福井晴敏と、トミノの呪縛 ― 2009年09月05日

やっと、読み終わったよ。オペレーション ローズダスト。
福井晴敏って、前にも言ったかもしれないけれど、同世代の作家として、ちょっと注目してるんだよね。
同世代って言うのは、どうしようもなく、ガンダム世代、っていうことなのだけれども。
もちろん福井晴敏は、ガンダム世代であることを隠すことなく、というか真っ向からガンダム世代だと公言している作家で。ターンAガンダムのノヴェライズやら、オリジナルのガンダム小説やらをすごい勢いで発表しているから、ガンダム世代と言うより、もうガンダム側の人間なんだけどね。
Op.ローズダストは、その福井さんが放つ、久しぶりのオリジナル小説。オリジナルって言うのは、映画化とかの紐がついていない、っていう意味なのだけれども。「まだ」紐がついていない、っていうことかもしれないけどね。
買ったのは文庫化されたすぐだから、いつものごとく読むのに結構な時間を費やしているのだけれど。読みにくいんだよね、福井さんの文章って。中に入ってしまえば、そんなことは気にならずに没頭できるのだけれども、それまでが、ね。
しかし、今回も見事なほど。
福井さんの小説っていっつもそうだけれども。
見事なまでのワンパターン。それが魅力でもあるんだけどね。
純粋な、でも過去の出来事から魂に強固な鎧をまとった少年工作員。その鎧を少しずつ溶かす青臭く不器用な肝っ玉お父さん。敵も同じくらい青臭く過激な思想を持っていて、最後にぶつかった結果、結局人情が勝つっていう。そういうワンパターン。
そのワンパターンを、現代日本の固有名詞をちりばめた圧倒的なオタク的情報量で飾りたてて、分厚い現代日本戦争シミュレーションに仕立てる力量を、毎回僕は存分に楽しんでいるのだけれど。
今回は、敵方に思想を共有できる同世代を持ってきたおかげで、より鮮明になったんだよね。
福井さんの小説は、トミノの呪縛の上に成り立っているのではないか、っていう危惧が、ね。
つまり、この小説は徹頭徹尾、シャア対アムロの物語、なんだよね。
この物語の、長い長いクライマックスを、ガンダムの最終回「脱出」に重ね合わせてみれば。
「ならば同士になれ」
「貴様がララアを戦いに巻き込んだ。ララアは戦いをする人ではなかった」
から始まって、
「ごめんよ、僕にはまだ帰れるところがあるんだ。こんな嬉しいことはない。分かってくれるよね、ララアにはいつでも会いに行けるから」
に至るまで。そもそもの発端が、「地球にすむエリートの惰弱を撃つ」事から始まってるのを考えても、どう考えてもこれはお台場ガンダムストーリー。
それがいいとか悪いとかではなくってね。そのことはガンダムっていうお話が、平和ぼけした国家からの過激武闘派集団の独立戦争っていうテーマで普遍的な物語だ、っていうことでしかないのかもしれないけれど。
そして、この物語はオリジナルのガンダムよりも、シャアが政治結社を率いて騒ぎを起こすその後の劇場版とかに近いのかもしれないけれど、そんなこともどうでもよくて。
この前の出張の時にゆりかもめから見たお台場の実物大ガンダムが、なんかの冗談かっていうくらいはまってるんだよね。この小説を読むときに浮かんでくる風景として。
僕は、もっと期待したいんだよね。福井晴敏の才能に。トミノがガンダムを作ったのと同じ歳に、ガンダムの現代版コピーを作る以上のことが、福井さんにはできるんじゃないか、って、期待したいんだよね。
僕には、どうやらできなさそうだけれども、っていう悔恨を交えつつ。
そしてもう一つ。
福井さんには越えてほしいんだよね。トミノが陥った、ララアの呪縛を。
「ガンダムは、所詮ララアに逃げたではないか」っていわれる呪縛を。
この物語におけるララアは、もちろん一大テーマになっていて。そもそもララア(のカウンターパート)がいなければ成り立たない物語なのだけれど。でもそれは、シャアとアムロが出会うための小道具として設定して、その設定に説得力を持たせるためのニュータイプという言葉が予想外の反響をもたらしたララアの影響力を、事後に認識して最初からそれを組み入れただけなのでは? って思ってしまうんだよね。
つまりそれがトミノの呪縛。
映像的に細かい描写とスケールの大きな戦争物語で、映画原作をたくさん作ってきた福井さん。さすがにこのローズダストは映像化出来なさそうだから、これを機に、小説として完結する、別の次元のお話を創ってほしいなあ。
トミノの呪縛を感じないで読めるような、ね。
なんだかんだいって、戦いが終わって、静かな廃墟に漂うローズダスト。前に大通公園で見たシャボン玉みたいなのかな。綺麗そうだよね。
ただ、それだけのはなし。
福井晴敏って、前にも言ったかもしれないけれど、同世代の作家として、ちょっと注目してるんだよね。
同世代って言うのは、どうしようもなく、ガンダム世代、っていうことなのだけれども。
もちろん福井晴敏は、ガンダム世代であることを隠すことなく、というか真っ向からガンダム世代だと公言している作家で。ターンAガンダムのノヴェライズやら、オリジナルのガンダム小説やらをすごい勢いで発表しているから、ガンダム世代と言うより、もうガンダム側の人間なんだけどね。
Op.ローズダストは、その福井さんが放つ、久しぶりのオリジナル小説。オリジナルって言うのは、映画化とかの紐がついていない、っていう意味なのだけれども。「まだ」紐がついていない、っていうことかもしれないけどね。
買ったのは文庫化されたすぐだから、いつものごとく読むのに結構な時間を費やしているのだけれど。読みにくいんだよね、福井さんの文章って。中に入ってしまえば、そんなことは気にならずに没頭できるのだけれども、それまでが、ね。
しかし、今回も見事なほど。
福井さんの小説っていっつもそうだけれども。
見事なまでのワンパターン。それが魅力でもあるんだけどね。
純粋な、でも過去の出来事から魂に強固な鎧をまとった少年工作員。その鎧を少しずつ溶かす青臭く不器用な肝っ玉お父さん。敵も同じくらい青臭く過激な思想を持っていて、最後にぶつかった結果、結局人情が勝つっていう。そういうワンパターン。
そのワンパターンを、現代日本の固有名詞をちりばめた圧倒的なオタク的情報量で飾りたてて、分厚い現代日本戦争シミュレーションに仕立てる力量を、毎回僕は存分に楽しんでいるのだけれど。
今回は、敵方に思想を共有できる同世代を持ってきたおかげで、より鮮明になったんだよね。
福井さんの小説は、トミノの呪縛の上に成り立っているのではないか、っていう危惧が、ね。
つまり、この小説は徹頭徹尾、シャア対アムロの物語、なんだよね。
この物語の、長い長いクライマックスを、ガンダムの最終回「脱出」に重ね合わせてみれば。
「ならば同士になれ」
「貴様がララアを戦いに巻き込んだ。ララアは戦いをする人ではなかった」
から始まって、
「ごめんよ、僕にはまだ帰れるところがあるんだ。こんな嬉しいことはない。分かってくれるよね、ララアにはいつでも会いに行けるから」
に至るまで。そもそもの発端が、「地球にすむエリートの惰弱を撃つ」事から始まってるのを考えても、どう考えてもこれはお台場ガンダムストーリー。
それがいいとか悪いとかではなくってね。そのことはガンダムっていうお話が、平和ぼけした国家からの過激武闘派集団の独立戦争っていうテーマで普遍的な物語だ、っていうことでしかないのかもしれないけれど。
そして、この物語はオリジナルのガンダムよりも、シャアが政治結社を率いて騒ぎを起こすその後の劇場版とかに近いのかもしれないけれど、そんなこともどうでもよくて。
この前の出張の時にゆりかもめから見たお台場の実物大ガンダムが、なんかの冗談かっていうくらいはまってるんだよね。この小説を読むときに浮かんでくる風景として。
僕は、もっと期待したいんだよね。福井晴敏の才能に。トミノがガンダムを作ったのと同じ歳に、ガンダムの現代版コピーを作る以上のことが、福井さんにはできるんじゃないか、って、期待したいんだよね。
僕には、どうやらできなさそうだけれども、っていう悔恨を交えつつ。
そしてもう一つ。
福井さんには越えてほしいんだよね。トミノが陥った、ララアの呪縛を。
「ガンダムは、所詮ララアに逃げたではないか」っていわれる呪縛を。
この物語におけるララアは、もちろん一大テーマになっていて。そもそもララア(のカウンターパート)がいなければ成り立たない物語なのだけれど。でもそれは、シャアとアムロが出会うための小道具として設定して、その設定に説得力を持たせるためのニュータイプという言葉が予想外の反響をもたらしたララアの影響力を、事後に認識して最初からそれを組み入れただけなのでは? って思ってしまうんだよね。
つまりそれがトミノの呪縛。
映像的に細かい描写とスケールの大きな戦争物語で、映画原作をたくさん作ってきた福井さん。さすがにこのローズダストは映像化出来なさそうだから、これを機に、小説として完結する、別の次元のお話を創ってほしいなあ。
トミノの呪縛を感じないで読めるような、ね。
なんだかんだいって、戦いが終わって、静かな廃墟に漂うローズダスト。前に大通公園で見たシャボン玉みたいなのかな。綺麗そうだよね。
ただ、それだけのはなし。
おかえりなさい、大西順子 〜東京JAZZ〜 ― 2009年09月09日

4月のこの欄で、大阪に来たら絶対聴きに行くなんて豪語したわりには、この前のビルボード大阪のライブ、結局行かなかったんだよね。
東京出張で、銀座の山野楽器でちょうど見つけた新譜のCDとスウィングジャーナルをゲットして帰ったら、その日がちょうどライブの日だったっていう、お間抜けさ。
あ、東京の人には信じられないかも知れないけれど、大阪では、ブルーノートがつぶれてビルボードができたんだ。こっちからしてみると、ブルーノートとビルボードの両方ある東京が信じがたいやらうらやましいやらなのだけれど。
まあとにかく、そんな訳で聴き逃してしまったんだ。
大西順子のおかえりなさいライブ。
だから、と言うだけではないのだけれど、行ってきました。東京JAZZ。Legend of Funk, Blues and Jazz。
しっかし、凄いプログラムだね。この日。
単純に豪華とか、そういうのではなくて、凄い。
これはまるで。
そう。これはまるで、マウントフジジャズフェスティバル with BlueNote。
だって。
大西順子に、マッコイ・タイナー w/ ジョンスコ。そして、ルー・ドナルドソン。おまけに最後にジャムセッション。そのまんまマウントフジの2日目昼のセッションでもおかしくない。
バブル真っ盛りの20年近く前に、あの日差しの中で汗と涙とげろを垂れ流しながら聴いた面子たち。また、逢えたね。
こんな感じで続けていくと長くなるので、今回は大西順子の特集です。
僕が最後に大西順子を見たのは、確かインフルにかかりながら聴きにいったつくばのホールなのかな。12,3年前の話。
それから、どういう活動をしていたのかいなかったのか解らないけれど、今回新譜を出して、東京JAZZに出て、ブルーノートやビルボードにも出てるってことは、これからもコンスタントに活動してくれるんだよね。
僕は、クリフォード・ブラウンとメイナード・ファーガソンのラッパの違いを聴き分ける自信はあるのだけれど、ピアノを聴き分ける自信は全くなくてね。ハービーとチックのデュオを生で聴いたときに、ギタリストの友人に「生で聴いたら(見たら)誰がどっちを弾いているかよく判るね」といって、「見なくても判るけどね」と呆れられてしまった程なのだけれども。
でも、音楽は、特に生で聴く音楽は目に頼っていいんだよ。あのかったるそうだった大西順子、どう変わってるんだろう。
ジーン・ジャクソン、井上陽介の、レコーディングと一緒のトリオで出てきた大西順子。オリジナル一曲やったあと、「今回は新譜の曲を中心に」と断ってから、演奏するのは未発表の曲。題名はまだないから、仮に#6。
オーソドックスなピアノトリオで、昔のように片手を椅子においてワンハンドでゴンゴン鍵盤を叩きつけたりはしないのだけれども、この曲だったかドルフィーのブルースだったか忘れちゃったけれど、途中からどんどん速くなって、ぶっ速のソロが延々と続くところがあったのだけれども。
ああ、大西順子が帰ってきたんだなあ、ってその時はじめて思ったんだよね。
ホントに、まじめな人なんだね。
それがミュージシャンとして、一個人としてプラスに働くかどうかは分からないし分かりたくもないけれど、ピアニストの大西順子は、逃げないんだ。ぶっ速のソロでも、手癖に逃げないし、勢いに逃げない。低音には逃げるけれど^^。
速くて正確なテンポで淡々と盛り上がるソロを延々と続けられると、どうなると思う?
こっちがね、緊張に負けて叫び出したくなるんだよね。掌にびっしょり汗をかいて、動きたくてむずむずする。
嬉しいなあ。そういう感覚、忘れてたよ。
おかえりなさい、大西順子。
僕とはほぼ同年代なんだけれど、お互い年取ったね。でも、いい歳の取り方だね。
演奏が終わって、ピアノの前で手を振ったあとは振り向きもせずに舞台裏に消える大西順子。後ろ姿が腕時計を見て小首をかしげる。
僕もつられて時計を見たら、5分押してたよ。
相変わらずだね、大西順子。
今度は気取らない、小さい小屋で聴きたいな。
おかえりなさい。
ただ、それだけのはなし。
東京出張で、銀座の山野楽器でちょうど見つけた新譜のCDとスウィングジャーナルをゲットして帰ったら、その日がちょうどライブの日だったっていう、お間抜けさ。
あ、東京の人には信じられないかも知れないけれど、大阪では、ブルーノートがつぶれてビルボードができたんだ。こっちからしてみると、ブルーノートとビルボードの両方ある東京が信じがたいやらうらやましいやらなのだけれど。
まあとにかく、そんな訳で聴き逃してしまったんだ。
大西順子のおかえりなさいライブ。
だから、と言うだけではないのだけれど、行ってきました。東京JAZZ。Legend of Funk, Blues and Jazz。
しっかし、凄いプログラムだね。この日。
単純に豪華とか、そういうのではなくて、凄い。
これはまるで。
そう。これはまるで、マウントフジジャズフェスティバル with BlueNote。
だって。
大西順子に、マッコイ・タイナー w/ ジョンスコ。そして、ルー・ドナルドソン。おまけに最後にジャムセッション。そのまんまマウントフジの2日目昼のセッションでもおかしくない。
バブル真っ盛りの20年近く前に、あの日差しの中で汗と涙とげろを垂れ流しながら聴いた面子たち。また、逢えたね。
こんな感じで続けていくと長くなるので、今回は大西順子の特集です。
僕が最後に大西順子を見たのは、確かインフルにかかりながら聴きにいったつくばのホールなのかな。12,3年前の話。
それから、どういう活動をしていたのかいなかったのか解らないけれど、今回新譜を出して、東京JAZZに出て、ブルーノートやビルボードにも出てるってことは、これからもコンスタントに活動してくれるんだよね。
僕は、クリフォード・ブラウンとメイナード・ファーガソンのラッパの違いを聴き分ける自信はあるのだけれど、ピアノを聴き分ける自信は全くなくてね。ハービーとチックのデュオを生で聴いたときに、ギタリストの友人に「生で聴いたら(見たら)誰がどっちを弾いているかよく判るね」といって、「見なくても判るけどね」と呆れられてしまった程なのだけれども。
でも、音楽は、特に生で聴く音楽は目に頼っていいんだよ。あのかったるそうだった大西順子、どう変わってるんだろう。
ジーン・ジャクソン、井上陽介の、レコーディングと一緒のトリオで出てきた大西順子。オリジナル一曲やったあと、「今回は新譜の曲を中心に」と断ってから、演奏するのは未発表の曲。題名はまだないから、仮に#6。
オーソドックスなピアノトリオで、昔のように片手を椅子においてワンハンドでゴンゴン鍵盤を叩きつけたりはしないのだけれども、この曲だったかドルフィーのブルースだったか忘れちゃったけれど、途中からどんどん速くなって、ぶっ速のソロが延々と続くところがあったのだけれども。
ああ、大西順子が帰ってきたんだなあ、ってその時はじめて思ったんだよね。
ホントに、まじめな人なんだね。
それがミュージシャンとして、一個人としてプラスに働くかどうかは分からないし分かりたくもないけれど、ピアニストの大西順子は、逃げないんだ。ぶっ速のソロでも、手癖に逃げないし、勢いに逃げない。低音には逃げるけれど^^。
速くて正確なテンポで淡々と盛り上がるソロを延々と続けられると、どうなると思う?
こっちがね、緊張に負けて叫び出したくなるんだよね。掌にびっしょり汗をかいて、動きたくてむずむずする。
嬉しいなあ。そういう感覚、忘れてたよ。
おかえりなさい、大西順子。
僕とはほぼ同年代なんだけれど、お互い年取ったね。でも、いい歳の取り方だね。
演奏が終わって、ピアノの前で手を振ったあとは振り向きもせずに舞台裏に消える大西順子。後ろ姿が腕時計を見て小首をかしげる。
僕もつられて時計を見たら、5分押してたよ。
相変わらずだね、大西順子。
今度は気取らない、小さい小屋で聴きたいな。
おかえりなさい。
ただ、それだけのはなし。
和慶さんの、饗宴 がんばれ大フィルさん ― 2009年09月17日

久しぶりだね、和慶さん。わけいさん、って読むんだけどね。
僕は、和慶さんにはなんかシンパシーを抱いていてね。高校の時の、音楽の先生が和慶さんの弟子で。その先生は合唱を振っていて僕は吹奏楽だったから、直接のつながりはないのだけれども、なじみは深い。もちろん、生演奏を聴いたのは、大フィルさんを聴き始めてからだけれども。サイトウさんの直系の弟子、っていうイメージが凄くあるんだよね。
つまりは無勝手流のじいさんに対して、きちんと音楽教育を受けた指揮者の代表。僕がこういう書き方をするときには、たいがい正規の方は悪者扱いなんだけれど、和慶さんの醸し出す品の良さで、なかなか攻撃できないんだよね。
って攻撃する必要も何も、ないのだけれど。
つまり、僕の中では、正統派西洋音楽の伝承者。
その和慶さんが振る今回のプログラム、なかなか攻撃的だよね。
っていうか良く知らない曲だからそう思うのだけれど。
だって。
ウォルトンっていう人はじめて聞くし、ペルシャザールの饗宴って、なんか使徒がたくさん集まってるみたいだし。あ、オラトリオだから(キリスト教の)使徒がたくさん集まってても不自然ではないのだけれど。ここでいっているのはエヴァの使徒の方ね。今だとヱヴァンゲリヲンっていうのかな。
それに、大フィルさんと合唱団だけでも大所帯なのに、今回はそれに九州の方から応援が駆けつけてきていて。九響合唱団も加わった大編成。
どうでもいいけれど、これで通常料金なんだね。九州から来た合唱団、もしかして交通費も手弁当? ありがとね。
とはいえ。
今はもう夏休みも中秋の名月も終わった、稲刈りの季節。細かいところどころか、どんなだったかほとんど忘れているのだけどね。
でも、覚えているところもあるんだよ。
それは、合唱が出てきた瞬間の、アインザッツ。
最初のモーツァルトもそうだったのだけれど。何しろ使徒のお祭り、300人からの大所帯。ゲネプロだってそんなにできてない寄り合い大所帯からでてくる、完璧に揃った、音。
タイミングだけじゃなくってね。ピッチとかニュアンスとか完璧に揃って、そして確信に満ちた声。
これがサイトウさんの指揮法なのか、ってね。
もちろん、家に帰れば、その完璧さに覆い隠されてしまう物に心が行って、つまりじいさんと比べてしまうことになるのだけれど。
でも、はじめて聴く、そしてたぶん二度とは生で聴けないだろう曲で、その「演奏」に感動できるって、すごくない?
大編成の、大盛り上がりの約束された歓喜とは別の、ふとしたところではっとするのは、あんまり使いたくない言葉だけれども、やっぱりそれは感動、っていっていいんだと思うんだよね。
さて、あしたは夏休み明け、ひさびさの大フィルさん。どんなところではっとさせてくれるんだろう。楽しみ楽しみ。
ただ、それだけのはなし。
2009年6月29日
大阪フィル 第429回定期演奏会
秋山和慶 指揮
福島明也 バリトン
大阪フィルハーモニー合唱団
九響合唱団
モーツァルト:交響曲 第35番 ハフナー
ディーリアス:小管弦楽のための二つの小品
ウォルトン:ペルシャザールの饗宴
シンフォニーホール いつもの席
僕は、和慶さんにはなんかシンパシーを抱いていてね。高校の時の、音楽の先生が和慶さんの弟子で。その先生は合唱を振っていて僕は吹奏楽だったから、直接のつながりはないのだけれども、なじみは深い。もちろん、生演奏を聴いたのは、大フィルさんを聴き始めてからだけれども。サイトウさんの直系の弟子、っていうイメージが凄くあるんだよね。
つまりは無勝手流のじいさんに対して、きちんと音楽教育を受けた指揮者の代表。僕がこういう書き方をするときには、たいがい正規の方は悪者扱いなんだけれど、和慶さんの醸し出す品の良さで、なかなか攻撃できないんだよね。
って攻撃する必要も何も、ないのだけれど。
つまり、僕の中では、正統派西洋音楽の伝承者。
その和慶さんが振る今回のプログラム、なかなか攻撃的だよね。
っていうか良く知らない曲だからそう思うのだけれど。
だって。
ウォルトンっていう人はじめて聞くし、ペルシャザールの饗宴って、なんか使徒がたくさん集まってるみたいだし。あ、オラトリオだから(キリスト教の)使徒がたくさん集まってても不自然ではないのだけれど。ここでいっているのはエヴァの使徒の方ね。今だとヱヴァンゲリヲンっていうのかな。
それに、大フィルさんと合唱団だけでも大所帯なのに、今回はそれに九州の方から応援が駆けつけてきていて。九響合唱団も加わった大編成。
どうでもいいけれど、これで通常料金なんだね。九州から来た合唱団、もしかして交通費も手弁当? ありがとね。
とはいえ。
今はもう夏休みも中秋の名月も終わった、稲刈りの季節。細かいところどころか、どんなだったかほとんど忘れているのだけどね。
でも、覚えているところもあるんだよ。
それは、合唱が出てきた瞬間の、アインザッツ。
最初のモーツァルトもそうだったのだけれど。何しろ使徒のお祭り、300人からの大所帯。ゲネプロだってそんなにできてない寄り合い大所帯からでてくる、完璧に揃った、音。
タイミングだけじゃなくってね。ピッチとかニュアンスとか完璧に揃って、そして確信に満ちた声。
これがサイトウさんの指揮法なのか、ってね。
もちろん、家に帰れば、その完璧さに覆い隠されてしまう物に心が行って、つまりじいさんと比べてしまうことになるのだけれど。
でも、はじめて聴く、そしてたぶん二度とは生で聴けないだろう曲で、その「演奏」に感動できるって、すごくない?
大編成の、大盛り上がりの約束された歓喜とは別の、ふとしたところではっとするのは、あんまり使いたくない言葉だけれども、やっぱりそれは感動、っていっていいんだと思うんだよね。
さて、あしたは夏休み明け、ひさびさの大フィルさん。どんなところではっとさせてくれるんだろう。楽しみ楽しみ。
ただ、それだけのはなし。
2009年6月29日
大阪フィル 第429回定期演奏会
秋山和慶 指揮
福島明也 バリトン
大阪フィルハーモニー合唱団
九響合唱団
モーツァルト:交響曲 第35番 ハフナー
ディーリアス:小管弦楽のための二つの小品
ウォルトン:ペルシャザールの饗宴
シンフォニーホール いつもの席
尼オケの、白鳥の湖 ― 2009年09月23日
すっかり秋だね。
秋といえば、いつものあれ、行ってきたよ。
尼崎市民交響楽団の、演奏会。
今回は、白鳥の湖と、シューマンのライン。どっちも生で聴くのはじめてだな。どんな演奏してくれるんだろう。楽しみ楽しみ。
生で聴くのはじめて、とか見栄張ったけどね、実は白鳥の湖って、ほとんど聴いたことないんだよね。400枚以上ある僕のクラッシックのCDの中に、一枚もない。まあ、もちろん有名な曲だからね、最初のテーマくらいは知っているのだけれども。
実際の演奏はね。
思ったよりも強めのトレモロから、あの有名なテーマが奏でられて。思ったよりも強めっていうのは、バレエ音楽だから、そおっと始まるんだろうなあ、っていう勝手な思い込みでね。考えてみたらバレエ音楽って、ちっともそおっとしてないんだよね。前の日に喜んで聴いていたのはカラヤンのハルサイだし、プロコのロミジュリとか、ラヴェルのダフクロとか、知らない人多いかも知れないけれどピエルネのシダリースと牧羊神なんか、フルートとファゴットで12人もいるようなバレエ音楽だし。
あのチャイコフスキーが、そおっとしたバレエ音楽を作る訳ないよね。
あ、演奏だね。
バレエ音楽だからかどうか知らないけれど、いろんな色彩が一遍に楽しめる曲だね。一曲一曲が短かいのが難点だけれども。
いろんな色彩の曲は、いろんなソロにあふれていて。
ワルツの曲での木管楽器のソロ廻しも印象的だったのだけれども、やっぱりこの曲のソロは、その何曲かあとの曲。
ハープのカデンツァから、コンマスのソロ。そしてチェロのソロ。これが最高。僕はその昔トロンボンを吹いていたからね、管楽器吹きのチェックポイントはよく分かるんだけれど、弦楽器のそれは全然分からないから、ただひたすら感心してしまうのだけれども。
っていうのは、たとえばソロを人前で聴かせる(ソロに限らないけれど)時に、音楽性とかそういう抽象的で高尚な事は置いておいて、音色、音程、音量、リズム、そして指が廻っていることっていう、いろんなチェックポイントがあるよね。こいつらの比重って、楽器ごとに違うと思うんだ。たとえばピアノなら、音色、音程とかはまあ所与の物として、指が廻るかどうかが一番のチェックポイントで、ラッパだったら音色なのかな。木管楽器はそいつらにリズムが加わって。
そう考えると、弦楽器のソロって、こいつら全部に、等分の気を遣う必要があるんだよね。だからプレッシャーは並大抵じゃないと思うんだけれども。でもコンマスもチェロの人も、すごくよかったよ。きっとおいしいお酒が飲めただろうね。あと、ハープの人も。プロのコンサートでも、ハープがああいう風に裸になることって、あんまりなくってね。ポロンポロンした分離のいいハープの音、堪能しました。
曲はね、さっきもいっていたけれど、短い曲が多くって。いつ終わるんだろう、拍手するタイミング分かるのかしら、って心配してしまうほどだったのだけれども。
でも、もちろん。
全然そんな心配は必要なくって。さすがのチャイコフスキーの大盛り上がり。楽しかった。
そうそう、最初にホール入って、プログラムを開けたときにね。ちっちゃい紙がパラって落ちてきたんだよ。
正誤表。(誤)シューベルトのライン→(正)シューマンのライン。
あらら、やっちゃったね。やっちゃうんだよね、これ。
僕も未だにどっちがどっちか迷うものね。ラインはシューマンだよね。
とはいえ、その二人の違いを語れるほど、特にシューマンについては詳しくないんだけどね。どっちも交響曲作家っていうよりは、歌曲の作曲家っていうイメージがあるけれど、ではシューマンがどんな歌曲を作ったかっていわれても、よく分からないんだ。
交響曲は、シューベルトのグレイトとか未完成とかは、野バラとか鱒のイメージとは程遠い、重厚でゆったりした交響曲、っていうイメージがあって。ラインもひと言で言うとそういう感じなんだよね。だから、余計混乱するのだけれども。
そのライン。
この演奏会の案内が来てから、朝比奈/新日フィルのラインをあらためて聴き直したのだけれど。
これ、難しい曲だね。演奏するの。
だって、じいさんのこの演奏、崩壊寸前。
この曲、ブルックナーの3番に似てるんだよね。曲想とかじゃなくって、音の作り方が。つまり、まとまった音の塊がそこかしこにあって、それが全部意図したところに収まっていないときちんと聞こえてこないっていう。
テレビ局のスタジオに、書き割りの草むらやら電柱やらがあって、カメラの角度からはきちんとした風景を構成しているんだけれども、ちょっと見る位置をずらすとベニヤ板の草むらを支えるスタンドが見えちゃったりする感覚なんだよね。
そして、音が分厚い。
ホントにブルックナーなんじゃないかって思うほど、金管のコラールみたいな響きがいっぱいあって。
僕は大好きなんだけど、でも難しいよなあ。
そうやって、心配半分で聴いてたんだけどね。
その意味では、物足りないなあ。
だって、終始安定していて、音型的にはらはらすることなんて全然なかったんだもの。いや、その分いい演奏だったってことなのだけれども。
しかし、ホルンの人はご苦労様でした。エラいハイノートばっかりだったね。
今年も秋の一日、楽しませてくれてありがとう。
来年は第九ですか。秋の第九、楽しみにしてますね。
ただ、それだけのはなし。
===========
2009年9月21日
尼崎市民交響楽団
第24回定期演奏会
@アルカイックホール
チャイコフスキー:バレエ音楽 白鳥の湖 より
シューマン:交響曲 第3番 ライン
en. ワーグナー:ニュルンベルグのマイスタージンガー 序曲
秋といえば、いつものあれ、行ってきたよ。
尼崎市民交響楽団の、演奏会。
今回は、白鳥の湖と、シューマンのライン。どっちも生で聴くのはじめてだな。どんな演奏してくれるんだろう。楽しみ楽しみ。
生で聴くのはじめて、とか見栄張ったけどね、実は白鳥の湖って、ほとんど聴いたことないんだよね。400枚以上ある僕のクラッシックのCDの中に、一枚もない。まあ、もちろん有名な曲だからね、最初のテーマくらいは知っているのだけれども。
実際の演奏はね。
思ったよりも強めのトレモロから、あの有名なテーマが奏でられて。思ったよりも強めっていうのは、バレエ音楽だから、そおっと始まるんだろうなあ、っていう勝手な思い込みでね。考えてみたらバレエ音楽って、ちっともそおっとしてないんだよね。前の日に喜んで聴いていたのはカラヤンのハルサイだし、プロコのロミジュリとか、ラヴェルのダフクロとか、知らない人多いかも知れないけれどピエルネのシダリースと牧羊神なんか、フルートとファゴットで12人もいるようなバレエ音楽だし。
あのチャイコフスキーが、そおっとしたバレエ音楽を作る訳ないよね。
あ、演奏だね。
バレエ音楽だからかどうか知らないけれど、いろんな色彩が一遍に楽しめる曲だね。一曲一曲が短かいのが難点だけれども。
いろんな色彩の曲は、いろんなソロにあふれていて。
ワルツの曲での木管楽器のソロ廻しも印象的だったのだけれども、やっぱりこの曲のソロは、その何曲かあとの曲。
ハープのカデンツァから、コンマスのソロ。そしてチェロのソロ。これが最高。僕はその昔トロンボンを吹いていたからね、管楽器吹きのチェックポイントはよく分かるんだけれど、弦楽器のそれは全然分からないから、ただひたすら感心してしまうのだけれども。
っていうのは、たとえばソロを人前で聴かせる(ソロに限らないけれど)時に、音楽性とかそういう抽象的で高尚な事は置いておいて、音色、音程、音量、リズム、そして指が廻っていることっていう、いろんなチェックポイントがあるよね。こいつらの比重って、楽器ごとに違うと思うんだ。たとえばピアノなら、音色、音程とかはまあ所与の物として、指が廻るかどうかが一番のチェックポイントで、ラッパだったら音色なのかな。木管楽器はそいつらにリズムが加わって。
そう考えると、弦楽器のソロって、こいつら全部に、等分の気を遣う必要があるんだよね。だからプレッシャーは並大抵じゃないと思うんだけれども。でもコンマスもチェロの人も、すごくよかったよ。きっとおいしいお酒が飲めただろうね。あと、ハープの人も。プロのコンサートでも、ハープがああいう風に裸になることって、あんまりなくってね。ポロンポロンした分離のいいハープの音、堪能しました。
曲はね、さっきもいっていたけれど、短い曲が多くって。いつ終わるんだろう、拍手するタイミング分かるのかしら、って心配してしまうほどだったのだけれども。
でも、もちろん。
全然そんな心配は必要なくって。さすがのチャイコフスキーの大盛り上がり。楽しかった。
そうそう、最初にホール入って、プログラムを開けたときにね。ちっちゃい紙がパラって落ちてきたんだよ。
正誤表。(誤)シューベルトのライン→(正)シューマンのライン。
あらら、やっちゃったね。やっちゃうんだよね、これ。
僕も未だにどっちがどっちか迷うものね。ラインはシューマンだよね。
とはいえ、その二人の違いを語れるほど、特にシューマンについては詳しくないんだけどね。どっちも交響曲作家っていうよりは、歌曲の作曲家っていうイメージがあるけれど、ではシューマンがどんな歌曲を作ったかっていわれても、よく分からないんだ。
交響曲は、シューベルトのグレイトとか未完成とかは、野バラとか鱒のイメージとは程遠い、重厚でゆったりした交響曲、っていうイメージがあって。ラインもひと言で言うとそういう感じなんだよね。だから、余計混乱するのだけれども。
そのライン。
この演奏会の案内が来てから、朝比奈/新日フィルのラインをあらためて聴き直したのだけれど。
これ、難しい曲だね。演奏するの。
だって、じいさんのこの演奏、崩壊寸前。
この曲、ブルックナーの3番に似てるんだよね。曲想とかじゃなくって、音の作り方が。つまり、まとまった音の塊がそこかしこにあって、それが全部意図したところに収まっていないときちんと聞こえてこないっていう。
テレビ局のスタジオに、書き割りの草むらやら電柱やらがあって、カメラの角度からはきちんとした風景を構成しているんだけれども、ちょっと見る位置をずらすとベニヤ板の草むらを支えるスタンドが見えちゃったりする感覚なんだよね。
そして、音が分厚い。
ホントにブルックナーなんじゃないかって思うほど、金管のコラールみたいな響きがいっぱいあって。
僕は大好きなんだけど、でも難しいよなあ。
そうやって、心配半分で聴いてたんだけどね。
その意味では、物足りないなあ。
だって、終始安定していて、音型的にはらはらすることなんて全然なかったんだもの。いや、その分いい演奏だったってことなのだけれども。
しかし、ホルンの人はご苦労様でした。エラいハイノートばっかりだったね。
今年も秋の一日、楽しませてくれてありがとう。
来年は第九ですか。秋の第九、楽しみにしてますね。
ただ、それだけのはなし。
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2009年9月21日
尼崎市民交響楽団
第24回定期演奏会
@アルカイックホール
チャイコフスキー:バレエ音楽 白鳥の湖 より
シューマン:交響曲 第3番 ライン
en. ワーグナー:ニュルンベルグのマイスタージンガー 序曲