虚人たち by 筒井康隆 に魅せられて2024年12月04日

 なんかね、軽く考えてたんだ。

 「まだ何もしていない彼は、なにものでもない」で始まって、「もう何もしていない彼は、なにものでもない」で終わるお話を、いくつか作れないか、って。

 いろんな主人公を設定して、いろんなシチュエーションを、この前後二行の中に挟めるんじゃないか、ってね。

 そう、軽く考えてたんだよね。


 もちろん、元ネタは、筒井康隆の「虚人たち」で。

 とはいえ、虚人たちを読んだのは、たぶん大学生の頃で、当然記憶はほとんど抜け落ちて、最初の文章もうろ覚えだったんだよね。

 別に元歌取りとかパロディーとかを考えていた訳ではなく、物語のはじめたと終わり方の練習にどうかな、って思っていたのだけれどもね。

 軽く、ね。


 でもまずは、本家の「虚人たち」を読み直さなくては、という事で、中公文庫を買い直してね。本のカヴァー見たら思いだしたけど、これ、ハードカヴァーで持ってたよな、確か。断腸の思いで自炊したライブラリには入ってないけど、どこ行ったんだっけ? まあいいや。


 久しぶりに読む「虚人たち」。

 ぶっ飛んだよ。


 改行なし、句読点なしでマシンガンのように浴びせられる言葉は、小説の、物語のお約束をことごとく自覚的、露悪的、挑発的につまびらかにして。つまり何気ない風景の描写、登場人物の位置、間合いにはこれだけの意味が込められている、っていうのをこれでもか、って突きつけてくる。

 ちょっと前に読みはじめた花村萬月の小説教室に、「作家はとことん頭が良い」って書いてあって、その呪にかかって読むと、あまりに膨大な文学的教養と知識がないと読み進められない、っていうことになって。

 イヤこれは筒井康隆だから、って無理くり思いだして、これはパブリング創世記的な、ケムニマクブンガクなんだ、ハンブンエセ衒学なんだ、って。とりあえずエンターティンメントとして飲み込んだのだけれども。

 それにしても、圧倒的な。圧倒的ななんだろう、もう、この小説の空間が何で満たされてているかすらよく分からない程の、圧倒感に圧倒されたんだよね。


 筒井康隆って、エスエフ作家なのだと思っていたのだけれど。

 エスエフって、その昔は、サイエンスフィクションではなく、センスオブワンダーの事だったよね。(SFという略にはならない事は百も承知だけれど)

 ブンガクの中に収まらない、虚人たちや脱走と追跡のサンバとか。そういう小説を、発表する場としてエスエフ、ってい言葉が便利だったのかな。

 僕がエスエフを読み出したのは、その頃のエスエフ作家が良く回想していた「浸透と拡散の時代」を過ぎた頃、なのだと思うのだけれど。筒井康隆については、結構な著作を読んでいると思うのだけれど、イメージはずっと「あらえっさっさの時代」のドタバタスラップスティックなんだよね。


 今、「カーテンコール」っていう、最後の短編集(と本人が言っている)ものを読みかけているけれど、それが終わったら、虚構船団と、あといくつか読み直そう。家族八景とか、唇に残像をとか。

 図書館にある筒井康隆全集、片っ端でもいいかな。


 なんか、昔読んだ本を片っ端から読み返したくなった。

 それもいいかな。


 ただ、それだけのはなし。

13坪の本屋の奇跡 大阪の本屋さんのものがたり2024年12月05日

 もう、ずいぶん前になるけれど、近所の本屋さんが無くなっちゃったんだよね。一階が駐車場になっている高床式の建物のチェーン店だったけど、駅からの帰り道の夕涼みを含めて、いろんな本を手に取ったな。

 だけど、本屋さんの店員さんとお話をする機会って、そうないよね。新聞の広告に載っていたあの本どこにありますか? とか、今日発売日だと思ったけど売れちゃったかな?とか。そういう話はしても、この本読んだらどうですか、みたいなおすすめされることって、まあないよね。


 だから、なのか分からないけれど、フェイスブックで書店の人が本をおすすめしてくれる、っていうサービス(?)をしてくれているのに、飛びついたんだよね。

 それが、この本の主役となっている隆祥館っていう谷六の本屋さんがやっているサービスで。


 自分がどんな人で、どんな本を読んできて、っていう問診票(?)を送って、返ってきたおすすめリストの中に入っていた一冊がこれ、だったんだよね。自分の宣伝がちゃっかり入ってる、と思ったのだけれど、著者は別の人で、面白そうなタイトルだったから、そのままリストに入れてもらって。

 というより、勧められた本は断らない、って決めてたんだけどね。だって、おすすめしてもらう、ってそういうことだもんね。


 とはいえ、

 今もそうだけれど、買う本と読む本がなかなか釣り合わず、積ん読状態の本棚のスリム化が喫緊の課題だった数年前に届いた本で。他で買ったものや図書館で借りたものも含めてちょっとずつ読んでいる状態で、ようやく読んだよ。


 木村元彦著 13坪の本屋の奇跡 ころから(出版社の名前ね)


 読みはじめてからはほぼ一気に読んでしまったのだけれど。面白いからね。


 本屋さんって、大変。

 ロングテールで回転率の悪い昔の本を含め、開業時に膨大な在庫を抱え込んで。定価でしか売れない再販制度と、売れない本は返本できる委託販売制度は、零細本屋さんをイカサズコロサズに存続するための救済措置、なのだと思っていたのだけれど。

 この本を読むとその救済措置のおかげで卸との間に上下関係があって、それがイロイロな問題を生じていて。志のある本屋さんを、画一的な品揃えののっぺりした本屋に留め置こうとする力にもなっていて。


 その中で自分の店を守る、ひいては街の本屋さん、という文化を守ろうと奮闘するパワフルな一家のものがたり。なのかな。


 それを意気に感じた、「オシムの言葉」の著者の木村さんが取材しているのだけれど、引退した大手卸の会長さんに取材したり、本にする、という事も含めて、やっていることは側方援護射撃だよね。

 だから、もちろん、というか。

 読んでいる僕の方も大阪の街の本屋さん、応援したくなるよね。


 常連さんの顔と本の好みを憶えていて、隆祥館さんのおすすめなら読んでみるわ、で何百冊も売り上げる信頼関係を築いている本屋さん。近くにあったら嬉しいだろうなあ。

 ギリギリ自転車で行けそうな距離だから、今度ちょっと覗いてみようっと。選んでくれた本のお礼も言わないといけないし、ね。


 ただ、それだけのはなし。


中川英二郎の、ディキシーワンダーランド2024年12月09日

 ようやく、冬らしくなってきたね。12月に入って、ようやくダウンコート着たよ。


 12月は、クラシックの世界は第九の演奏会のシーズンでね。オーケストラの定期演奏会とか、そういう普通の演奏会はシーズンオフ、なんだよね。

 ベートーヴェンの交響曲第九番、通称第九は、合唱付きっていうサブタイトルもある様に、大編成の合唱がついているんだよね。日本にはプロの合唱団ってそんなにはないから、そこかしこで演奏している第九を歌っているのは、ほぼアマチュアの合唱団。アマチュアの合唱団には、それぞれのメンバーに家族やら学校、職場の友人とかがいて、その人たちがチケット買ってくれるから、かなりの聴衆が見込めるんだよね。だから、第九のコンサートは楽団さんにとってもドル箱、12月は稼ぎ時、っていうことみたいだね。

 年末は第九、って日本だけの風習みたいだけど、誰が言い出したんだろう。土用の丑の日は鰻、っていった平賀源内くらい偉大なマーケターだよね。


 それはいいのだけれど。

 というわけで、クラシックのコンサートは(第九をのぞけば)あんまりなくて。でもクリスマスシーズンだし、っていうことで、西宮の兵庫県立芸術文化ホールでは、じゃあJAZZをやろう、っていうことで、いくつかのジャズコンサートを企画してくれたんだ。

 そのうちの一つ、中川英二郎のディキシーワンダーランド、行ってきたよ。


 中川英二郎君はね、君付けにしちゃうけど、僕がたぶん学生だったときにデビューした、トロンボンの神テクプレイヤー。デビュー作を録音したのがたぶん16歳のときだったんだけど、その中の一曲、SCRAMBLEっていうのがあってね。ぶっぱやのブルースなんだけど、あまりの速さにソロを取るラッパとかピアノとかがあっぷあっぷしている中で、最後にソロを取った英二郎の、ブレイクあとなんと1コーラスの無伴奏ソロ。

 若さゆえのひけらかしもあったのだと思うのだけれど、同じトロンボンを吹いていた僕はア然として息が止まってしまって、2コーラス目にバンドが入ってきてはじめて息が止まっていたことに気がつく。そんなインパクトのあるデビューだったんだよね。

 その後、なかなか生で聴く機会がなくって。オケや吹奏楽との共演を何回か聴いたくらいなのかな。あ、この前、Slide Monsterっていうトロンボン4人だけのバンドのライブを聴いたな。こんど、PACで中川君作曲のクラシック、演るんだよね。


 というわけで、中川英二郎のディキシーワンダーランド、大人の部、聴いてきました。

 大人の部、っていうのはね、同じ日の昼から、0歳からのジャズ、っていうことでことどもの部があったからね。


 兵庫県立芸術文化センターには、大中小のホールがあって、僕がいつも行くのはオーケストラとかの演奏会をする大ホール。中ホールはオーケストラピットがある本格的な演劇用のホールで、チケット取ったけど行きそびれてしまった宮沢りえちゃんのお芝居とかもここでやっていたよね。

 そして、小ホールは、今回初めて入ったのだけれど。すり鉢状の立派なホール。すり鉢の下にこじんまりとしたステージがあって、全方位階段状に客席が10段くらいある。2,300人くらいは入るのかな。

 僕の席は、一番左の、一列目。

 小さなステージにデンと置かれたグランドピアノの背中越しに指がよく見える、そんな席。正面まで廻って、どんなセッティングになっているか確かめてみたら、ピアノの他には椅子が一つとスタンドマイクが二つ。返しのモニタはあるけど、客用のスピーカーはほぼなくて。

 あれ、タイコもない。今日どんな編成なんだっけ、ってパンフを見てみると、お父ちゃんラッパと英二郎君の他は、ピアノとバンジョーのみ。なるほど、ディキシー。


 っていうわけで、演奏開始。

 マイクスタンドが二つあったけど、それはMCと歌用のマイクで、演奏はPAなしの生音。僕の席からは後ろ姿を観ながらの反響音だったのがちょっと惜しかったけど、英二郎のトロンボンと、82歳のおとーちゃんラッパの生音、いいなあ。

 僕のイメージでは英二郎君はジャズの人、だったのだけれど、満州のオケの主席チェロ(ビオラだったっけ?)を祖父に持ち、父親とその兄弟はディキシーのミュージシャン、っていう音楽一家。なのでディキシーがルーツなんだね。


 僕がジャズを聴き始めたのは、モダンジャズっていう1950年代に盛んだった音楽からだったから、1920年代くらいの匂いのするディキシーランドジャズは、あんまり守備範囲ではなくって。シーデキっていってちょっと遠目で見てたんだよね。

 それに加えて、全てのジャズをお芸術にしてしまおうとするウィントンってやつが、神父さんの説教入りの30分もある壮大な曲の入ったシーデキのアルバムを出したりして、結局ディキシーってナンなんだ、って分からなくなっちゃったこともあり。

 ディキシーとはナンだ、それは”サッチモ”ルイアームストロングだ、っていう単純なことが分かるまでなんか寄り道しちゃったよね。


 というわけで、演奏はね。

 もう、これは、中川喜弘さんの勝ちだね。

 金管楽器は歳取ったら吹けない、と思ってたんだけど、ごめんなさい。82歳、あっぱれ。歌もいいね。踏んできた場数が違うな、って思わせる脱力感と伝わる楽しさ。ジャズってこういうものだよね。

 あと、バンジョー。ラプソディーインブルーをソロで演奏したのだけれど。ソロパートをバンジョーで演奏したんじゃないよ。オケも何も含めて全部をバンジョー一本で演奏、ね。これすげー。ピアノ越しなんで右手の動きとか見れなかったんだけど、ホントに二本の手で弾いてた? 


 英二郎君のテクはクラシックの曲で堪能させてくれたし、タイガーラグとセイントでホンモノのデキシーも聴かせてくれたし、お隣に座った品のいいオネエサマと、「楽しい時間でした」といって帰途についたよ。

 ああ、楽しかった。


 そうそう、ディキシーランドジャズは2拍子が基本だから、手拍子は1,3拍に入るのが正しいのかな、と思ってたけど、神戸の人たちはジャズの素養があるのか、2,4拍に入るんだよね。

 それが、アンコールの聖者の行進だけは、自然と1,3拍(2拍子だから1,2拍なのか)になったんだよね。フシギ、というかちょっと感動してしまいました。


 あらためて、

 あー、楽しかった。


 ただ、それだけのはなし。



天童荒太のエスエフ? ペインレス2024年12月13日

 ペインレス 天童荒太


 「永遠の仔」に衝撃を受けてね、そこから発表順の前後に拡がって、天童荒太を読んでいたんだよね。

 「家族狩り(ハード)」があって、永遠の仔を挟んでもう一度「家族狩り(文庫)」それから「悼む人」とか「包帯クラブ」とかあって、「ムーンナイト・ダイバー」くらいまでかな。ぱっと思い出せるのって。


 この前、新聞の下面の広告で新刊が出る、っていうから、図書館の本棚を覗いてみたら、読んだことのない本がいくつかあって。その中の一冊、実際には上下巻だから二冊だけど、を読んでみたよ。「ペインレス」。


 僕が通う図書館の本には、最初のめくりのページに、帯から切り貼りした情報がのりで貼ってあるんだよね。ハードカヴァーって、帯がなくなるとどういう本なのか全く分からないから、ものすごく助かるのだけれど。

 ペインレスの帯(だった物を貼り付けたページ)には、「医師として診察したいんです、あなたのセックスを」って言う刺激的な文言が書いてあって。天童荒太って、こういうものを書くヒトだったっけ、って思いながら借りたんだよね。

 どうも、「悼む人」のイメージが強くって。同時期に読んだ「包帯クラブ」もそうだし、「ムンライト・ダイバー」もある種そうなんだけど、悼む人って、天童荒太の作品群を良く表した言葉だよね。悼む人っていう小説が、天童荒太を良く表している、という事とはちょっと違った意味で、ね。

 何らかの理由で喪われた、あるいは背負わされたモノを、祈ることで、弔うことで、折り合いをつけていく。それが、悼む、ってこと。初期の、家族狩りのような、暴力的な憑きもの落としから、自省的な永遠の仔を経て、寓話としての悼む人やその前後の作品にたどり着いた、っていうのが、僕の中の天童荒太のイメージ、なんだよね。


 なので、たどり着いちゃった天童荒太は、そこで完成型なんだ、って勝手に思って、発売日には必ず手に取る、っていうフォローの仕方を辞めたんだよね。


 だから、しばらくぶりの天童荒太。ペインレス。


 これがね。

 面白いんだよね。


 先天的な理由で心に痛みを感じない女性と、後天的な理由で身体に痛みを感じない男性。他人と異なる感覚は、他人と異なる人格・精神を形作り、それが人類の進化であるのでは、と考えて、、、

 そういう話だったのか、そういう話ではなかったのか、読みおわった今も、よく分からないんだけどね。


 ペインレス、っていう題名だから、必然的にペイン=痛みが題材になっていて。痛みの発生する機構や、その治療法、実際の手技について(特に肉体的な痛みについては)良く書き込まれていて、それは分子生物学を囓った僕にはものすごく親和性があるのだけれど。そのサイエンスを下敷きにして、人類の進化の可能性、っていう大ボラが進行していく。一つ一つは、(ちょっと自分には遠いけれど)ないことではないな、っていうエピソードを重ねて、壮大な妄想を成立させる。

 あれ、それってサイエンス・フィクション=SFじゃん。

 そう、この物語は、天童荒太のエスエフ小説、なんだよね。


 脳科学を題材にしたエスエフって言うと、「パラサイト・イヴ」を書いた瀬名秀明の二作目、「ブレイン・ヴァレー」が金字塔としてあるのだけれど(個人の感想です)、超常現象が起こって神とはなんだ、に迫る純然たるエスエフとしてのブレイン・ヴァレーとは違って、医療の知識を丁寧に小道具にしながら、ありうるかもしれないニュータイプの出現を描くペインレスは、エスエフじゃなくってもっとブンガクよりのサイエンス・フィクション、なんだよね(あくまでも個人の感想です)。


 思えば、天童荒太の初期作品は、グロテスクなホラーっぽかったよね。家族狩り(ハード版)とか。永遠の仔も長い長いサスペンスだし。

 だから、挑発的な性の描写とか、倒錯的な世界感とか、そんなに違和感を持つべきものでは無いんだね。悼む人でいい人いい人のような宣伝のされ方をされていたから、ちょっと先入観を書き替えられてしまったかな。反省。


 パラサイトイヴの瀬名君が、ブレインヴァレーで本格エスエフを書き上げて、そのあとロボットモノでとてつもない傑作にたどり着く様に、天童荒太もいろいろにテーマや作風を変えて、まだまだとてつもない傑作を出してくれるんだろうなあ。

 楽しみ、楽しみ。


 ただ、それだけのはなし。



尾高さんの、ブル8 in 20242024年12月23日

 今年は、ブルックナー生誕200年の記念の年だそうで。

 だから、いろんなオケでブルックナーの演奏を聴く機会があって、嬉しいのだけれど。

 その中で、僕としては今年の白眉の演奏会があったんだよね。

 尾高忠明指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団 ブルックナー8番 @ザ・シンフォニーホール。


 大フィルさんは、その設立から50年以上にわたって、朝比奈隆っていう一人の指揮者がずっと音楽監督を務めていて。50年以上って、第二次世界大戦中満州のオケを振っていた朝比奈さんが帰ってきてオーケストラをつくって以来、っていうことだから、まあ、日本人が奏でる戦後クラシック音楽の歴史そのもの、っていうことになるよね。

 その朝比奈さん、っていう指揮者は、特に晩年は、ブルックナーの交響曲の演奏にとても人気があって。それって、日本になじみの薄かったブルックナーを根気よく取り上げて、オケも、お客さんも育てていった結果なんだよね。

 そういうわけで、大フィルのブルックナーときたら朝比奈さんが振らないといけない、ということになっていたようで。特に一番の大曲、8番は、朝比奈さんの没後も時の音楽監督しか振ったことがない、という事みたい、なんだよね。

 確か、朝比奈さんの最晩年、パーヴォ・ヤルヴィが定期でブルックナーの4番を振ったときに、定期で朝比奈さん以外が振ったのははじめて、とかいわれていたような。(下野竜也さんは定期じゃなかったっけ?)


 まあ、そういうのはどうでもいいのだけれど、数あるブルックナーの交響曲の中で、一番長くって、完成している最後の交響曲で。ブルックナーが生涯追い求めていた(だろう)「神の創った世界を音楽で再現する」ことに一番近づいた作品、だと思うんだよね、第8番って。

 ベートーヴェンが、第九で「人類の到達点」としての作品を実現して、そのつぎはないままに神に召された、って僕は思っていてね。「まあ、人間としてはこの位にしておこうか」って。その後、「交響曲9曲創ると神に召される」って言う9番ののろいの都市伝説があったみたいなんだけど。

 ブルックナーの場合は、第8番でその域に到達して、第9番の作曲途中に「まあ、この位にしておこうか」って神様に召された、という意味では、ベートーヴェンよりも一楽章分だけ偉大な作曲家、だと思ってるんだよね、ぼくは。あくまで個人の感想なのだけれど。


 というわけで、朝比奈さんが亡くなって四半世紀になろうとしているけれど、まだまだブルックナーを得意とするといわれている大フィルさんの、8番。楽しみだなあ。

 指揮者の尾高さんは、あんまりブルックナー(だけ)を得意としている、という印象はないのだけれど、大フィルさんを指揮して、コツコツとブルックナーの録音を発表して。3番から9番のCDを発売済で、この前0,1,2番の演奏会をしたから、ブルックナーは二巡目になるんだね。大フィルで二度目の8番、どうなるんだろう。


 僕が取った席は、この前の0,1,2番とほぼ同じ、オオウエエイジの時代の定期演奏会を聴いていた席に近い、一階席通路直後の右側、10列目くらいなのかな。このごろは、フェスの定期は15列目で、PACは二階席だから、もう少し後ろの席で聴くことが多いのだけれどもね。


 演奏はね。

 その、いつもの席より前めだからなのか、響きに満たされるシンフォニーホールだからなのか。

 よくきこえるんだよね。

 この前の第1番のときにも書いたけど、それぞれのパートをしっかり鳴らしているから、どのパートがどんな音を出しているのか、っていう音の解像度がとても良くて。

 僕がはじめてブルックナーの8番を生で聴いたのは、朝比奈さんの昔のフェスでの定期演奏会だったと思うけど。その時はブルックナーを知ってすぐで、今に比べたら聞き込んでもいなかったから、「曲があまりにも巨大で、取り付く島がない」って感じたんだよね。その敗北感というかもったいなさというか、今でも良く覚えているけれど。

 今回は、それよりはもう少し曲のことが分かっていて。だから、いつもは意識しない楽器のフレーズとかがよく聞こえててくるのだけれど。


 よく聞こえてくるのだけれど、なんか、それが一つの音にならないんだよね。

 一つ一つの音はとてもよく聞こえてくるのに、それがまとまった音楽として聴こえてこない、って言う感じかな。何度もくり返すけど。

 その上で、一つ一つの音量が大きくて、一楽章からトロンボンはがなっているように聞こえるし、ラッパに至ってはその音量についてこれないし。

 なんかちょっと、too muchなんだよね。


 広いフェスティバルホールで鍛えられた大フィルさんだから、シンフォニーホールでは収まりきらない音を出しているのか、いつもより近い席で聴いているから反響と生音のバランスが違うからなのか。

 全体を見回せる距離から見るといい映画を、最前列でいちいち視線を動かさないと全体が見えない、っていう感じなのかな。

 あ、僕は映画館では結構前の方に座るのが好きなんだけどね。


 ブルックナーの交響曲には、神々しさを求める聴き方と、もう一つは大編成が奏でる大音量のカタルシスを求める聴き方があって、それはべつに相反するものでは無いのだけれど、今回の尾高さんの8番は、後者に重きを置いているように感じちゃったんだよね。

 それはそれで楽しくて、シンフォニーホール特有の、音が天井に吸い込まれるブルックナー休止とか、楽章の終わりの静寂とか愉しんだのだけれど。

 生音がビビッドに聞こえてくる分、アダージョのワグナーチューバのロングトーンを含め、やっぱり神々しさは期待したものでは無かったなあ。

 それでも、終楽章に至るまで全く衰えないパワーで、心地よい高揚感と虚脱感を味わえたから、いい気分で帰途についたんだけどね。


 そろそろ、いろんな人にブルックナー振ってもらってもいいんじゃないかなあ。

 それも楽しみだもんね。


 ただ、それだけのはなし。