マエストロの、最後のコンサート ミッキーと和慶さん ― 2025年01月24日
この間、「巨匠たちのラストコンサート」っていう新書を読んだんだよね。巨匠と書いてマエストロって読ませるんだけど。
中川右介っていう、元(?)クラシックジャーナルの編集長の方が書いているのだけれど、クラシックの指揮者や演奏家の、最後のコンサートと晩年のエピソードを集めたものでね、面白く読んだのだけれど。
バンドとかアイドルとかだと、解散コンサートとか卒業公演とかあって、これが最期だ感が(幸運にもチケットを取れた人には)味わえると思うのだけれど、クラシックの演奏家は、生涯現役っていう方が多いから、最後のコンサートって、「結果的に」最後になってしまった、っていうことが多いんだよね。
この本の著者の中川さんは、本人が言うようにカラヤン信者の方で、この本に出てくる演奏家や指揮者も、カラヤンと何らかのつながりや因縁が会った人が多いのだけれど。
僕も、クラシックのコンサートに通って四半世紀になるくらいのリスナーだから、その間に最後のコンサートを迎えた方も多数いらっしゃると思うのだけれど、後から振り返ってもその方の「最後の」コンサートにはであったことがないんだよね(定年退職をする楽団員は別にしてね)。
僕がクラシック音楽のコンサートに通うきっかけとなった朝比奈さん(当時92歳だったのかな)は、2021年の名古屋でのコンサートが最後になってしまったので、僕は大阪でお留守番をしていて聴けなかったんだよね。
僕が昔から名前を良く知っている指揮者に、秋山和慶さんがいてね。高校の音楽の先生が桐朋学園で、秋山和慶さんの後輩だったか教えてもらっていたかで、良く名前が出てきていたから、僕も高校生の頃から「わけいさん」の名前は知っていたんだ。
実際に聴いたのは、たぶんそんなに回数はないのだと思うのだけれど、大フィルを指揮した定期。トゥランガリア交響曲、ベルシャザールの饗宴とか、和慶さんの指揮でしか聴いたことのない、珍しくてムツカシそうな曲を聴かせてくれる指揮者だったんだよね。しかもその難しいであろう曲を、なんかやさしく包み込んでしまうような上品さもあるんだよね。(写真とか事後の刷り込み、かも知れないけれど)
その秋山さんが、今年の元日に怪我をされて、その影響で急遽指揮の活動を引退されたんだ。この3月にまた大フィルさんを振る筈で、それを楽しみしていたのだけれど、その前に結果的に大晦日の年越しライブが最後になってしまったんだね。
この怪我と引退には何にも関係ないのだけれど、和慶さんのCDがセールで割引されていたので、大量に買ったんだよね、去年の年末かな。ベートーヴェン、ブラームスの全集に、チャイコフスキー後期、ハイドンとモーツァルトの交響曲集。少しだけアップグレードしたPCのオーディオで少しずつ聴いているのだけど。なんかいいんだよね。あったかくって。今はハイドンの48番がかかっているのだけれど。
僕もむかしは聴いた演奏会を何らかの記録に残していたのだけれど、もうかなりの期間それをさぼっていて。だから和慶さんの演奏を、いつ、どんな曲で聴いて、どんな印象を持ったかってたぐることが出来ないんだ。ちょっと悔しいね。
僕にとっての和慶さんの最後のコンサートは、2020年2月の大フィルさん定期で
チャイコの1番を聴いたとき、かな。
もう一人、去年いっぱいで指揮者を引退した人がいてね。井上道義さんっていう方なのだけれど。本人がミッキーって呼んで、というので、ミッキーっていうけれど。
ミッキーは、朝比奈さん時代から大フィルさんになんかのポジションがあったのかな。定期には良く登場していたんだよね。人気の指揮者だから、いろいろなところで聴いたけれど。岩城さんが亡くなったあとのオーケストラアンサンブル金沢の指揮者もしていたよね。
大フィルさんとは、オオウエエイジの後に、音楽監督ではなく首席指揮者を3年間ほどしてくれて。ひねくれた選曲が好きだったなあ。
そのミッキーは、2024年の年末で引退、というのをたぶん一年前くらいに宣言して。その後怒濤のカウントダウンコンサートと銘打った演奏会を、たぶん大阪だけではなく日本各地で行ったんだろうね。
僕は、大フィルさんのミッキー最後の定期でショスタコ13番と、それからシンフォニーホールのブルックナー7番を去年、聴いたよ。
ブルックナーはね、モーツァルトの交響曲が前半にあったのだけれど、その1楽章が終わった後に、やおらミッキーがマイクを持って振り向いて「昨日の結石の影響で、2曲を振り切る体力がない。だからブルックナーに集中させてほしい。みんなブルックナー聴きにきたんでしょ」って。
ブルックナーはそんな体調不良を感じさせない演奏と拍手を受ける千両役者振りで大満足の演奏会だったけれど、ちょっと痛々しくって、それ以降のカウントダウンコンサートには行ってないんだよね。
ミッキーのライフワークであるショスタコと、僕のフェイバリットであるブルックナーを聴いたので、思い残すことはなく、「僕にとってのラストコンサート」を堪能した、っていうのが大きいのだけれどもね。
しかし、ブルックナーの演奏会、なんで文章として記録に残していないんだろう。。不覚。
朝比奈さんが90歳を超えてから、指揮するコンサートが軒並みプラチナチケットになって。その時に息子の千足さんが、「みんなは演奏を聴きにきてるわけじゃなくって、親父の「最後のコンサート」になるかも知れないっていう期待で集まっているだけだ」みたいなことをいってた、って何かで読んだけど。
最後になってほしい、っていう期待なのか、最後に近いから聴き逃したくない、って思ったのかよく分からないけれど、僕も朝比奈さんの(結果として)最後の2年間で、19回の演奏を聴くことができたよ。
札幌や東京にも行って聴いたのに、名古屋にはなんで行かなかったんだ、っていう思いも少しあるけどね。なんでっていっても、その後に大阪で同じプログラムを演奏してくれる筈だったからなのだけれどもね。
なので、僕にとっての朝比奈さんの最後のコンサートは、2001年9月24日シンフォニーホールでのブルックナー9番になったんだね。
この演奏会は、幸いCDとしても発売されていて、統率力には翳りが見られるが、贅肉をそぎ落とした、音の向こうにスコアが見えるような、そんな白鳥の歌。っていう評価があった、ような気がするんだよね。聴いた演奏がCDになっているって、なんか嬉しいし、他の録音とはひと味違って聴こえるんだよね。
僕はこれからも音楽会に出かけていくし、結果的に最後の演奏会にもであうのだろうけれど。でも、音楽は一期一会だからね。常にこの一回、の気持ちで大切に聴いていきたいなあ。
ただ、それだけのはなし。
尾高さんの、ブル8 in 2024 ― 2024年12月23日
だから、いろんなオケでブルックナーの演奏を聴く機会があって、嬉しいのだけれど。
その中で、僕としては今年の白眉の演奏会があったんだよね。
尾高忠明指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団 ブルックナー8番 @ザ・シンフォニーホール。
大フィルさんは、その設立から50年以上にわたって、朝比奈隆っていう一人の指揮者がずっと音楽監督を務めていて。50年以上って、第二次世界大戦中満州のオケを振っていた朝比奈さんが帰ってきてオーケストラをつくって以来、っていうことだから、まあ、日本人が奏でる戦後クラシック音楽の歴史そのもの、っていうことになるよね。
その朝比奈さん、っていう指揮者は、特に晩年は、ブルックナーの交響曲の演奏にとても人気があって。それって、日本になじみの薄かったブルックナーを根気よく取り上げて、オケも、お客さんも育てていった結果なんだよね。
そういうわけで、大フィルのブルックナーときたら朝比奈さんが振らないといけない、ということになっていたようで。特に一番の大曲、8番は、朝比奈さんの没後も時の音楽監督しか振ったことがない、という事みたい、なんだよね。
確か、朝比奈さんの最晩年、パーヴォ・ヤルヴィが定期でブルックナーの4番を振ったときに、定期で朝比奈さん以外が振ったのははじめて、とかいわれていたような。(下野竜也さんは定期じゃなかったっけ?)
まあ、そういうのはどうでもいいのだけれど、数あるブルックナーの交響曲の中で、一番長くって、完成している最後の交響曲で。ブルックナーが生涯追い求めていた(だろう)「神の創った世界を音楽で再現する」ことに一番近づいた作品、だと思うんだよね、第8番って。
ベートーヴェンが、第九で「人類の到達点」としての作品を実現して、そのつぎはないままに神に召された、って僕は思っていてね。「まあ、人間としてはこの位にしておこうか」って。その後、「交響曲9曲創ると神に召される」って言う9番ののろいの都市伝説があったみたいなんだけど。
ブルックナーの場合は、第8番でその域に到達して、第9番の作曲途中に「まあ、この位にしておこうか」って神様に召された、という意味では、ベートーヴェンよりも一楽章分だけ偉大な作曲家、だと思ってるんだよね、ぼくは。あくまで個人の感想なのだけれど。
というわけで、朝比奈さんが亡くなって四半世紀になろうとしているけれど、まだまだブルックナーを得意とするといわれている大フィルさんの、8番。楽しみだなあ。
指揮者の尾高さんは、あんまりブルックナー(だけ)を得意としている、という印象はないのだけれど、大フィルさんを指揮して、コツコツとブルックナーの録音を発表して。3番から9番のCDを発売済で、この前0,1,2番の演奏会をしたから、ブルックナーは二巡目になるんだね。大フィルで二度目の8番、どうなるんだろう。
僕が取った席は、この前の0,1,2番とほぼ同じ、オオウエエイジの時代の定期演奏会を聴いていた席に近い、一階席通路直後の右側、10列目くらいなのかな。このごろは、フェスの定期は15列目で、PACは二階席だから、もう少し後ろの席で聴くことが多いのだけれどもね。
演奏はね。
その、いつもの席より前めだからなのか、響きに満たされるシンフォニーホールだからなのか。
よくきこえるんだよね。
この前の第1番のときにも書いたけど、それぞれのパートをしっかり鳴らしているから、どのパートがどんな音を出しているのか、っていう音の解像度がとても良くて。
僕がはじめてブルックナーの8番を生で聴いたのは、朝比奈さんの昔のフェスでの定期演奏会だったと思うけど。その時はブルックナーを知ってすぐで、今に比べたら聞き込んでもいなかったから、「曲があまりにも巨大で、取り付く島がない」って感じたんだよね。その敗北感というかもったいなさというか、今でも良く覚えているけれど。
今回は、それよりはもう少し曲のことが分かっていて。だから、いつもは意識しない楽器のフレーズとかがよく聞こえててくるのだけれど。
よく聞こえてくるのだけれど、なんか、それが一つの音にならないんだよね。
一つ一つの音はとてもよく聞こえてくるのに、それがまとまった音楽として聴こえてこない、って言う感じかな。何度もくり返すけど。
その上で、一つ一つの音量が大きくて、一楽章からトロンボンはがなっているように聞こえるし、ラッパに至ってはその音量についてこれないし。
なんかちょっと、too muchなんだよね。
広いフェスティバルホールで鍛えられた大フィルさんだから、シンフォニーホールでは収まりきらない音を出しているのか、いつもより近い席で聴いているから反響と生音のバランスが違うからなのか。
全体を見回せる距離から見るといい映画を、最前列でいちいち視線を動かさないと全体が見えない、っていう感じなのかな。
あ、僕は映画館では結構前の方に座るのが好きなんだけどね。
ブルックナーの交響曲には、神々しさを求める聴き方と、もう一つは大編成が奏でる大音量のカタルシスを求める聴き方があって、それはべつに相反するものでは無いのだけれど、今回の尾高さんの8番は、後者に重きを置いているように感じちゃったんだよね。
それはそれで楽しくて、シンフォニーホール特有の、音が天井に吸い込まれるブルックナー休止とか、楽章の終わりの静寂とか愉しんだのだけれど。
生音がビビッドに聞こえてくる分、アダージョのワグナーチューバのロングトーンを含め、やっぱり神々しさは期待したものでは無かったなあ。
それでも、終楽章に至るまで全く衰えないパワーで、心地よい高揚感と虚脱感を味わえたから、いい気分で帰途についたんだけどね。
そろそろ、いろんな人にブルックナー振ってもらってもいいんじゃないかなあ。
それも楽しみだもんね。
ただ、それだけのはなし。
尾高忠明の、ブルックナー1番 ― 2024年11月21日
いやあ、古狸の尾高さんに、すっかりだまされちゃったね。
尾高さんが毎年テーマを決めてシンフォニーホールで開催する特別演奏会。何回かの演奏会で、集中的にある作曲家の作品を取り上げるのだけれど。ベートーヴェンとかブラームスとか、チャイコフスキーやドヴォルザークもやったんだっけ?
僕は、年によっていったり行かなかったり。また、チケットは取っても行けなかったことも結構あって。なかなかにもったいない感じだったのだけれども。
今年は、モーツァルトとブルックナー。シンフォニストの理想を求めて、っていうサブタイトルがついていて、ブルックナーの初期の交響曲と、モーツァルトの後期の交響曲を一曲ずつ、3回のコンサートで演奏する、特別演奏会。
僕は、オオウエエイジの時代に定期演奏会を聴いていた席の近くに陣取って、3回のコンサートを聴いたよ。とはいえ、最初は6月だったかな。東京出張と重なって、東京での後始末を仲間に頼んで、新幹線に飛び乗って、新大阪からタクシーでシンフォニーホールに飛び込んだときには、モーツァルトは終わっていて、ブルックナーの0番にやっと間に合った、って言う感じだったのだけれど。
まあ、過ぎたことはいいや。
0番、2番と聴いてきて、今回は1番。
ブルックナーの初期の交響曲って、あんまり聴く機会がないんだよね。全曲演奏を目指しているオケと指揮者とか、新人に機会を与えてみようか、っていう時くらいしかステージにかからない気がする。(違ったらごめんね)
大フィルの音楽監督になってから、ブルックナーの交響曲を録音してきた尾高さん、この3曲と来年早々の4番で全集になるんだよね。ご苦労様でした。
とはいえ、演奏機会が少ないのはやっぱり人気が、中期後期の交響曲に比べたら劣るからであって。平日夜のコンサートのわりには、ちょっと空席が目立つのはもったいなかったね。
さて、モーツァルト。
って言う事になるのだけれど。
これはもう、ひたすらに心地いい時間で。それが、モーツァルトの心地良さなのか、尾高さんと大フィルさんの心地良さなのか、僕はもう考えるのを放棄するしかないのだけれど。
41番、ジュピターっていう名前のついた、溢れるように曲を作ってきたモーツァルトの、最後の交響曲。だいたいベートーヴェン以降の交響曲は、9番縛りというのが呪いのように存在していて。9曲作ったら神に召されてしまう、っていう都市伝説なのだけれど。41番、っていうことはその前に40曲も作っているわけで。9番縛りなんてモーツァルト(とハイドン)には全く関係ないんだよね。
それだけ、1曲1曲がライトで短い者が多いのだけれど。でも、この41番は演奏時間30分を越える立派な交響曲でね。
その分、その音に浸らせてもらったよ。
そして、ブルックナー。
その前に、今回の演奏会の入場時にもらったチラシには、来年度の定期演奏会のプログラムがついていてね。あ、定期演奏会って、ほぼ毎月、年10回の演奏会で、オーケストラの主要な公演なのだけれど。
まあ、攻めたプログラムであること。
井上さんのときから、ドイツものはイヤや、っていうプログラムを組むことが結構あったのだけれど。来年は振り切ってるね。
まず、ベートーヴェン、ブラームス。ブルックナーやマーラーとかの交響曲がいっさいない。交響曲って、ハイドンとチャイコフスキーがひとつずつくらいなのかな。
尾高さんは、ブルックナー全曲終わったからって、大好きなエルガーばっかりだし、他にはハルサイとかデュトワのダフクロとか、それからモツレクとか。久しぶりの演奏会形式のオペラとか。
なんだ、聴き所満載じゃないか。
個人的にエルガーがあんまり得意じゃないので、ちょっとエルガー克服年度になるのかな。でも、デュトワのダフニスとクロエ、80年代の埼玉の吹奏楽少年としては聴かずに死ねるか系の演奏会になりそうだね。
交響曲は、特別演奏会でベートーヴェンのチクルスやってくれるみたいだし。
というわけで、来年も楽しみだね。
あ、ブルックナー。
休み時間に読んだプログラムに、尾高さんのインタビューが載っていて、そこには、「僕のブルックナーはウィーン仕込みですから、朝比奈さんみたいながなるだけの音楽とは違うんですよ。楽団員にはジェントルに行こうね、っていうんですけど、やっぱり「がーん」ってなっちゃうんですよね。体質ですかね、大フィルの」(意訳)。みたいなことが書いてあって。さぞかし上品なブルックナーを聴かせてくれるのだと思っていたのだけれど。
いやあ、すごいなあ。
1番って、こんな曲だったっけ。
隙あればバリバリならすトロンボン。楽章の終わりの音が切れるときに、ふわっ、ではなくざらっと粒子が残る生々しさ。
これは、ジェントルに行こう、っていって出来る音楽じゃないよ。
楽しー。
ブルックナーの交響曲は、トロンボン優性の演奏とホルン優性の演奏に分かれる、っていうのを読んだことがあって。まあ、それぞれ活躍の場があるからどっちか黙っとけ、というわけではないのだろうけれど、トゥッティのバランスのときにどちらに耳がいくか、っていうことなのだと思うのだけれど。
でも、今日の1番は、曲としてトロンボンが優性な曲、にきこえたんだよね。大優性。
それを気持ちよさそうにバリバリするトロンボン。いいなあ。
それが尾高さんの棒なのか、大フィルさんが「ドン」とやったのかわからないけれど、終楽章の最後の方、結構アンサンブルが乱れて。トゥッティの出が揃わないところがいくつかあって。
最後の、コーダ。
あれ、トロンボン、なんかやらかした?
ちょっと早く出ちゃったヒトがいたかな。
まあ、それも盛り上がりの一環、っていうくらいに大盛り上がりで怒濤のブラーボーコールだったね。
拍手を受けているときにトロンボンの3人を見ていると、トップの福田さんが自分を指さして「私、私」みたいな感じで笑っているやら謝っているやら、だったけど。
でも、1番って退屈なのか、と思っていたんだけど、認識あらためます。面白い曲。面白い演奏だったな。
尾高さんのインタビュー、結構前から考えていた韜晦というか、しゃれだったのかな。食えないオッサンや。
大好き。
ただ、それだけのはなし。
PAC154回定期と大フィルさん ― 2024年10月24日
大フィルさんは、二日ある演奏会の二日目で、だいたいは土曜日に行くことが多くって、PACは、三日間の公演のうち、一日目、金曜日のチケットだから、金曜にPACを聴いて、土曜に大フィルさんを聴く、なんてことも起こるのだけれど。
今月が、まさにそれだったんだよね。金曜に西宮でPACを聴いて、土曜はフェスティバルホールで大フィルさん。まあ、自分で望んだことだから、嬉しいのだけれど。
今月のPACは、下野竜也さんの指揮で、ドヴォコンと、伊福部昭のシンフォニア・タブカーラっていう、これは交響曲なのかな。そういう取り合わせ。ドヴォコン、っていうのは、ドヴォルザークのチェロ協奏曲のことなんだけどね。
ドヴォルザークっていう、チェコの作曲家と、伊福部昭っていう、日本の作曲家。もう一つ、5分くらいの小品だけれど、ショスタコーヴィッチっていうロシアの作曲家のプログラムも入れて、クラシックの王道であるドイツ語圏ではない、オリエンタルな作曲家のプログラムだったんだよね。
プログラムの曲もう紹介には、「懐かしい」メロディや響き、っていう言葉がたくさん使われていて。確かに稀代のメロディーメーカーで、親しみやすい曲が多いドヴォルザークの曲は、懐かしい感じがするよね。ゴジラの音楽を創った伊福部昭も、日本っぽい、それも戦後の(白黒映画ゴジラの時代の)日本を思い起こさせる、それが懐かしさ。
懐かしさ、っていうとなんか口語っぽいから、ちょっとかっこよく郷愁に満ちた、とか行ってみたいのだけれど。郷愁のしゅうは、秋っていう意味を含むのかな、ようやく秋らしくなってきたところだし、と思ったのだけれど、別にそういう意味はないみたいだね。まあいいや。
というわけで、PACの演奏会。下野さんは大フィルでも良く指揮をしている方で、NHKのドラマの音楽とかも良く指揮してるよね。広島のオケでブル8聴いたな。在阪の僕らにとっては、朝比奈隆の弟子、という印象が強いのだけれど。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、マリオ・ブルネロっていう方がソリストでね。客席が5階まである、縦にでっかいホールの、僕は2階席で聴いていたのだけれど。そこから聴くと、チェロ一本でホールを揺るがす、音量系のチェリストではなくってね、でもあったかい音で、オケの間からもきちんと聞こえてくる。ドヴォコン、生で聴くのははじめてか、かなり久しぶりだと思うけれど、ドヴォルザークの曲は、やっぱりやさしくて、どっかで聞いたことあるようなちょっとセピア色の懐かしさがあって。いいなあ。
アンコールは、チェロのソロで、ナレク・グレゴリオスのハヴン ハヴンっていう曲だったのだけれど。ピチカートのボン、ボン、っていう音を通奏低音に、ゆったりとした、これもまた懐かしいメロディを歌いあげる曲。なんかしんみりしちゃうよね。
ショスタコは弦楽四重奏のための2つの小品、からの一曲。弦楽アンサンブルの、きれいな曲。ショスタコーヴィッチって、交響曲5番革命とか、7番レニングラードとか、ロシアの政情に迫害されたりプロパガンダとして使われたり、あんまりしあわせな作曲家人生ではない印象があるヒトなんだけれど、その作風は、縦のりで、あんまり聴いてて嬉しくない曲が多いんだよね。表面的には戦争賛美の行進曲風に書かないと身が危ない、という事なのかもしれないけれど。
それでも、この曲はすごくきれいで聴きやすかったな。下野さんがなんて美しい曲なんだ、って思ったみたいなことをプログラムに書いていたけれど、さもありなん、って言う感じ。ちなみに僕のなんてきれいな曲なんだ、は、ラヴェルの「亡き女王のためのパヴァーヌ」かな。
そして、伊福部昭、シンフォニア・タブカーラ。
1955年の初演、という事だから、ちょうどゴジラと同時期に作曲されたようなのだけれど。その頃の日本の音楽シーンは、ヨーロッパのクラシック音楽が入ってきて、この曲は時代遅れといわれた、みたいなことが書いてあったのだけれど。
聞く前は分からなかったんだよね。この曲、あるいは伊福部の音楽と、西洋のクラシック音楽がどうちがうのか、って。
だけれども。
曲が始まったらすぐに分かったよ。
これって、吹奏楽。
今はどうか知らないけれど、吹奏楽コンクールの課題曲4曲のうち、1曲必ず入っている邦人現代曲。いわゆる吹奏楽オリジナルの曲にありがちな曲。
もちろん、1955年だから、伊福部さんの方が圧倒的に古くって、つまりこれがその後の日本の吹奏楽オリジナル曲の原型になったのだろうけれど。大阪でオケの曲も吹奏楽も作曲した大栗さんとどんな時間関係なんだろう?
何がどう、っていわれるとよく分からないのだけれどもね、西洋のクラシックではなくて吹奏楽オリジナルっぽい、っていうのが。
リズムとか、ユニゾンが多いとか、管楽器の効果音的な使い方とか、そういうこと、なのかな。sfzの音型なんかは、さすがになかったけれど。
でも、何より、なんか、みんなが一生懸命、音を張り上げて張り切ってる感じがするんだよね。そこが一番、吹奏楽っぽい
そして、みんなががんばる演奏が、PACのスタイルにものすごく合ってるんだよね。30数年前に吹奏楽小僧だった身としては、別の意味で、懐かしい曲と演奏で、ものすごく楽しかったな。
つぎの日は、大フィルさん。
大フィルさんのプログラムも、ドヴォルザークなんだよね。交響曲第7番。なんかの記念年なのかな? まあ、嬉しいことだけれど。
前半のモーツァルトのピアノ協奏曲、ピアニストが変更になったんだね。プログラムの印刷が間に合うくらいだから、直前にって訳ではなさそうだから良かったけれど。
田部京子さんっていうピアニスト、やわらかい音で、パラパラではないけれど歯切れのいい演奏で、僕は好きだなあ。
後半のドヴォルザーク 交響曲第7番。
ドヴォルザークの交響曲は、第9番「新世界から」がとても有名で、これは老若男女いくつかのメロディは誰でも知っている、ベートーヴェンの第九に匹敵するくらい有名なのだけれど、その次に有名であろう8番は、クラシック大分好きな人じゃないと知らない、くらいの知名度、なのかな。7番は、クラシックのCD2000枚くらい持っている僕でも2枚だけ(ちなみに9番は16種類、8番は7種類だった)くらい、有名ではない曲なんだよね。
なのだけれど、別に有名な曲でなくてはダメなのか、というと、そうでもなくって。生でじっくり聴くこの曲、いいよ。
今回の指揮者は、バーティー・ペイジェントっていうイギリス人なのだけれど、1995年生まれっていうから、まだ30歳前なんだよね。そうそうたるオケを振っていて、ドヴォルザークを湿っぽくならない懐かしさで振り抜ける。これからが楽しみな指揮者だな。クラウス・マケラトライバル関係になるかな。楽しみ。
そうそう、先月の大フィルさんは、尾高さんのベートーヴェン ミサ・ソレニムスだったんだよね。
荘厳ミサ、ってかつていわれていた、2時間弱の合唱とソリスト付きの大宗教音楽。
ちょっと前に、日経の私の履歴書でリッカルド・ムーティが「私はミサ・ソレニムスを触れるようになるまでつい最近までかかった。若手がホイホイ振れるような曲じゃないんだぞ」って書いているのを読んで、どんな取っつきにくい曲なんだ、と思ったのだけれど、何でもこなす尾高さんの指揮で聴くと、どんな曲でもみっちりしてあったかい、その響きの中で気持ちよくなっちゃうんだよね。
ミサ・ソレニムス(正当なるミサ曲)の歌詞は決まったものがある様で、そのためか分からないけれど、字幕がなかったんだよね。ストーリーがあるものでは無い、というのは分かるけれど、出来ればあった方が宗教曲の意味付けも含め、分かりやすいかな、と思ったんだよね。
ただ、それだけのはなし。
ミッキーの、最後の定期 狂乱のショスタコ13 ― 2024年02月16日
小澤征爾が、なくなったね、
まずは、合掌。
僕は、小澤征爾を生で聴いたことが、結局ないんだよね。
高校の頃、カラヤンの来日公演をがんばって公衆電話からチケット取ろうとして。ようやくつながったのだけれど、10円玉がなくなってとれなかった公演が、結局カラヤンが体調不良かなにかで、小澤征爾が代役で指揮した事があって。それが一番近いニアミスかな。
大学の頃、後輩が入っていたジュニアフィルの欧州遠征かなにかで、小澤に振ってもらった、っていう話をしてたっけな。
それくらい、もう30年以上前から、小澤は誰もが知っているスーパーヒーローだったのだけれども。僕にはあまり近くなかった存在だったかな。
このごろは、小澤フェスで振ったとか振らないとか、聴けるのか聴けないのか分からない日々が続いていたけれど。
それにしても。
小澤征爾の訃報を伝えるニュースの多いこと。凄い存在だったんだね。
小澤征爾もそうだけれど、オーケストラの指揮者って、年齢を重ねてもできる職業だよね。あるいは、年齢を重ねてからの方が評価が高くなって、なかなか辞め時が見つからない職業でもあるよね。
朝比奈のじいさんも、93歳でまだまだ演奏予定があって、自分が振る予定だった演奏会の最中に、天に召されたしね。
そういう、辞め時の難しい職業である指揮者を、「来年いっぱいで辞めます」って宣言した人がいるんだよ。
人気の指揮者だからね、必然的に、「カウントダウン」とか、「最後の定期演奏会」とか、そういう演奏会が続くのだけど。
そういうキャリアの終わり方って、いいよね。
せっかく取ったチケットが、体調不良で中止になったり、生前最後の演奏会になるか、って不純な動機でチケットが取り辛くなったりするより、よっぽど建設的。
あ、それって、井上道義、ミッキーのことなんだよね。
ミッキーは、朝比奈さんの時代から大フィルさんの重要な客演指揮者の一人だったし、オオウエエイジの後を受ける形で数年間、首席指揮者もしてくれたし、アンサンブル金沢を率いて大阪に来てくれてもいる、生で聴く機会の凄く多い指揮者なのだけれども。
今年、2024年末で、指揮者を引退するんだって。
今回は、大フィルさんの最後の定期演奏会。シンフォニーホールでの「カウントダウン」コンサートはまだまだいっぱいあるのだけれど、でもひとつの区切りのコンサート、なんだよね。
プログラムは、ミッキーの区切りのコンサートと言えば、他に考えられない、ショスタコーヴィッチプログラム。
ショスタコーヴィッチは、ソ連時代の作曲家でね。中高生には、吹奏楽でも良く演奏される交響曲第5番「革命」で有名なのだけれど。
なかなかその音楽は、実直というか垢抜けないというか。縦のりの農耕民族の音楽なんだよね。
4番とか7番「レニングラード」とか。そういう大曲でも、鍬で地面を耕すようなリズム感が、ちょっと苦手なのだけれど。
でも、ミッキーのライフワークだからね。聴き届けようっと。
とはいえ、最初の曲は、シュトラウスのポルカ。
ウィーンフィルのニューイヤーコンサート以外では、あんまりポルカとかワルツとかに接する機会がないのだけれど、首席指揮者時代に頑なにドイツ語圏以外の音楽を取りあえげたミッキーらしいな。
この曲は、カッコーのさえずりを笛で、いろんなプレイヤーが吹くんだよね。曲の合間に、調子外れだったり、照れくさそうだったりする弦楽器や管楽器奏者の笛の音が挿入されて。
あれ、いつもは一部には出てこないホルンの高橋さんや、トロンボーンの福田さんがティンパニの並びにいる、と思ったら、こちら笛要員でしたね。珍しい姿を堪能しました。
続くショスタコは、映画音楽。
これはもう、トロンボーンの福田さんのスタンディングソロ。座っているときには背筋をピンと張って、ベルの位置をほとんど動かさずに吹く福田さんだけれども、くねくね系のミッキーに合わせたのか、身体を揺らしながらのソロ。これもまた良きかな。
映画音楽の組曲だけあって、いろんな場面の組み合わせが楽しかった。
休憩はさんで、同じくショスタコの13番。
バスのソリストと、海外から招聘した男声合唱。
唄の内容は、スターリン時代のナチスに迫害されたユダヤ人とソビエトへの反体制と。
「革命」とか「レニングラード」とか呼ばれる曲を作り、ソビエトへの批判とおもねりと身の危険と。そういう中で曲を作ってきたショスタコーヴィッチだと思うと、聞いているだけでもはらはらしてしまう内容なのだけれど。
曲はね、ショスタコの縦のり農耕民族っぽさは全く気にならず、男声合唱、それもヨーロッパの、プロの男声合唱の迫力と、バスのこれまた迫力に気圧されて。
ミッキー、最後にすごいもん持ってきたな。
って言う演奏だったよ。
もちろん、お客さんは、これがミッキー最後の定期演奏会だ、って百も承知で。
そしてなにより、曲と演奏が凄くって。
だから、
必然的に拍手の嵐なのだけれど。
その拍手を、堂々と、無駄な謙遜もせず、全霊で受ける井上道義。
歌手を、楽団員を、合唱団をたたえながら、今日の拍手は俺のモノだ、って全身で受けるその姿。
特大の花束をもらって、堂々と掲げて、最後にはばらばらにして全てを客席に投げ入れてしまうその姿。
千両役者やのう。
長身で、手足も長いから、腕を拡げたり投げキッスをしたりするその姿がいちいち様になるのだけれど。
そうではなく、正当な評価としての拍手を正当に喜びながら全身で受ける。それだけの演奏をしたんだ、という満足をみんなに伝えながら、拍手を会場の喜びにしていく。
やっぱり凄いな、ミッキー。
つぎは、カウントダウンのブルックナー、楽しみにしているよ。
ただ、それだけのはなし。
大フィル 大575回定期
井上道義
バス:アレクセイ・ティホミーロフ
合唱:オルフェイ・ドレンがー
J.シュトラウスⅡ世/ポルカ「クラップフェンの森で」
ショスタコーヴィチ/ステージ・オーケストラのための組曲(ジャズ組曲第2番)〔抜粋〕
ショスタコーヴィチ/交響曲 第13番 変ロ短調 作品113「バビ・ヤール」
2024年2月10日
@フェスティバルホール