宝島 映画篇 ― 2025年11月18日
国宝、は現在お年寄りの若い頃、ということでの60年代。
遠い山なみの光、は長崎原爆の体験者の回想、ということでの50年代。
そして、今回見たのは、「宝島」。米国に占領された沖縄のものがたり。
前の二つが、ブンガク的な映画、だとしたら、宝島は、堂々たるエンターティンメントの大作映画。すごい、楽しい。
アメリカに占領されて、基地があって、米兵の暴虐に文句も言えない、終戦後の沖縄。
若いギャング達が、キャンプに忍び込んで物資を調達して義賊を気取るけど、ある日、そのボスは帰ってこなくって。
時は経って、ある者はボスを探すために刑事になり、ある者はボスに貞節を誓い続けていて、ある者は喰うためにヤクザになり、テロリストに片足を踏み入れている。
そういう、いろんな立場の人たち、そして群衆の感情が爆発するクライマックス。
ちまちましたセットとCGではない、と思える熱気と爆発の温度感と。ハウリングを恐れないゲインの高い音と沖縄言葉と入り交じる英語で何言ってるか分からないところもあるけれど。そんなことをものともしない、テンションの高い映画、だったね。
至るところで爆発する火炎瓶やひっくり返されるクルマや。感情のままにあふれ出す叫び声や啖呵や。世の中やオトナに対して向けられる、欺瞞をさしてえぐり出すナイフのような目や。
いいなあ。
ジョゼと虎と魚たち、以来くらいにちゃんと見る妻夫木君も。デスノートのイメージが強い窪田君も。ゆきてかへらぬ、から大正昭和づいている広瀬すずも。
いいなあ。
広瀬すず。
典型的なアイドル女優として、チアダンとか、ちはやふるの印象が鮮烈だった彼女も、いろんなラブストーリーとかラブコメとかピンクのウィッグとサングラスとかを経て、ムシューダのCMではないけれど、「連ドラのヒロイン風ワンピ」とか、もう少し前の時代のドレスとかを着こなす近代物に、たくさん出るようになったね。
作品数が多くて、ついて行くのは大変だけれど。
でも、あんまりないけれど、映画を見に行くときに女優で観に行く人の一人になったよ。ラストレターの時には、顔と名前が一致してなかったけれど。
いいなあ。
広瀬すず作品としては、遠い山なみの光と同時期に、同時代だけど全く違う作品を残してくれたことが。
長尺の大作、ということでは、芸を突き詰めた(そして結果的に大ヒットした)国宝と同時期に、エンタメてんこ盛りの作品を堂々と世に送り出してくれたことが。
なんか、映画って、いいね。
来週は、何見ようかな。
ただ、それだけのはなし。
遠い山なみの光 映画篇 ― 2025年11月18日
遠い山なみの光
こわい、映画だったね。思ってたのと、全然、違う。
1950年代、終戦から、ゲンバクからの復興真っ盛りの、長崎。
そして、1980年代、携帯電話ができる前の、イギリス。
この二つの時代と場所を舞台に、二つの物語が進むのだけれど。
長崎では、会社員の夫を持つ妊娠中の妻。そこに校長をリタイアした義父が訪ねてきて。という舞台に、謎の母子がひょんな事から妊娠中の妻と知り合って。という形で物語が進んでいって。
イギリスでは、複雑な事情がありそうな母子。離れて暮らす母の家に、原爆の時代の長崎の家族の手記を書こうとしている娘がインタビューする、という形で進んでいく。
どうやら、長崎パートの妊娠中の妻、悦子(広瀬すず)が、イギリスパートの母親、悦子(吉田羊)であって、インタビューは、彼女が長崎でどういう生活をして、なぜイギリスに来たのか、ということを聞こうとしている様で。
イギリスの家の古い荷物から出てくる、若い頃のお母さん、悦子の写真は広瀬すずだし、役名もそうなのだけれども。
悦子は、会社員の夫を持ち妊娠中で、昔ヴァイオリンを弾いていた様だけれど、海外に行きたい、というこれといった欲望もなくて。
知り合い母子の佐知子(二階堂ふみ)は、GIが頻繁に家に訪ねてくるからパンパンだと街中に思われていて。GIが自分たちをアメリカに連れてってくれる、と信じて準備を進めている。
英語も、子供の頃から勉強していて、ディケンズの本を原書で読み、観光に来ている外国人とも話ができ、日本を出てアメリカに暮らすのを心待ちにしている。
イギリスの悦子の娘はどう見ても白人とのハーフで、名前もアメリカ名のニキ。どうやらニキには姉がいたらしいが、自殺して、葬儀にも参列しない程仲が悪かったらしい。姉の方は日本名。
長崎では、女性が人間として可能性を持つためには、海外に行かなければならない、と信じる佐知子(二階堂ふみ)に感化されてか、悦子(広瀬すず)も嫁いでから自分のやりたいことを見失っていると思い始めて。
夫に隠しているけれど、実は長崎で被爆した身で子供を授かっていることに不安と恐怖を覚えていて。
そんなことを経験としてくぐり抜けて、したたかに生きている佐知子(二階堂ふみ)を、どこか眩しく思っている悦子(広瀬すず)。
イギリスの母親悦子(吉田羊)が、娘に聞かれて思いだした、という、それまで語らなかった終戦後の佐知子(二階堂ふみ)のエピソード。
長崎では、明日にもアメリカに向けて発つ、その準備をしている佐知子(二階堂ふみ)。娘の飼っていた猫を連れて行く、棄てていくで口論になって。
その、猫を入れている木箱。その木箱をお祭りの射的で獲った母子の乗る路上電車を、街角から見る目。遠景だけれど、悦子(吉田羊)の目。
ロンドンでは、これまで入らなかった自殺した姉の部屋に入ったニキ。母が日本から持ってきただろう古い荷物を眺めている。
昔の写真、義父が帰郷する際に残した手紙、そして、それらを入れている木箱は。
猫の家にするため、佐知子(二階堂ふみ)の娘が射的で獲った木箱。
長崎。
ロープウェイに乗り合わせた海外の観光客と世間話をする悦子(広瀬すず)。むずがる子供を叱る悦子(広瀬すず)。
ちょっと前には、同じ観光客と喋っているのは佐知子(二階堂ふみ)で、子供を叱っているのも佐知子(二階堂ふみ)のシーンがあって。
こわいよね、怖い。
長崎パートは、イギリスで悦子(吉田羊)が娘のニキに語ったことを映像にしているんだよね。
母親が、娘に、こうであったと思わせたいはなし。母親が、娘に知られたくない、聞かせたくないことを避けた、物語。
佐知子(二階堂ふみ)に影響を受けて海外に行くことになった、と悦子(吉田羊)は云っていたけれど、佐知子(二階堂ふみ)は本当にいたのか。
結婚し、妊娠していた悦子(広瀬すず)、イギリスに連れてきて、自殺したのはお腹の中の子供なのか、それとも佐知子(二階堂ふみ)の子供(として長崎パートに出ていた子供)なのか。残された写真からは、佐知子(二階堂ふみ)の子供と同じ人に見えるけれど。
何かを隠すために、空想、あるいは悪夢の中で佐知子(二階堂ふみ)をこしらえて、自分の物語を佐知子(二階堂ふみ)に仮託しようとした。その物語は、もちろんどこかで破綻をする。その破綻が、バスを見ていた、悦子(吉田羊)の目。
外国人と観光地で話をし、子供を叱りつける、悦子(広瀬すず)。
だとしたら、悦子(吉田羊)は、何を隠したかったんだろう。
会社員との結婚生活。義父の教育者としての、退職後の挫折。それは、ホントにあったのかなかったのか。
小説読んで、映画もう一度見てみたいな。
ただ、それだけのはなし
国宝 まずは映画から ― 2025年11月14日
ちょっと前になるけれど。
久しぶりに、映画館に行ったよ。
「国宝」。
歌舞伎役者の子供と、十代半ばでその家に拾われた、歌舞伎に魅入られた孤児。同い年の二人は共に芸を学び、若くして二人組として人気を博するけれど、、、
血筋と努力と才能と、そして友情と反発と。
そういったものを行きつ戻りつしながら、おたがいの生き様と、周りの人を描いた、重厚な物語、なんだよね。
興行収入一〇〇億円に達しよう、っていう映画だから、良く知っている人も多いと思うのだけれど。若手の俳優二人が、真正面から歌舞伎の、女形の演技に挑んだことで、話題になっていたよね。
サービスデーなどの特典のない、平日の午前中だったのだけれど、驚くべきことに映画館は4列目以降ほぼ満員でね。ぼくの両隣にも人がいて、ちょっと窮屈だったから、空いている3列目に移動して鑑賞したのだけれど。
3時間っていう上映時間、退屈しないのかな、って思っていたのだけれど、失礼しました。退屈どころか、もっと長くても良かったかな、って思ってしまいました。
この映画、もしも観に行こうか迷っていたり、サブスクで見たらいいや、と思っている人がいたら、断然、間違いなく映画館で見ることをおすすめします。
個人的には、映画館の、前の方の席で、スクリーンの右側と左側を注視するためには首を曲げないといけないくらいの距離で観るのがいいと思うけど、それはまあ、好き好きだけれどもね。
なんでかって言うと。
この映画、歌舞伎の場面が多くって。歌舞伎って、常日頃から慣れ親しんでいる人ってそんなに多くないと思うけれど、やたらゆっくりでまどろっこしい、そういうイメージを持っているヒトが多いのかな、と想像するんだよね。
その、やたらゆっくりでまどろっこしい歌舞伎の。演技の中に秘められた芸や感情を、アップを多用した緊張感の中に見せていこう。そういうことを目論んで、かなりの部分成功している映画、だと思うからね。
でも、そういうゆったりしたテンポ感の中にある緊張感とか、細部の芸とか感情っていうのは、日常生活から切り離された時間空間で、一点だけを見つめる、そういう鑑賞方法でしか十分には感じられない、と思うんだよね。
多分、明るいリビングや自室のスマホで、いろいろなことをやりながらこの作品を切れ切れに観たら、歌舞伎のシーンは早回しでいいや、ってことになってしまうと思うんだよね。それって、ホントにもったいない。だから、映画館でみて欲しいなあ、と思うんだよ。
これから先は、ネタバレも含むから、観た人、これから観る人は観た後にまた、ね。
この映画、企画して製作して、完成までこぎ着けたこと、ホントに敬意を表します。そして、日本映画史上屈指の興行収入を得るほどの大ヒット、本当におめでとうございます。
多分、怖かったと思うんだよね。
この映画の成否って、吉沢亮と横浜流星、その子役達の、歌舞伎の演技にかかってるよね。主演の二人は、何年も練習にかけた、って何かに書いてあったけど、そんなに前から企画が進んでお金を出していた人たちがいる、ってことだもんね。
もし、この二人が、一見して偽物って分かる素人の女形しかできなかったら、ただのアイドル映画に成り下がってしまう。そのリスクは、結構大きかったと思うんだよね。
だから、本当におめでとうございます。
歌舞伎の演技ってすごい、っていうことを、存分に感じることができました。
それは、吉沢亮と横浜流星の演技そのものであったり、アップを多用したカメラワークであったり、劇中で演技を観ている人たちの反応と台詞であったり。そういう、素人にも分かりやすいしかけが随所に施されていることも承知しつつ、そこに引き込まれることが心地よい、っていう空間だったんだよね。
もちろん、完璧じゃない、って思うところもあって。
劇中で流れる時間が長いから、歌舞伎以外のシーンが紙芝居になってしまっているな、と思うこともあるし(高畑充希の心変わりとか、森七菜の突然の登場と退場とか)。
悪魔に魂を売った、いわゆるありふれたクロスロード伝説の覚悟と「失った物」の大きさが全く感じられなかったとか。
でもまあ、そういうのは、ストーリーを進めるための仕掛けである、と思っても良いのだけれど。
ひとつだけ、どうしてもよく分からないところがあるんだよね。
人間国宝になった吉沢亮がインタビューを受けるところで。「順風満帆の役者人生でしたが」っていわれるところがあって。いや、順風満帆じゃない、っていう話をいままでしていたのに、と思ったのだけれど。
歌舞伎に復帰してからは永らく順風満帆だったよね、なのか、過去のいざこざなんてなかったことになるんだよね、なのか。いずれにしても何か感情的に引っかかる筈の(そのための)言葉なのかと思うのだけれど、なんかスルーされた気がするんだよね。
なんのために、フックになるこの言葉を使ったのか、よく分からないままになっちゃったな。
平日の午前中、観客席を埋めたのはほぼシルバー世代の人たちで。そういう人たちを大挙して劇場に呼べる大人の映画が出現したこと、映画業界にとっても本当に、良かったね。
吉沢亮さんが成し遂げた偉業を、称賛します。曽根崎心中、すごかったです。
ただ、それだけのはなし。
尾高さんの、バリバリの、ブルックナー6番 ― 2024年01月23日
1月だね。今年はあまり明けましておめでとう、という感じではない年明けだけれども。
1月って言うと、はじまりと言うより、第4四半期のはじまり、つまりは終わりの始まり、という慌ただしさが頭にくるようになっちゃったんだよね。いつからかな、職業病だな。
まあいいや。
僕は、大フィルさんは定期会員って云って、毎回同じ席ので聴いているのだけれども。そのチケットは、定期演奏会10枚が一冊になった綴りのチケットなんだよね。
この数年、もっとかも知れないけれど、その綴りのチケットで、半券がまだついているやつが結構残ったんだよね。つまりは、行けなかった演奏会がたくさんあったの。行けなかっただけじゃなくって、行かなかったものも結構あるのかな。
それが、今年はね、1月だから、8回目の演奏会なのだけれども、全てのチケットが半券切られてるんだよね。つまり皆勤賞。あたり前のことなんだけどね、ちょっと嬉しい。
とはいえ、他のコンサートはチケット取っても行けなかったやつも結構あって、ちょっと残念なのだけれど。
まあいいや、そんな訳で、ここには書いていないけれど、大フィルさんを聞くのをやめた訳じゃないよ、という事です。
あらためて、そんな訳で、1月の定期。
尾高さんのブルックナー、6番。
ちょうど会場で、7番のCDが発売になってたんだ。今年は生誕200年のブルックナーイヤーらしいから、いろいろな曲がなまで聴けそうだね。
という事で、今年の大フィルさんのブルックナー1発目は、6番。
渋いね。そのあとも、尾高さんの特別演奏会では、0番、1番、2番って続くようなのだけれども。
どれもこれも、もしかしたら生で聴くの初めての曲? もちろん、せっかくブルックナーだったら、他の大曲も聴きたいのだけれど、まず6番、どういう演奏になるんだろう。
生では聴いたことない、とはいえ、CDではもちろん聴いたことがあって、知らないフレーズ、って言うのはあんまりない、筈だったんだけどね。
尾高さんのブルックナー、面白いね。
何が面白いって、そのバランス、って言うか、鳴りの良さ。
木管楽器のソロが結構多いのだけれども、そんなに気張って吹いている訳ではないのに、飛び抜けて聞こえてくるのは、弦の透明感があるから、なのかな。
聞こえてくるべきメロディーがあって、確かにそれは聞こえてくるのだけれど、でも、主役はそこではなく、ああ、こんな事をやっていたんだ、これが主役なんだね、っていう所が結構たくさんあって。それは家でCDで聴くのと音質も音量も集中力も違うからなのだと思うけれど。
そして、僕の頭の中の6番と一番違うのが、トロンボン。
大フィルのトロンボンは、このごろものすごくてね。特にトップの福田えりみさんの音色と高音から低音まで質感が変わらない、ダイナミックレンジの広い音が僕は大好きなのだけれど。演奏の姿勢がいい福田さんは、1階席のど真ん中で聴いている僕に、常にベルを向けている状態で演奏してくれるから、そのせいもあると思うのだけれど、常にベルを揺らさないで演奏するって、なかなかできないんだよね。
でも、今日はトップの福田さんではなく、バストロかな。前列の人数の関係で、トップのベルの真ん前はファゴットの人の頭が来ていて、その分バストロのベルががら空き。そして、バストロの方の姿勢も良くって。
そして、演奏がえげつない。
ブルックナーの金管のコラールって、ホルンとトロンボンで成り立っていてね。指揮者やオケによって、ホルンが主体のバランスのところと、トロンボンが主体の演奏や曲があって。
トゥッティで、音量的には互角で、音色的にトロンボンが少し前に出る、って言うのが僕の好きなパターンなのだけれど。
この日のトロンボン、というかバストロとチューバなのか。
なんかのたがが外れてるのか、って言うほど、吹きまくり。バリバリ。
もちろん、音が割れている訳でも外れている訳でもなく、音楽なのだけれど、それでもあんまり聴いたことがないバランス。
それを止めない尾高さん。
フルトヴェングラーのタンホイザーって、こういう感じだったんだろうか、って思いながら、聴いてたよ。
なんか、爽やかな演奏だったな。曲のせいかな。パンフレットの解説にも書いてあったように、小難しい5番が、演奏家に受け入れられずに演奏されず、シンプルな6番を作曲した、みたいな感じらしく。
小難しいハードボイルドが全く売れず、開き直って書いた単純明快な新宿鮫がばか売れした大沢在昌みたいだな、と思ったんだよね。
ちょっと話がずれたけど。
こんな良い演奏、録音しないのもったいないなあ、と思ったら、この曲持って東京に討ち入りに行くんだね。
そういえば、尾高さんの録音は東京のものが多いのかな。まあ、機材とかエンジニアとか、大阪に来るのは大変なのだろうけれど、大阪の人が聴いた演奏、それを録音してほしいなあ。「俺これ聴いたんだぜ」補正って、間違いなくあるもんね。
まあいいや。
東京で、このバリバリの6番やって、大受けして、CDも発売してください。
待ってるから。
ただ、それだけのはなし。
大阪フィルハーモニー交響楽団
第574回定期演奏会 @フェス
指揮:尾高忠明
曲:武満徹 オーケストラのための「波の盆」
ブルックナー 交響曲 第6番
Originと、Originalと。 ~安彦カントクの、ククルスドアンの島〜 ― 2022年06月19日
GWから夏休みの間なんて、本来オフシーズンだよね。映画って。
それを、なんと3本も連続して観にいっちゃんだから、映画産業も大忙し、なのか、我々オッサンはお呼びじゃない、のか。
どっちなのかよく分からなくなってきたけれど。
この週末、どんくらい振りかよく分からないけれど、映画のはしごなんてして、5月のオッサン向け映画、片つけてきたよ。
先々週のトップガンに続いて、ガンダムとウルトラマン。
ガンダムはね、70年代のファーストのときに富野カントクの下でキャラデザインや原画ををやっていて、その後The Originって言うガンダムマンガを描いた安彦良和が監督した、ククルス・ドアンの島。ファーストのTVシリーズの第15話を膨らませた2時間の長編映画。

安彦ガンダムは、マンガのThe Originを描いたあと、アニメ版としてシャアとセイラの子供時代から1年戦争の開戦前までを描いたOriginを創って。そのあと1年戦争を全部アニメ化する、とか安彦さんが云っているのを観たような気がするけれど、結局実現したのがこのククルスドアン。
まあ、そりゃあそうだよね。キャラ描いたって漫画描いたって、ガンダムは富野さんの作品であって、安彦さんのものでは無いし。ストーリーも演出も、それは富野カントクのものだもの。
後からちょっと解釈付け加えたって、いくら魅力的な絵で描いたって、ガンダムは安彦さんのものじゃないものね。
とはいえ、まあ、リアルタイム世代としてはやっぱり1年戦争の新しい作品、って言ったら避けては通れないんだけれどもね。
観て思ったのは。
ああ、ずいぶんオリジナル版(ファースト)に寄せてるな、ってこと。
寄せている、って言うか、気を遣っているって言うか敬意を払っている、って言うか。なんていえばいいかよく分からないけれども。
アニメ版のThe Originは、ファーストでは語られなかった時代の物語で、なので完全な新作としてあんまり気を遣わずに作ったと思うんだよね。
The Originは僕はスクリーンではなくテレビで観ただけで、ククルスドアンはスクリーンで観ているので、その違いが大きいのかもしれないけれど。
ククルスドアンを観ながら、寄せてるな、って言うのは、たとえば。
セル画の(っぽいだけかもしれないけれど)解像度の低い、って言うか輪郭線の太い人物とか、筆のタッチが活きている、絵そのもの背景とか。
すごくアナログを感じたんだよね。
The Originがきれいなデジタルを感じさせたのとは違って。
そういう意味で、安彦さんは、ずいぶんファーストに気を遣っているんだな、って。もちろん、それは僕にとっては嬉しいことなんだけどね。
物語は、いろんなヒトがいろんな事を云っているから、ぼくは愉しみました、だけでいいと思うのだけれど。
最初のシーン、ブライトの艦長室(?)に飾ってあった写真、あれ、フラミンゴの写真だよね。それって結構後の話なのでは? ってところに引っかかってたんだよね。ずっと。
まあ、いいのだけれど。
あらためて、アムロを観てみると、その人見知りさが、こんなにだっけ、って思ったり。エヴァンゲリオンの碇シンジが出てきたときに、庵野カントクがガンダムの第1話をすごく意識した、っていう話を聞いて、いやシンジはアムロよりずっとひどいから、と思っていたけれど、結構いい勝負だったね。
という描写から、どんどん心を開いていくところはきめ細かくていいなあ、と思っていたのだけれど、最後のザクを沈めるところは、急すぎて心情的について行けなかったり。
富野だったらもう少し、、と思ってみたり。
でも、戦争ではヒトが死ぬんだし、メカなんか消耗品なんだ、って言うところは、安彦さんとしてきちんと協調したかったんだろうなあ、って言うのは伝わってきたよ。
人物のアナログ臭さに比べて、メカのGCっぽさが鼻についていたのだけれど、来館のおまけでもらった安彦さんの原画の複製見たら。正確なメカ描写なのに、どうしようもなく安彦さんの画、なんだよね。参った。
ああ、あと。
古谷徹。ありがとう。
スタッフロール見てたら、古谷さんと池田秀一くらいしか知った声優さんがいなかったのだけれど。
他の人はともかく、やっぱり古谷さんがいなかったら、ガンダムのククルスドアンじゃないよね。
すごく、良かったよ。
ただ、それだけのはなし。