ムーティ・シカゴ響のブラームス2019年02月05日

 さて。

 どっちの話から始めるべきなのかな。

 

 昨日、僕は多分天国って言うのはこういうことが永遠に続くところなのかな、というすごい体験をしてきた、と思うのだけれども。

 

 それは、ムーティ・シカゴ響の来日公演で、プログラムは、ブラームスの交響曲、1番と2番。

 

 ムーティって、リッカルド・ムーティって言うんだけれど。僕がクラシックも面白いんじゃないか、って気が付き始めた高校時代に、飛ぶ鳥を落とす勢いで現れた若い指揮者だったんだよね。まあ、その時点で結構なキャリアはいま考えるとあったのだけれども。

 若い(といっても40歳くらいなのかな、当時。)イタリア人の、歯切れの良いリズム感を、煌びやかな管楽器の響きを持つフィラデルフィアのオーケストラが形にしていく。

 ハルサイとか、ローマ三部作とか。ボレロとか。

 威勢の良さと官能的なソロと。

 カラヤンでもバーンスタインでもない、ぼくらの時代のヒーロー、って当時認識していたかどうかは分からないんだけどね。

 お小遣いを貯めてやっと買っていた当時集めたLPレコードの中では、ムーティのレコードが圧倒的に多いんだよね。

 

 そういうムーティが、いろんなキャリアを経て、巨匠と呼ばれる年齢にいつの間にかなっていて。

 そして、シカゴ交響楽団の常任指揮者になったのは4、5年前だったのかな。


 管楽器、特に金管楽器を情熱的にならすムーティと、世界最高の金管セクションを持つシカゴ響だから、相性はとてもいいと思うのだけれども。ショルティ時代の重厚さと、イタリア人ムーティの軽やかさ、どういうことになるんだろう、ってたまに出るディスクを楽しみにしているんだけれども。

 

 僕は幸運にも、数年前にシカゴで聴く機会があったのだよね。その時には、ポリーニのピアノの凄さに圧倒されて、メインのプログラムをあんまり憶えていないのだけれども。

 

 という訳で、今回の来日公演。

 このごろ外タレオケが素通りすることが多い大阪にも来てくれて。

 そして、そのプログラムが、ブラームスの1番2番。

 

 

 ブラームスってね。

 何度か書いているけれど、箱庭的な小ささと思ってしまう演奏が多くって。ものすごく好き、とはいいがたい作曲家なんだよね。

 いつぞやウィーンで聴いた、シャイー/ゲヴァントハウスの4番はものすごく凄くって。ヘンな表現だけど、そうとしか言いようのない演奏で。そこから少し見直したのだけれども。

 

 という訳で、ムーティのブラームス。

 

 シカゴ響って言うくらいだから、演奏者はアメリカ人が多い=身体が大きい人が多いからなのか、人数が多いのか。でっかいフェスティバルホールのステージは、なんだか黒山の人だかり。

 コンマスを含めて、結構アジア人がいるけれど、中国人が多いのかな?

 

 そんなことはどうでも良くって。

 白髪交じりだけども、溌剌としたムーティが出てきて。

 指揮台に乗って。

 入場の拍手の名残を手で制して。

 

 ブラームスの1番が始まった。

 

 交響曲って言うフォーマットは、ハイドンやモーツァルトの時代に出来上がったのだと思うけれど、その頃はまだ、起承転結のある小品、って言う感じだったのかな。

 その、起承転結の交響曲って言うフォーマットには、世界がまるごと入るんだ、って言うことを発見したのがベートーヴェン。彼はその世界が入る袋を、人間の感情で満たそうとしたんだよね。そして、命を削って、9曲目に「歓喜の唄」って言う感情の爆発を描いて、世界を入れられる交響曲の形を完成し、人間の創造性の頂に立ったんだ。

 ブラームスは、時代的にどうしてもベートーヴェンの成し遂げたことを出発点にしなければいけなくて。だから交響曲に踏み出すのに凄く時間を要したんだ。かなり遅いデビュー曲としての第1番が、ベートーヴェンの10番、といわれたのは、ブラームスにとっては最高の褒め言葉、だったのだろうね。

 僕にとってのブラームスは、さっきもいったけれど。

 世界を入れられる器の中に、精緻に丁寧にジオラマのような、精巧な世界を組み立てた結果、ディスプレイの四角い枠が見えてしまっている気がするんだよね。

 山の息吹も、ヒトの生活も、ディスプレイの箱のガラスを通してぼんやり伝わってくる。それが、僕にとっての、ブラームス。

 の、大抵の演奏、って言うことなんだけどね。

 

 僕が最初に生で聴いたブラームスは、朝比奈さんの1番で、その時にはそんなこと考えなかったから、そういう演奏ではなかったのか、耳がそこまで育っていなかったのか、よく分からないけれど。

 いつしか、ブラームス=箱庭って思うようになって。そして、シャイーの演奏にであうまでずっとそう思っていたんだよね。

 

 前置きが長くなったけれど。

 

 という訳で、ムーティの1番。

 ちょっとね。取りきれない疲れと、演奏前に飲んだハッピーアワーの大きなハイボールのおかげで。それから、あまりの気持ちよさのおかげで。所々うとうとしながらの1番だったのだけれども。

 それでも、少し分かってきたんだよ。

 ブラームス=箱庭説の打開方法が。

 

 ムーティの、というより、シカゴ響の演奏は、生々しいんだよね。ごつごつしている。

 それは、たとえば弦楽器のトゥッティ、というか弦楽器はたいがいトゥッティなんだけど、それがあったときに、耳を澄ませば一人一人の音が聴き分けられるんじゃないか、って言うくらいの、生々しさ。

 それが弦だけじゃなくって管楽器もそうだもんだから、なんか小さいジオラマを見ているのではなくって、等身大のジオラマの世界に迷い込んだような。結果として、箱の枠なんて全然気にならない、これが世界だ、って言う臨場感があるんだよね。

 それにしても、長い曲だね。1番だけで、たっぷり1時間。そんなに遅い演奏だって思わなかったんだけどね。

 でも、ブラームスの秘密を一つ暴いたようで、ちょっと嬉しい。

 

 休憩時間に、コーヒーを飲んでしゃきっとして、後半の2番、

 ブラームスだと、有名処は1番と4番だから、チクルスならともかく、外タレの来日公演なら1、4番が聴きたかったなあ、と少し思わないこともなかったのだけれど。

 でも。

 2番って、凄い曲だね。

 

 珈琲で少し気合いが入ったのか。

 姿勢を正して聴いた2番なんだけど。

 

 なにこれ。

 

 さっきの音と全然違う。

 一人一人が聴き分けられる程主張の強い音が、今度はすっかり響きの中に溶けあって。一枚一枚の葉っぱが見分けられる森から、ずっと高く上がって緑がうねる山の襞が目の前に現れて。

 それは、弦楽器だけじゃなくって管楽器でも同じで。2楽章なのかな。木管が2本ずつくらいで、いろんな組み合わせでメロディーを受け渡していくところがあるんだけれど。もう、なんの音が鳴っているのか分からないくらい溶け込んだ、1本でもフェスティバルホールを満たせる音たちが、響きを、世界を作っていく。

 弦楽器がうねれば、大地に起伏が出来て山や谷になり、管楽器が鳴れば、動物や天気や感情が生まれる。

 

 なんだこれ。

 なんだこの曲。

 

 何で2番って、いままであんまり気にしなかったんだろう。

 

 そして、フィナーレは。

 イタリア人指揮者のムーティのために作られたような歯切れのいいリズム。

 シカゴ響のために作られたような、全ての管楽器に見どころがあって。

 特に、バストロンボーン、テナートロンボーン、アルトトロンボーンに受け渡す、ベルトーンならぬベルフレーズ。楽器の大きさが違うのに、音色が全部一緒。響きのテンションも一緒の名人芸。

 ホルンが鳴ればいつでもどこでも方向を見失って迷子になるほどホールが響き渡って。なんというか、ここは竜宮城なのかな? 僕は生きて現実に戻れるのだろうか。いや、戻りたくないけど。

 

 なんて思いながら、なんか知らないけど、涙が出てた。

 

 アンコールは、むかしはヴェルディの運命の力序曲を良くやっていたけれど、本編にも登場しないハープを持ち込んで、ジョルダーノ作曲フェードラより、第2幕の間奏曲。

 Small piece of Italian Opera。といって紹介したあとに、誰か知ってる?ってしきりに気にしていたから、そんなに有名な曲じゃないのかな。きれいな曲だったけれど。

 

 いやあ。

 ムーティすげえ。

 シカゴ響すげえ。

 

 大フィルさん9.5回分のチケットだったけど、ホントに、すげえ。

 

 ただ、それだけのはなし。