福井晴敏と、トミノの呪縛2009年09月05日

 やっと、読み終わったよ。オペレーション ローズダスト。

 福井晴敏って、前にも言ったかもしれないけれど、同世代の作家として、ちょっと注目してるんだよね。
 同世代って言うのは、どうしようもなく、ガンダム世代、っていうことなのだけれども。

 もちろん福井晴敏は、ガンダム世代であることを隠すことなく、というか真っ向からガンダム世代だと公言している作家で。ターンAガンダムのノヴェライズやら、オリジナルのガンダム小説やらをすごい勢いで発表しているから、ガンダム世代と言うより、もうガンダム側の人間なんだけどね。
 Op.ローズダストは、その福井さんが放つ、久しぶりのオリジナル小説。オリジナルって言うのは、映画化とかの紐がついていない、っていう意味なのだけれども。「まだ」紐がついていない、っていうことかもしれないけどね。

 買ったのは文庫化されたすぐだから、いつものごとく読むのに結構な時間を費やしているのだけれど。読みにくいんだよね、福井さんの文章って。中に入ってしまえば、そんなことは気にならずに没頭できるのだけれども、それまでが、ね。

 しかし、今回も見事なほど。
 福井さんの小説っていっつもそうだけれども。
 見事なまでのワンパターン。それが魅力でもあるんだけどね。
 純粋な、でも過去の出来事から魂に強固な鎧をまとった少年工作員。その鎧を少しずつ溶かす青臭く不器用な肝っ玉お父さん。敵も同じくらい青臭く過激な思想を持っていて、最後にぶつかった結果、結局人情が勝つっていう。そういうワンパターン。
 そのワンパターンを、現代日本の固有名詞をちりばめた圧倒的なオタク的情報量で飾りたてて、分厚い現代日本戦争シミュレーションに仕立てる力量を、毎回僕は存分に楽しんでいるのだけれど。

 今回は、敵方に思想を共有できる同世代を持ってきたおかげで、より鮮明になったんだよね。
 福井さんの小説は、トミノの呪縛の上に成り立っているのではないか、っていう危惧が、ね。

 つまり、この小説は徹頭徹尾、シャア対アムロの物語、なんだよね。
 この物語の、長い長いクライマックスを、ガンダムの最終回「脱出」に重ね合わせてみれば。
「ならば同士になれ」
「貴様がララアを戦いに巻き込んだ。ララアは戦いをする人ではなかった」
 から始まって、
「ごめんよ、僕にはまだ帰れるところがあるんだ。こんな嬉しいことはない。分かってくれるよね、ララアにはいつでも会いに行けるから」
 に至るまで。そもそもの発端が、「地球にすむエリートの惰弱を撃つ」事から始まってるのを考えても、どう考えてもこれはお台場ガンダムストーリー。
 それがいいとか悪いとかではなくってね。そのことはガンダムっていうお話が、平和ぼけした国家からの過激武闘派集団の独立戦争っていうテーマで普遍的な物語だ、っていうことでしかないのかもしれないけれど。
 そして、この物語はオリジナルのガンダムよりも、シャアが政治結社を率いて騒ぎを起こすその後の劇場版とかに近いのかもしれないけれど、そんなこともどうでもよくて。
 この前の出張の時にゆりかもめから見たお台場の実物大ガンダムが、なんかの冗談かっていうくらいはまってるんだよね。この小説を読むときに浮かんでくる風景として。

 僕は、もっと期待したいんだよね。福井晴敏の才能に。トミノがガンダムを作ったのと同じ歳に、ガンダムの現代版コピーを作る以上のことが、福井さんにはできるんじゃないか、って、期待したいんだよね。
 僕には、どうやらできなさそうだけれども、っていう悔恨を交えつつ。

 そしてもう一つ。
 福井さんには越えてほしいんだよね。トミノが陥った、ララアの呪縛を。
「ガンダムは、所詮ララアに逃げたではないか」っていわれる呪縛を。
 この物語におけるララアは、もちろん一大テーマになっていて。そもそもララア(のカウンターパート)がいなければ成り立たない物語なのだけれど。でもそれは、シャアとアムロが出会うための小道具として設定して、その設定に説得力を持たせるためのニュータイプという言葉が予想外の反響をもたらしたララアの影響力を、事後に認識して最初からそれを組み入れただけなのでは? って思ってしまうんだよね。
 つまりそれがトミノの呪縛。

 映像的に細かい描写とスケールの大きな戦争物語で、映画原作をたくさん作ってきた福井さん。さすがにこのローズダストは映像化出来なさそうだから、これを機に、小説として完結する、別の次元のお話を創ってほしいなあ。
 トミノの呪縛を感じないで読めるような、ね。

 なんだかんだいって、戦いが終わって、静かな廃墟に漂うローズダスト。前に大通公園で見たシャボン玉みたいなのかな。綺麗そうだよね。

 ただ、それだけのはなし。