オオウエエイジのブラ4 〜カウントダウン、オオウエエイジ1〜2011年02月11日

 さて。

 ブラームスチクルスの最終回。

 そして、オオウエエイジが大フィル引退を発表してから、初めての演奏会。

 

 ちょっと、どきどきだよね。

 

 このシリーズ、僕は最初の一番でぶっ飛んでから、ずっと楽しく聴いてきたのだけれど、ここに書くのは1番以来だね。

 2番も3番も、それはそれはブラームスだったんだよ。

 

 そして、今回。

 ダブルコンチェルト。

 外人さんの、おじいさんのチェロと、日本人の、かわいらしいヴァイオリン。

 オケの、最初の一音から、これ以上はない、っていうほどのブラームス節が生々しく聴こえてきてね。僕はのけぞろうか、それとも笑おうか迷ってしまったのだけれども。

 そのすぐあとの、チェロのカデンツァ。

 なんじゃこりゃ。

 

 もともと、華麗な技巧を披露しよう、っていう曲ではないらしいのだけれども、パンフレットによれば。そのせいなのか、上から下までよく鳴る、チェロの「音」が、聴こえてきたよ。

 いや、聴こえてきた、っていうのではないな。

 響きが、ずんときて。そして、包み込んだ。

 僕の耳を、腹を、身体を。そしてホールを。

 

 あとはもう。

 かなり身体的にきつい日で、コンチェルトって集中して聴けるのかな、って思ってたのだけれど、そんな心配は全くいらなかったね。

 ヴァイオリンとの掛け合い、そしてユニゾンのパッセージの、何とも愛嬌たっぷりのチェロ。

 分かりやすい旋律がいっぱいの協奏曲。楽しかったなあ。

 

 アンコールは、なんと今演奏した曲の、3楽章まるごと(だったよね)。

 真剣勝負の本番とはうって変わって、楽しそうに身体いっぱいで跳ね回るヴァイオリンのおネエちゃん。それを包み込むチェロ。

 それはそれで楽しかったのだけれども。

 

 僕的には、クラッシックって不自由だなあ、って思ってしまったよ。

 もう少し短くてもよかったのに、最後まで演奏を続けるしか終わり方がないんだな、とか。

 ぎりぎりまで締め上げた本番の演奏のあとで、もう一回演奏したいかな、聴きたいかな、とか。

 まあ、お客さんが求めたのだから、聴きたいかな、の方は余計なお世話だよね。

 何はともあれ、ありがとう。

 

 そして。

 4番。

 

 これ、もちろん、1番と並んでブラームスの人気曲で。

 だから、ブラームス節の権化なんだ、って勝手に思ってたんだよね。特に、1楽章のファゴットの出てくるところあたり。あそこが規定する音の空間が、つまりブラームスの箱庭の大きさなんだ、って。

 ところがね。

 この4番、全然違ったよ。

 

 今日の4番は、全くブラームスじゃない。

 僕の思っていた、古くさい音のする、箱庭的なブラームスでは、断じてない、よ。

 

 ブラームスをブラームスたらしめている薄皮一枚かぶった音。その薄皮が見事にとれて、出てきた音は。

 とっても生々しい。静かではないし、遠慮無く楽器は鳴っている音だけれど、でもうるさくはなくって。

 パンフで読んだ曲目解説に引きずられているかも知れないけれど、静謐で、厳かな。

 それは、メメント・モリ。

 死を想え。

 

 僕は、めちゃくちゃ嬉しかったよ。

 これぞブラームス、っていう1番演奏から始まったこのシリーズを、ブラームス節と切り離したってこんなに魅力的なんだ、って教えて締めくくってくれて。

 本当にありがとう。オオウエエイジ。

 

 

 さて、この演奏会は、このあとに、大きなおまけがついていたんだよね。

 何度目かのカーテンコールで、スコアを手にして戻ってきたオオウエエイジ。暗譜なのに。

 そして、ついでにマイクも手にしていて。

 

 曰く、そのスコアは日本に何冊かしかないブラームスの直筆のスコアで、幻の4小節が記されている。

 その4小節は、初演のあと、敬愛する誰かのアドヴァイスで付け加えられたもので、1楽章の頭が入りにくいからといってつけられた前奏である。当時これが演奏されたかどうかは分からない。

 この幻の4小節、今日ここで、大阪初、もしかしたら日本初、少なくとも皆さんにとってはたぶんはじめて、披露したい。どちらがいいか比べてみて欲しい。

 

 といって、前代未聞、バース付き1楽章のアンコール。

 まあ、普通の前奏無しパターンがあまりにも耳慣れていて、どっちがいいかって比較もできなかったのだけれども、ゆったりとした曲想から考えていた4小節の、半分の長さしか無くて、ああ、アレグロなんだ、この曲、ってあらためて思ったよ。

 

 その後、オケのメンバーを早々に退席させて、ステージ上はなにやらピアノの準備などをしていて。

 その後の話は、オオウエエイジから「くれぐれもブログに書かないで」っていわれたから、詳しくは書かないけれど。

 敬愛するベートーヴェンを始め、交響曲作家はみんな9曲くらいの交響曲を書いているのに、ブラームスは何で4曲なのか?

 その謎をたぐると、シューマンへの、そして、ベートーベンよりも遙か以前のきら星の天才Mへのオマージュ。永遠の音楽への捧げ物。

 ホントか嘘かは知らないけれどもね。

 演奏だけでは分からない、そういう音楽の裏話。言葉で伝えてくれると楽しいよね。

 

 大フィル引退を、来期プログラムで発表して初めての演奏会。オオウエエイジなりのサービスなのかな。

 とにかくありがとう。

 楽しかったよ。

 

 ただ、それだけのはなし。

 


2011年2月9日

ブラームス交響曲全曲演奏会 2010/2011 IV


ブラームス

ヴァイオリンとチェロのための協奏曲

交響曲 第4番


大植英次:指揮

竹澤恭子:ヴァイオリン

ダーヴィド・ゲリンガス:チェロ

大阪フィルハーモニー交響楽団


ザ・シンフォニーホール K33



無人のオルガン オオウエエイジのブル9 〜カウントダウン、オオウエエイジ2〜2011年02月20日

 大フィルさんの定期。

 今回は、二つの9番。

 

 9番って、重たい曲が多いよね。ベートーヴェンの呪縛から、人生の総決算にすべく作曲された曲や、結果的に人生の総決算になってしまった曲がひしめいていて。

 だから、二つの9番ってどうよ、って思っていたら。

 ショスタコの9番は、そういう訳ではないんだね。ひょうひょうと15番までの交響曲を創った人だからね。

 

 まあ、ショスタコーヴィッチは実はあんまり好きな作曲家ではないせいもあって、そして、もう一曲の9番が、あまりに重たい曲であるせいもあって。

 僕のメインは、もちろんもう一曲の方、ブルックナーの9番、なんだよね。

 

 オオウエエイジのブルックナーは、予定されている限りこれで終わり、なんだね、大フィルさんでは。結局8番と9番を2回ずつ振っただけだったのかな。最後なら、5番とかも聴いてみたかった気もするけれど、しょうがないね。

 

 会場に着いて、パンフを読んでいたら。

 評論家のエッセイの中で、この前のブラームス、驚いたでしょ? っていう文章が載っていて。

 作曲家の楽譜をこんな風に読むことができるのか、っていう驚き、のようなのだけれども。

 それは、僕の感じた、これがブラームス? っていう驚きのことをいってくれているのだと思うのだけれども。そうか。あれは演奏からでてきた驚きだったんだね。

 でも、パンフのコラムを読んだ人の中で、「作曲家の楽譜を、、、」っていう風に驚いた人って、どれくらいいるのかなあ。

 あまりにも評論家的な驚き方で、みじかにいたとしてもお友達にはなりたくないけれど、ね。

 

 それはそれとして、そのコラムには、続きがあって。

 つまりは、楷書体のじいさんに比べて、オオウエエイジは天真爛漫なんだから、比べちゃいけないよ、っていうことが書いてあった。(って僕には読めた、っていうことだけれど)

 

 この一文で、結構僕は楽になったんだよね。

 だって、オオウエが前に振ったブル9は、じいさんの生誕100周年かなんかで。ロビーにはじいさんのスコアや指揮棒が飾ってあったりして、聴く方も朝比奈さんをどうしても意識してしまうシチュエーションだったからね。

 じいさんから離れて、もう十分、大フィルさんにはつき合った、そう判断した大植英次の、ブルックナー9番。

 どういう演奏を聴かせてくれるんだろう。

 

 と思いながら、という訳でもないけれど、うとうとしている間にショスタコの9番は終わってしまっていて。

 休憩から帰ってきて席に座ったら、あれ、なんか違和感。

 

 ステージの上のオルガンが開いていて、ライトも煌々と、ついているんだよね。

 もちろん、僕の知る限り、ブルックナーの交響曲でオルガンの出番は無いはずだし。

 ブラームスの時みたいに、アンコールでオルガン使ってなんかやるのかな。それとも、オルガン的なサウンドのブルックナーに敬意を表したのかな。あるいは、写真写りを気にしただけだったりして。

 なんていろいろ考えてしまったけれど、多分、真ん中だったんだろうね。

 

 演奏はね。

 なんかよく分からないけれど。

 とてつもない緊迫感の中から、音が、草原やら山やら、でこぼこした大地や世界を、創り出していたよ。

 特に、一楽章の最初のトゥッティ。あまりの遅さに息が吸えずに倒れそうになりながら、僕は、芝生の生えたなだらかな丘が、ホルンのあたりに出現したのを、確かに聴いたよ。

 

 ああ、交響曲って、世界なんだね。

 

 交響曲って、たいがい題名がないよね。

 考えてみると変な話で、題名のない管弦楽曲って、他にあんまり思いつかないんだ。我が祖国もローマの松も、英雄の生涯なんてのも交響曲ではなくって。そういう題名のある曲は、どんな物語や情景を描いた曲なのか、あらかじめインプットして聴く必要がある、そういう曲なんだよね。

 でも、交響曲には題名がない。

 それは、きっと。

 交響曲が描いているのが、世界そのもの、だからなんだよね。この世界、日本でなくてオーストリアでもなくて、アメリカでもないこの世界には、名前なんてないものね。

 世界を創ろうとした作曲家と、その世界を再現しようとする音楽家。とてつもない、神をも恐れぬ挑戦が、音楽会っていうものなんだね。

 

 話が逸れたけれど。

 ちょっと前から、オオウエエイジの振る音楽には、奥行きを感じるようになっていて。深い官能性とか雄大な構築力とか、そういうしょうもない言葉遊びではなくて、具体的な、手で触れるような奥行き。

 たとえばサン・サーンスのオルガン付きの輪郭や、アルプス交響曲の日の出とかね。

 今日のブル9は、奥行きとかそういうものでは無くて、もっと即物的に、なだらかな丘を覆う、背の低い碧い芝生のような草の質感なんてのも、感じられたよ。

 

 昔、ブルックナーのブラスのトゥッティは、宇宙戦艦ヤマトの、戦艦アンドロメダを中心とする地球防衛艦隊による拡散波動砲の一斉発射みたいだな、っていってみたり、巨大な池の底からせり上がってくる大きな水泡みたいだな、っていってみたりしたことがあって。

 つまり、それらは、迫ってくるイメージだったのだと思うのだけれども。

 今日のトゥッティは、迫ってこないで、丘や山を形作っていたよ。

 そして、シンフォニーホールの客席は、その世界に飲み込まれたんだね。

 

 二楽章の、激しいリズムも。

 破綻をものともせず、遠慮なしに突き進むオオウエエイジ、身振りでオケを律する長原君。

 じいさんの、最後のブルックナーとは全然違うけれど、これもブルックナー。

 生きている、ブルックナー。

 

 三楽章。

 トラのホルン、というかワグナーチューバは、若い子が多かったね。ちょっと可哀想だったな。

 ラス前の、ホルンの伸ばし、あんなに音がぶつかるもんなんだっけ? そこだけ気になっちゃったよ。

 

 そして、

 ブルックナーが創った、未完の世界に、終わりが訪れるときがやってきた。

 永遠に続くかと思われるホルンのロングトーン。

 1番ホルンの息が続かずに落ちた。

 いびつなバランスのままの、天上のロングトーン。

 僕だって、一緒に息を吐きながら聴いていて、苦しかったよ。

 

 そして、最後の音がなくなって。

 最後の響きも、高い天井に吸い込まれて。

 両腕を抱きしめたオオウエエイジの緊張がだんだんに解かれていく、永い、間。

 

 そして。

 拍手。

 声を出したら、「やめるな」とか、「なんで」とかいってしまいそうになるからか、ブラボーコールの少ない、拍手。

 何かを言いたげな拍手が、ホールを満たし続けたよ。

 

 

 ありがとう、オオウエエイジ。

 すごいブルックナーを、聴かせてくれて。

 じいさんの呪縛を、解いてくれて。

 

 僕はこれから、いろいろなブルックナーを、素直に楽しめると思うよ。

 

 ただ、それだけのはなし。

 

大阪フィルハーモニー交響楽団

第445回定期演奏会


ショスタコーヴィッチ:交響曲 第9番

ブルックナー:交響曲 第9番


大植英次:指揮