ブルックナー5番の、石垣 ― 2008年03月13日

ブルックナーの、5番。
高関 健指揮、大阪フィル。
最初の弦のピチカートと、それに続くブラスのコラールを聴いて。
「なんて即物的な、ブルックナーなんだろう」って。
それは、音の始まりと終わりをきっちりタンギングして音価いっぱいに伸ばす、蒲鉾音型のチューバが醸すのか、ラッパからホルン、トロンボンまで完璧なバランスが醸すのか、はたまた一瞬の揺るぎもないティンパニが醸すのかは分からないけれど。
それは、官能に訴えるよりは、物理に訴える音、なんだよね。
それ自体は、別に褒めているつもりでも、けなしているつもりでもなく。
ただ、その時点で、そこからえられるある程度の満足感と、その延長線上からは決して得られない恍惚感が見えてしまって。
そして、驚くべきことに。
演奏が進むにつれて、最初に予想した満足感を遙かに、どんどん上回っていったんだ。恍惚感は、膨らまなかったけれど。
ブルックナーの5番は、よくゴシック建設に例えられて。ゴシック建設っていうものが本当はよく分かっていないのだけれど、まあ、周到な計算のもとに創られた、石造りの巨大な建造物、っていう理解であながち間違えてはいないと思うんだ。
僕も、今までそれで納得していたのだけれど。今日の演奏を聴いて、数日前に訪れた、とある城下町の石垣を思い出したんだ。
そこのお城はね、永きにわたって補修や増築を繰り返したから、いろいろな時代の技術が混在していて。石垣でいえば、自然の石をそのまま積み上げた古い時代から、少し面取りをして、計算しながら積み上げた時代、そして、直線的に加工できるようになってからの、隙間なく積み上げられた時代の三つに大別されていて。
そういう眼で見ると、じいさんのブルックナーは、真ん中の時代の石垣なんだよね。のみ一本で削りだしたように荒削りなんだけど、全体として調和がとれている。それがオオウエエイジの時代になって、より緻密な工作が可能になった。その結果としての、今日の5番。全ての音が、綺麗に直線的に加工されて、収まるべきところにぴたっと収まるような、そんな演奏。
そうやって造られたお城の石垣を見て、刊行に訪れていた老夫婦が言っていた言葉は、「これって、昔のものじゃないわよね」。それは、多分に風情のなさを嘆く感情が込められていたんだ。
今日の演奏も、全くその通りの聴き方をしていたんだ。最初はね。
遊び幅のない、緻密なアンサンブルは、演奏の最初から、最後に訪れるカタルシスを予想させてしまって、実際その通りに進んでいった。
でも、それってすごいことなんだ。
面取りだけした石垣には、隙間にちっちゃい石を突っ込んで、っていう愛嬌が許されるけれど、直線的に加工した石垣には、そういう遊びは許されない。設計図の通り忠実に組み立ててあたり前、寸分でも狂ったら目も当てられない。
それを引き受ける覚悟をした上で、80分間、全く裏切らない綱渡りを成し遂げる。それは、どえらいカタルシス、なんだよね。結果的に。
遠慮なしに、しかもコンスタントにバリバリのトロンボンを筆頭に、ホルンのソロも含めてブラスが絶好調で。(ほんのちょっと、通常あり得ない高音を外したホルンを貶す人がいたら、僕はその人を軽蔑するなあ)
寸分の隙もなく組み立てられた大伽藍。
そのコーダ。
僕は、汗だくになったよ。
じいさんのときには、アシを入れて、金管倍増でのコーダだったんだけど。その効果は絶大で、とてつもない浮遊感を懐かしく思い出したんだけれど。
今回は、なんと。
アシなしなんだ。アシなしで、シンフォニーホールをブラスの響きで埋めつくした。
「アシを入れようとしたら、『俺たちが倍吹くから、アシ入れなくてもいいだろう』っていうんですわ、シカゴ響の連中」そういってたじいさんの言葉、思い出したよ。
大フィルのブラスも、そこまで成長したんだね。嬉しいよ。
最後はホンと、汗だくになって聴いてたよ。堅実で分かりやすい指揮の高関さんは、5番にぴったりだったね。
しかし、やっぱり。
5番はCDには入りきれないね。これからも、生演奏楽しみにしてるよ。
ただ、それだけのはなし。
高関 健指揮、大阪フィル。
最初の弦のピチカートと、それに続くブラスのコラールを聴いて。
「なんて即物的な、ブルックナーなんだろう」って。
それは、音の始まりと終わりをきっちりタンギングして音価いっぱいに伸ばす、蒲鉾音型のチューバが醸すのか、ラッパからホルン、トロンボンまで完璧なバランスが醸すのか、はたまた一瞬の揺るぎもないティンパニが醸すのかは分からないけれど。
それは、官能に訴えるよりは、物理に訴える音、なんだよね。
それ自体は、別に褒めているつもりでも、けなしているつもりでもなく。
ただ、その時点で、そこからえられるある程度の満足感と、その延長線上からは決して得られない恍惚感が見えてしまって。
そして、驚くべきことに。
演奏が進むにつれて、最初に予想した満足感を遙かに、どんどん上回っていったんだ。恍惚感は、膨らまなかったけれど。
ブルックナーの5番は、よくゴシック建設に例えられて。ゴシック建設っていうものが本当はよく分かっていないのだけれど、まあ、周到な計算のもとに創られた、石造りの巨大な建造物、っていう理解であながち間違えてはいないと思うんだ。
僕も、今までそれで納得していたのだけれど。今日の演奏を聴いて、数日前に訪れた、とある城下町の石垣を思い出したんだ。
そこのお城はね、永きにわたって補修や増築を繰り返したから、いろいろな時代の技術が混在していて。石垣でいえば、自然の石をそのまま積み上げた古い時代から、少し面取りをして、計算しながら積み上げた時代、そして、直線的に加工できるようになってからの、隙間なく積み上げられた時代の三つに大別されていて。
そういう眼で見ると、じいさんのブルックナーは、真ん中の時代の石垣なんだよね。のみ一本で削りだしたように荒削りなんだけど、全体として調和がとれている。それがオオウエエイジの時代になって、より緻密な工作が可能になった。その結果としての、今日の5番。全ての音が、綺麗に直線的に加工されて、収まるべきところにぴたっと収まるような、そんな演奏。
そうやって造られたお城の石垣を見て、刊行に訪れていた老夫婦が言っていた言葉は、「これって、昔のものじゃないわよね」。それは、多分に風情のなさを嘆く感情が込められていたんだ。
今日の演奏も、全くその通りの聴き方をしていたんだ。最初はね。
遊び幅のない、緻密なアンサンブルは、演奏の最初から、最後に訪れるカタルシスを予想させてしまって、実際その通りに進んでいった。
でも、それってすごいことなんだ。
面取りだけした石垣には、隙間にちっちゃい石を突っ込んで、っていう愛嬌が許されるけれど、直線的に加工した石垣には、そういう遊びは許されない。設計図の通り忠実に組み立ててあたり前、寸分でも狂ったら目も当てられない。
それを引き受ける覚悟をした上で、80分間、全く裏切らない綱渡りを成し遂げる。それは、どえらいカタルシス、なんだよね。結果的に。
遠慮なしに、しかもコンスタントにバリバリのトロンボンを筆頭に、ホルンのソロも含めてブラスが絶好調で。(ほんのちょっと、通常あり得ない高音を外したホルンを貶す人がいたら、僕はその人を軽蔑するなあ)
寸分の隙もなく組み立てられた大伽藍。
そのコーダ。
僕は、汗だくになったよ。
じいさんのときには、アシを入れて、金管倍増でのコーダだったんだけど。その効果は絶大で、とてつもない浮遊感を懐かしく思い出したんだけれど。
今回は、なんと。
アシなしなんだ。アシなしで、シンフォニーホールをブラスの響きで埋めつくした。
「アシを入れようとしたら、『俺たちが倍吹くから、アシ入れなくてもいいだろう』っていうんですわ、シカゴ響の連中」そういってたじいさんの言葉、思い出したよ。
大フィルのブラスも、そこまで成長したんだね。嬉しいよ。
最後はホンと、汗だくになって聴いてたよ。堅実で分かりやすい指揮の高関さんは、5番にぴったりだったね。
しかし、やっぱり。
5番はCDには入りきれないね。これからも、生演奏楽しみにしてるよ。
ただ、それだけのはなし。