオウエエイジのベートーヴェン。僕はチクルスの時に全部聴いているのだけれど。3番のときには、その前の2番があまりにも印象的すぎて、あんまり印象に残らなかったんだよね。

 印象に残らない、っていうだけで、それはじいさんの「あの」英雄には到底かなわない訳で。だから、このCDをここで売るのは、オオウエエイジに可哀想だな、って思っていたのだけれど。

 

 この日は、花粉がたくさん飛んでたのかな。目が、しょぼしょぼするんだよね。

 

 だから、この演奏を聴きながら僕が盛んに手を目にやっていたのは、花粉でしょぼしょぼしていたから、なのだと思うのだけれども。

 なんか、涙も出てきたんだよね。

 

 最初はのうちはね。涙っていっても、ちょっといやな涙でね。

 

 英雄の1楽章、冒頭。

 最初の二つの音。弾けるベートーヴェンの面目躍如のコード。この曲の、最大の聴き所の一つ。

 そのコードがね。

 軽いんだよね。

 正確に言えば、速い。

 キオスクに置いてあったCD見て、じいさんの演奏を想い出していた僕には、それがとてつもなくじいさんからはかけ離れて感じられてね。

 オオウエエイジの最後の英雄が、これなのか、って。

 そう思っちゃって。

 いやな涙がにじんできたんだよね。

 

 それでも、いつもより近い席から聴いているせいか、音の密度はさすがにすごくてね。じいさんと比べちゃいけないんだ、って思えば、やっぱり英雄ってすごい曲だなあ、って。

 一楽章は、それでよかったんだけどね。

 

 ところが、2楽章。

 葬送行進曲。

 

 これがうって変わって。

 じっくりゆったり、腹の底からわき出る唄。

 じいさんの英雄の、放っておけば止まってしまうのでは、と思うほどの演奏。それを僕のアタマの中でデフォルメして再現したイメージ。それとは比べられないけれど、客観的にもかなり遅いテンポだったんだろうね。

 その中での緊張感。そして、唄。

 男泣きのチェロと弦バス。オーボエ。

 

 英雄って、長い曲だね。

 長い長い葬送行進曲。まるでじいさんが覗きに来ている様な気分になって。

 一楽章とはちがう意味で、目がむずむずしたよ。

 

 もう、そのあとはオオウエエイジのペースでね。

 トリオのホルンのちょっとしたミスも愛おしく感じるくらい、ベートーヴェンの、そしてオオウエエイジの、そして僕が一回だけ聴いたじいさんの英雄の記憶が混ざり合って。


 幸せな演奏会だったなあ。

 

 結構あった空席、ホントにもったいなかったね。

 まあ、空席はボッセの演奏にしてももったいないのだけれど。

 

 オオウエエイジ、ありがとうね。カウントダウンの番外編、忘れられない演奏会になったよ。

 

 ただ、それだけのはなし。

 

 大阪フィルハーモニー交響楽団

 第454回定期演奏会

 2012年1月26日

 

 ハイドン:交響曲 第92番 オックスフォード

 ベートーヴェン:交響曲 第3番 英雄

 

 大植英次:指揮

 

 シンフォニーホール I列35番

オオウエエイジの、異形の、悲愴2011年11月07日

 秋だね。

 オオウエエイジの最後の年、それももう半分以上過ぎてしまって。いよいよ本格的にカウントダウンを意識する、そういう季節になってきたんだよね。

 

 そういう時期に、僕の方は公私ともにいろいろなことが重なって。チケットと多のだけれども行けなかったコンサートとかも、結構あるんだよね。申し訳ないことに。

 たとえば、このチャイコ選集の前回、5番。何で行けなかったかは忘れちゃったけれど、泣く泣くあきらめたんだよね。

 だから、前々回、僕にとっては前回の4番。ロマンティックな大騒ぎのイメージから引きずった、今回の6番。結構楽しみにしていたんだ。

 そういえば、オオウエエイジって、結構久しぶり、なのかな。

 

 ということで、6番。悲愴。

 ゲージツ的にチャイコフスキーがどうかっていう議論は置いておいて。感情の起伏の激しいチャイコフスキーの曲、僕は大好きなんだよね。ロマンティックな大騒ぎ、いいじゃない。

 昔、朝比奈さんのインタビュー記事で、どっかで誰かがチャイコの5番を振って大不評の評論があった、っていう話をしたときに、「はて、チャイコの5番は、普通にやればみんなが喜ぶ曲なんですがね。その方がそんなひどい演奏をするとは思えませんが」みたいなことをいっていて。まあ確かに、チャイコでツマラナイ演奏って、そうそう記憶にないよな、って納得したことがあったのだけれども。

 

 この、オオウエエイジの、悲愴。

 僕は、好きになれないな。

 もっとはっきり言うと、嫌い。

 

 なんなんだろう。

 確かに曲は悲愴なのに、何でこんなにざらざらするんだろう。

 始まったとたん、そういう強烈な違和感が押し寄せてきてね。あまりにツマラナイから、どういう理屈でこういう風に聴こえるんだろう、っていう謎解きを一生懸命にしていたよ。

 

 最初に考えられるのは、テンポの動かしすぎ。

 僕のアタマの中の悲愴との対比でいえば、あるところでは遅すぎたら、あるところでは速すぎたり。それが1小節の中でも現れる、強引なテンポチェンジ。

 決して心地のいいテンポが出てこないばかりか、演奏者だってついて行ってないよ。その結果の粗いアンサンブル。うやむやに流れるパッセージ。

 

 特に1楽章は、聴いている間中、ゲルギエフの演奏を想い出していたよ。グロテスクな、ローマの松。

 ゲルギエフの演奏は、たとえば人間の肉体。本来皮が被さっていて、その皮の上から鑑賞するべき筋肉の躍動を、生皮を剥いで強引に筋肉を露出した、人体の不思議展の遺体のダンスを観ているようなグロテスクさがあってね。

 聴こえるべきところが聴こえない、内声にスポットライトが当たることによる違和感、みたいなものなのだと思うのだけれど。

 

 僕の目の前で奏でられている悲愴も、そういう類のグロテスクさ、居心地の悪さなのかな、と思ったのだけれども、どうなんだろう。

 ちょっと違いそうなんだよね。

 つまり、ゲルギエフのおとの重ね方から来る違和感ではなくて、テンポのいじり方による違和感。確信犯的なゲルギエフに比べて、楽団員もついてこれないオオウエエイジの指揮に、確信と準備があったのかなあ。

 ワカンナイや。

 

 プログラムを見ると、4楽章、通常アダージョで演奏されているのだけれど、直筆のスコアをよくよく見ると、どうやらアンダンテのようで、今夜はそれで演奏される、っていうことなのだけれど。

 それが奏功しているかどうか。

 それまでのテンポに関する違和感がいっぱいで、とてもそこまで興味が持続しなかったよ。

 

 終演後の、オオウエエイジのしゃべりは楽しかったけれど、演奏に対する拍手は、何人かのソリストに対するもの以外は、今日は出来なかったな。

 

 5番って、どうだったんだろう。

 聴いてみたかったな。

 

 ただ、それだけのはなし。

 
2011年11月2日(水)
ザ・シンフォニーホール
指揮:大植英次
チェロ:セルゲイ・アントノフ*
<プログラム>
ミステリーピース
ロココの主題による変奏曲 イ長調 作品33*
交響曲 第6番 ロ短調 「悲愴」 作品74

東日本大震災チャリティーコンサート2011年04月13日


 さて、たまには。

 姿勢を正して、万年筆で原稿用紙に書いてみようか。

 

 四月になったね。

 新年度。オオウエエイジの、最後の年。

 だから。オオウエエイジのコンサートが一回でも増えるのは、本当は大歓迎なのだけれど。

 だからこそ、今回のコンサートも、つながらない電話をかけ続けて、やっとの思いで、多分最後の十枚足らずくらいの一枚を手に入れたのだけれども。

 でも。

 本当ならば、やっぱり、あってはいけないコンサート、なんだよね。

 

 そう。今日のコンサートは、

 東日本大震災チャリティーコンサート。

 

 何年か前のスマトラ島沖地震の時にもチャリティーコンサートをやったけれど、今日のコンサートは、被災地の方々の新庄に敏感なオオウエエイジが。素早く日程を作ってくれた大フィルさんが、ホールが。そしてショート・ノティスにも関わらず集まった満員のお客さんが、みんなの想い、気持ちをモノ(お金)に換えて、被災地の方々に届けよう、そうやってできたコンサート。

 特にオオウエエイジは、前日の夜にドイツでコンサートをして、今日帰国してのコンサート。

 だから、演奏の出来とか、そういうのを気にするようなコンサートではないんだよね。

 

 大フィルさんの前身となる関西交響楽団の、最初の演奏会。

 終戦後すぐの時期の瓦礫の中で、着の身着のまま集まった団員さんが、「なるべく黒く見える」ような服を着て、朝比奈さんの指揮で奏でた「新世界」。

 落胆から復興へと。

 当時その演奏を聴いたお客さん、そして、それを奏でた団員のみんなにとっても、その演奏が、そこで流れた涙が、復興への勇気になった、そんな演奏会だったんだろうね。

 

 そして、時は流れて。

 その当時と同じくらいに勇気が必要なこの時期に、オオウエエイジは、当時と同じこの曲を持ってきた。

 

 新世界。

 いい、曲だよね。

 オオウエエイジの指揮はケレンに満ちていたけれど、それでも、あるいはそれが故に、ドヴォルザークの素朴なメロディが心にしみたよ。

 

 開演前のピアノ演奏(ショパンかな)も、休憩後の新世界の前にわざわざピアノを持ってきて、童謡の「ふるさと」をみんなで歌わせてくれたことも、歌舞伎の笛を吹いている若い人と演奏した春の海も。

 そして、アンコール。合唱団を入れての、アヴェ・ヴェルム・コルプスも。

 あっ、それから。ジェットラグでなのか、聞き取りにくいしわがれ声なのに一生懸命のオオウエエイジのMCも。

 

 チャリティのために集まった人たちを、少しでもたくさん楽しませよう、って云うオオウエエイジの気迫に、圧倒されたコンサートだったよ。

 

 募金、いっぱい集まっているといいね。

 僕も、何回かに分けて、入場料の何倍かくらいを、箱に入れたよ。

 新人さんなのかな、ヴァイオリンを弾いていたかわいいおねえさんの持っている箱を選んでお金を入れたことは内緒ね。

 

 ありがとう、オオウエエイジ。

 あなたが集めたいっぱいの気持ち、きっと届くよね。

 

 

 2011年4月

 東日本大震災チャリティーコンサート

 大阪フィル

 大植英次