キッチン よしもとばなな ― 2007年07月03日

高校生の時、なに読んでいた? って訊いて、
澁澤龍彦とよしもとばなな。って。
この二人が、この順番で返ってくる女の人って、この日本にどれくらいいると思う?
ちなみに、僕がこの質問をされたら。
平井和正と太宰治、かな。それは中学かな。
夢枕獏と、栗本薫かな。そんなやつ、一千万人くらいいそうだな。
そう。僕は嫉妬したんだよね。
何になのか、よく分からないんだけれども。
マイノリティを任じる僕が、その人の圧倒的なマイノリティさに比べて、自分のマジョリティさを恥じた、っていうのが正しいのかも知れないのだけれど。
ちなみに、あとで気がついたのだけれども。
僕も高校時代、シブサワタツヒコ、読んでました。
オヤジの本棚からくすねた、O嬢の物語。あれがシブサワ(訳)だったのね。
そんなこんなで、読んでみました。
よしもとばなな、なんぼのもんじゃい、って感じでね。
キッチン。
もちろん、ものすごく話題になった本だから、知ってはいたのだけれど。もしかしたら姉の本棚からくすねて読んだかも知れないけれど。
僕にとってそのころのよしもとばななは、村上龍が嬉しそうに鼎談していた吉本隆明の娘。っていう存在。だからまあ、読まず嫌い、ってことね。
今回は、ハードカヴァーのはじめての文学、よしもとばなな編。
キッチン。
綿矢りさ子とか、金原ひとみとか。このごろの早熟な才能を読んだ目から見ると、ほほえましい、って言える小説。
山田詠美のデビュー作から比べたら、きちんと修行をしてから出てきた詠美に申し訳ない、っていうくらいの出来。
なんだけどね。
もちろん、そんな読み方は全く間違っていて。
「あの子ね、かかりっきりで育ててないからいろいろ手落ちがあるのよ。」
「情緒もめちゃくちゃだし、人間関係にも妙にクールでね、いろいろちゃんとしてないけど……やさしい子にしたくてね、そこだけは必死に育てたの。あの子は、やさしい子なのよ。」
この部分だけで、もう。
ああ、幸せに育って、上品に躾けられてきたんだなあ。
そういうのに弱いんだよね、僕。
でもよかった。
これがシブサワタツヒコとヤマダエイミっていわれてたら、僕は、多分、嫉妬に狂っていたと思うんだよね。
何に対する嫉妬、なのかは相変わらず分からないのだけれども。
よしもとばなな、他のも楽しみに読ませてもらうよ。
ところで、八重洲ブックセンターで、よしもとばななと谷川俊太郎をもらった図書カードで買う30代後半のオッサンって、どれくらいいるんだろうね。
ただ、それだけのはなし。
SAYURI memories of RIN ― 2007年07月15日

響きは美しいんだけどね。
どうも、字として不格好なんだよね。
もちろん、僕のとんでもなく下手な筆記では、どうやっても様にならないのは分かるけれど、これが様になる書体って、どんなんだろう。あんまり想像できないな。
響きは、美しいんだけどね。
凜。
っていう字のことなんだけどね。
りん。
美しい、響きだよね。
僕は別に安倍首相の肩を持つわけではないけれど、日本は、美しい国だ、あるいは美しい国だったとは思っていてね。
その美しさを表すのに一番いい言葉が、凜。そう思うんだよね。このごろ。
というわけで、SAYURIっていう、映画を見たよ。
僕は、チャン・ツイィーが大好きでね。っていうわりには照れくさくって劇場まで足を運ぶことはあまりしないのだけれども。
WOWOWでオンエアしたのを、HDに録ったのだけれども、映画好きの友人が声を揃えてだめ出しをするものだから、ちょっと躊躇してたんだよね。観るのを。
でも、嵐に閉じこめられた連休の暇つぶしとして、観てみたよ。ようやく。
もちろん、だめ出しをするひとのことも分からないではないよ。日本文化の粋である芸者を、中国人が演じていて、しかも英語をしゃべってる。その部分に抵抗を感じる人もいるかも知れない。
でも。
にもかかわらず。
僕は好きだなあ。この映画。
何年か前、ハリウッドにジャパネスクのブームがあったよね。ラストサムライとキルビルvol.1。その流れをくむ、ジャパネスク映画なのだと思うのだけれども。こういう、異文化から観た日本文化へのリスペクトって、面白いよね。
面白いっていうか、僕らが日頃忘れてしまっている、日本文化って捨てたもんじゃないよ、っていうことを想い出させてくれる。
もちろん、ちょっと違う、っていって笑うことは簡単なことだけどね。でも、いい線行ってるでしょ、SAYURIは。
安直な娼館ではなく、芸を売り物にした芸者で成り立っている街、はなまち。そこに生きる、強い、けれども状況を変える力を持たない芸者の物語。
その物語を魅力的に見せているのが、
凜。
具体的には、チャン・ツイィーの手の形とか、仕草とか、表情とかなんだけどね。
この映画の違和感を笑う前に、日本文化の凜、を表現するために、ハリウッドが選んだのが中国女性のチャン・ツイィーだ、っていうことを、我々は恥じなければいけないんじゃないかなあ。
土屋アンナはおいといて、この役を演じ得れる女優、だれか思い浮かぶ?
ただ、それだけのはなし。
どうも、字として不格好なんだよね。
もちろん、僕のとんでもなく下手な筆記では、どうやっても様にならないのは分かるけれど、これが様になる書体って、どんなんだろう。あんまり想像できないな。
響きは、美しいんだけどね。
凜。
っていう字のことなんだけどね。
りん。
美しい、響きだよね。
僕は別に安倍首相の肩を持つわけではないけれど、日本は、美しい国だ、あるいは美しい国だったとは思っていてね。
その美しさを表すのに一番いい言葉が、凜。そう思うんだよね。このごろ。
というわけで、SAYURIっていう、映画を見たよ。
僕は、チャン・ツイィーが大好きでね。っていうわりには照れくさくって劇場まで足を運ぶことはあまりしないのだけれども。
WOWOWでオンエアしたのを、HDに録ったのだけれども、映画好きの友人が声を揃えてだめ出しをするものだから、ちょっと躊躇してたんだよね。観るのを。
でも、嵐に閉じこめられた連休の暇つぶしとして、観てみたよ。ようやく。
もちろん、だめ出しをするひとのことも分からないではないよ。日本文化の粋である芸者を、中国人が演じていて、しかも英語をしゃべってる。その部分に抵抗を感じる人もいるかも知れない。
でも。
にもかかわらず。
僕は好きだなあ。この映画。
何年か前、ハリウッドにジャパネスクのブームがあったよね。ラストサムライとキルビルvol.1。その流れをくむ、ジャパネスク映画なのだと思うのだけれども。こういう、異文化から観た日本文化へのリスペクトって、面白いよね。
面白いっていうか、僕らが日頃忘れてしまっている、日本文化って捨てたもんじゃないよ、っていうことを想い出させてくれる。
もちろん、ちょっと違う、っていって笑うことは簡単なことだけどね。でも、いい線行ってるでしょ、SAYURIは。
安直な娼館ではなく、芸を売り物にした芸者で成り立っている街、はなまち。そこに生きる、強い、けれども状況を変える力を持たない芸者の物語。
その物語を魅力的に見せているのが、
凜。
具体的には、チャン・ツイィーの手の形とか、仕草とか、表情とかなんだけどね。
この映画の違和感を笑う前に、日本文化の凜、を表現するために、ハリウッドが選んだのが中国女性のチャン・ツイィーだ、っていうことを、我々は恥じなければいけないんじゃないかなあ。
土屋アンナはおいといて、この役を演じ得れる女優、だれか思い浮かぶ?
ただ、それだけのはなし。
ハードボイルド vs. ノヴェル・ノワール on 水滸伝 ― 2007年07月22日

月に一回、楽しみにしているものがあってね。
北方謙三の、水滸伝。
三國志は、図書館で借りて読んだのだけれども、水滸伝が刊行される頃には、行きつけの図書館が使えなくなっちゃってね。ずっと待ってたんだ、文庫化。
それが、毎月一冊ずつ、文庫化されてるの。今、全十九冊の、十冊目。
僕は歴史物に全く興味がなかったから、三國志も、水滸伝も、北方版でしか知らないのだけれども、それにしても面白いよね。
三國志も、水滸伝も、漢(おとこ)達が野望のため、志のために死んでいく物語。北方の、短い文章と合わさって、それは完全なハードボイルド。
文庫版には、毎回おまけが付いていてね、巻末の解説なのだけれど。結構面白いんだよね。まあ、みんな絶賛していることに変わりはないのだけれども。
その解説の中で、第九巻の、馳星周の解説は、飛び抜けて面白いんだなあ。今では最新刊ではなくなっちゃったけど。
馳星周って、不夜城や漂流街で、日本にノヴェル・ノワールっていう分野を定着させた人、なんだよね。ノヴェル・ノワールって、無理に日本語にしたら、暗黒小説。L.A.コンフィデンシャルや、最近ではブラックダリアが映画化されたジェイムス・エルロイっていう人が代表格の、比較的新しいジャンルなのだけれど。
とにかく、真っ黒。救いがない、希望がない、野望もない。ただ、男達が破滅していく、そういう小説。
でも、血と銃弾の物語であり、刑事と探偵の物語であったりすることが多くって、それじゃあハードボイルドとノヴェル・ノワールってどうちがうの、っていわれると説明に困ったりもしていたのだけれども。
この解説は、その違いをとっても鮮明に、浮き上がらせているんだなあ。
ノヴェル・ノワールたる馳星周の登場人物達は、ずるく、せこく立ち回ることを信条としていて、意地とか、誇りとか、ましてや志なんて生きるために邪魔なものに過ぎない。特に志なんて甘っちょろいこといってるやつは致命的な阿呆であり、救いようがない。
そういう男達を描く馳星周には、ハードボイルド作家の北方謙三が、水滸伝がうざったいんだよね。おとこは志など口にせずに野垂れ死ぬべきだと。それなのに、108人もの男が志を口にして死んでいく暑苦しい物語につき合っていられるか、って。
もちろん、他の巻の解説人が言うように、水滸伝が日本エンターテイメント文学の記念碑たる作品だったら、作家に、それも似たようなフィールドで勝負する作家が解説書くのって酷だよね。だから、馳星周も、俺はスタンスが違うからね、ってスカしてみせるしかなかったのだろうけれど。
そういうことを分かった上で、でも、馳星周の解説は面白かったんだよね。
志に生き、家族を捨て、好き勝手に死んでいく男達に限りなく共感しつつも、いざ我が身に置き換えてみると、っていう閉塞感を感じることも、もちろんあるからね。
そういう大多数の読者に、物語が半分に差し掛かろうかっていうときに、ああ、そうじゃない生き方だってあるよなあ、っていう馳星周のメッセージ、それは確かに効果的で、必要なものだったんだろうね。
ハードボイルドとノヴェル・ノワール、僕はどっちも好きだけどね。
ただ、それだけのはなし。
北方謙三の、水滸伝。
三國志は、図書館で借りて読んだのだけれども、水滸伝が刊行される頃には、行きつけの図書館が使えなくなっちゃってね。ずっと待ってたんだ、文庫化。
それが、毎月一冊ずつ、文庫化されてるの。今、全十九冊の、十冊目。
僕は歴史物に全く興味がなかったから、三國志も、水滸伝も、北方版でしか知らないのだけれども、それにしても面白いよね。
三國志も、水滸伝も、漢(おとこ)達が野望のため、志のために死んでいく物語。北方の、短い文章と合わさって、それは完全なハードボイルド。
文庫版には、毎回おまけが付いていてね、巻末の解説なのだけれど。結構面白いんだよね。まあ、みんな絶賛していることに変わりはないのだけれども。
その解説の中で、第九巻の、馳星周の解説は、飛び抜けて面白いんだなあ。今では最新刊ではなくなっちゃったけど。
馳星周って、不夜城や漂流街で、日本にノヴェル・ノワールっていう分野を定着させた人、なんだよね。ノヴェル・ノワールって、無理に日本語にしたら、暗黒小説。L.A.コンフィデンシャルや、最近ではブラックダリアが映画化されたジェイムス・エルロイっていう人が代表格の、比較的新しいジャンルなのだけれど。
とにかく、真っ黒。救いがない、希望がない、野望もない。ただ、男達が破滅していく、そういう小説。
でも、血と銃弾の物語であり、刑事と探偵の物語であったりすることが多くって、それじゃあハードボイルドとノヴェル・ノワールってどうちがうの、っていわれると説明に困ったりもしていたのだけれども。
この解説は、その違いをとっても鮮明に、浮き上がらせているんだなあ。
ノヴェル・ノワールたる馳星周の登場人物達は、ずるく、せこく立ち回ることを信条としていて、意地とか、誇りとか、ましてや志なんて生きるために邪魔なものに過ぎない。特に志なんて甘っちょろいこといってるやつは致命的な阿呆であり、救いようがない。
そういう男達を描く馳星周には、ハードボイルド作家の北方謙三が、水滸伝がうざったいんだよね。おとこは志など口にせずに野垂れ死ぬべきだと。それなのに、108人もの男が志を口にして死んでいく暑苦しい物語につき合っていられるか、って。
もちろん、他の巻の解説人が言うように、水滸伝が日本エンターテイメント文学の記念碑たる作品だったら、作家に、それも似たようなフィールドで勝負する作家が解説書くのって酷だよね。だから、馳星周も、俺はスタンスが違うからね、ってスカしてみせるしかなかったのだろうけれど。
そういうことを分かった上で、でも、馳星周の解説は面白かったんだよね。
志に生き、家族を捨て、好き勝手に死んでいく男達に限りなく共感しつつも、いざ我が身に置き換えてみると、っていう閉塞感を感じることも、もちろんあるからね。
そういう大多数の読者に、物語が半分に差し掛かろうかっていうときに、ああ、そうじゃない生き方だってあるよなあ、っていう馳星周のメッセージ、それは確かに効果的で、必要なものだったんだろうね。
ハードボイルドとノヴェル・ノワール、僕はどっちも好きだけどね。
ただ、それだけのはなし。