手蠟燭の「夢」 ― 2008年04月10日

ひょんな事からね、その存在を知って。手にとってみたんだ。外国人の書いた、日本論。
アレックス・カー著、美しき日本の残像。
「日本は近代化に失敗した国である」っていう主張が、僕の持っているその人に関する情報の全てで。僕はそれには両手を挙げて賛成はできなかったからね、さあ、どんなケチをつけようか、って手ぐすね引いて手にとった部分も少しだけ、あるのだけれどもね。何しろ僕は、辛口批評家だからね。
この本は、このもの頃から日本に惹かれて、日本の田舎に住んでいる、アメリカ人の古美術のアートディーラーが、あるべき日本の素晴らしさと現実の日本のギャップについて書いた本なのだけれど。
日本は間違った近代化によって、その宝物である自然をどんどん捨ててしまっている。京都なんてその最たるもので、自分で自分を嫌っているとしか思えない。自分は四国の祖谷や亀岡に居を構えているが、そこも近年は電線とパチンコ屋に汚染されている。
そんな感じのペシミスティックな日本論なのだけど
その直前に、坂口安吾の「日本文化私観」を読んだおかげで特にね、僕は日本論、日本人論に対して冷めた視線から読み始めたんだ。
あ、坂口安吾の主張はね、少し引用するけれど。
「〜タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、弦に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れないが、日本を見失うはずがない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである」
つまり、ガイジンが何をエラそうな事をいっても、我々は日本人であり、我々が日本らしさそのものである。外から見て日本らしさが喪われつつある、などとは笑止千万。っていう事だと思うのだけれども。
この安吾の主張は僕にはスッと入ってきてね。だからこの、カーの本もそういう目で読み始めたのだけれども。
カーの本はね、古代日本の豊穣な文化と自然賀、どんどん顧みられなくなって破壊されていく様を嘆いている本なのだけれども。そして、それは近代現代だけの話ではなくて、枯山水に自然を封じ込めようとした平安の時代に既にまかれいた種なんだ、って。
僕は自称合理主義者だからね。合理性を求めて物事が変化するのは自然な事で、それを嘆いたり、変化を止めようとするのは不自然というか、本末天童な事だと思っているのだけれども。でも、その一方で、電線とパチンコ屋の支配する現代日本が美しいとも思っていなくって。
そういう、反目と同意が共存しながら読み進めていったんだけどね。こんな文章に出逢って、そんなことどうでも良くなったよ。
手蠟燭の「夢」の現実味。
蠟燭が機種依存文字だっていうから、簡単な方の字を使ったのだけれど、ちょっとニュアンスが伝わらないかな。
70年代の終わりに、亀岡の空き家を買い取って住んでいた著者。窓ガラスも電気もなくて、ローソクと蚊帳で暮らしてた。訪ねてきた友人が、手蠟燭で出迎えた同居人に驚いて帰ってしまったりして。
それは単なるノスタルジィかも知れないけれど、その、手蠟燭に託した夢が、ぎりぎりで真実味(リアリティ)を持った時代。それが70年代から80年代初めまでだったよね、って。
あきらめと肯定とやるせなさと、それでも完全には乗り遅れなかったっていう安心と。そういう思いを全部込めた「手蠟燭の夢」。このきれいな言葉に出逢っただけで、僕にとっては間にあった、って思えたんだよね。
新緑の季節だね。この本が紹介していた魅力的な奈良、行きたくなってきたよ。
ただ、それだけのはなし。
アレックス・カー著、美しき日本の残像。
「日本は近代化に失敗した国である」っていう主張が、僕の持っているその人に関する情報の全てで。僕はそれには両手を挙げて賛成はできなかったからね、さあ、どんなケチをつけようか、って手ぐすね引いて手にとった部分も少しだけ、あるのだけれどもね。何しろ僕は、辛口批評家だからね。
この本は、このもの頃から日本に惹かれて、日本の田舎に住んでいる、アメリカ人の古美術のアートディーラーが、あるべき日本の素晴らしさと現実の日本のギャップについて書いた本なのだけれど。
日本は間違った近代化によって、その宝物である自然をどんどん捨ててしまっている。京都なんてその最たるもので、自分で自分を嫌っているとしか思えない。自分は四国の祖谷や亀岡に居を構えているが、そこも近年は電線とパチンコ屋に汚染されている。
そんな感じのペシミスティックな日本論なのだけど
その直前に、坂口安吾の「日本文化私観」を読んだおかげで特にね、僕は日本論、日本人論に対して冷めた視線から読み始めたんだ。
あ、坂口安吾の主張はね、少し引用するけれど。
「〜タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、弦に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れないが、日本を見失うはずがない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである」
つまり、ガイジンが何をエラそうな事をいっても、我々は日本人であり、我々が日本らしさそのものである。外から見て日本らしさが喪われつつある、などとは笑止千万。っていう事だと思うのだけれども。
この安吾の主張は僕にはスッと入ってきてね。だからこの、カーの本もそういう目で読み始めたのだけれども。
カーの本はね、古代日本の豊穣な文化と自然賀、どんどん顧みられなくなって破壊されていく様を嘆いている本なのだけれども。そして、それは近代現代だけの話ではなくて、枯山水に自然を封じ込めようとした平安の時代に既にまかれいた種なんだ、って。
僕は自称合理主義者だからね。合理性を求めて物事が変化するのは自然な事で、それを嘆いたり、変化を止めようとするのは不自然というか、本末天童な事だと思っているのだけれども。でも、その一方で、電線とパチンコ屋の支配する現代日本が美しいとも思っていなくって。
そういう、反目と同意が共存しながら読み進めていったんだけどね。こんな文章に出逢って、そんなことどうでも良くなったよ。
手蠟燭の「夢」の現実味。
蠟燭が機種依存文字だっていうから、簡単な方の字を使ったのだけれど、ちょっとニュアンスが伝わらないかな。
70年代の終わりに、亀岡の空き家を買い取って住んでいた著者。窓ガラスも電気もなくて、ローソクと蚊帳で暮らしてた。訪ねてきた友人が、手蠟燭で出迎えた同居人に驚いて帰ってしまったりして。
それは単なるノスタルジィかも知れないけれど、その、手蠟燭に託した夢が、ぎりぎりで真実味(リアリティ)を持った時代。それが70年代から80年代初めまでだったよね、って。
あきらめと肯定とやるせなさと、それでも完全には乗り遅れなかったっていう安心と。そういう思いを全部込めた「手蠟燭の夢」。このきれいな言葉に出逢っただけで、僕にとっては間にあった、って思えたんだよね。
新緑の季節だね。この本が紹介していた魅力的な奈良、行きたくなってきたよ。
ただ、それだけのはなし。