いろいろなないろ 〜500色の色鉛筆 そのいち〜 ― 2009年06月16日
いろいろなないろ
いろいろないろ
菜のいろ野のいろ
なのはなのいろ
いろいろなないろ
いろいろないろ
きょうの風はどんないろ?
いつもは忘れていて。
たまに、痛烈に想い出すことがあるんだ。
たとえば、武田双雲の講演会に行って、みんなの前で習字を書かされたときとかにね。
何をか、っていうと。
僕は、選んだんだ、っていうことを。
僕は、選んだんだ。
ずいぶんと遠い昔に。
選んだっていうか、選択の余地がなかったっていうか。
あきらめたっていうか。
肉体を使った自己表現。
これを、早くから、かなり自覚的にあきらめたんだ、僕は。
運動音痴だし、絵も下手だし、字も下手。おまけに楽器も下手。それが右投げ右打ちの左利きとして生まれて、今では箸だけが左利きって言う生い立ちがそうさせたのか、小学校の時に歯の矯正をしてしかも途中で止めちゃったからなのかどうかは知らないけれど。
体を使って走ったり投げたり、描いたり書いたりする事は、僕にとって苦手なんだ、っていう自覚はずいぶん前からあったんだ。
だから、っていうか。
頭の中ではみんな天才である。それを表現できるものだけが天才と呼ばれる。どっかで読んだそんな言葉にだまされたっていうか。
頭の中で考えたことがそのまま表現になる、言葉っていうもの。その、言葉こそが僕の自己表現の手段なんだ、っていうのを、中学生くらいの時にはもう、決めてたんだ。
だから、武田そーうんさんの前でド下手な習字を披露したときも、もちろん恥ずかしいのだけれども、「一般」より劣っているのは、訓練が足りないだけ、って開き直ることが出来たんだ。ちなみに一般っていうのは、習字教室に行っていたり行ったことがあったりで、字が上手ですね、っていわれる人たちのこと。その上手さに、さらに自分の型を持つのが創作。そーうんさんまで行かなくても、文字を描くことで創作できるヒト、僕の周りにもいたな、むかし。
でも、むかし決めたそんなことなんか普段は忘れていて。そーうんさんの講演会の後、習字の筆を買って落書きしてみたりもしたんだよね。
もちろん、すぐに何で文章を手段とせざるを得なかったかを思い出して、筆も半紙もほっぽり出したのだけれど。
でも、また性懲りもなく。
そういうものが欲しくなちゃったんだ。
そういうものっていうのは。
習字の筆と一緒で、描くもの。
今度は、色鉛筆。
僕が聞きにいった武田双雲さんの講演会を主催した通販会社がね、500色の色鉛筆を発売したんだ。むかし作って、その講演会にきたお客さんに2,3本ずつあげていたみたいだから、再発売、になるのかな。
もちろん、僕には絵心はないから、大半は一回も手にとらずに終わるかも知れないけれど。でも、こういうおばかな企画、大好きなんだ。
ひとつ色の足らぬ虹 by 谷川雁
ではなくて、493個色のおおい虹。そんなのだって、描けるんだよ。
僕が楽しみにしているのはね、色の名前。
あんな色にこんな名前。500色の違った名前。並べたら違いが分からない色だって、違う名前がついていたら、違う風景に使われるよね。
そんな色たちが描く風景、僕は直接は紙に書けないけれど、心の中で文字にして、もう一回紙にその色を焼き付けられたら、いいな。
何が届くかわからない、びっくり箱みたいな通販をするその会社らしく、毎月25色、何色が届くかは届くまで分からないんだ(よね?)。
今回、初めての回。
届いたのはね、赤。
赤ばっかり、25色。
ああ、そう来るんだ。
あ、赤ばっかりっていうのは、失礼だね。赤系統の色が25色。
もちろん色に順番をつけて、25個ずつまとめたらそうなるのだろうけれど。僕は少し違った期待をしていたんだよね。たとえば子供の頃に使う12色の色鉛筆に代表されるような色たちが、毎月ランダムに入っていて、結果として20ヶ月で500色、なのかな、って思ってた。
だって、25色の赤色持って、スケッチ旅行に行けないじゃん。
もちろん、行かないのだけれど。スケッチ旅行なんて、ばらばらな色が入っていても。
でも、それをいいことに、赤ばっかりの色鉛筆、何を描こうかなって眺めているのも、いいもんだよね。
やっと形になり始めたベランダの青いトマト。赤くなったら描いてあげようかな。
それまでに、今度は何色が来るんだろう。
この前見てきた、この原色の風景。描ける日はいつ来るんだろうか。多分描かないけれど。
楽しませてね、フェリシモさん。
ただ、それだけのはなし。