BAN BAN BAZAR @ もっきりや ― 2008年03月12日

ずいぶんと久しぶりに、何個目かの故郷を訪ねることがあってね。ずいぶんと久しぶりに、昔よく通ったジャズ喫茶にいったんだ。
そのジャズ喫茶は、夜はお酒も出すし、不定期にライブもやるんだよ。山下洋輔とか、浅川マキとか、日本人のジャズを、いろいろ見たな。渋谷毅のとなりに座ったりとか、山下洋輔のピアノにさわりながら聴いたりとか。狭い箱に詰め込むだけ詰めるから、お客さんと演奏者の距離が近いんだよね。
あ、思い出話はいいんだった。
日曜の朝に用事が済んでね、みんなはそのまま帰ッたのだけれど、なんかもう一日、久しぶりの街を散策したくてね。その日も泊まることにしたんだ。おいしいお魚を食べたかったのが大きいのだけれども。
そうしたら、忘れてたのだけれど。日曜日は、たいがいの飲み屋さん、お休みなんだよね。市場がお休みだからね。これまた僕がよく行った、お目当てのお店もお休み。ああ、夜、どうしよう、って思いながらメニューの増えた喫茶店で、ジャズを聴いていたのだけれども。
そしたらね、なんかずいぶんライブの頻度が増えていて、そのお店。ちょうどその日のライブもポスターが貼ってあった。
全然知らないバンド名だし、メンバーなんだよね。ギターが二人にウッドベース。それしかわからない。しばらく、それだけの情報でどんな音楽なのか推理して楽しんでたんだけれどね。
やっぱり我慢できなくなって、マスターに聞いたんだ。15年前とほとんど変わらない、ちょっと白髪の割合が増えたマスターに。
「今日のライブ、どんな感じの音楽なんですか?」(東京弁で)
「ベースがジャズで、いろんな、ジャムバンド的な感じかな。楽しいよ」
そうか、楽しいんだ。じゃあ聴いてみよ。
ってことで、聴いてみたんだよ。BAN BAN BAZAR。
小さい街も歩き疲れたからね、いったんホテルに戻って。また30分くらい歩いて会場に着いたのだけれども。当日でもチケットがあったから、空いているのかな、とか思ったのだけれど、もちろんそんなことはなくってね。勿論っていうのは、もっきりやのライブで空いてるのって見たことないな、っていうのを思いだしたのだけれども。
お客がひしめくライブハウス。入り口から入って、カウンターのなかをスルーして一番奥のステージにメンバーがたどり着いた。
僕の席は、なんていえばいいのかな、壁ぎわの長いすの端から二番目。前から数えたら二番目。バンバンバザール等身大。
出てきた音はね。
ジャズベースのジャムバンド。って聞いていたのだけれど。
どうやらそうではなく。
ブルースのコード進行をベースにした、popなんだよね。
それはブルースやろ、っていわれそうなんだけれど、あんまりブルーじゃなくって、ひたすら心地よくて楽しいから、”コード進行をベースにした”なんてわからない注釈つけちゃっているけれど。
つまりは、誰もが楽しいと思う音楽。
勿論僕もね。
ボーカルの福島君(同い年!)の声は、僕の周りの誰かにいているようで思い出せないのだけれど、声変わり前の木村充揮みたいな、声変わり前だけどしゃがれてるぞ、みたいな。つまり、ブルース唄っても楽しくなっちゃうぞ、っていう声なんだよね。
それから、ギターの富永さん(え、こっちが年下!)の太い指から出てくる音、好きだなあ。
ひさびさにあんまり楽しくて、細かいところすっかり飛んでっているので、まあとにかく聞いてください、としかいいようがないんだけどね。
休憩はさんで第二部は、ウクレレの音楽。ウクレレって跳ねるんだ。をテーマに、田原俊彦や、憂歌団のカヴァーもあったりして。
ああ、楽しかった。
帰りに、CD売ってたベースの黒川さんと二言三言言葉を交わしたら、最初のうちはジャズのカヴァーが多かったんだ、って。これがジャズをベース、か。
そして、今、バンバンのHPを見てみて気がついたんだけれど。ジャムバンドじゃなくって、ジャグバンドなんだね。ジャグバンドってなんだかよく知らないけれど、ジャムバンドじゃなくってよかった、とりあえず。
ごめんね、CD買わなくって。でも、ライブの方が楽しそうだったんだもの。
道路でたむろしている福島さんに、大阪から来ましたっていったら、4月になんばに行くよ、って。魅力的だなあ。でもワンマンの方が楽しいかなあ。
ひさびさの小旅行、楽しいおまけをもらったよ。ありがとね。もっきりやのマスターと、バンバンな人たち。
そのジャズ喫茶は、夜はお酒も出すし、不定期にライブもやるんだよ。山下洋輔とか、浅川マキとか、日本人のジャズを、いろいろ見たな。渋谷毅のとなりに座ったりとか、山下洋輔のピアノにさわりながら聴いたりとか。狭い箱に詰め込むだけ詰めるから、お客さんと演奏者の距離が近いんだよね。
あ、思い出話はいいんだった。
日曜の朝に用事が済んでね、みんなはそのまま帰ッたのだけれど、なんかもう一日、久しぶりの街を散策したくてね。その日も泊まることにしたんだ。おいしいお魚を食べたかったのが大きいのだけれども。
そうしたら、忘れてたのだけれど。日曜日は、たいがいの飲み屋さん、お休みなんだよね。市場がお休みだからね。これまた僕がよく行った、お目当てのお店もお休み。ああ、夜、どうしよう、って思いながらメニューの増えた喫茶店で、ジャズを聴いていたのだけれども。
そしたらね、なんかずいぶんライブの頻度が増えていて、そのお店。ちょうどその日のライブもポスターが貼ってあった。
全然知らないバンド名だし、メンバーなんだよね。ギターが二人にウッドベース。それしかわからない。しばらく、それだけの情報でどんな音楽なのか推理して楽しんでたんだけれどね。
やっぱり我慢できなくなって、マスターに聞いたんだ。15年前とほとんど変わらない、ちょっと白髪の割合が増えたマスターに。
「今日のライブ、どんな感じの音楽なんですか?」(東京弁で)
「ベースがジャズで、いろんな、ジャムバンド的な感じかな。楽しいよ」
そうか、楽しいんだ。じゃあ聴いてみよ。
ってことで、聴いてみたんだよ。BAN BAN BAZAR。
小さい街も歩き疲れたからね、いったんホテルに戻って。また30分くらい歩いて会場に着いたのだけれども。当日でもチケットがあったから、空いているのかな、とか思ったのだけれど、もちろんそんなことはなくってね。勿論っていうのは、もっきりやのライブで空いてるのって見たことないな、っていうのを思いだしたのだけれども。
お客がひしめくライブハウス。入り口から入って、カウンターのなかをスルーして一番奥のステージにメンバーがたどり着いた。
僕の席は、なんていえばいいのかな、壁ぎわの長いすの端から二番目。前から数えたら二番目。バンバンバザール等身大。
出てきた音はね。
ジャズベースのジャムバンド。って聞いていたのだけれど。
どうやらそうではなく。
ブルースのコード進行をベースにした、popなんだよね。
それはブルースやろ、っていわれそうなんだけれど、あんまりブルーじゃなくって、ひたすら心地よくて楽しいから、”コード進行をベースにした”なんてわからない注釈つけちゃっているけれど。
つまりは、誰もが楽しいと思う音楽。
勿論僕もね。
ボーカルの福島君(同い年!)の声は、僕の周りの誰かにいているようで思い出せないのだけれど、声変わり前の木村充揮みたいな、声変わり前だけどしゃがれてるぞ、みたいな。つまり、ブルース唄っても楽しくなっちゃうぞ、っていう声なんだよね。
それから、ギターの富永さん(え、こっちが年下!)の太い指から出てくる音、好きだなあ。
ひさびさにあんまり楽しくて、細かいところすっかり飛んでっているので、まあとにかく聞いてください、としかいいようがないんだけどね。
休憩はさんで第二部は、ウクレレの音楽。ウクレレって跳ねるんだ。をテーマに、田原俊彦や、憂歌団のカヴァーもあったりして。
ああ、楽しかった。
帰りに、CD売ってたベースの黒川さんと二言三言言葉を交わしたら、最初のうちはジャズのカヴァーが多かったんだ、って。これがジャズをベース、か。
そして、今、バンバンのHPを見てみて気がついたんだけれど。ジャムバンドじゃなくって、ジャグバンドなんだね。ジャグバンドってなんだかよく知らないけれど、ジャムバンドじゃなくってよかった、とりあえず。
ごめんね、CD買わなくって。でも、ライブの方が楽しそうだったんだもの。
道路でたむろしている福島さんに、大阪から来ましたっていったら、4月になんばに行くよ、って。魅力的だなあ。でもワンマンの方が楽しいかなあ。
ひさびさの小旅行、楽しいおまけをもらったよ。ありがとね。もっきりやのマスターと、バンバンな人たち。
ブルックナー5番の、石垣 ― 2008年03月13日

ブルックナーの、5番。
高関 健指揮、大阪フィル。
最初の弦のピチカートと、それに続くブラスのコラールを聴いて。
「なんて即物的な、ブルックナーなんだろう」って。
それは、音の始まりと終わりをきっちりタンギングして音価いっぱいに伸ばす、蒲鉾音型のチューバが醸すのか、ラッパからホルン、トロンボンまで完璧なバランスが醸すのか、はたまた一瞬の揺るぎもないティンパニが醸すのかは分からないけれど。
それは、官能に訴えるよりは、物理に訴える音、なんだよね。
それ自体は、別に褒めているつもりでも、けなしているつもりでもなく。
ただ、その時点で、そこからえられるある程度の満足感と、その延長線上からは決して得られない恍惚感が見えてしまって。
そして、驚くべきことに。
演奏が進むにつれて、最初に予想した満足感を遙かに、どんどん上回っていったんだ。恍惚感は、膨らまなかったけれど。
ブルックナーの5番は、よくゴシック建設に例えられて。ゴシック建設っていうものが本当はよく分かっていないのだけれど、まあ、周到な計算のもとに創られた、石造りの巨大な建造物、っていう理解であながち間違えてはいないと思うんだ。
僕も、今までそれで納得していたのだけれど。今日の演奏を聴いて、数日前に訪れた、とある城下町の石垣を思い出したんだ。
そこのお城はね、永きにわたって補修や増築を繰り返したから、いろいろな時代の技術が混在していて。石垣でいえば、自然の石をそのまま積み上げた古い時代から、少し面取りをして、計算しながら積み上げた時代、そして、直線的に加工できるようになってからの、隙間なく積み上げられた時代の三つに大別されていて。
そういう眼で見ると、じいさんのブルックナーは、真ん中の時代の石垣なんだよね。のみ一本で削りだしたように荒削りなんだけど、全体として調和がとれている。それがオオウエエイジの時代になって、より緻密な工作が可能になった。その結果としての、今日の5番。全ての音が、綺麗に直線的に加工されて、収まるべきところにぴたっと収まるような、そんな演奏。
そうやって造られたお城の石垣を見て、刊行に訪れていた老夫婦が言っていた言葉は、「これって、昔のものじゃないわよね」。それは、多分に風情のなさを嘆く感情が込められていたんだ。
今日の演奏も、全くその通りの聴き方をしていたんだ。最初はね。
遊び幅のない、緻密なアンサンブルは、演奏の最初から、最後に訪れるカタルシスを予想させてしまって、実際その通りに進んでいった。
でも、それってすごいことなんだ。
面取りだけした石垣には、隙間にちっちゃい石を突っ込んで、っていう愛嬌が許されるけれど、直線的に加工した石垣には、そういう遊びは許されない。設計図の通り忠実に組み立ててあたり前、寸分でも狂ったら目も当てられない。
それを引き受ける覚悟をした上で、80分間、全く裏切らない綱渡りを成し遂げる。それは、どえらいカタルシス、なんだよね。結果的に。
遠慮なしに、しかもコンスタントにバリバリのトロンボンを筆頭に、ホルンのソロも含めてブラスが絶好調で。(ほんのちょっと、通常あり得ない高音を外したホルンを貶す人がいたら、僕はその人を軽蔑するなあ)
寸分の隙もなく組み立てられた大伽藍。
そのコーダ。
僕は、汗だくになったよ。
じいさんのときには、アシを入れて、金管倍増でのコーダだったんだけど。その効果は絶大で、とてつもない浮遊感を懐かしく思い出したんだけれど。
今回は、なんと。
アシなしなんだ。アシなしで、シンフォニーホールをブラスの響きで埋めつくした。
「アシを入れようとしたら、『俺たちが倍吹くから、アシ入れなくてもいいだろう』っていうんですわ、シカゴ響の連中」そういってたじいさんの言葉、思い出したよ。
大フィルのブラスも、そこまで成長したんだね。嬉しいよ。
最後はホンと、汗だくになって聴いてたよ。堅実で分かりやすい指揮の高関さんは、5番にぴったりだったね。
しかし、やっぱり。
5番はCDには入りきれないね。これからも、生演奏楽しみにしてるよ。
ただ、それだけのはなし。
高関 健指揮、大阪フィル。
最初の弦のピチカートと、それに続くブラスのコラールを聴いて。
「なんて即物的な、ブルックナーなんだろう」って。
それは、音の始まりと終わりをきっちりタンギングして音価いっぱいに伸ばす、蒲鉾音型のチューバが醸すのか、ラッパからホルン、トロンボンまで完璧なバランスが醸すのか、はたまた一瞬の揺るぎもないティンパニが醸すのかは分からないけれど。
それは、官能に訴えるよりは、物理に訴える音、なんだよね。
それ自体は、別に褒めているつもりでも、けなしているつもりでもなく。
ただ、その時点で、そこからえられるある程度の満足感と、その延長線上からは決して得られない恍惚感が見えてしまって。
そして、驚くべきことに。
演奏が進むにつれて、最初に予想した満足感を遙かに、どんどん上回っていったんだ。恍惚感は、膨らまなかったけれど。
ブルックナーの5番は、よくゴシック建設に例えられて。ゴシック建設っていうものが本当はよく分かっていないのだけれど、まあ、周到な計算のもとに創られた、石造りの巨大な建造物、っていう理解であながち間違えてはいないと思うんだ。
僕も、今までそれで納得していたのだけれど。今日の演奏を聴いて、数日前に訪れた、とある城下町の石垣を思い出したんだ。
そこのお城はね、永きにわたって補修や増築を繰り返したから、いろいろな時代の技術が混在していて。石垣でいえば、自然の石をそのまま積み上げた古い時代から、少し面取りをして、計算しながら積み上げた時代、そして、直線的に加工できるようになってからの、隙間なく積み上げられた時代の三つに大別されていて。
そういう眼で見ると、じいさんのブルックナーは、真ん中の時代の石垣なんだよね。のみ一本で削りだしたように荒削りなんだけど、全体として調和がとれている。それがオオウエエイジの時代になって、より緻密な工作が可能になった。その結果としての、今日の5番。全ての音が、綺麗に直線的に加工されて、収まるべきところにぴたっと収まるような、そんな演奏。
そうやって造られたお城の石垣を見て、刊行に訪れていた老夫婦が言っていた言葉は、「これって、昔のものじゃないわよね」。それは、多分に風情のなさを嘆く感情が込められていたんだ。
今日の演奏も、全くその通りの聴き方をしていたんだ。最初はね。
遊び幅のない、緻密なアンサンブルは、演奏の最初から、最後に訪れるカタルシスを予想させてしまって、実際その通りに進んでいった。
でも、それってすごいことなんだ。
面取りだけした石垣には、隙間にちっちゃい石を突っ込んで、っていう愛嬌が許されるけれど、直線的に加工した石垣には、そういう遊びは許されない。設計図の通り忠実に組み立ててあたり前、寸分でも狂ったら目も当てられない。
それを引き受ける覚悟をした上で、80分間、全く裏切らない綱渡りを成し遂げる。それは、どえらいカタルシス、なんだよね。結果的に。
遠慮なしに、しかもコンスタントにバリバリのトロンボンを筆頭に、ホルンのソロも含めてブラスが絶好調で。(ほんのちょっと、通常あり得ない高音を外したホルンを貶す人がいたら、僕はその人を軽蔑するなあ)
寸分の隙もなく組み立てられた大伽藍。
そのコーダ。
僕は、汗だくになったよ。
じいさんのときには、アシを入れて、金管倍増でのコーダだったんだけど。その効果は絶大で、とてつもない浮遊感を懐かしく思い出したんだけれど。
今回は、なんと。
アシなしなんだ。アシなしで、シンフォニーホールをブラスの響きで埋めつくした。
「アシを入れようとしたら、『俺たちが倍吹くから、アシ入れなくてもいいだろう』っていうんですわ、シカゴ響の連中」そういってたじいさんの言葉、思い出したよ。
大フィルのブラスも、そこまで成長したんだね。嬉しいよ。
最後はホンと、汗だくになって聴いてたよ。堅実で分かりやすい指揮の高関さんは、5番にぴったりだったね。
しかし、やっぱり。
5番はCDには入りきれないね。これからも、生演奏楽しみにしてるよ。
ただ、それだけのはなし。
水滸伝 18巻 ― 2008年03月22日

僕は、わからないんだよね。
来月の今日、僕は、水滸伝の19巻を、本屋さんで手に取れるんだろうか。
毎月一冊ずつ、文庫本になっていった北方謙三の水滸伝。来月で完結なんだよね。
先月は、僕の大好きな隻腕の魯達が死に、今月は、騎馬隊の淋仲が死んだよ。
水滸伝を今まで読んだことのない僕も、この頃はやっと分かってきたからね、水滸伝が漢達の死に様の物語だってことが。だから、覚悟して読むから、死にゆくことに過度に心を揺り動かされたりはもう、しないのだけれども。
でも、来月の最終巻。
僕はやっぱり、わからないんだよね。
本屋さんで手に取るかどうか、がね。
だって。
水滸伝は、野望の潰える物語、なんだよね。
だとしたら、最終的に勝利は童貫の、宋のもので、史進も宋江も、みんなみんな滅んでいくんだよ。その死に様に向き合うには、こっちもそれだけの準備をしないと、失礼だよね。
ただ、もう続編が出ている、ってことで死なないと分かっている陽令だけは、安心して追いかけていられるけれど。でも、ちょっと唐突にスーパーマン過ぎるなあ。今月の陽令君は。
前に、水滸伝のもうひとつの楽しみは解説者、っていう話をしたことがあったけれど。もうひとつあるんだよね、水滸の楽しみ。
それは、最終巻が出たあとにまとめてゆっくり紹介するとして。
今回は、もう一回解説の話をするね。
最後の近い今月の18巻は、徹頭徹尾戦のお話で。苛烈な激闘の末のほんの小休止を経て、最後の大決戦に向かう緊張感で終わるのだけれども。
その、最後のページをめくって。
いきなり左のページから始まる解説。
今月の解説者、夢枕獏なんだよね。
ページをめくったとたんにそれが目に飛び込んできて、なんかほっとした。知り合いのいなくて緊張しているパーティに、不意に旧知の友人を見つけた時みたいにね。
夢枕獏はね、北方謙三と大体同じくらいにデビューして。いろいろなジャンルを書くのだけれど、一見ハードボイルド風な物語もそのレパートリーのうちだから、どこかでつながりがあるのかも知れないね。
僕が知っている二人のつながりは、棋翁戦てんまつ記っていう本の中で、北方が獏さんに手紙を書いている、その部分だけなのだけれど。
この棋翁戦てんまつ記っていう本は、ホントにしょうもなくて、僕は大好きなのだけれど。
推理作家協会な人たちがどっかで飲んでいて。このうち誰が強いんだ、っていう話になって。
俺だ俺だ、それでは相撲で勝負じゃ。いや店内では迷惑がかかる。それでは将棋で勝負じゃ。ってことになって。
その素人の棋譜と、勝者の雄叫びと、敗者の苦悶の言葉がどっかの雑誌に載っかって。ええいにっくき○○。某が負けた△△にかわって成敗いたす、ってことでどんどん乱入で膨らんで。そんなときに北方が、
「お前ら、小説で勝負しろ」って手紙を書いて。
あいつは将棋が打てないからあんなことを言うんだ、ってあんまり効き目はなかったのだけれども。
参加したバカな作家は、夢枕、逢坂、船戸、志水、黒川、宮部などなど。なんかもう一回読みたくなってきたな。
そういうわけで、まあ遊び仲間だな、というのは知っていたのだけれど。
大河ドラマのように、時の流れが主役で細部にこだわらない物語を、ファンタジーはリアルに宿るといいきる獏さんがどう解説するのかな、と思ったのだけれど。
案の定、というべきなのか。
ひとっことも、水滸伝には触れず。
まあ、それもありだよね。
この緊迫したクライマックスに、現代娯楽小説における北方水滸伝の位置づけは、とかいわれても困るものね。
徹頭徹尾お遊びの話題に終始した獏さんの解説。勿論賛否両論で、否の方が多いかも知れないけれど。
でも、それがなかったら、ぐぐっと入り込んだ三時間から目覚めることもできず、来月まであの物語の中に取り込まれるハメになったかも知れないものね。
そう考えると、僕が獏さんのファンだということを抜きにしても、いい解説だったよね。
さて。
僕は手に取ることができるのかな。
来月。
ただ、それだけのはなし。
来月の今日、僕は、水滸伝の19巻を、本屋さんで手に取れるんだろうか。
毎月一冊ずつ、文庫本になっていった北方謙三の水滸伝。来月で完結なんだよね。
先月は、僕の大好きな隻腕の魯達が死に、今月は、騎馬隊の淋仲が死んだよ。
水滸伝を今まで読んだことのない僕も、この頃はやっと分かってきたからね、水滸伝が漢達の死に様の物語だってことが。だから、覚悟して読むから、死にゆくことに過度に心を揺り動かされたりはもう、しないのだけれども。
でも、来月の最終巻。
僕はやっぱり、わからないんだよね。
本屋さんで手に取るかどうか、がね。
だって。
水滸伝は、野望の潰える物語、なんだよね。
だとしたら、最終的に勝利は童貫の、宋のもので、史進も宋江も、みんなみんな滅んでいくんだよ。その死に様に向き合うには、こっちもそれだけの準備をしないと、失礼だよね。
ただ、もう続編が出ている、ってことで死なないと分かっている陽令だけは、安心して追いかけていられるけれど。でも、ちょっと唐突にスーパーマン過ぎるなあ。今月の陽令君は。
前に、水滸伝のもうひとつの楽しみは解説者、っていう話をしたことがあったけれど。もうひとつあるんだよね、水滸の楽しみ。
それは、最終巻が出たあとにまとめてゆっくり紹介するとして。
今回は、もう一回解説の話をするね。
最後の近い今月の18巻は、徹頭徹尾戦のお話で。苛烈な激闘の末のほんの小休止を経て、最後の大決戦に向かう緊張感で終わるのだけれども。
その、最後のページをめくって。
いきなり左のページから始まる解説。
今月の解説者、夢枕獏なんだよね。
ページをめくったとたんにそれが目に飛び込んできて、なんかほっとした。知り合いのいなくて緊張しているパーティに、不意に旧知の友人を見つけた時みたいにね。
夢枕獏はね、北方謙三と大体同じくらいにデビューして。いろいろなジャンルを書くのだけれど、一見ハードボイルド風な物語もそのレパートリーのうちだから、どこかでつながりがあるのかも知れないね。
僕が知っている二人のつながりは、棋翁戦てんまつ記っていう本の中で、北方が獏さんに手紙を書いている、その部分だけなのだけれど。
この棋翁戦てんまつ記っていう本は、ホントにしょうもなくて、僕は大好きなのだけれど。

推理作家協会な人たちがどっかで飲んでいて。このうち誰が強いんだ、っていう話になって。
俺だ俺だ、それでは相撲で勝負じゃ。いや店内では迷惑がかかる。それでは将棋で勝負じゃ。ってことになって。
その素人の棋譜と、勝者の雄叫びと、敗者の苦悶の言葉がどっかの雑誌に載っかって。ええいにっくき○○。某が負けた△△にかわって成敗いたす、ってことでどんどん乱入で膨らんで。そんなときに北方が、
「お前ら、小説で勝負しろ」って手紙を書いて。
あいつは将棋が打てないからあんなことを言うんだ、ってあんまり効き目はなかったのだけれども。
参加したバカな作家は、夢枕、逢坂、船戸、志水、黒川、宮部などなど。なんかもう一回読みたくなってきたな。
そういうわけで、まあ遊び仲間だな、というのは知っていたのだけれど。
大河ドラマのように、時の流れが主役で細部にこだわらない物語を、ファンタジーはリアルに宿るといいきる獏さんがどう解説するのかな、と思ったのだけれど。
案の定、というべきなのか。
ひとっことも、水滸伝には触れず。
まあ、それもありだよね。
この緊迫したクライマックスに、現代娯楽小説における北方水滸伝の位置づけは、とかいわれても困るものね。
徹頭徹尾お遊びの話題に終始した獏さんの解説。勿論賛否両論で、否の方が多いかも知れないけれど。
でも、それがなかったら、ぐぐっと入り込んだ三時間から目覚めることもできず、来月まであの物語の中に取り込まれるハメになったかも知れないものね。
そう考えると、僕が獏さんのファンだということを抜きにしても、いい解説だったよね。
さて。
僕は手に取ることができるのかな。
来月。
ただ、それだけのはなし。
木蘭とこぶし ― 2008年03月23日
突然だけれども。
木蘭とこぶしって、似てるかな?
どちらも、木に咲く白い花、ってくくれると思うのだけれども。そして、その花弁はぼってりと厚くって、額がない、本当にないのかどうかはよく知らないけれど、少なくともあんまり目立たない、よね。
どちらも古臭い花、ってことでは一緒だよね。古臭いっていうのは、昭和30年代に流行りました、っていうのではなくって、何万年も前から変化していないんだろうなあ、っていう、そういう古臭さ。まあ、人間だってそう変わったわけではないのだろうけど、ね。
あ、なんでこんな事思うのか、っていうとね。
去年の、ちょうど今ごろ。ある人を木蘭に似てるな、って思うことがあって。他人と群れないで姿勢正しく凛としている、そういう人だったのだけどね。その人に、木蘭を歌った歌があるんだよ、っていったら、「未亡人の歌ですね」って。スターダストレビューの木蘭の涙を、その人が知っていたのか知らなかったのかは、今となっては確かめる術も無いけれど。そういえば、その人も喪服が似合う人だったなあ、って。
今日、訪ねた場所にね、たまたまこぶしが咲いていて。もちろん木蘭はそんなに賑やかではないのだけど。木に咲く白い花を見ていたら、そんなことを想い出したよ。
逢いたくて 逢いたくて
この胸のささやきが
あなたを捜している
あなたを呼んでいる
いつまでも いつまでも
そばにいると言ってた
あなたは嘘つきだね
わたしを置き去りに
せつない、歌だよね。
なのだけれど。
正直に白状するとね、僕は、心に思い浮かべられないんだよね、克明には。木蘭の花を、ね。
だから、誰か教えてよ。
僕が今日見たこぶしの花と、木蘭の花って、似ているのかな、似ていないのかな。
木蘭とこぶしって、似てるかな?
どちらも、木に咲く白い花、ってくくれると思うのだけれども。そして、その花弁はぼってりと厚くって、額がない、本当にないのかどうかはよく知らないけれど、少なくともあんまり目立たない、よね。
どちらも古臭い花、ってことでは一緒だよね。古臭いっていうのは、昭和30年代に流行りました、っていうのではなくって、何万年も前から変化していないんだろうなあ、っていう、そういう古臭さ。まあ、人間だってそう変わったわけではないのだろうけど、ね。
あ、なんでこんな事思うのか、っていうとね。
去年の、ちょうど今ごろ。ある人を木蘭に似てるな、って思うことがあって。他人と群れないで姿勢正しく凛としている、そういう人だったのだけどね。その人に、木蘭を歌った歌があるんだよ、っていったら、「未亡人の歌ですね」って。スターダストレビューの木蘭の涙を、その人が知っていたのか知らなかったのかは、今となっては確かめる術も無いけれど。そういえば、その人も喪服が似合う人だったなあ、って。
今日、訪ねた場所にね、たまたまこぶしが咲いていて。もちろん木蘭はそんなに賑やかではないのだけど。木に咲く白い花を見ていたら、そんなことを想い出したよ。
逢いたくて 逢いたくて
この胸のささやきが
あなたを捜している
あなたを呼んでいる
いつまでも いつまでも
そばにいると言ってた
あなたは嘘つきだね
わたしを置き去りに
せつない、歌だよね。
なのだけれど。
正直に白状するとね、僕は、心に思い浮かべられないんだよね、克明には。木蘭の花を、ね。
だから、誰か教えてよ。
僕が今日見たこぶしの花と、木蘭の花って、似ているのかな、似ていないのかな。