尾高さんの、最後の?、ベートーヴェンチクルス I ― 2025年10月11日
尾高さんの、今年の特別演奏会は、ベートーヴェンのチクルス。
大フィルは、創設者の朝比奈さんが、「指揮者たるもの、自分のオケを持ったらベートーヴェンを全曲演奏すべし」っていう考えを持っていたからなのかどうか、指揮者が変わるたびにベートーヴェン交響曲の全曲を振ることが多いよね。
朝比奈さんの晩年、定期と企画演奏会、それに年末の第九を組み合わせた1年間で全曲演奏。オオウエエイジのチクルスは、一演奏会で3曲の交響曲っていうハードな企画だったね。
定期でのドイツ物を徹底的に避けた井上道義(音楽監督、っていうポジションではなかったよね、多分)はやらなかったけど、尾高さんは、就任後早速、ベートーヴェンチクルスを振ったね。7年前になるのかな。
そして、今回。尾高さんが大フィルと2度目のチクルス。
9年(?)かけて、ブルックナーの交響曲全曲をレコーディングして、それが完成した翌年に二度目のベートーヴェン、っていうと、どうしても大フィル音楽監督としての集大成、とか思ってしまうのだけれど、まだそういうニュースは聞こえてこないよね。
というわけで、尾高さんのベートーヴェン、26年前に朝比奈さんのベートーヴェンを聴いた(近くの)席、シンフォニーホール2階の右側最前列から、聴かせてもらいました。
前回の尾高さんのベートーヴェン、あんまり良く覚えていないんだよね。その頃出張とか多くって、シリーズでとったチケットもずいぶん無駄にしてしまう事があって。全階のシリーズも多分2回か3回しか聴けてないんだよね。Blogを見てみても、記録も残ってないし。
その前の、オオウエエイジのチクルスは印象に残っていて。交響曲を順番に3曲ずつ、演奏するチクルスだったから、1,2,3番、4,5,6番って2回の演奏会で進んでったんだよね。9番はさすがに独立したから、7,8番と9番の残り2回で完結したのだけれど。
この時は、1番を聴いて、なんかとんでもないことが起こっている、ってぞわぞわして、そして、2番が神曲、神演奏に聴こえたんだよね。3番はさすがに体力的にしんどかった記憶があるけれど。ベートーヴェンと云えば合唱、運命、田園、英雄などのタイトルがついている交響曲が人気あるけれど、1,2番って云う初期の、地味(?)な交響曲も棄てがたい、って思ったんだよね。
まあいいや、今回の尾高さん、だよね。
2階席から見る今回の編成は、こぢんまりとしていてね。初期の交響曲だから、トロンボンは編成に入っていなくって、金管はトランペット2本とホルン2本、木管だってクラリネット、ファゴット、フルート、ダブルリードそれぞれ二人ずつ。それに大フィルさんから見たら十分小編成の弦楽器とティンパニ。2階席から見ると、それがステージ中央にこぢんまりと乗っかっていて。
そして、序曲。プロメテウスの創造。
ベートーヴェンの曲を、ひと言で云うとね、「ゲージツは、爆発だ」。
破裂音が多いんだよね。破裂音、っていうのか、Tuttiでみんなで短音をフォルテシモでドカン、っていうやつ。英雄の冒頭のジャン、、、ジャン、、、とか、運命のジャジャジャジャーンもその変形だし。今回の曲も含めて、序曲のはじまりにもそういうの多いよね。
俺の曲が始まるぞ、みんなこっち向いて集中しろ。自己顕示欲の強い(といわれている)ベートーヴェンさんだから、この位のことは考えていたんだろうと思うんだよね。
それはものすごく効果的で。
短音の連発にこもる指揮者と演奏者の間の緊張感っていうのかな。見てると予備動作もあんまりない尾高さんの手から、エッヂの効いたTuttiが繰り出されていく。ああ、やっぱりベートーヴェンは爆発なんだ。
多分1番の感想と混ざり合っているけれど。
爆発のあとの響きが、なんかブラームス的なのがちょっと気になってるんだよね。ブラームスを生でも録音でもいいから聞くときに良く感じる、中音域がこもって、音域のレンジが小さいんじゃないか、っていう音。AMラジオで聴いているみたいな、ね。音域に枠をはめて四角く切り取っているみたいだから、僕は箱庭的な音、って呼んでいるのだけれどもね。
1番を聞いていると、クラリネットとかの木管のフレーズにホルンが被さっていて。その音色が本当に見事にひとつの音に溶けあっていて別々には聴こえないんだけど、そこで高音域がスポイルされてるのかなあ。とか、弦のTuttiにティンパニが入る時に、ティンパニが弦の少なさに遠慮して小さく叩くとそういう箱庭的な音になるのかな、とかいろいろ考えていたんだけど、よく分からないや。
しかし、この1番、立派だね。
尾高さんの振る大フィルさんの音、中身が詰まった音、っていうことで、みっしりっていう言い方をよくしてきたのだけれど、そのみっしりさがすごく感じられて。いいなあ。
ベートーヴェンの中では大曲ではないし、有名な人気曲、っていうわけではないのだけれど、でも、ベートーヴェンそのものだよね。『鷹の爪』って云ったのは朝比奈さんだっけ? 全体像は見えていないけれど、確かにベートーヴェンの一部分であってそれだけで既に秀でている、っていう意味だと思うけれど、その通りだね。あ、鷹の爪って唐辛子じゃないよ。
休憩あとの2番は、弦楽器が少し増えた。
オオウエエイジのときに1番以上のインパクトを感じて神曲認定した曲だから、期待したのだけれどもね。
今回は、1番の方がよかったなあ。
なんか、編成を大きくした分、タイトさが無くなっちゃったような気がするんだよね。
ホルンが高橋さんに変わったおかげで、木管とのSoliでホルンが(見た目的にも)勝ってしまう感じもするし。
まあ、でも。
ベートーヴェン楽しい。
原点にして、頂点。
尾高ベートーヴェンの頂点、期待してるよ。年末じゃない第九って、なんか特別感あってそれもいいよね。
ただ、それだけのはなし。
2025年9月10日(水)
ザ・シンフォニーホール特別演奏会
ベートーヴェン・チクルス~原点にして頂点~Ⅰ
指揮:尾高忠明
大阪フィルハーモニー交響楽団
ベートーヴェン
バレエ音楽「プロメテウスの創造物」op.43 序曲
交響曲 第1番 ハ長調 op.21
交響曲 第2番 ニ長調 op.36
尾高さんの、ブルックナー 完結 ― 2025年02月18日
大フィルさんをはじめ、いろんなオケがブルックナーの交響曲をたくさん演奏してくれたのだけれど。
年が明けて、2025年2月。大フィルさんの定期では、ブルックナーの4番が演奏されたんだ。
尾高さんが大フィルの音楽監督になってから、定期やその他の演奏会で、コツコツと年にひとつずつくらいブルックナーを演奏して。大半は東京での演奏の録音だけれど、コツコツとCDを出していたのも、6曲までは発売されて。
去年、特別演奏会で0,1,2番をエイヤって演奏・録音して。
そして、最後に残った4番を、この定期と、東京定期として演奏して、全曲録音、完結なんだね。
演奏会場には、去年の0,1,2番のCDが先行発売されていたから、買い求めて。
最後の4番、どういう演奏を聴かせてくれるんだろうね。
しかし、東京の人は、この数年、大フィルさんといえばブルックナーしか聴いていない、っていうことになるのかな? 大フィルはブルックナーのオケと思われていると想像するけれど、それは朝比奈さんのおかげではなくて、もう尾高さんのせい、なのかもしれないね。
前半の曲は、松村禎三っていう方の、管弦楽のための前奏曲。20年くらい前まで存命だった、伊福部昭さんと同時代の作曲家らしいけれど、初めての曲。
現代ヨーロッパの分かを否定していた人らしく、いわゆるクラシック音楽の方法論ではない曲で、それはまあ伊福部さんもそうなのだけれど、この曲はなかなか癖があるね。
ヴァイオリンとピッコロが高音域でロングトーンをしている、としか覚えていないけれど、ちょっと耳にさわるキーキー音。ピッコロのピッチがずれないのはすごいなと思うけれど、ごめん、そのくらいしか感想がないや。
という事で、休憩はさんでブルックナー。
大フィルさんは、金管楽器のトップ奏者は、後半しかステージに載せないことにしているらしく、僕が大好きなホルンの高橋さんも、トロンボンの福田さんも、メイン曲しか載らないんだよね。
と思っていたら、後半になってもトロンボンは男性ばっかり。あれ、福田さんいないんだ。
この前の1番で、そこまでやるか、っていうくらいバリバリ吼えていたトロンボン隊を率いている福田さん。今回も楽しみにしていたのに、ちょっとしょんぼり。
まあでも、4番の主役はホルンだからね。それを楽しみにしようかな。
なのだけれど。
この演奏、どう言葉にしたらいいんだろう。
冒頭のホルンが、ちょっとだけ完璧でなかったからなのか、そのあとの16分音符の唄い方ほんのちょっと違和感があるのか、そのあとのトゥッティのバランスのせいなのか。
ああ、0,2,1番の演奏の続きではないんだな、って感じたんだよね。
別に、去年の0,1,2番の演奏が好みだったか、というとそういう訳でもないし、あったかみ、という事ではこの4番の方が僕の持っている尾高さんのイメージに近いのだけれども。
なんか、福田さんのいないトロンボンがあまり前に出てこないような気がして、それが曲の解釈のせいなのか、そうでないのかって悶々としちゃう演奏だったね。
そして、4番の4楽章を聴くといつも思いだしてしまうのが、ガラガラのシンフォニーホールで聴いた、朝比奈さんの4番。
シンフォニーホールの、丸みを帯びた反射板がつり下がっている高い天井から、朝比奈さんに光が射して、フランダースの犬の最後のシーンのネロみたいに見えたんだよね。
それを思いだして、フィナーレ聴いているときに天井を見上げてみたけれど、フェスティバルホールの無機質な天上からは光が射すわけもなく、現実の音として、あったかい、みっしりとした、等身大の4番が聴こえてきたよ。
ちょっとブルックナー聴き過ぎちゃったかな。
尾高さんのブルックナーって、どうだったんだっけって確かめるために、発売ごとにコツコツ買ってきた尾高さんのCD、ちょっとまとめて聴いてみようっと。
ただ、それだけのはなし。
スラトキンの、ジョン・ウィリアムス @大フィルさん ― 2025年01月31日
PACの重厚なマーラーのお次はね、大フィルさんのお気軽な定期演奏会。
レナード・スラトキンの指揮で、オール・ジョン・ウィリアムス・プログラム。
レナード・スラトキンはね、アメリカ人の指揮者なのだけれど。僕は高校時代から知っていたんだよね。
高校時代、吹奏楽部に所属していた僕は、3年生の最後のコンクールで、コープランドのロデオ、っていう曲を演奏することになったんだ。コープランドっていうのは、アメリカの作曲家でね。ロデオっていう曲はとっても明るいお祭りの曲なのだけれど、あんまり有名ではないんだよね。
知らない曲を演奏する、っていうことで、まずはレコードを聴いてみよう、っていってレコード店に行ったんだよね。
その頃は、この曲の演奏は、3種類しか見つけられなかったんだよね。
僕らのマスター演奏になった、バーンスタイン指揮ニューヨークフィルハーモニーの演奏と、ちょっと重々しいアンタル・ドラティ指揮のデトロイト交響楽団。そしてもう一つが、スラトキン指揮のセントルイス響の演奏。録音が古くてワイルドなバーンスタインと、テンポが遅くて重たいドラティの間で、軽くて爽やかな、若々しい演奏だったことを覚えているよ。
そのスラトキンは、数年前にも大フィルさんに来てくれて、ガーシュインとコープランドを振ったんだよね。どちらもアメリカの作曲家で、アメリカ人の指揮者が似合うんだよね。その時の、コープランドの交響曲第3番だと思うのだけれど、トロンボンのソロがめちゃめちゃかっこよくってね、一発で福田さんのファンになっちゃったよ。
前回の話になっちゃったけど。
そういう、アメリカ人っぽさを(大フィルさんに?)期待されているスラトキンが今回振るのが、オール J.ウイリアムス プログラム。
これって、結構珍しいと思うんだよね。
数年前から、ヨーロッパの名門と言われているオーケストラが、J.ウィリアムスを指揮者として招いて、オールJ.W.プログラムの演奏会をするようになって。TVやCDの付録のブルーレイディスクでもその模様を見ることができたんだ。
ウィーンフィルとか、ベルリンフィルとか。日本だとサイトウキネンオーケストラにも来ていたのかな。
でもそれって、たぶん、定期演奏会のはなしではないよね。J.W.を招いた、特別演奏会なんだと思うんだよね。
なぜなら、ジョン・ウィリアムスの曲の多くは映画音楽で。クラシック音楽を毎月聴きに行くような人たちが、定期演奏会に求める音楽とはちょっと違うから。
そう思っていたのだけれど、大フィルさんは、スラトキンの指揮で、オール・ジョン・ウィリアムスのプログラム、定期演奏会にぶち込んできたんだよね。
J.ウィリアムスは、映画音楽だけではなくて、クラシック(コンサート音楽、っていういいかたをしていたかな)も作曲していて。前半はそういう曲。チューバ協奏曲って、他の作曲家でも聴いたことがなくて面白買ったな。普段はひな壇の後ろにいるチューバの方だけれど、オケの前に陣取って、オケがお膳立てをしてくれてソロを吹き出したら、その響きが広いフェスティバルホールに響き渡ったんだ。ああ、一本の金管楽器って、こんなにすごい音がするんだ、ってちょっと感動した。
この演奏会は、スラトキンさんがマイクも持って、曲間に説明をしてくれたんだよね。通訳の方もいらして、きちんとしたMCをしてくれた。
それによると、スラトキンさんのお母さんはハリウッドの映画音楽用の楽団の1stテロリストで。ジョーズのテーマを弾いた人らしいね。
そんなエピソードを語りながら、映画音楽を演奏していく大フィルさん。
誰もが知っている曲や、映画の想い出が強く残っている曲や、知らない曲でも映画の雰囲気が想像できる曲や。僕についていえば吹奏楽で演奏したことのある曲や。
聞き慣れたサウンドトラックの多くはロンドンフィルが録音したもので。レンジの広い、明るい素直なロンドンフィルのブラスが頭に残っていると、もちろんそのものでは無いのだけれど。
いいなあ、たのしいなあ。
J.ウィリアムスがウィーンフィルを指揮したビデオを見るとね、みんな笑顔なんだよね。本人もそうだし、オーケストラのメンバーもニコニコしていて。そして、お客さんも笑ってる。
それって、クラシックの演奏会ではあんまり観ない光景、なんだよね。
だから、ちょっと違和感も感じていたりしたのだけれど。
分かったよ。
あたり前なんだよ。
だって、楽しいんだもん。
僕の年代でいえば、小学生の頃はテレビでジョーズを繰り返し見て、少し大きくなったらインディ・ジョーンズがあり未知との遭遇があり、ETがあり。シリーズ物としてずっとスター・ウォーズがあり。
大学生になったらジュラシックパークがあり。云々かんぬん。
つまり、映画館で見る洋画は、みんなジョン・ウィリアムスみたいなもんだよね。
その音楽が、目の前で、こんな大編成のオケで演奏されている。ハリウッドで生まれて育ったスラトキンが指揮している。
こんな楽しいことなんて、そうないよね。
何度かのカーテンコールのあと、アンコールは、指揮者なしでの、ダースベイダー・マーチ。
ああ、楽しかった。
ただ、それだけのはなし。
マエストロの、最後のコンサート ミッキーと和慶さん ― 2025年01月24日
この間、「巨匠たちのラストコンサート」っていう新書を読んだんだよね。巨匠と書いてマエストロって読ませるんだけど。
中川右介っていう、元(?)クラシックジャーナルの編集長の方が書いているのだけれど、クラシックの指揮者や演奏家の、最後のコンサートと晩年のエピソードを集めたものでね、面白く読んだのだけれど。
バンドとかアイドルとかだと、解散コンサートとか卒業公演とかあって、これが最期だ感が(幸運にもチケットを取れた人には)味わえると思うのだけれど、クラシックの演奏家は、生涯現役っていう方が多いから、最後のコンサートって、「結果的に」最後になってしまった、っていうことが多いんだよね。
この本の著者の中川さんは、本人が言うようにカラヤン信者の方で、この本に出てくる演奏家や指揮者も、カラヤンと何らかのつながりや因縁が会った人が多いのだけれど。
僕も、クラシックのコンサートに通って四半世紀になるくらいのリスナーだから、その間に最後のコンサートを迎えた方も多数いらっしゃると思うのだけれど、後から振り返ってもその方の「最後の」コンサートにはであったことがないんだよね(定年退職をする楽団員は別にしてね)。
僕がクラシック音楽のコンサートに通うきっかけとなった朝比奈さん(当時92歳だったのかな)は、2021年の名古屋でのコンサートが最後になってしまったので、僕は大阪でお留守番をしていて聴けなかったんだよね。
僕が昔から名前を良く知っている指揮者に、秋山和慶さんがいてね。高校の音楽の先生が桐朋学園で、秋山和慶さんの後輩だったか教えてもらっていたかで、良く名前が出てきていたから、僕も高校生の頃から「わけいさん」の名前は知っていたんだ。
実際に聴いたのは、たぶんそんなに回数はないのだと思うのだけれど、大フィルを指揮した定期。トゥランガリア交響曲、ベルシャザールの饗宴とか、和慶さんの指揮でしか聴いたことのない、珍しくてムツカシそうな曲を聴かせてくれる指揮者だったんだよね。しかもその難しいであろう曲を、なんかやさしく包み込んでしまうような上品さもあるんだよね。(写真とか事後の刷り込み、かも知れないけれど)
その秋山さんが、今年の元日に怪我をされて、その影響で急遽指揮の活動を引退されたんだ。この3月にまた大フィルさんを振る筈で、それを楽しみしていたのだけれど、その前に結果的に大晦日の年越しライブが最後になってしまったんだね。
この怪我と引退には何にも関係ないのだけれど、和慶さんのCDがセールで割引されていたので、大量に買ったんだよね、去年の年末かな。ベートーヴェン、ブラームスの全集に、チャイコフスキー後期、ハイドンとモーツァルトの交響曲集。少しだけアップグレードしたPCのオーディオで少しずつ聴いているのだけど。なんかいいんだよね。あったかくって。今はハイドンの48番がかかっているのだけれど。
僕もむかしは聴いた演奏会を何らかの記録に残していたのだけれど、もうかなりの期間それをさぼっていて。だから和慶さんの演奏を、いつ、どんな曲で聴いて、どんな印象を持ったかってたぐることが出来ないんだ。ちょっと悔しいね。
僕にとっての和慶さんの最後のコンサートは、2020年2月の大フィルさん定期で
チャイコの1番を聴いたとき、かな。
もう一人、去年いっぱいで指揮者を引退した人がいてね。井上道義さんっていう方なのだけれど。本人がミッキーって呼んで、というので、ミッキーっていうけれど。
ミッキーは、朝比奈さん時代から大フィルさんになんかのポジションがあったのかな。定期には良く登場していたんだよね。人気の指揮者だから、いろいろなところで聴いたけれど。岩城さんが亡くなったあとのオーケストラアンサンブル金沢の指揮者もしていたよね。
大フィルさんとは、オオウエエイジの後に、音楽監督ではなく首席指揮者を3年間ほどしてくれて。ひねくれた選曲が好きだったなあ。
そのミッキーは、2024年の年末で引退、というのをたぶん一年前くらいに宣言して。その後怒濤のカウントダウンコンサートと銘打った演奏会を、たぶん大阪だけではなく日本各地で行ったんだろうね。
僕は、大フィルさんのミッキー最後の定期でショスタコ13番と、それからシンフォニーホールのブルックナー7番を去年、聴いたよ。
ブルックナーはね、モーツァルトの交響曲が前半にあったのだけれど、その1楽章が終わった後に、やおらミッキーがマイクを持って振り向いて「昨日の結石の影響で、2曲を振り切る体力がない。だからブルックナーに集中させてほしい。みんなブルックナー聴きにきたんでしょ」って。
ブルックナーはそんな体調不良を感じさせない演奏と拍手を受ける千両役者振りで大満足の演奏会だったけれど、ちょっと痛々しくって、それ以降のカウントダウンコンサートには行ってないんだよね。
ミッキーのライフワークであるショスタコと、僕のフェイバリットであるブルックナーを聴いたので、思い残すことはなく、「僕にとってのラストコンサート」を堪能した、っていうのが大きいのだけれどもね。
しかし、ブルックナーの演奏会、なんで文章として記録に残していないんだろう。。不覚。
朝比奈さんが90歳を超えてから、指揮するコンサートが軒並みプラチナチケットになって。その時に息子の千足さんが、「みんなは演奏を聴きにきてるわけじゃなくって、親父の「最後のコンサート」になるかも知れないっていう期待で集まっているだけだ」みたいなことをいってた、って何かで読んだけど。
最後になってほしい、っていう期待なのか、最後に近いから聴き逃したくない、って思ったのかよく分からないけれど、僕も朝比奈さんの(結果として)最後の2年間で、19回の演奏を聴くことができたよ。
札幌や東京にも行って聴いたのに、名古屋にはなんで行かなかったんだ、っていう思いも少しあるけどね。なんでっていっても、その後に大阪で同じプログラムを演奏してくれる筈だったからなのだけれどもね。
なので、僕にとっての朝比奈さんの最後のコンサートは、2001年9月24日シンフォニーホールでのブルックナー9番になったんだね。
この演奏会は、幸いCDとしても発売されていて、統率力には翳りが見られるが、贅肉をそぎ落とした、音の向こうにスコアが見えるような、そんな白鳥の歌。っていう評価があった、ような気がするんだよね。聴いた演奏がCDになっているって、なんか嬉しいし、他の録音とはひと味違って聴こえるんだよね。
僕はこれからも音楽会に出かけていくし、結果的に最後の演奏会にもであうのだろうけれど。でも、音楽は一期一会だからね。常にこの一回、の気持ちで大切に聴いていきたいなあ。
ただ、それだけのはなし。
尾高さんの、ブル8 in 2024 ― 2024年12月23日
だから、いろんなオケでブルックナーの演奏を聴く機会があって、嬉しいのだけれど。
その中で、僕としては今年の白眉の演奏会があったんだよね。
尾高忠明指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団 ブルックナー8番 @ザ・シンフォニーホール。
大フィルさんは、その設立から50年以上にわたって、朝比奈隆っていう一人の指揮者がずっと音楽監督を務めていて。50年以上って、第二次世界大戦中満州のオケを振っていた朝比奈さんが帰ってきてオーケストラをつくって以来、っていうことだから、まあ、日本人が奏でる戦後クラシック音楽の歴史そのもの、っていうことになるよね。
その朝比奈さん、っていう指揮者は、特に晩年は、ブルックナーの交響曲の演奏にとても人気があって。それって、日本になじみの薄かったブルックナーを根気よく取り上げて、オケも、お客さんも育てていった結果なんだよね。
そういうわけで、大フィルのブルックナーときたら朝比奈さんが振らないといけない、ということになっていたようで。特に一番の大曲、8番は、朝比奈さんの没後も時の音楽監督しか振ったことがない、という事みたい、なんだよね。
確か、朝比奈さんの最晩年、パーヴォ・ヤルヴィが定期でブルックナーの4番を振ったときに、定期で朝比奈さん以外が振ったのははじめて、とかいわれていたような。(下野竜也さんは定期じゃなかったっけ?)
まあ、そういうのはどうでもいいのだけれど、数あるブルックナーの交響曲の中で、一番長くって、完成している最後の交響曲で。ブルックナーが生涯追い求めていた(だろう)「神の創った世界を音楽で再現する」ことに一番近づいた作品、だと思うんだよね、第8番って。
ベートーヴェンが、第九で「人類の到達点」としての作品を実現して、そのつぎはないままに神に召された、って僕は思っていてね。「まあ、人間としてはこの位にしておこうか」って。その後、「交響曲9曲創ると神に召される」って言う9番ののろいの都市伝説があったみたいなんだけど。
ブルックナーの場合は、第8番でその域に到達して、第9番の作曲途中に「まあ、この位にしておこうか」って神様に召された、という意味では、ベートーヴェンよりも一楽章分だけ偉大な作曲家、だと思ってるんだよね、ぼくは。あくまで個人の感想なのだけれど。
というわけで、朝比奈さんが亡くなって四半世紀になろうとしているけれど、まだまだブルックナーを得意とするといわれている大フィルさんの、8番。楽しみだなあ。
指揮者の尾高さんは、あんまりブルックナー(だけ)を得意としている、という印象はないのだけれど、大フィルさんを指揮して、コツコツとブルックナーの録音を発表して。3番から9番のCDを発売済で、この前0,1,2番の演奏会をしたから、ブルックナーは二巡目になるんだね。大フィルで二度目の8番、どうなるんだろう。
僕が取った席は、この前の0,1,2番とほぼ同じ、オオウエエイジの時代の定期演奏会を聴いていた席に近い、一階席通路直後の右側、10列目くらいなのかな。このごろは、フェスの定期は15列目で、PACは二階席だから、もう少し後ろの席で聴くことが多いのだけれどもね。
演奏はね。
その、いつもの席より前めだからなのか、響きに満たされるシンフォニーホールだからなのか。
よくきこえるんだよね。
この前の第1番のときにも書いたけど、それぞれのパートをしっかり鳴らしているから、どのパートがどんな音を出しているのか、っていう音の解像度がとても良くて。
僕がはじめてブルックナーの8番を生で聴いたのは、朝比奈さんの昔のフェスでの定期演奏会だったと思うけど。その時はブルックナーを知ってすぐで、今に比べたら聞き込んでもいなかったから、「曲があまりにも巨大で、取り付く島がない」って感じたんだよね。その敗北感というかもったいなさというか、今でも良く覚えているけれど。
今回は、それよりはもう少し曲のことが分かっていて。だから、いつもは意識しない楽器のフレーズとかがよく聞こえててくるのだけれど。
よく聞こえてくるのだけれど、なんか、それが一つの音にならないんだよね。
一つ一つの音はとてもよく聞こえてくるのに、それがまとまった音楽として聴こえてこない、って言う感じかな。何度もくり返すけど。
その上で、一つ一つの音量が大きくて、一楽章からトロンボンはがなっているように聞こえるし、ラッパに至ってはその音量についてこれないし。
なんかちょっと、too muchなんだよね。
広いフェスティバルホールで鍛えられた大フィルさんだから、シンフォニーホールでは収まりきらない音を出しているのか、いつもより近い席で聴いているから反響と生音のバランスが違うからなのか。
全体を見回せる距離から見るといい映画を、最前列でいちいち視線を動かさないと全体が見えない、っていう感じなのかな。
あ、僕は映画館では結構前の方に座るのが好きなんだけどね。
ブルックナーの交響曲には、神々しさを求める聴き方と、もう一つは大編成が奏でる大音量のカタルシスを求める聴き方があって、それはべつに相反するものでは無いのだけれど、今回の尾高さんの8番は、後者に重きを置いているように感じちゃったんだよね。
それはそれで楽しくて、シンフォニーホール特有の、音が天井に吸い込まれるブルックナー休止とか、楽章の終わりの静寂とか愉しんだのだけれど。
生音がビビッドに聞こえてくる分、アダージョのワグナーチューバのロングトーンを含め、やっぱり神々しさは期待したものでは無かったなあ。
それでも、終楽章に至るまで全く衰えないパワーで、心地よい高揚感と虚脱感を味わえたから、いい気分で帰途についたんだけどね。
そろそろ、いろんな人にブルックナー振ってもらってもいいんじゃないかなあ。
それも楽しみだもんね。
ただ、それだけのはなし。