マエストロの、最後のコンサート ミッキーと和慶さん ― 2025年01月24日
この間、「巨匠たちのラストコンサート」っていう新書を読んだんだよね。巨匠と書いてマエストロって読ませるんだけど。
中川右介っていう、元(?)クラシックジャーナルの編集長の方が書いているのだけれど、クラシックの指揮者や演奏家の、最後のコンサートと晩年のエピソードを集めたものでね、面白く読んだのだけれど。
バンドとかアイドルとかだと、解散コンサートとか卒業公演とかあって、これが最期だ感が(幸運にもチケットを取れた人には)味わえると思うのだけれど、クラシックの演奏家は、生涯現役っていう方が多いから、最後のコンサートって、「結果的に」最後になってしまった、っていうことが多いんだよね。
この本の著者の中川さんは、本人が言うようにカラヤン信者の方で、この本に出てくる演奏家や指揮者も、カラヤンと何らかのつながりや因縁が会った人が多いのだけれど。
僕も、クラシックのコンサートに通って四半世紀になるくらいのリスナーだから、その間に最後のコンサートを迎えた方も多数いらっしゃると思うのだけれど、後から振り返ってもその方の「最後の」コンサートにはであったことがないんだよね(定年退職をする楽団員は別にしてね)。
僕がクラシック音楽のコンサートに通うきっかけとなった朝比奈さん(当時92歳だったのかな)は、2021年の名古屋でのコンサートが最後になってしまったので、僕は大阪でお留守番をしていて聴けなかったんだよね。
僕が昔から名前を良く知っている指揮者に、秋山和慶さんがいてね。高校の音楽の先生が桐朋学園で、秋山和慶さんの後輩だったか教えてもらっていたかで、良く名前が出てきていたから、僕も高校生の頃から「わけいさん」の名前は知っていたんだ。
実際に聴いたのは、たぶんそんなに回数はないのだと思うのだけれど、大フィルを指揮した定期。トゥランガリア交響曲、ベルシャザールの饗宴とか、和慶さんの指揮でしか聴いたことのない、珍しくてムツカシそうな曲を聴かせてくれる指揮者だったんだよね。しかもその難しいであろう曲を、なんかやさしく包み込んでしまうような上品さもあるんだよね。(写真とか事後の刷り込み、かも知れないけれど)
その秋山さんが、今年の元日に怪我をされて、その影響で急遽指揮の活動を引退されたんだ。この3月にまた大フィルさんを振る筈で、それを楽しみしていたのだけれど、その前に結果的に大晦日の年越しライブが最後になってしまったんだね。
この怪我と引退には何にも関係ないのだけれど、和慶さんのCDがセールで割引されていたので、大量に買ったんだよね、去年の年末かな。ベートーヴェン、ブラームスの全集に、チャイコフスキー後期、ハイドンとモーツァルトの交響曲集。少しだけアップグレードしたPCのオーディオで少しずつ聴いているのだけど。なんかいいんだよね。あったかくって。今はハイドンの48番がかかっているのだけれど。
僕もむかしは聴いた演奏会を何らかの記録に残していたのだけれど、もうかなりの期間それをさぼっていて。だから和慶さんの演奏を、いつ、どんな曲で聴いて、どんな印象を持ったかってたぐることが出来ないんだ。ちょっと悔しいね。
僕にとっての和慶さんの最後のコンサートは、2020年2月の大フィルさん定期で
チャイコの1番を聴いたとき、かな。
もう一人、去年いっぱいで指揮者を引退した人がいてね。井上道義さんっていう方なのだけれど。本人がミッキーって呼んで、というので、ミッキーっていうけれど。
ミッキーは、朝比奈さん時代から大フィルさんになんかのポジションがあったのかな。定期には良く登場していたんだよね。人気の指揮者だから、いろいろなところで聴いたけれど。岩城さんが亡くなったあとのオーケストラアンサンブル金沢の指揮者もしていたよね。
大フィルさんとは、オオウエエイジの後に、音楽監督ではなく首席指揮者を3年間ほどしてくれて。ひねくれた選曲が好きだったなあ。
そのミッキーは、2024年の年末で引退、というのをたぶん一年前くらいに宣言して。その後怒濤のカウントダウンコンサートと銘打った演奏会を、たぶん大阪だけではなく日本各地で行ったんだろうね。
僕は、大フィルさんのミッキー最後の定期でショスタコ13番と、それからシンフォニーホールのブルックナー7番を去年、聴いたよ。
ブルックナーはね、モーツァルトの交響曲が前半にあったのだけれど、その1楽章が終わった後に、やおらミッキーがマイクを持って振り向いて「昨日の結石の影響で、2曲を振り切る体力がない。だからブルックナーに集中させてほしい。みんなブルックナー聴きにきたんでしょ」って。
ブルックナーはそんな体調不良を感じさせない演奏と拍手を受ける千両役者振りで大満足の演奏会だったけれど、ちょっと痛々しくって、それ以降のカウントダウンコンサートには行ってないんだよね。
ミッキーのライフワークであるショスタコと、僕のフェイバリットであるブルックナーを聴いたので、思い残すことはなく、「僕にとってのラストコンサート」を堪能した、っていうのが大きいのだけれどもね。
しかし、ブルックナーの演奏会、なんで文章として記録に残していないんだろう。。不覚。
朝比奈さんが90歳を超えてから、指揮するコンサートが軒並みプラチナチケットになって。その時に息子の千足さんが、「みんなは演奏を聴きにきてるわけじゃなくって、親父の「最後のコンサート」になるかも知れないっていう期待で集まっているだけだ」みたいなことをいってた、って何かで読んだけど。
最後になってほしい、っていう期待なのか、最後に近いから聴き逃したくない、って思ったのかよく分からないけれど、僕も朝比奈さんの(結果として)最後の2年間で、19回の演奏を聴くことができたよ。
札幌や東京にも行って聴いたのに、名古屋にはなんで行かなかったんだ、っていう思いも少しあるけどね。なんでっていっても、その後に大阪で同じプログラムを演奏してくれる筈だったからなのだけれどもね。
なので、僕にとっての朝比奈さんの最後のコンサートは、2001年9月24日シンフォニーホールでのブルックナー9番になったんだね。
この演奏会は、幸いCDとしても発売されていて、統率力には翳りが見られるが、贅肉をそぎ落とした、音の向こうにスコアが見えるような、そんな白鳥の歌。っていう評価があった、ような気がするんだよね。聴いた演奏がCDになっているって、なんか嬉しいし、他の録音とはひと味違って聴こえるんだよね。
僕はこれからも音楽会に出かけていくし、結果的に最後の演奏会にもであうのだろうけれど。でも、音楽は一期一会だからね。常にこの一回、の気持ちで大切に聴いていきたいなあ。
ただ、それだけのはなし。
PACのマーラー「千人の交響曲」 あれから30年 ― 2025年01月21日
もっといえば、2025年1月17日、の。
普段は午後3時開演となる、兵庫県立芸術文化センター管弦楽団(PACって呼ぶね)の、金曜定期。この日のチケットには、開演時刻、午後5時46分、って書いてあったんだよ。
今から30年前、阪神・淡路大震災が起こった午前5時46分の、十二時間後。
そして、プログラムは。
あまちゃんの音楽を書いた大友良英さんの委嘱作品、そらとみらいと、と、マーラーの交響曲8番「千人の交響曲」。
兵庫県立芸術文化センター、それからその専属オケであるPACは、阪神・淡路大震災の復興のために作られたホールであり、オーケストラ、なんだよね。震災の10年後に創られて、今年が設立20周年、震災から30年。
その、オケが、震災の起こった1月17日に行うコンサート。特別なプログラムを用意してくれたんだよね。
開演前に、プレトークショウがあって、指揮者の佐渡さん、それから委嘱作品の作曲者の大友さんがステージに上がった(能登の震災への寄附金を渡す、という事で七尾市長も来てたけれど)。
大友さんは福島で活動している音楽家で、その縁で東日本大震災前後の三陸を描いたあまちゃんの音楽を担当して。その縁で(なのかよく分からないけれど)今回の、阪神/淡路大震災30年メモリアル委嘱作品の委嘱を受けたんだ。普段はクラシックの作曲をする人ではないから、編曲家さんとかとグループを作って、この日の演奏のために大っきな曲を作ってくれた。
ちなみに、PACの委嘱作品は二つ目で、もう一つは坂本龍一さんが作曲したらしい。
プレトークのあと、5時46分頃、一分間の黙祷。
そして曲が始まるのだけれども。
30年前、新入社員だった僕は、大阪で一番兵庫寄りの、西淀川区に住んでいてね。震災の当日は出張で東京に宿泊していたから、揺れには直接会わなかったのだけれど。
翌日、京都駅までは動いた新幹線と、なんとか動いた在来線を乗り継いで会社に戻ろうとしたら、会社の人から「とにかく家を見てみなさい」って言われて、家の扉を開けたら、家中のモノが散乱した部屋の中に呆然としたな。
7階建ての鉛筆ビルだけど、エレベーターは動いているし、電気も水も来ていたから、被害なんてうちには入らないのだけれどもね。
そんなことや、そのあとのいろんなことを想い出しながら、黙祷を捧げたよ。
曲はね。
大友さんの委嘱作品は、三部構成になっていて。最初は美しいレクイエム、鎮魂。つぎが即興=ライブを取り入れたLIFE。そして、祭り囃子のリズムが支配する三部、祭りと空と。
21世紀の日本のクラシックは、伊福部さんや大栗さんのような土俗的なスケールや旋律ではないけれど、間違いなく日本の音楽で。阪神のあと、福島があり上越があり、そして能登があったように、ものすごい頻度で起こる災害に対しても、鎮魂・生命・そして祭りと空(現在への感謝と未来への希望)。
この曲が、復興を必要としている、いろんな場所を力づける、そういう曲になっていくといいね。そういう使命を持ったオケ、PACがもって飛び回ってもいいし、他のオケがどんどん演奏できるようにしたら、もっといいよね。
そして、マーラー8番、千人の交響曲。
マーラーは、大っきな編成で演奏効果があるから、生で聴く回数も多いのだけれど、8番って、聴いたことあるかなあ。
別名千人の交響曲、っていう通り、演奏者がたくさん必要なでっかい曲。生で聴いた記憶はないなあ。実際、初演では千人以上の演奏だったらしいね。
交響曲の長大化、重厚化を推し進めて、結果的に交響曲に終わりを告げたマーラーの、後期の最大スケールの曲がこの8番だよね。
とはいえ、CDはいくつも持っているのだけれど、曲についてはほとんど知らないのだけれどもね。マーラーの曲は、ダイナミックレンジが大きすぎて、家では流し聞きが多くなっちゃうんだよね。
ステージは、合唱のためのひな壇が10段(両脇にはさらに2段)、ハープ4台、ホルンとラッパ8ずつに更に両側にバンダがあって。歌のソリストも、前に7人、ひな壇後方に一人。合唱団も、マーラー「千人の交響曲」合唱団って書いてあるから、この演奏のための特設合唱団だと思うけれど、それに加えて、児童合唱団4つ。KOBELCOホールのステージって、こんなにでっかくなるんや、って。僕は2階席から見ているのだけれど、この日ほど2階席で良かった、って思ったことはないね。
オケのメンバー表見たら、通常のトラの他に、以前このオケに在籍していたメンバーも来てくれてるんだね。
とにかく、総力戦。
演奏はね。もう、演奏がどうとか、そういうことはよくわからないし、そういうことを気にするレベルでもない。
震災復興のためにつくられたオケが、それを20年引っ張ってきた佐渡さんが。この演奏会のために難解な歌詞の合唱をひたすら練習して来たアマチュアの音楽家が。
大赤字覚悟でこんなでっかい興行を打ったオーケストラが、それを認めた兵庫県が。
阪神淡路のメモリアルだけれど、それだけじゃなくって。その後日本で、世界で被災した魂、がんばっている全ての人に向けた、それは人間賛歌。
縦長のステージと、両脇のバルコニーから奏でるバンダが一緒になると、この高さのあるホールが、立体的な音に包み込まれて。
1月17日の兵庫のホールに、確かに音が響き渡って、想いが伝わったよ。
テレビカメラが入ったこの公演、どこかで放送されるのかな。楽しみ。
ただ、それだけのはなし。
尾高さんの、ブル8 in 2024 ― 2024年12月23日
だから、いろんなオケでブルックナーの演奏を聴く機会があって、嬉しいのだけれど。
その中で、僕としては今年の白眉の演奏会があったんだよね。
尾高忠明指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団 ブルックナー8番 @ザ・シンフォニーホール。
大フィルさんは、その設立から50年以上にわたって、朝比奈隆っていう一人の指揮者がずっと音楽監督を務めていて。50年以上って、第二次世界大戦中満州のオケを振っていた朝比奈さんが帰ってきてオーケストラをつくって以来、っていうことだから、まあ、日本人が奏でる戦後クラシック音楽の歴史そのもの、っていうことになるよね。
その朝比奈さん、っていう指揮者は、特に晩年は、ブルックナーの交響曲の演奏にとても人気があって。それって、日本になじみの薄かったブルックナーを根気よく取り上げて、オケも、お客さんも育てていった結果なんだよね。
そういうわけで、大フィルのブルックナーときたら朝比奈さんが振らないといけない、ということになっていたようで。特に一番の大曲、8番は、朝比奈さんの没後も時の音楽監督しか振ったことがない、という事みたい、なんだよね。
確か、朝比奈さんの最晩年、パーヴォ・ヤルヴィが定期でブルックナーの4番を振ったときに、定期で朝比奈さん以外が振ったのははじめて、とかいわれていたような。(下野竜也さんは定期じゃなかったっけ?)
まあ、そういうのはどうでもいいのだけれど、数あるブルックナーの交響曲の中で、一番長くって、完成している最後の交響曲で。ブルックナーが生涯追い求めていた(だろう)「神の創った世界を音楽で再現する」ことに一番近づいた作品、だと思うんだよね、第8番って。
ベートーヴェンが、第九で「人類の到達点」としての作品を実現して、そのつぎはないままに神に召された、って僕は思っていてね。「まあ、人間としてはこの位にしておこうか」って。その後、「交響曲9曲創ると神に召される」って言う9番ののろいの都市伝説があったみたいなんだけど。
ブルックナーの場合は、第8番でその域に到達して、第9番の作曲途中に「まあ、この位にしておこうか」って神様に召された、という意味では、ベートーヴェンよりも一楽章分だけ偉大な作曲家、だと思ってるんだよね、ぼくは。あくまで個人の感想なのだけれど。
というわけで、朝比奈さんが亡くなって四半世紀になろうとしているけれど、まだまだブルックナーを得意とするといわれている大フィルさんの、8番。楽しみだなあ。
指揮者の尾高さんは、あんまりブルックナー(だけ)を得意としている、という印象はないのだけれど、大フィルさんを指揮して、コツコツとブルックナーの録音を発表して。3番から9番のCDを発売済で、この前0,1,2番の演奏会をしたから、ブルックナーは二巡目になるんだね。大フィルで二度目の8番、どうなるんだろう。
僕が取った席は、この前の0,1,2番とほぼ同じ、オオウエエイジの時代の定期演奏会を聴いていた席に近い、一階席通路直後の右側、10列目くらいなのかな。このごろは、フェスの定期は15列目で、PACは二階席だから、もう少し後ろの席で聴くことが多いのだけれどもね。
演奏はね。
その、いつもの席より前めだからなのか、響きに満たされるシンフォニーホールだからなのか。
よくきこえるんだよね。
この前の第1番のときにも書いたけど、それぞれのパートをしっかり鳴らしているから、どのパートがどんな音を出しているのか、っていう音の解像度がとても良くて。
僕がはじめてブルックナーの8番を生で聴いたのは、朝比奈さんの昔のフェスでの定期演奏会だったと思うけど。その時はブルックナーを知ってすぐで、今に比べたら聞き込んでもいなかったから、「曲があまりにも巨大で、取り付く島がない」って感じたんだよね。その敗北感というかもったいなさというか、今でも良く覚えているけれど。
今回は、それよりはもう少し曲のことが分かっていて。だから、いつもは意識しない楽器のフレーズとかがよく聞こえててくるのだけれど。
よく聞こえてくるのだけれど、なんか、それが一つの音にならないんだよね。
一つ一つの音はとてもよく聞こえてくるのに、それがまとまった音楽として聴こえてこない、って言う感じかな。何度もくり返すけど。
その上で、一つ一つの音量が大きくて、一楽章からトロンボンはがなっているように聞こえるし、ラッパに至ってはその音量についてこれないし。
なんかちょっと、too muchなんだよね。
広いフェスティバルホールで鍛えられた大フィルさんだから、シンフォニーホールでは収まりきらない音を出しているのか、いつもより近い席で聴いているから反響と生音のバランスが違うからなのか。
全体を見回せる距離から見るといい映画を、最前列でいちいち視線を動かさないと全体が見えない、っていう感じなのかな。
あ、僕は映画館では結構前の方に座るのが好きなんだけどね。
ブルックナーの交響曲には、神々しさを求める聴き方と、もう一つは大編成が奏でる大音量のカタルシスを求める聴き方があって、それはべつに相反するものでは無いのだけれど、今回の尾高さんの8番は、後者に重きを置いているように感じちゃったんだよね。
それはそれで楽しくて、シンフォニーホール特有の、音が天井に吸い込まれるブルックナー休止とか、楽章の終わりの静寂とか愉しんだのだけれど。
生音がビビッドに聞こえてくる分、アダージョのワグナーチューバのロングトーンを含め、やっぱり神々しさは期待したものでは無かったなあ。
それでも、終楽章に至るまで全く衰えないパワーで、心地よい高揚感と虚脱感を味わえたから、いい気分で帰途についたんだけどね。
そろそろ、いろんな人にブルックナー振ってもらってもいいんじゃないかなあ。
それも楽しみだもんね。
ただ、それだけのはなし。
中川英二郎の、ディキシーワンダーランド ― 2024年12月09日
ようやく、冬らしくなってきたね。12月に入って、ようやくダウンコート着たよ。
12月は、クラシックの世界は第九の演奏会のシーズンでね。オーケストラの定期演奏会とか、そういう普通の演奏会はシーズンオフ、なんだよね。
ベートーヴェンの交響曲第九番、通称第九は、合唱付きっていうサブタイトルもある様に、大編成の合唱がついているんだよね。日本にはプロの合唱団ってそんなにはないから、そこかしこで演奏している第九を歌っているのは、ほぼアマチュアの合唱団。アマチュアの合唱団には、それぞれのメンバーに家族やら学校、職場の友人とかがいて、その人たちがチケット買ってくれるから、かなりの聴衆が見込めるんだよね。だから、第九のコンサートは楽団さんにとってもドル箱、12月は稼ぎ時、っていうことみたいだね。
年末は第九、って日本だけの風習みたいだけど、誰が言い出したんだろう。土用の丑の日は鰻、っていった平賀源内くらい偉大なマーケターだよね。
それはいいのだけれど。
というわけで、クラシックのコンサートは(第九をのぞけば)あんまりなくて。でもクリスマスシーズンだし、っていうことで、西宮の兵庫県立芸術文化ホールでは、じゃあJAZZをやろう、っていうことで、いくつかのジャズコンサートを企画してくれたんだ。
そのうちの一つ、中川英二郎のディキシーワンダーランド、行ってきたよ。
中川英二郎君はね、君付けにしちゃうけど、僕がたぶん学生だったときにデビューした、トロンボンの神テクプレイヤー。デビュー作を録音したのがたぶん16歳のときだったんだけど、その中の一曲、SCRAMBLEっていうのがあってね。ぶっぱやのブルースなんだけど、あまりの速さにソロを取るラッパとかピアノとかがあっぷあっぷしている中で、最後にソロを取った英二郎の、ブレイクあとなんと1コーラスの無伴奏ソロ。
若さゆえのひけらかしもあったのだと思うのだけれど、同じトロンボンを吹いていた僕はア然として息が止まってしまって、2コーラス目にバンドが入ってきてはじめて息が止まっていたことに気がつく。そんなインパクトのあるデビューだったんだよね。
その後、なかなか生で聴く機会がなくって。オケや吹奏楽との共演を何回か聴いたくらいなのかな。あ、この前、Slide Monsterっていうトロンボン4人だけのバンドのライブを聴いたな。こんど、PACで中川君作曲のクラシック、演るんだよね。
というわけで、中川英二郎のディキシーワンダーランド、大人の部、聴いてきました。
大人の部、っていうのはね、同じ日の昼から、0歳からのジャズ、っていうことでことどもの部があったからね。
兵庫県立芸術文化センターには、大中小のホールがあって、僕がいつも行くのはオーケストラとかの演奏会をする大ホール。中ホールはオーケストラピットがある本格的な演劇用のホールで、チケット取ったけど行きそびれてしまった宮沢りえちゃんのお芝居とかもここでやっていたよね。
そして、小ホールは、今回初めて入ったのだけれど。すり鉢状の立派なホール。すり鉢の下にこじんまりとしたステージがあって、全方位階段状に客席が10段くらいある。2,300人くらいは入るのかな。
僕の席は、一番左の、一列目。
小さなステージにデンと置かれたグランドピアノの背中越しに指がよく見える、そんな席。正面まで廻って、どんなセッティングになっているか確かめてみたら、ピアノの他には椅子が一つとスタンドマイクが二つ。返しのモニタはあるけど、客用のスピーカーはほぼなくて。
あれ、タイコもない。今日どんな編成なんだっけ、ってパンフを見てみると、お父ちゃんラッパと英二郎君の他は、ピアノとバンジョーのみ。なるほど、ディキシー。
っていうわけで、演奏開始。
マイクスタンドが二つあったけど、それはMCと歌用のマイクで、演奏はPAなしの生音。僕の席からは後ろ姿を観ながらの反響音だったのがちょっと惜しかったけど、英二郎のトロンボンと、82歳のおとーちゃんラッパの生音、いいなあ。
僕のイメージでは英二郎君はジャズの人、だったのだけれど、満州のオケの主席チェロ(ビオラだったっけ?)を祖父に持ち、父親とその兄弟はディキシーのミュージシャン、っていう音楽一家。なのでディキシーがルーツなんだね。
僕がジャズを聴き始めたのは、モダンジャズっていう1950年代に盛んだった音楽からだったから、1920年代くらいの匂いのするディキシーランドジャズは、あんまり守備範囲ではなくって。シーデキっていってちょっと遠目で見てたんだよね。
それに加えて、全てのジャズをお芸術にしてしまおうとするウィントンってやつが、神父さんの説教入りの30分もある壮大な曲の入ったシーデキのアルバムを出したりして、結局ディキシーってナンなんだ、って分からなくなっちゃったこともあり。
ディキシーとはナンだ、それは”サッチモ”ルイアームストロングだ、っていう単純なことが分かるまでなんか寄り道しちゃったよね。
というわけで、演奏はね。
もう、これは、中川喜弘さんの勝ちだね。
金管楽器は歳取ったら吹けない、と思ってたんだけど、ごめんなさい。82歳、あっぱれ。歌もいいね。踏んできた場数が違うな、って思わせる脱力感と伝わる楽しさ。ジャズってこういうものだよね。
あと、バンジョー。ラプソディーインブルーをソロで演奏したのだけれど。ソロパートをバンジョーで演奏したんじゃないよ。オケも何も含めて全部をバンジョー一本で演奏、ね。これすげー。ピアノ越しなんで右手の動きとか見れなかったんだけど、ホントに二本の手で弾いてた?
英二郎君のテクはクラシックの曲で堪能させてくれたし、タイガーラグとセイントでホンモノのデキシーも聴かせてくれたし、お隣に座った品のいいオネエサマと、「楽しい時間でした」といって帰途についたよ。
ああ、楽しかった。
そうそう、ディキシーランドジャズは2拍子が基本だから、手拍子は1,3拍に入るのが正しいのかな、と思ってたけど、神戸の人たちはジャズの素養があるのか、2,4拍に入るんだよね。
それが、アンコールの聖者の行進だけは、自然と1,3拍(2拍子だから1,2拍なのか)になったんだよね。フシギ、というかちょっと感動してしまいました。
あらためて、
あー、楽しかった。
ただ、それだけのはなし。
尾高忠明の、ブルックナー1番 ― 2024年11月21日
いやあ、古狸の尾高さんに、すっかりだまされちゃったね。
尾高さんが毎年テーマを決めてシンフォニーホールで開催する特別演奏会。何回かの演奏会で、集中的にある作曲家の作品を取り上げるのだけれど。ベートーヴェンとかブラームスとか、チャイコフスキーやドヴォルザークもやったんだっけ?
僕は、年によっていったり行かなかったり。また、チケットは取っても行けなかったことも結構あって。なかなかにもったいない感じだったのだけれども。
今年は、モーツァルトとブルックナー。シンフォニストの理想を求めて、っていうサブタイトルがついていて、ブルックナーの初期の交響曲と、モーツァルトの後期の交響曲を一曲ずつ、3回のコンサートで演奏する、特別演奏会。
僕は、オオウエエイジの時代に定期演奏会を聴いていた席の近くに陣取って、3回のコンサートを聴いたよ。とはいえ、最初は6月だったかな。東京出張と重なって、東京での後始末を仲間に頼んで、新幹線に飛び乗って、新大阪からタクシーでシンフォニーホールに飛び込んだときには、モーツァルトは終わっていて、ブルックナーの0番にやっと間に合った、って言う感じだったのだけれど。
まあ、過ぎたことはいいや。
0番、2番と聴いてきて、今回は1番。
ブルックナーの初期の交響曲って、あんまり聴く機会がないんだよね。全曲演奏を目指しているオケと指揮者とか、新人に機会を与えてみようか、っていう時くらいしかステージにかからない気がする。(違ったらごめんね)
大フィルの音楽監督になってから、ブルックナーの交響曲を録音してきた尾高さん、この3曲と来年早々の4番で全集になるんだよね。ご苦労様でした。
とはいえ、演奏機会が少ないのはやっぱり人気が、中期後期の交響曲に比べたら劣るからであって。平日夜のコンサートのわりには、ちょっと空席が目立つのはもったいなかったね。
さて、モーツァルト。
って言う事になるのだけれど。
これはもう、ひたすらに心地いい時間で。それが、モーツァルトの心地良さなのか、尾高さんと大フィルさんの心地良さなのか、僕はもう考えるのを放棄するしかないのだけれど。
41番、ジュピターっていう名前のついた、溢れるように曲を作ってきたモーツァルトの、最後の交響曲。だいたいベートーヴェン以降の交響曲は、9番縛りというのが呪いのように存在していて。9曲作ったら神に召されてしまう、っていう都市伝説なのだけれど。41番、っていうことはその前に40曲も作っているわけで。9番縛りなんてモーツァルト(とハイドン)には全く関係ないんだよね。
それだけ、1曲1曲がライトで短い者が多いのだけれど。でも、この41番は演奏時間30分を越える立派な交響曲でね。
その分、その音に浸らせてもらったよ。
そして、ブルックナー。
その前に、今回の演奏会の入場時にもらったチラシには、来年度の定期演奏会のプログラムがついていてね。あ、定期演奏会って、ほぼ毎月、年10回の演奏会で、オーケストラの主要な公演なのだけれど。
まあ、攻めたプログラムであること。
井上さんのときから、ドイツものはイヤや、っていうプログラムを組むことが結構あったのだけれど。来年は振り切ってるね。
まず、ベートーヴェン、ブラームス。ブルックナーやマーラーとかの交響曲がいっさいない。交響曲って、ハイドンとチャイコフスキーがひとつずつくらいなのかな。
尾高さんは、ブルックナー全曲終わったからって、大好きなエルガーばっかりだし、他にはハルサイとかデュトワのダフクロとか、それからモツレクとか。久しぶりの演奏会形式のオペラとか。
なんだ、聴き所満載じゃないか。
個人的にエルガーがあんまり得意じゃないので、ちょっとエルガー克服年度になるのかな。でも、デュトワのダフニスとクロエ、80年代の埼玉の吹奏楽少年としては聴かずに死ねるか系の演奏会になりそうだね。
交響曲は、特別演奏会でベートーヴェンのチクルスやってくれるみたいだし。
というわけで、来年も楽しみだね。
あ、ブルックナー。
休み時間に読んだプログラムに、尾高さんのインタビューが載っていて、そこには、「僕のブルックナーはウィーン仕込みですから、朝比奈さんみたいながなるだけの音楽とは違うんですよ。楽団員にはジェントルに行こうね、っていうんですけど、やっぱり「がーん」ってなっちゃうんですよね。体質ですかね、大フィルの」(意訳)。みたいなことが書いてあって。さぞかし上品なブルックナーを聴かせてくれるのだと思っていたのだけれど。
いやあ、すごいなあ。
1番って、こんな曲だったっけ。
隙あればバリバリならすトロンボン。楽章の終わりの音が切れるときに、ふわっ、ではなくざらっと粒子が残る生々しさ。
これは、ジェントルに行こう、っていって出来る音楽じゃないよ。
楽しー。
ブルックナーの交響曲は、トロンボン優性の演奏とホルン優性の演奏に分かれる、っていうのを読んだことがあって。まあ、それぞれ活躍の場があるからどっちか黙っとけ、というわけではないのだろうけれど、トゥッティのバランスのときにどちらに耳がいくか、っていうことなのだと思うのだけれど。
でも、今日の1番は、曲としてトロンボンが優性な曲、にきこえたんだよね。大優性。
それを気持ちよさそうにバリバリするトロンボン。いいなあ。
それが尾高さんの棒なのか、大フィルさんが「ドン」とやったのかわからないけれど、終楽章の最後の方、結構アンサンブルが乱れて。トゥッティの出が揃わないところがいくつかあって。
最後の、コーダ。
あれ、トロンボン、なんかやらかした?
ちょっと早く出ちゃったヒトがいたかな。
まあ、それも盛り上がりの一環、っていうくらいに大盛り上がりで怒濤のブラーボーコールだったね。
拍手を受けているときにトロンボンの3人を見ていると、トップの福田さんが自分を指さして「私、私」みたいな感じで笑っているやら謝っているやら、だったけど。
でも、1番って退屈なのか、と思っていたんだけど、認識あらためます。面白い曲。面白い演奏だったな。
尾高さんのインタビュー、結構前から考えていた韜晦というか、しゃれだったのかな。食えないオッサンや。
大好き。
ただ、それだけのはなし。