トリスタンとイゾルデ @ METライブビューイング ― 2008年04月07日
METライブビューイング、って知ってる?
僕もこのまえはじめて知ったのだけれども。
要は、アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の公演をハイビジョンで録画して、映画館で流しちゃいましょう、っていう企画。2006年の暮れから始まったらしいんだけどね。
なんかそんなの、ニュースで見たなあ、っていうくらいだったんだけれども、なじみの映画館で、ワーグナーやるっていうから、ちょっと見てきたよ。
トリスタンとイゾルデ@神戸HAT。
休憩含めて5時間以上の長丁場だから、あわてて会員になって、プレミアムシートを確保してね。
ワーグナーって、吹奏楽でトロンボン吹きだった高校生時代から、大好きな作曲家なんだよね。当時はブルックナーなんて知らなかったから、金管がバリバリ吹くクラッシックっていえば、ワーグナーで決まり、みたいな。
その頃フルトヴェングラーの巡礼の唄を聴いたこともあって、ワーグナーは僕のアイドルなのだけれど。
でも、あんまりオペラを見ることって無いんだよね。それはワーグナーに限らず、オペラ全体のことなのだけれど。
僕が生で見たオペラは、ムーティ/スカラ座のナブッコ(ベルディ)、そして大フィル定期の、いくつかの演奏会形式のオペラくらいなんだよね。高いし長いし何いってるか分からない。それがオペラ、だったのだけれど。
それが手頃な値段(映画の2,3本分)で字幕付きで、気軽に楽しめるんだったら、まあ、体験してもいいかなあ、って。
そんなわけで、観てきたよ、METライブビューイング。
値段と終了時間の関係か、お客さんは座席の1割から2割くらいかなあ。でも、2列だけの特別機は満員でね。
この催しは、DLPでの上映が多分大前提で、そのおかげでこのシネコンの中でも大きいスクリーンなんだよね。実は僕は、DLP初体験なのだけれど。あ、DLPってね、なんの略か知らないけれど、フィルムではなくって、デジタルのプロジェクターでの上演、ってこと。フィルムがいらないから、少数劇場で少数回の、今回みたいな上映には適してるよね。フィルムに比べてどうっていうのは、僕は懐疑的なのだけれど。
上映が始まってすぐに、僕がいつも自宅のプロジェクターで観ているBSデジタルの解像度とあんまり変わらないな、っていうのは解って。実は音質も、たとえばDVDのDTSに比べてあんまり変わらないな、っていうのが第1幕の感想だったのだけれども。
そういうこととは全然別に、トリスタンとイゾルデの中に、僕はどっぷり浸ったんだよね。
トリスタンとイゾルデって、僕の中では「前奏曲と愛の死」っていうオーケストラだけのための曲についてしか知識がないんだよね。金管楽器大活躍のワーグナーの中で、弦楽器が主役な曲。だけれども、僕がはじめて買ったクラッシックのレコード、バーンスタインのワーグナー曲集の中で、僕が唯一、涙を流した曲。それがトリスタンとイゾルデの、前奏曲と愛の死。
だから、ベートーヴェンやブルックナーの交響曲みたいに、それが口ずさめるかっていうと全然なんだけどね。
映像は、序曲、この場合は前奏曲かな、の最中はレヴァインの指揮とオケをフューチャーして、その後いきなりステージ中継に変わるのだけれども。
実演でもテレビでも、ほとんどオペラって観たことがなかった僕にとって、字幕と、画面分割によるアップは、この単純な物語に入っていくために、とっても効果的だったよ。
物語はね、本当に単純で。
敵同士、でも心の奥底では惹かれ合っているトリスタンとイゾルデ。侍女がしくんだ媚薬を飲んでからは互いの運命の人と決めつけて。結果的に主君に背いて深い傷を負ったトリスタン。そのトリスタンとやっと再開したイゾルデ。でも運命は残酷で。。。
それだけを、休憩込みで5時間以上かけるんだからね、ワーグナーの面目躍如だよね。
第一幕の最中はちょっと気になった音質も、第二幕の最初に気になったエアコンのノイズも、すぐに改善されて。単純な物語を醸し出す個々人の芸を、堪能したよ。
もちろんオペラだから、物語を進める歌を唄う歌手の人の一挙手一投足に、映像的にも注目が集まるのだけれど。第三幕のイングリッシュホルンをはじめとするオケの音にも、大満足。家の自作のスピーカーよりも、やっぱり映画館の高価なスピーカーから出てくる音はいいよね。でも、隣人を気にせずに鳴らせる音量のせいだよね、とか虚勢を張ってみたりして。
もちろん、BS hiとかでオペラの番組をハイビジョンで放送しているんだけれどもね。家ではなかなか集中してみる機会がないよね。(何年か前にリング全曲を放送したのだけれど。一応全部HDで録画しているのだけれど、神々の黄昏しか観てないや)
だから、音響も映像も確かな映画館で、こうやってオペラを観るのって、結構いい体験かも。
となりの夫婦は、長くてかったるいって、ずっと文句いってたけどね。まあ、それもありでしょう。
ただ、それだけのはなし。
僕もこのまえはじめて知ったのだけれども。
要は、アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の公演をハイビジョンで録画して、映画館で流しちゃいましょう、っていう企画。2006年の暮れから始まったらしいんだけどね。
なんかそんなの、ニュースで見たなあ、っていうくらいだったんだけれども、なじみの映画館で、ワーグナーやるっていうから、ちょっと見てきたよ。
トリスタンとイゾルデ@神戸HAT。
休憩含めて5時間以上の長丁場だから、あわてて会員になって、プレミアムシートを確保してね。
ワーグナーって、吹奏楽でトロンボン吹きだった高校生時代から、大好きな作曲家なんだよね。当時はブルックナーなんて知らなかったから、金管がバリバリ吹くクラッシックっていえば、ワーグナーで決まり、みたいな。
その頃フルトヴェングラーの巡礼の唄を聴いたこともあって、ワーグナーは僕のアイドルなのだけれど。
でも、あんまりオペラを見ることって無いんだよね。それはワーグナーに限らず、オペラ全体のことなのだけれど。
僕が生で見たオペラは、ムーティ/スカラ座のナブッコ(ベルディ)、そして大フィル定期の、いくつかの演奏会形式のオペラくらいなんだよね。高いし長いし何いってるか分からない。それがオペラ、だったのだけれど。
それが手頃な値段(映画の2,3本分)で字幕付きで、気軽に楽しめるんだったら、まあ、体験してもいいかなあ、って。
そんなわけで、観てきたよ、METライブビューイング。
値段と終了時間の関係か、お客さんは座席の1割から2割くらいかなあ。でも、2列だけの特別機は満員でね。
この催しは、DLPでの上映が多分大前提で、そのおかげでこのシネコンの中でも大きいスクリーンなんだよね。実は僕は、DLP初体験なのだけれど。あ、DLPってね、なんの略か知らないけれど、フィルムではなくって、デジタルのプロジェクターでの上演、ってこと。フィルムがいらないから、少数劇場で少数回の、今回みたいな上映には適してるよね。フィルムに比べてどうっていうのは、僕は懐疑的なのだけれど。
上映が始まってすぐに、僕がいつも自宅のプロジェクターで観ているBSデジタルの解像度とあんまり変わらないな、っていうのは解って。実は音質も、たとえばDVDのDTSに比べてあんまり変わらないな、っていうのが第1幕の感想だったのだけれども。
そういうこととは全然別に、トリスタンとイゾルデの中に、僕はどっぷり浸ったんだよね。
トリスタンとイゾルデって、僕の中では「前奏曲と愛の死」っていうオーケストラだけのための曲についてしか知識がないんだよね。金管楽器大活躍のワーグナーの中で、弦楽器が主役な曲。だけれども、僕がはじめて買ったクラッシックのレコード、バーンスタインのワーグナー曲集の中で、僕が唯一、涙を流した曲。それがトリスタンとイゾルデの、前奏曲と愛の死。
だから、ベートーヴェンやブルックナーの交響曲みたいに、それが口ずさめるかっていうと全然なんだけどね。
映像は、序曲、この場合は前奏曲かな、の最中はレヴァインの指揮とオケをフューチャーして、その後いきなりステージ中継に変わるのだけれども。
実演でもテレビでも、ほとんどオペラって観たことがなかった僕にとって、字幕と、画面分割によるアップは、この単純な物語に入っていくために、とっても効果的だったよ。
物語はね、本当に単純で。
敵同士、でも心の奥底では惹かれ合っているトリスタンとイゾルデ。侍女がしくんだ媚薬を飲んでからは互いの運命の人と決めつけて。結果的に主君に背いて深い傷を負ったトリスタン。そのトリスタンとやっと再開したイゾルデ。でも運命は残酷で。。。
それだけを、休憩込みで5時間以上かけるんだからね、ワーグナーの面目躍如だよね。
第一幕の最中はちょっと気になった音質も、第二幕の最初に気になったエアコンのノイズも、すぐに改善されて。単純な物語を醸し出す個々人の芸を、堪能したよ。
もちろんオペラだから、物語を進める歌を唄う歌手の人の一挙手一投足に、映像的にも注目が集まるのだけれど。第三幕のイングリッシュホルンをはじめとするオケの音にも、大満足。家の自作のスピーカーよりも、やっぱり映画館の高価なスピーカーから出てくる音はいいよね。でも、隣人を気にせずに鳴らせる音量のせいだよね、とか虚勢を張ってみたりして。
もちろん、BS hiとかでオペラの番組をハイビジョンで放送しているんだけれどもね。家ではなかなか集中してみる機会がないよね。(何年か前にリング全曲を放送したのだけれど。一応全部HDで録画しているのだけれど、神々の黄昏しか観てないや)
だから、音響も映像も確かな映画館で、こうやってオペラを観るのって、結構いい体験かも。
となりの夫婦は、長くてかったるいって、ずっと文句いってたけどね。まあ、それもありでしょう。
ただ、それだけのはなし。
手蠟燭の「夢」 ― 2008年04月10日

ひょんな事からね、その存在を知って。手にとってみたんだ。外国人の書いた、日本論。
アレックス・カー著、美しき日本の残像。
「日本は近代化に失敗した国である」っていう主張が、僕の持っているその人に関する情報の全てで。僕はそれには両手を挙げて賛成はできなかったからね、さあ、どんなケチをつけようか、って手ぐすね引いて手にとった部分も少しだけ、あるのだけれどもね。何しろ僕は、辛口批評家だからね。
この本は、このもの頃から日本に惹かれて、日本の田舎に住んでいる、アメリカ人の古美術のアートディーラーが、あるべき日本の素晴らしさと現実の日本のギャップについて書いた本なのだけれど。
日本は間違った近代化によって、その宝物である自然をどんどん捨ててしまっている。京都なんてその最たるもので、自分で自分を嫌っているとしか思えない。自分は四国の祖谷や亀岡に居を構えているが、そこも近年は電線とパチンコ屋に汚染されている。
そんな感じのペシミスティックな日本論なのだけど
その直前に、坂口安吾の「日本文化私観」を読んだおかげで特にね、僕は日本論、日本人論に対して冷めた視線から読み始めたんだ。
あ、坂口安吾の主張はね、少し引用するけれど。
「〜タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、弦に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れないが、日本を見失うはずがない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである」
つまり、ガイジンが何をエラそうな事をいっても、我々は日本人であり、我々が日本らしさそのものである。外から見て日本らしさが喪われつつある、などとは笑止千万。っていう事だと思うのだけれども。
この安吾の主張は僕にはスッと入ってきてね。だからこの、カーの本もそういう目で読み始めたのだけれども。
カーの本はね、古代日本の豊穣な文化と自然賀、どんどん顧みられなくなって破壊されていく様を嘆いている本なのだけれども。そして、それは近代現代だけの話ではなくて、枯山水に自然を封じ込めようとした平安の時代に既にまかれいた種なんだ、って。
僕は自称合理主義者だからね。合理性を求めて物事が変化するのは自然な事で、それを嘆いたり、変化を止めようとするのは不自然というか、本末天童な事だと思っているのだけれども。でも、その一方で、電線とパチンコ屋の支配する現代日本が美しいとも思っていなくって。
そういう、反目と同意が共存しながら読み進めていったんだけどね。こんな文章に出逢って、そんなことどうでも良くなったよ。
手蠟燭の「夢」の現実味。
蠟燭が機種依存文字だっていうから、簡単な方の字を使ったのだけれど、ちょっとニュアンスが伝わらないかな。
70年代の終わりに、亀岡の空き家を買い取って住んでいた著者。窓ガラスも電気もなくて、ローソクと蚊帳で暮らしてた。訪ねてきた友人が、手蠟燭で出迎えた同居人に驚いて帰ってしまったりして。
それは単なるノスタルジィかも知れないけれど、その、手蠟燭に託した夢が、ぎりぎりで真実味(リアリティ)を持った時代。それが70年代から80年代初めまでだったよね、って。
あきらめと肯定とやるせなさと、それでも完全には乗り遅れなかったっていう安心と。そういう思いを全部込めた「手蠟燭の夢」。このきれいな言葉に出逢っただけで、僕にとっては間にあった、って思えたんだよね。
新緑の季節だね。この本が紹介していた魅力的な奈良、行きたくなってきたよ。
ただ、それだけのはなし。
アレックス・カー著、美しき日本の残像。
「日本は近代化に失敗した国である」っていう主張が、僕の持っているその人に関する情報の全てで。僕はそれには両手を挙げて賛成はできなかったからね、さあ、どんなケチをつけようか、って手ぐすね引いて手にとった部分も少しだけ、あるのだけれどもね。何しろ僕は、辛口批評家だからね。
この本は、このもの頃から日本に惹かれて、日本の田舎に住んでいる、アメリカ人の古美術のアートディーラーが、あるべき日本の素晴らしさと現実の日本のギャップについて書いた本なのだけれど。
日本は間違った近代化によって、その宝物である自然をどんどん捨ててしまっている。京都なんてその最たるもので、自分で自分を嫌っているとしか思えない。自分は四国の祖谷や亀岡に居を構えているが、そこも近年は電線とパチンコ屋に汚染されている。
そんな感じのペシミスティックな日本論なのだけど
その直前に、坂口安吾の「日本文化私観」を読んだおかげで特にね、僕は日本論、日本人論に対して冷めた視線から読み始めたんだ。
あ、坂口安吾の主張はね、少し引用するけれど。
「〜タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、弦に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れないが、日本を見失うはずがない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである」
つまり、ガイジンが何をエラそうな事をいっても、我々は日本人であり、我々が日本らしさそのものである。外から見て日本らしさが喪われつつある、などとは笑止千万。っていう事だと思うのだけれども。
この安吾の主張は僕にはスッと入ってきてね。だからこの、カーの本もそういう目で読み始めたのだけれども。
カーの本はね、古代日本の豊穣な文化と自然賀、どんどん顧みられなくなって破壊されていく様を嘆いている本なのだけれども。そして、それは近代現代だけの話ではなくて、枯山水に自然を封じ込めようとした平安の時代に既にまかれいた種なんだ、って。
僕は自称合理主義者だからね。合理性を求めて物事が変化するのは自然な事で、それを嘆いたり、変化を止めようとするのは不自然というか、本末天童な事だと思っているのだけれども。でも、その一方で、電線とパチンコ屋の支配する現代日本が美しいとも思っていなくって。
そういう、反目と同意が共存しながら読み進めていったんだけどね。こんな文章に出逢って、そんなことどうでも良くなったよ。
手蠟燭の「夢」の現実味。
蠟燭が機種依存文字だっていうから、簡単な方の字を使ったのだけれど、ちょっとニュアンスが伝わらないかな。
70年代の終わりに、亀岡の空き家を買い取って住んでいた著者。窓ガラスも電気もなくて、ローソクと蚊帳で暮らしてた。訪ねてきた友人が、手蠟燭で出迎えた同居人に驚いて帰ってしまったりして。
それは単なるノスタルジィかも知れないけれど、その、手蠟燭に託した夢が、ぎりぎりで真実味(リアリティ)を持った時代。それが70年代から80年代初めまでだったよね、って。
あきらめと肯定とやるせなさと、それでも完全には乗り遅れなかったっていう安心と。そういう思いを全部込めた「手蠟燭の夢」。このきれいな言葉に出逢っただけで、僕にとっては間にあった、って思えたんだよね。
新緑の季節だね。この本が紹介していた魅力的な奈良、行きたくなってきたよ。
ただ、それだけのはなし。
弥勒世 〜馳星周版「蝦夷地別件」〜 ― 2008年04月13日

僕は未だに、馳星周の最高傑作は漂流街だって信じているのだけれど。
「俺のために唄わないなら、いらない」
そういって、あんなになついていた、天使のような盲目の少女を撃ったマーリオ。
そこが、馳星周のノヴェルノワールの、最高地点だったんだよね。
そこからの馳星周は、女に優しいえせハードボイルドになってみたり、エルロイのパクリをやってみたり。哀しいほどに迷走して、劉健一の死と共に、僕の中でも死にかけてたんだよね。
今までは発売日に必ず買っていた長編も、今回はひとつきくらい迷ってみたりして。でも、漢字三文字シリーズだからね、結局は読んだのだけれども。
あれ。
これって、ハードボイルド。
全然ノヴェル・ノワールじゃない。
僕の中の、ハードボイルドとノヴェル・ノワールの違いはね。
どちらも血と硝煙の匂いがする暴力小説なのだけれど。主人公に主義や美学があるのがハードボイルドで、そんなもの糞喰らえ、っていうのが、ノヴェルノワール。
細かくいうと、あくまでも僕の中では、主人公に美学があるのは、チャンドラー風ハードボイルド(軟)で、主義があるのがハメット風(硬)。僕はどちらかというと、(硬)の方が好き。
今回の弥勒世はね、なんと。主人公が主義主張のために命をかけちゃうんだよね。しかも舞台が戦後の沖縄で。
船戸与一がいう、ハードボイルドは少数民族の抗争を描くものである、っていう定義にもぴたりとはまってしまう。定義上完璧なハードボイルド。
それはまるで、
馳星周版、「蝦夷地別件」。
あ、蝦夷地別件って、船戸与一のベストスリーに入る傑作ね。こちらは蝦夷を舞台にしているのだけれど。
何はともあれ、感情的なカタストロフを楽しむノワールから、感情的なカタルシスを楽しむハードボイルドに移行したのは、歳とったからかな、それとも犬が死んじゃったから?
それにしても、上下二冊の分厚い本を読んでいて驚くのは、多分意識的なんだろうけれど、文体に終戦直後の、沖縄の匂いが全くしないんだよね。馳小説の必須アイテムである携帯電話こそ登場しないものの、それ以外は現代と思って読んでいても全く違和感がない。
「バブル期の事を書こうとして、現在の言葉とかなり違うのに驚いた」っていっていた馳さんだから、この無時代性は意識的なものだと思うのだけれども。
いずれにしても、上下巻の分厚い物語を、三日間存分に楽しみました。
ハードボイルド作家、馳星周の評価は次作に持ち越すけれど、でもやっぱり、ノワール作家でいて欲しいなあ。
期待してた新藤冬樹が、どうやらただの馳フォロワーみたいだからね。
ただ、それだけのはなし。
「俺のために唄わないなら、いらない」
そういって、あんなになついていた、天使のような盲目の少女を撃ったマーリオ。
そこが、馳星周のノヴェルノワールの、最高地点だったんだよね。
そこからの馳星周は、女に優しいえせハードボイルドになってみたり、エルロイのパクリをやってみたり。哀しいほどに迷走して、劉健一の死と共に、僕の中でも死にかけてたんだよね。
今までは発売日に必ず買っていた長編も、今回はひとつきくらい迷ってみたりして。でも、漢字三文字シリーズだからね、結局は読んだのだけれども。
あれ。
これって、ハードボイルド。
全然ノヴェル・ノワールじゃない。
僕の中の、ハードボイルドとノヴェル・ノワールの違いはね。
どちらも血と硝煙の匂いがする暴力小説なのだけれど。主人公に主義や美学があるのがハードボイルドで、そんなもの糞喰らえ、っていうのが、ノヴェルノワール。
細かくいうと、あくまでも僕の中では、主人公に美学があるのは、チャンドラー風ハードボイルド(軟)で、主義があるのがハメット風(硬)。僕はどちらかというと、(硬)の方が好き。
今回の弥勒世はね、なんと。主人公が主義主張のために命をかけちゃうんだよね。しかも舞台が戦後の沖縄で。
船戸与一がいう、ハードボイルドは少数民族の抗争を描くものである、っていう定義にもぴたりとはまってしまう。定義上完璧なハードボイルド。
それはまるで、
馳星周版、「蝦夷地別件」。
あ、蝦夷地別件って、船戸与一のベストスリーに入る傑作ね。こちらは蝦夷を舞台にしているのだけれど。
何はともあれ、感情的なカタストロフを楽しむノワールから、感情的なカタルシスを楽しむハードボイルドに移行したのは、歳とったからかな、それとも犬が死んじゃったから?
それにしても、上下二冊の分厚い本を読んでいて驚くのは、多分意識的なんだろうけれど、文体に終戦直後の、沖縄の匂いが全くしないんだよね。馳小説の必須アイテムである携帯電話こそ登場しないものの、それ以外は現代と思って読んでいても全く違和感がない。
「バブル期の事を書こうとして、現在の言葉とかなり違うのに驚いた」っていっていた馳さんだから、この無時代性は意識的なものだと思うのだけれども。
いずれにしても、上下巻の分厚い物語を、三日間存分に楽しみました。
ハードボイルド作家、馳星周の評価は次作に持ち越すけれど、でもやっぱり、ノワール作家でいて欲しいなあ。
期待してた新藤冬樹が、どうやらただの馳フォロワーみたいだからね。
ただ、それだけのはなし。
半透明の、瓦礫 〜ザオ・ウーキー〜 ― 2008年04月14日

僕がつけているお小遣い帳によると、この三年間で8回ほど、通ってる事になるんだね。
ブリヂストン美術館。
前に書いたと思うけれど、この美術館は常設展示が主体の美術館で。だからいつも大体常連さんの絵は見覚えのある場所に飾ってあるのだけれど。
ちょっと前にいったときにはね、New Horizons コレクションの地平 20世紀美術の息吹 っていう題名で特集を組んでいて。昨日で終わっちゃったから今更紹介しても心苦しいのだけれども。
平日の夕方、出張の要件が終わって終電の新幹線まで間があるな、って終わり間際の美術館に飛び込んだのだけれども。
あんまり時間がないから、いつもなら、とりあえず一周して、それから僕の大好きなモネの睡蓮の前でじっともの思いに耽るのだけれども。
今回は、モネが霞んじゃうほど強烈なインパクトがあったんだよね。
ザオ・ウーキー。
中国出身でフランスに帰化した人らしいんだけど。
いつも、最後に部屋に印象的な絵が二つくらい掛かっていて、名前は覚えていたのだけれども。
今回は、二部屋にわたってザオさんの絵ばっかり、一面に並んでたんだよね。いや、二面か、二部屋だから八面か。
最初の部屋はね、墨で書いたモノクロームなでっかい絵と、エッジングの小さい絵。
でっかい、屏風絵くらいあるでっかい水墨画があってね、僕はそれにまず、吸い寄せられたんだ。薄い墨で描いた、大きい模様と、黒い墨で描いた、細かい混沌と。それらが醸し出す絶妙な立体感に、僕は吸い寄せられたんだよね。
そのほかに、空白の多いレイアウトに、漢詩が書いてあるのもあったりして、思わずザオさんて日本人?って館員の人に聞いてしまったのだけれど、そんな筈ないよね。名前からして。館員の人は呆れた顔もせずにさっきいった事、フランスに帰化した中国人だって、教えてくれたんだけどね。
この、モノトーンの部屋のインパクトも大きかったんだけれど。
何が待ち受けているか全く知らないまま踏み入れた、次の部屋。
僕は、思わずうなり声を上げたよ。
次の部屋は、油絵のザオ・ウーキー。
おなじみの、青い絵もさることながら、あんまり観た事がない、ミドリの絵もウーキー。
ザオの絵って、瓦礫の絵なんだよね。
抽象的な色彩の中に、ぽんと置かれた瓦礫の固まり。それが海辺に打ち上げられた木の枝の固まりに見えたり、草原に漂よう藁のボールに見えたり。
そして、その瓦礫が、みんな半透明に見えるんだ。存在感が希薄で、どことなく所在なげ。
そういう幻想的な絵だからね、じっと見ていると、いろんなものが観てきて、まばたきをすると、全く別のものにも見える。
たとえば、僕のお気に入りの青い絵は、浜辺に打ち上げられた瓦礫にもみえるし、その上に銀河鉄道999のプロメシウムが炎の中に浮き上がっているようにも見えるし、ディズニー映画のファンタジアの、迷子になった子鯨が迷い込んだ氷に閉ざされた海にも見えるし。
絵っていう窓を通して、いろんなものが見える。そういう絵が、僕は好きなんだよね。
モネの睡蓮に通じるものが、ウーキーにもあったんだね。
今度行くときは、どんな絵を見せてくれるんだろう。楽しみだな。
ただ、それだけのはなし。
ブリヂストン美術館。
前に書いたと思うけれど、この美術館は常設展示が主体の美術館で。だからいつも大体常連さんの絵は見覚えのある場所に飾ってあるのだけれど。
ちょっと前にいったときにはね、New Horizons コレクションの地平 20世紀美術の息吹 っていう題名で特集を組んでいて。昨日で終わっちゃったから今更紹介しても心苦しいのだけれども。
平日の夕方、出張の要件が終わって終電の新幹線まで間があるな、って終わり間際の美術館に飛び込んだのだけれども。
あんまり時間がないから、いつもなら、とりあえず一周して、それから僕の大好きなモネの睡蓮の前でじっともの思いに耽るのだけれども。
今回は、モネが霞んじゃうほど強烈なインパクトがあったんだよね。
ザオ・ウーキー。
中国出身でフランスに帰化した人らしいんだけど。
いつも、最後に部屋に印象的な絵が二つくらい掛かっていて、名前は覚えていたのだけれども。
今回は、二部屋にわたってザオさんの絵ばっかり、一面に並んでたんだよね。いや、二面か、二部屋だから八面か。
最初の部屋はね、墨で書いたモノクロームなでっかい絵と、エッジングの小さい絵。
でっかい、屏風絵くらいあるでっかい水墨画があってね、僕はそれにまず、吸い寄せられたんだ。薄い墨で描いた、大きい模様と、黒い墨で描いた、細かい混沌と。それらが醸し出す絶妙な立体感に、僕は吸い寄せられたんだよね。
そのほかに、空白の多いレイアウトに、漢詩が書いてあるのもあったりして、思わずザオさんて日本人?って館員の人に聞いてしまったのだけれど、そんな筈ないよね。名前からして。館員の人は呆れた顔もせずにさっきいった事、フランスに帰化した中国人だって、教えてくれたんだけどね。
この、モノトーンの部屋のインパクトも大きかったんだけれど。
何が待ち受けているか全く知らないまま踏み入れた、次の部屋。
僕は、思わずうなり声を上げたよ。
次の部屋は、油絵のザオ・ウーキー。
おなじみの、青い絵もさることながら、あんまり観た事がない、ミドリの絵もウーキー。
ザオの絵って、瓦礫の絵なんだよね。
抽象的な色彩の中に、ぽんと置かれた瓦礫の固まり。それが海辺に打ち上げられた木の枝の固まりに見えたり、草原に漂よう藁のボールに見えたり。
そして、その瓦礫が、みんな半透明に見えるんだ。存在感が希薄で、どことなく所在なげ。
そういう幻想的な絵だからね、じっと見ていると、いろんなものが観てきて、まばたきをすると、全く別のものにも見える。
たとえば、僕のお気に入りの青い絵は、浜辺に打ち上げられた瓦礫にもみえるし、その上に銀河鉄道999のプロメシウムが炎の中に浮き上がっているようにも見えるし、ディズニー映画のファンタジアの、迷子になった子鯨が迷い込んだ氷に閉ざされた海にも見えるし。
絵っていう窓を通して、いろんなものが見える。そういう絵が、僕は好きなんだよね。
モネの睡蓮に通じるものが、ウーキーにもあったんだね。
今度行くときは、どんな絵を見せてくれるんだろう。楽しみだな。
ただ、それだけのはなし。
完結。北方水滸伝 ― 2008年04月19日

結局僕は、むさぼるように読み切ったよ。
しかと見届けたよ。北方水滸伝の、完結を。
もちろん、読まないわけにはいかないのは分かっていたし、数日前からそわそわしていたりもしたのだけれど。
でも、実際に買ってきた本を家で取り出すと、ずっしり重たいんだよね。今まで18冊読んできたのに、おんなじ分量なのに、重たいんだ。
だから。
ずっぽりはまって、こっち側に戻ってこれなくなるのを防ぐために。音楽を流しながら、読む事にしたよ。
普段なら絶対にBGMにしない、じいさんのブルックナーを聴きながら、読む事にした。
今年はカラヤンに並んで、じいさんの生誕100年で、その記念でSACDで再発売されたたくさんの演奏のひとつ、2001年の、シンフォニーホールの、5番。
もちろんCDでは持っているのだけれども。EXTON盤の中では唯一、オーディオ的に不満があったCDだから、買い直したんだけれど、じっくり聴く機会がなかなかないんだよね。だから、目と耳とで、どっちも現実につなぎ止めておくために、今回BGMとして使ったよ。
北方水滸伝は、特に戦闘シーンは。誰の視点で描かれているか、ぼやぼやしてると見失う事があるんだよね。節ごとにめまぐるしく変わるし、多分意識的にだろうけれど、誰の視点をなかなか明かさなかったり、明かしても一回きりだったり。
SACDになってやたらクリアになったからか知らないけれど、とっても人間くさい、どちらかと言えば瑕疵の多い演奏をやや大きな音量で聴きながらの読書だと、どちらにも感情移入してしまって、何度も何度も、前のページまで戻りながら読み返したよ。
それが、じいさんのブル5を選んだ理由なのだけどね。
水滸伝は。
その最終巻は。
梁山泊が潰える物語であり、英傑達が死にゆく物語であり。
同時に、想いが受け継がれる物語であり。
そして、決して、絶望の物語ではなく。
僕は、しかと見届けたよ。
叛乱が、大国の奥深さが産んだ一人の才能によって潰える様を。
潰えた叛乱から、小旗に託した想いが受け継がれる様を。
あの日、シンフォニーホールで5番を振ったじいさんの立ち姿と、騎馬と歩兵と剣と槍と矢が飛び交う戦場を脳裏に描きながら。
ひとつのセリフに、一行の描写に何度も涙しながら。
僕は、しかと見届けたよ。
想像力の限界に挑んだ、北方謙三のあがきを。
ありがとう。
北方謙三。
僕は来月から、月に一冊の約束で、三國志をもう一度読む事にするよ。
それが終わる頃、楊令伝は多分、一気読みしちゃうだろうな。
楽しみだな。
ただ、それだけのはなし。
しかと見届けたよ。北方水滸伝の、完結を。
もちろん、読まないわけにはいかないのは分かっていたし、数日前からそわそわしていたりもしたのだけれど。
でも、実際に買ってきた本を家で取り出すと、ずっしり重たいんだよね。今まで18冊読んできたのに、おんなじ分量なのに、重たいんだ。
だから。
ずっぽりはまって、こっち側に戻ってこれなくなるのを防ぐために。音楽を流しながら、読む事にしたよ。
普段なら絶対にBGMにしない、じいさんのブルックナーを聴きながら、読む事にした。
今年はカラヤンに並んで、じいさんの生誕100年で、その記念でSACDで再発売されたたくさんの演奏のひとつ、2001年の、シンフォニーホールの、5番。
もちろんCDでは持っているのだけれども。EXTON盤の中では唯一、オーディオ的に不満があったCDだから、買い直したんだけれど、じっくり聴く機会がなかなかないんだよね。だから、目と耳とで、どっちも現実につなぎ止めておくために、今回BGMとして使ったよ。
北方水滸伝は、特に戦闘シーンは。誰の視点で描かれているか、ぼやぼやしてると見失う事があるんだよね。節ごとにめまぐるしく変わるし、多分意識的にだろうけれど、誰の視点をなかなか明かさなかったり、明かしても一回きりだったり。
SACDになってやたらクリアになったからか知らないけれど、とっても人間くさい、どちらかと言えば瑕疵の多い演奏をやや大きな音量で聴きながらの読書だと、どちらにも感情移入してしまって、何度も何度も、前のページまで戻りながら読み返したよ。
それが、じいさんのブル5を選んだ理由なのだけどね。
水滸伝は。
その最終巻は。
梁山泊が潰える物語であり、英傑達が死にゆく物語であり。
同時に、想いが受け継がれる物語であり。
そして、決して、絶望の物語ではなく。
僕は、しかと見届けたよ。
叛乱が、大国の奥深さが産んだ一人の才能によって潰える様を。
潰えた叛乱から、小旗に託した想いが受け継がれる様を。
あの日、シンフォニーホールで5番を振ったじいさんの立ち姿と、騎馬と歩兵と剣と槍と矢が飛び交う戦場を脳裏に描きながら。
ひとつのセリフに、一行の描写に何度も涙しながら。
僕は、しかと見届けたよ。
想像力の限界に挑んだ、北方謙三のあがきを。
ありがとう。
北方謙三。
僕は来月から、月に一冊の約束で、三國志をもう一度読む事にするよ。
それが終わる頃、楊令伝は多分、一気読みしちゃうだろうな。
楽しみだな。
ただ、それだけのはなし。