世界の終わりと、ワンダーランドと、オオウエのブラームス。 ― 2010年07月03日
ブラームス交響曲全曲演奏会 2010/2011 第1回
ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ:ピアノ
大植 英次:指揮
大阪フィルハーモニー交響楽団
夏休みの前の、三週連続大フィルさん。
その二回目は、オオウエエイジのブラームスチクルスの一回目。
おととしだったっけ、ベートーヴェンチクルスをやったのは。そうすると、三大Bの最終回は、再来年くらいの、ブルックナーチクルス、なんだろうか?
それはそれでいいのだけれど、今回のブラームスの一回目、聴いてきたよ。
何度も同じ話をするけれど、ブラームスの音って、他のどの作曲家の音とも違うよね。ひと言でいうと、古くさい音、なのかな。最新録音を聴いても、生で聴いてさえ、SPレコードを聴いているような気分になるんだ。煌びやかなモーツァルトや、感情の起伏の激しいベートーヴェンよりも新しい音楽なんだ、っていわれても、にわかには信じがたいよね。
何でなんだろう。その謎を4回、じっくり聴いて解き明かす、っていうのも、このシリーズの僕の密かな楽しみなんだ。
あ、ちなみにいっておくと、だからブラームスが好きじゃないとか、そういうことでは全然ないんだよ。少なからずお金と時間を費やすのだから、言わずもがな、なのだけれど。
先週の大フィルさんは、若い指揮者と御大、中村紘子の母子対決。若さで大フィルさんを振り回し切った巨人も楽しかったけれど、中村紘子のピアノの、存在感に圧倒されたね。
ピアノだからね、音量なんて人によってそう変わらないのだろうと思うけれど、オケの前奏から音量がスッと下がって入ってきたピアノの強打の、あの存在感。
オケのトゥッティの中にあっても、全然埋没しないで、ピアノの音がくっきり聞こえてくるんだ。
いつも同じ席で聴いている二日目を、日程の都合で一日目に換えてもらって、そのためにいつもよりも4列くらい前の席で聴いたせいかもしれないけれど、なんていうか。
常にオケと同じだけの大きさの音を調節できる、音量じゃなくて存在感としてね、そこらへんの若いピアニストにはまだまだ真似できない名人芸だったよ。
ということで、今週も前半はピアノコンチェルト。ブラームスの1番を、若いおにーちゃんが弾くのだけれど、このピアノは、あるいはこの曲は、オケにピアノが埋没するんだよね。弾いているのは見えるけれど、音が聞こえてこない。
特に最初の部分は、ピアノの音量を抑えた曲だったから、なのかも知れないけれど。そして、定期の席よりひとつ下がったせいなのかも知れないけれど。中村さんとは違うんだ、っていうのが最初の感触で。
ただ、この曲の聴き所は、そんなところではなくってね。
集中力。
こんな真剣勝負の演奏、いつ以来だろう。っていうくらい、聴いているこっちが息をするのを忘れてしまうくらいの緊張感を強いる、オオウエエイジの集中力。
もちろん、音はブラームスの音で。
それは、ホルンしかいない金管楽器が象徴しているように、中音域に厚くて、効果音的な使い方をしないまじめな音の作り方から来るのかも知れないし、でも弦の、一番と二番の両翼になったヴァイオリンの掛け合いだけでもどうしようもなくブラームスだから、もう何でなのか全く分からないのだけれど、その、箱庭的なブラームスの世界を、一分の隙も見せずに構築していくオオウエエイジと、それに溶けあうピアノ。
すごい、演奏だったよ。
いつもはコンチェルトは前座でね。僕のお目当てはいつだって交響曲で。
今日だってそのつもりでいたんだよ。ただ、この演奏を上回れるのか、第一番、ってちょっと不安だったんだけれども。
それは、とても失礼な不安だったんだけれどもね。
ブラームスの1番って、こんなに長い曲だったっけ。
そして、ブラームスの1番って、こんな曲だったっけ。
もう、訳わかんないよ。
つまりね、サウンドはどこまでいても、端正なブラームスのサウンドで。その枠組みを一歩もはみ出すことなく、ブラームスを最大限に尊重した上で、オオウエエイジの音楽なんだよね。
もちろん、構造的に、メロディー的にもベートーヴェンの第九に似ている、っていわれている曲だから、歓喜のフィナーレではあるのだけれど。
それにしたって。
僕の中のブラームスの音って、そういう歓喜を表現するのには朴訥に過ぎる、っていうイメージだったのに。
オオウエエイジのブラームスは、ブラームスのサウンドをきっちりと蹈襲して、なおかつ、今まで聴いたことのない、ブラームスだったよ。
それは、演奏する方にも、そして聴く方にも、真剣勝負のような集中力を要求するものだったけれど。
この演奏を聴きながら、村上春樹の、世界の終わりとハードボイルドワンダーランドを想い出したよ。あのお話を読んだときの衝撃が、今日の演奏と同じだったな、って。
つまり、村上春樹の、ドライだけれどもソフトで、頼りなげな文体。その文体で売っていたムラカミさんが、ハードボイルドっていうタイトルの本を出すってどうだろう、って思いながら読んだのだけれども(ちなみにハードカヴァーの初刷です、読んだのは)。
そしたら、ぶっ飛んだんだよね。確かにハードボイルドなんだけれど、あの文体はそのまんまなんだ。あの文体で、ハードボイルドが書けるんだ、って。
それと同じで。
ブラームスの音で、こんなに喜びに満ちた音楽が作れるんだ、って。
久しぶりに、目頭が熱くなってかゆくなって、困ったよ。
あと三回、楽しみだな。
僕の列、端の方はまだ空いてるみたいだよ。この演奏聴き逃すの、もったいないからみんなおいでよ。
ただ、それだけのはなし。
飛龍伝'03 のおもいで ― 2010年07月14日

なんていえばいいんだろうね。
あの日、僕は確かにココロを鷲掴みにされて振り回されて、それから放り投げられた。
それはそれは大変なショックで。
でも何故か。何でかわからないのだけれども、それは言葉となって降っては来なかったんだよね。いつもなら、帰り道で言葉が塊となって降りかって、僕はそれを交通整理するだけなんだけど。
今となればわかるんだけどね。何で言葉にならなかったのか。
今となれば、わかった上で言葉にできるんだけどね。それだけのテクニックを、僕は身に付けてきたから。
でも、そうはしたくないんだ。あの日のあと、いくつかの大嵐や小嵐が吹き荒れて、その嵐に角を削り取られてしまったあの日の感情を、さも今見てきたように書くことは、したくないんだ。
それは、とても失礼なことだと思うから。
このお芝居を創り上げた人たちに。それから僕の感情に。
だから。
時とともに薄れていく印象と闘いながら、角が取れた感情を元に戻して。
その過程で見え隠れするふさがっていない古傷。その裂け目を直視する勇気をかき集めて。
あの日の雨と、マックのハンバーガーと、緞帳からもれる硝煙の匂いを呼び起こして。
いざ、開幕。
僕は、泣いたよ。
何にもわけわかんなくなって、ただ、泣いた。それは、悲壮な覚悟で運命に飛び込んでいくヒロスエが哀れだったからではなく、無為に死んでいく人々が悲しかったからでもなく、初めて観るプロの芝居の迫力に圧倒されたからでもなく。
いや、そのすべてが入り混じっていたことはいたんだけれども。
どんな話なのか、ちっとも知らなかったからね。
幕が開いていきなり、ヒロスエのfly me to the moon。In other wardsってところを、インアザーワーズって発音する生ヒロスエ。めっちゃかわいい。それに続く殺陣とダンス。
そこまででだまされたんだよね。ああ、お気楽アクション系エンターティメントなんだ、って。
お話は、安保闘争吹き荒れる時代。飛ぶトリを落とす勢いで全学連会長候補になった桂木の情婦になった東大新入生の神林(ヒロスエ)。行きがかり上全学連会長になって。くだらない情夫の姑息なたくらみで、機動隊員の家にスパイとして転がり込んで生活するうちに…
っていう感じなんだけれどもね。
お坊ちゃま気分が抜けない大学生の活動家と、中卒の機動隊員。頭がよくて臆病でずるい桂木に陥れられて、一緒に暮らすことになったのはずっと神林を思っていた機動隊員、山崎(筧)。二人の間には愛情と子供が芽生えて。
一緒に暮らしつつも、今日はまだいるだろうか、明日は出て行ってしまうんじゃないだろうかと安心できない山崎。だんだんと山崎に惹かれつつも、桂木への思いも断ち切れない神林。
子供ができても、作戦のために生んだ子かと悩む山崎。生まれた子供を誰も祝福してくれない作戦と神林の家庭の事情。
どうしようもなく神林に惹かれつつも、作戦のための生活かとやけになる山崎。気持ちは山崎に向いているのに、作戦のためではないと断言できない神林。
後半は、ほとんどヒロスエと筧の二人芝居なんだけれどもね。
自分は中卒。相手は東大。夢想もしなかったところに転がり込んだ恋。抱きしめても愛の言葉をささやいても、子供ができてさえ相手の愛情を信頼できない山崎。それだった問い詰めるか、それとも一気に終わらせるか。それすらできないだめオトコ。
全学連の権力闘争に巻き込まれ、許婚に送り込まれたこの役目。純真朴訥な機動隊員に心は動くが、既に決まった許婚。
子供とともに大きくなる機動隊員の存在。迫る決起。機動隊員の家から、機動隊の配置図を全学連に送るヒロスエ。
多分ヒロスエの根にあるのは山崎への想い。ところが桂木への想いもうそじゃない。
山崎にしてみれば、やっぱりどうにも信じられない。神林が俺を選ぶなんて。どうせ作戦に決まっている。でも作戦で子供まで作るか? いや革命闘士ならやるかもしれない。それでもいいじゃないかたとえ許婚がいたって。はっきりさせたらきっと神林は出て行ってしまう。
何度も何度もおんなじことを書いてるね。ごめんなさい。つまり二人の芝居は堂堂巡り。出口なんかありゃしない。
その堂堂巡りの中でね。機動隊員山崎の一途さとせこさとかっこ悪さと、だめさ加減とね。ヒロスエの覚悟を決めた強さと凛々しさと、でもちょっと残る未練と。
この二つの関係がね、どうしようもなく魅力的で、どうしようもなく身につまされて。
それは、僕の中で美化された、理想の関係。どんな結末になるにせよ、ここを経なかったら何も終われない、そんな関係。
そんな事考えてたらね、涙がぼろぼろ出てきてとまらなくなった。
物語は、この二人の関係は、想像もつかない激しさで終わるのだけれども。
まるで物語のような激しさと、その部分は淡泊なつかの演出と、なによりもう泪は出尽くしてたからね、最後はきちんとお芝居として楽しめました。
カーテンコール。全編ナイロンのつなぎでがんばったヒロスエもドレスを着て。いつまでも続く拍手は、筧が「ここから先は別料金になります」って叫んでもまだ続いて。
会場が明るくなっても、しばらく席を立てなかったよ。
すごいね、芝居って。
ちなみに。
大阪4日間公演の、二日目に僕は見に行ったのだけれども。見に行った次の日に、ヒロスエ妊娠、結婚報道。
僕は一度しか観ていないから、断言は出来ないけれども、舞台上のヒロスエは、少なくとも端から見てるうちでは、身体をかばうためにアクションを加減したりとか、そういうことはいっさい気がつきませんでした。
でも、報道される前に観てよかったな。変な心配と、変な疑い(演出が変わったんじゃないかとかね)を持ってみるのも、いやだしね。
僕はヒロスエのプロの仕事を生で見たからね。結婚しても子供産んでもいいけど、仕事は続けてね。お願い。