PAC154回定期と大フィルさん ― 2024年10月24日
大フィルさんは、二日ある演奏会の二日目で、だいたいは土曜日に行くことが多くって、PACは、三日間の公演のうち、一日目、金曜日のチケットだから、金曜にPACを聴いて、土曜に大フィルさんを聴く、なんてことも起こるのだけれど。
今月が、まさにそれだったんだよね。金曜に西宮でPACを聴いて、土曜はフェスティバルホールで大フィルさん。まあ、自分で望んだことだから、嬉しいのだけれど。
今月のPACは、下野竜也さんの指揮で、ドヴォコンと、伊福部昭のシンフォニア・タブカーラっていう、これは交響曲なのかな。そういう取り合わせ。ドヴォコン、っていうのは、ドヴォルザークのチェロ協奏曲のことなんだけどね。
ドヴォルザークっていう、チェコの作曲家と、伊福部昭っていう、日本の作曲家。もう一つ、5分くらいの小品だけれど、ショスタコーヴィッチっていうロシアの作曲家のプログラムも入れて、クラシックの王道であるドイツ語圏ではない、オリエンタルな作曲家のプログラムだったんだよね。
プログラムの曲もう紹介には、「懐かしい」メロディや響き、っていう言葉がたくさん使われていて。確かに稀代のメロディーメーカーで、親しみやすい曲が多いドヴォルザークの曲は、懐かしい感じがするよね。ゴジラの音楽を創った伊福部昭も、日本っぽい、それも戦後の(白黒映画ゴジラの時代の)日本を思い起こさせる、それが懐かしさ。
懐かしさ、っていうとなんか口語っぽいから、ちょっとかっこよく郷愁に満ちた、とか行ってみたいのだけれど。郷愁のしゅうは、秋っていう意味を含むのかな、ようやく秋らしくなってきたところだし、と思ったのだけれど、別にそういう意味はないみたいだね。まあいいや。
というわけで、PACの演奏会。下野さんは大フィルでも良く指揮をしている方で、NHKのドラマの音楽とかも良く指揮してるよね。広島のオケでブル8聴いたな。在阪の僕らにとっては、朝比奈隆の弟子、という印象が強いのだけれど。
ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、マリオ・ブルネロっていう方がソリストでね。客席が5階まである、縦にでっかいホールの、僕は2階席で聴いていたのだけれど。そこから聴くと、チェロ一本でホールを揺るがす、音量系のチェリストではなくってね、でもあったかい音で、オケの間からもきちんと聞こえてくる。ドヴォコン、生で聴くのははじめてか、かなり久しぶりだと思うけれど、ドヴォルザークの曲は、やっぱりやさしくて、どっかで聞いたことあるようなちょっとセピア色の懐かしさがあって。いいなあ。
アンコールは、チェロのソロで、ナレク・グレゴリオスのハヴン ハヴンっていう曲だったのだけれど。ピチカートのボン、ボン、っていう音を通奏低音に、ゆったりとした、これもまた懐かしいメロディを歌いあげる曲。なんかしんみりしちゃうよね。
ショスタコは弦楽四重奏のための2つの小品、からの一曲。弦楽アンサンブルの、きれいな曲。ショスタコーヴィッチって、交響曲5番革命とか、7番レニングラードとか、ロシアの政情に迫害されたりプロパガンダとして使われたり、あんまりしあわせな作曲家人生ではない印象があるヒトなんだけれど、その作風は、縦のりで、あんまり聴いてて嬉しくない曲が多いんだよね。表面的には戦争賛美の行進曲風に書かないと身が危ない、という事なのかもしれないけれど。
それでも、この曲はすごくきれいで聴きやすかったな。下野さんがなんて美しい曲なんだ、って思ったみたいなことをプログラムに書いていたけれど、さもありなん、って言う感じ。ちなみに僕のなんてきれいな曲なんだ、は、ラヴェルの「亡き女王のためのパヴァーヌ」かな。
そして、伊福部昭、シンフォニア・タブカーラ。
1955年の初演、という事だから、ちょうどゴジラと同時期に作曲されたようなのだけれど。その頃の日本の音楽シーンは、ヨーロッパのクラシック音楽が入ってきて、この曲は時代遅れといわれた、みたいなことが書いてあったのだけれど。
聞く前は分からなかったんだよね。この曲、あるいは伊福部の音楽と、西洋のクラシック音楽がどうちがうのか、って。
だけれども。
曲が始まったらすぐに分かったよ。
これって、吹奏楽。
今はどうか知らないけれど、吹奏楽コンクールの課題曲4曲のうち、1曲必ず入っている邦人現代曲。いわゆる吹奏楽オリジナルの曲にありがちな曲。
もちろん、1955年だから、伊福部さんの方が圧倒的に古くって、つまりこれがその後の日本の吹奏楽オリジナル曲の原型になったのだろうけれど。大阪でオケの曲も吹奏楽も作曲した大栗さんとどんな時間関係なんだろう?
何がどう、っていわれるとよく分からないのだけれどもね、西洋のクラシックではなくて吹奏楽オリジナルっぽい、っていうのが。
リズムとか、ユニゾンが多いとか、管楽器の効果音的な使い方とか、そういうこと、なのかな。sfzの音型なんかは、さすがになかったけれど。
でも、何より、なんか、みんなが一生懸命、音を張り上げて張り切ってる感じがするんだよね。そこが一番、吹奏楽っぽい
そして、みんなががんばる演奏が、PACのスタイルにものすごく合ってるんだよね。30数年前に吹奏楽小僧だった身としては、別の意味で、懐かしい曲と演奏で、ものすごく楽しかったな。
つぎの日は、大フィルさん。
大フィルさんのプログラムも、ドヴォルザークなんだよね。交響曲第7番。なんかの記念年なのかな? まあ、嬉しいことだけれど。
前半のモーツァルトのピアノ協奏曲、ピアニストが変更になったんだね。プログラムの印刷が間に合うくらいだから、直前にって訳ではなさそうだから良かったけれど。
田部京子さんっていうピアニスト、やわらかい音で、パラパラではないけれど歯切れのいい演奏で、僕は好きだなあ。
後半のドヴォルザーク 交響曲第7番。
ドヴォルザークの交響曲は、第9番「新世界から」がとても有名で、これは老若男女いくつかのメロディは誰でも知っている、ベートーヴェンの第九に匹敵するくらい有名なのだけれど、その次に有名であろう8番は、クラシック大分好きな人じゃないと知らない、くらいの知名度、なのかな。7番は、クラシックのCD2000枚くらい持っている僕でも2枚だけ(ちなみに9番は16種類、8番は7種類だった)くらい、有名ではない曲なんだよね。
なのだけれど、別に有名な曲でなくてはダメなのか、というと、そうでもなくって。生でじっくり聴くこの曲、いいよ。
今回の指揮者は、バーティー・ペイジェントっていうイギリス人なのだけれど、1995年生まれっていうから、まだ30歳前なんだよね。そうそうたるオケを振っていて、ドヴォルザークを湿っぽくならない懐かしさで振り抜ける。これからが楽しみな指揮者だな。クラウス・マケラトライバル関係になるかな。楽しみ。
そうそう、先月の大フィルさんは、尾高さんのベートーヴェン ミサ・ソレニムスだったんだよね。
荘厳ミサ、ってかつていわれていた、2時間弱の合唱とソリスト付きの大宗教音楽。
ちょっと前に、日経の私の履歴書でリッカルド・ムーティが「私はミサ・ソレニムスを触れるようになるまでつい最近までかかった。若手がホイホイ振れるような曲じゃないんだぞ」って書いているのを読んで、どんな取っつきにくい曲なんだ、と思ったのだけれど、何でもこなす尾高さんの指揮で聴くと、どんな曲でもみっちりしてあったかい、その響きの中で気持ちよくなっちゃうんだよね。
ミサ・ソレニムス(正当なるミサ曲)の歌詞は決まったものがある様で、そのためか分からないけれど、字幕がなかったんだよね。ストーリーがあるものでは無い、というのは分かるけれど、出来ればあった方が宗教曲の意味付けも含め、分かりやすいかな、と思ったんだよね。
ただ、それだけのはなし。
PAC 第153回定期演奏会 ― 2024年10月01日
クラシック音楽が好きでね。
それも、オーケストラの奏でる音楽が好きで。
僕の住んでいる大阪には、プロフェッショナルのオーケストラが4つあって。それから近くの京都や兵庫にもオーケストラがあるんだよね。
だから、オーケストラを聴きにいく機会っていうのは、山のようにあるのだけれど。
その中で、僕は大阪フィルって云うオーケストラ(大フィルさん、っていっているのだけれどもね)の定期演奏会を、この四半世紀くらい聴き続けているんだよね。正確には、2000年からになるのかな。
定期演奏会って、大フィルさんの場合だと、年10回、ほぼ毎月のようにあるから、オーケストラがいっぱいあるからと言って、全部のオケの定期演奏会に行くわけには(時間的財力的に)いかないから、必然的に聴きにいくのは大フィルさん中心、になってしまっていたのだけれど。
このたび、もう一つのオケの定期会員になったんだよね。「兵庫芸術文化センター管弦楽団」、略してPACっていうんだね。PACってなんだろう、って思ったら、Performing Arts Center Orchestraの略なんだね。芸術文化センターがPerforming Arts Center
なんだね。
このPAC、兵庫県立芸術文化センター管弦楽団は、阪神淡路大震災からの復興目的で芸術を発信するために創られたKOBELCOホール、そのホールを根城とするオーケストラなんだよね。正確ではないかも知れないけれど、若い団員を集めて、最長任期を2年か3年として、常に若い音楽家を育成して、世に出していく、そういうコンセプトのオケで、佐渡裕さんが設立からずっと芸術監督をやっている、そういうオケなんだよね。
このオケのすごいところは、一回の定期演奏会について、3日間公演して、それでもチケット取りにくい程の人気、っていうところなんだよね。西宮って、そんなに大きな街ではない(大阪市、とかに比べたらね)のに、3公演が満員になる、ってすごいよね。
僕は、20年前の設立されたときの記念演奏会で、ベートーヴェンの第九を聴きに行ったあとは、あんまり聴いた記憶がないんだよね。下野さんが振ったときにいったのかな。何年か前に、佐渡さんが振るブル8のチケットが取れて、喜び勇んで金曜の7時に駆けつけたら終演後だった、っていう苦い記憶(と使えなかったチケット)があるのだけれど。
このオケの定期は、金、土、日の3日間公演で、開演時刻が全て午後3時、なんだよね。大阪のオケだと、平日は夜7時、休日は午後3時、が普通で、そうでないときにはマチネー公演だ、って断りがあるのが普通だと思っていたので、何にも考えずに行って、呆然とした記憶があったな。
定期以外では、毎年のようにやってくれているオペラ/ミュージカルは結構観に行っているので、オケの演奏は聴いているのだけれどもね。
これがPACの人気の秘密の一つだと思うのだけれど、定期会員(毎回同じ曜日、同じ席のチケットを束で買ったヒトね)への特典として、公開リハーサルへの招待があったんだよね。金曜公演の前日に、1時間程、ホールリハの様子を会場で見せてくれるの。
大フィルさんでもあるのかな? 大フィルさんの場合は、定期会員ではなく正会員向けのサービスであり、また会場がホールではなくて西成かどこかの練習場だかだったと思うけど、行ったことないんだよね。
もちろん、平日の昼なので、普通のサラリーマンは行きにくいのだけれど、今回はせっかくの機会だから、行ってみたよ。
ホールの1階席後ろにお客さんが入れるようにして。結構いっぱい入ってたな。思い思いの服装の団員さんが音出しをしていて。
佐渡さんがマイクを持って入ってきて。挨拶から。
PACに、13人の新しいメンバーが加入して、新年度が始まる(PACは9月からが年度なんだよね)。
来年、震災から30年、終戦80年、PAC出来てから20年になる。そのためのプログラムとして、マーラー9番や戦争レクイエムを演奏することにした。
今回のブラームス4番、既に本番もやっているしいい出来なので、リハでは通しを基本にやっていきたい。ブラームスはベートーヴェンのフォロワーで、第1番ではベートーヴェンの創った交響曲の黄金パターン(暗く始まって長調で高らかかに歌いあげる、「運命」パターン)を蹈襲した。これは、ショスタコ、チャイコフスキーの5番などと同じ。今回の4番は、3楽章で盛り上がって、でも4楽章は内省的に静かに終わる。これはチャイコの6番「悲愴」、マーラー6番「悲劇的」などと似ている。各楽章にバラエティに富んだ工夫がされている、、云々云々。
そういう挨拶があって、第1楽章から通して行ったんだけどね。
リハだし、客席も(1階席後方以外は)からっぽだし、本番とは違うんだ、って思いながら、聴かせてもらったよ。
ブラームスの音って、なんか独特で。中低音が分厚いんだけど、全体として枠がはまっているような音がすることが多いんだよね。箱庭の模型を水槽に入れて、額縁掛けて観ているような、そういう音。
高校の頃、ノイズが入るFM放送を録音して聴いてたのがブラームスだったから、その時のイメージが残っているのかもしれないけれど。
リハの第1楽章は、箱庭の音もそうなんだけど、その箱庭自体がずいぶん遠くにあるように感じられたんだよね。届いてこない、っていうか。
それに加えて、弦のつややかさがあんまりなくて、ざらっとする感じとか、管がすごいがんばっていて、所々がなっている様に聞こえるところとか。ああ、若いなあ、って思って聴いてたんだよね。
もちろんプロだから、全然レベルが違うのだけど、高校の吹奏楽部の定期演奏会の当日のゲネプロで、熱く演奏していて気がついたらお、客さんいないやん状態になったことを思いだしたよ。
そんなこんなで、ブラームス4番のリハを観て。
つぎの日、本番。
定期のチケットは2階席を取ったから、昨日とは違う距離と角度からの演奏、どう聴こえるのかな。
前半のプログラムは、ショパンのピアノ協奏曲第1番。亀井さんっていう若い男性のピアニストは人気者なのかな。佐渡さんの前説でも、今回は亀井さんを見に来たヒトが多いだろう、っていっていたし。
僕は、協奏曲のピアニストの違いがよく分からないのだけれど、音離れのいい亀井さんのピアノは爽やかに聴こえたよ。
休憩開けて、ブラームス。
最初の音から、ちょっとね。すごかった。
眠気が吹っ飛んだ、というか、居住まいを正した、っていうか。
昨日の印象と全然違う。
弦が倍になったか、っていうくらい力強い音。
バランスを取ろう、きれいに聴かせよう、っていう音ではないから、荒いヤスリで仕上げたみたいにざらつくところがあるんだけど、それが生々しくきこえて。ああ、人間が奏でてるんだな、って。思い切りの良かった管楽器も、弦が前に出てきたからか少しバランス変えたのか、とげとげしさが消えて。
みっちりした音楽を、思いっきり鳴らしながら、でも全体の形を崩さない。一つ一つの音を、確かに一人一人が奏でているのが聴こえる。
ブラームスって、こんなに重厚で、こんなに劇的な音楽だったんだ。って思ったよ。
ずいぶん前に、ウィーンの楽友会館で聴いたリッカルド・シャイー/ゲヴァントハウス管弦楽団のブラームスを思い出したよ。
このざらざら感、ちょっと癖になりそうなのだけど、ホールのせいなのかな?
4階か5階まである、天井の高いホールなのだけど、残響が長い感じはあんまりしなくて。S/N比の高いホールだな、って今回思ったんだよね。
このホールで大フィルさんのブルックナー聴いたときには、あんまり思わなかったのだけれど、演奏中無音になったときの、静けさの透明感がすごいなあ、って。
これから1年、いろんな曲をこのオケ、このホールで聴くの、楽しみだな。
ただ、それだけのはなし。
大博物学時代 への航海 ― 2024年07月21日
「一人の人間が、この世界の全てを識ろうとすることが許された最後の時代」
高校の時、図書委員に可愛い女の子がいてね。部活のいっこ下の学年の子なんだけど。
元から本好きだったから、別にその娘目当て、というわけではないのだけれど、結果的に良く図書館に通ってたんだよね。
まあ、図書館に通っていたら、いろんな本を手に取る機会があるわけで。当時、栗本薫や夢枕獏や菊地秀行とかの小説は、友達同士で部活の朝練で渡されて、放課後の部活動までに二人の手に渡って帰ってくるなんて生活を送っていたから、どんな本を図書館で読んでいたのかあんまり記憶がないのだけれど。
ダンテの神曲の新装版を頼んで入れてもらってたりしたのかな。
そんな中で、多分図書館で借りた本の中で、忘れられない一節があったんだよね。
僕の生き方とか考え方を、その後40年経っても左右する、それくらいの忘れられなさ。
それが、冒頭の。
「一人の人間が、この世界の全てを識ろうとすることが許された最後の時代」
40年も前に一回読んだきりの、うろ覚えの一節なんだけどね。
その後、大学に行って、企業の研究職について、博士号もとったりして。
専攻は分子生物学、その頃はやっていたバイオテクノロジーってやつで。大学の頃は細菌の遺伝子相同組み換えとか、大学院に行ったらDNA複製の調節機構とか、そういうものを研究していたんだよね。
要は、顕微鏡でも見えない、ミクロの世界。細菌っていう小さな、単純な生物が生きて営んでいるシステムの、ほんのほんの、ほんの一部分が、どのようになされているのか、それを研究するのが、分生生物学だったんだよね。
企業での研究も、もちろんその分子生物学っていう槍を持って入っているから、その延長線上で。
だから、その頃は、顕微鏡で見えない小さいものをどう理解しようか、って躍起になっていたんだよね。
この世界の全てを識ろうとする事とは、全く反対にね。
企業に入って、少し視野が広がっても、この世界で起こっていることを知るっていうのは、学術論文や特許を読んで、競争相手の同じ研究をしている研究者や、同じ薬を創ろうとしている製薬メーカーの成果や動向を理解すること、だったんだよね。
それはそれで、顕微鏡よりもさらに小さい分子の世界を理解することで、病気を治すことが出来て、食い扶持を得ることができる、とても大切なことなのだけどね。
なのだけれど。
研究は続ければ続けるほど、深く入り込めば入り込むほど、領域が細分化されて、他の人のやっていることが理解できなくなってきて、自分のやっていることを理解させることができなくなってくるんだよね。
もちろん、研究成果がたとえば薬になって、大勢の患者さんを救える可能性だってあって(皆それを目指してやっていて)、やりがいだってあるのだけどね。
でも。
僕が一流の研究者ではなかったからなのかもしれないけれど。
なんか、他の事もしてみたくなったんだよね。
その時には、高校生の時に読んだ本の一節なんて、全く頭によぎったりしたわけではないのだけれど。
それで、研究職から、ライセンス導入の部署に移ったんだ。今で言うオープンイノベーションの先駆け、になるのかな。
顕微鏡のその先の、ミクロな研究は他の人に任せて、その研究の成果を社会に役立てるために、発掘して、薬を創るノウハウとお金を(アカデミアの研究者よりは)持っている企業にと、薬を創るための共同研究をマッチングする。そんな仕事なんだけどね。
その頃は、ちょうど大学発ベンチャーって言うのが流行っていて。大学発ベンチャー1000社計画とか、大学の研究成果を企業に導出するためのTLO(テクノロジートランスファーオフィス)とか、そんなこんなで大学の研究成果を社会に使ってもらおう、って言う機運が高まっていてね。
そういう流れから、少しベンチャーを創るお手伝いをしてみたり。
そういうことをやっていると、会社のこととか、お金の流れのことが気になってきて。運良く職場の近くにあった大学で、経営学、って言うものを少しかじってみたりしたんだよね。
僕が今までやっていた、生物学とか分子生物学っていうのは、大きなくくりでいうと自然科学、ってやつなんだよね。自然で起こっていることを理解しましょうって言う学問。自然界で起こっている現象(ヒトは受精卵から個体になって、熱いものにさわると火傷する、とか)をどう理解しようか、あるいは理解した上で少し運命を変える(病気を治すとか、寿命を延ばすとか)ことを考える人たち
の学問。
それに対して、経営学って、人間の営みに対して、それを理解しようとする学問なんだよね。社会科学、って言うのだけれど。
それってものすごく大きな違いで。
例えばヒトはだいたい十月十日で生まれてくるし、桜は同じ環境にあるものは、だいたい3月の終わりか4月に一斉に咲くよね。
だけど、経営って、会社って。同じ環境にある隣の会社が上手くいったって、こっちの会社が上手くいくとは限らないし、同じ期間で育っていくわけではない。だいたい大半は潰れていくし。
研究する分野だって、ヒトモノカネのは位置を考える経営戦略から、お客さんに買ってもらうためのマーケッティングから、良い組織を作るためのリーダーシップとモチベーション論とか。何でもあり。
要は、経済の営みである会社経営、っていうものを、いろんな視点から見ていきましょう、そういう学問なんだよね。
それって学問っていうのかな。
って最初のうちは思ったのだけれど。
でも、それが、全部を見る、全部を識るための方法なのかな、って思ったんだよね。
世界の全てではないけれど、経営学は、ヒトの営みの、経済(ではないかも知れないけれど)の大きなプレイヤーである会社のことを識るための道具にはなるんだな、って。
その頃から、なのかな。
冒頭の一節が、わりと頭をよぎるようになったんだよね。
世の中って、しらないこといっぱいあるよね。
何で戦争やっているのかとか、何で朝焼けきれいだと雨が降るのかとか、ブルックナーはなにを目指して作曲したのかとか。チャットGPTがどう世界を変えていくのか、とか。
このごろ、思うんだよね。
世界を識りたい。って。
もちろん、世界の全てを識ることができるほど世の中は単純じゃないし、僕に残された時間もそんなにはない。
だから、全部を識りたいなんて大それた事ではなく。僕の好きないくつかのことを、もっと楽しめるように、その成り立ちや背景や、それを創るための技術、そういうものを知りたいな、って。
その上で。
できるならば。
世界を創りたい。
そんなに大それたものでは無くてね。
絵だって音楽だって、物語だって皆一つの世界だよね。
背景成り立ちを理解して、技術を身につけながら先人の作品を味わいながら。
最終的に自分の世界を、一つでもふたつでも、創ってみたいんだ。
それが、40年頭の中に熟成した、大博物学時代、
「一人の人間が、この世界の全てを識ろうとすることが許された最後の時代」
への憧れ、なんだろうな。
ちなみに、古本屋さんで黄ばんでいた荒俣宏さんの大博物学時代を入手したのだけれど。
この言葉は、僕が思っていたはじめにのところにはなかったんだよね。内容的には同じ事をいっているのだけれど。
でも、まずその憧れへの第一歩として、もう一度、全部読むところからはじめよう。40年間のうろ覚えが、どのように変化しているかを楽しみに、ね。
ただ、それだけのはなし。
三体 ってすごい ― 2024年06月24日
ちょっと前に、かなり話題になっていた、中国作家の書いたSF、三体。
ようやく、読みおわったよ。
話題になった割には、どのようなお話なのか、どういうジャンルのエスエフなのかすら、よく分からなかったんだよね。まあ、ネタバレ防止のために、意識的に情報を遮断していた、って言うのもあるのだけれど。
だから、どんな話なのか、全く分からないまま読みはじめたんだよね。
もちろん、三体ってなんなのか、もね。
三体って言う物語は、三体I,II,IIIの三つの本からなっていてね。日本ではIIとIIIは上下巻に分かれているから、計5冊、それも結構厚めの本なんだよね、それぞれが。
だから、最初は一冊目だけをKindleで買ってみて。
しばらく積ん読してから、読みはじめたのだけれど。
これがなんていうかね。
面白い。
近代中国の、文化大革命とかを思わせるムードから、どんどんスケールが大きくなって。無国籍になって。中国がどうとか、そんなこと関係なくなる大風呂敷。
危機一髪のタイトロープダンシングを繰り返しながら、振幅がどんどん大きくなって、どんどん法螺が大きくなって。
なんだけど限りなくロマンチックで。
しかも、驚くべき事に。
きちんとしたエスエフなのに、読んでて面白いんだよね。翻訳のに人たちが相当がんばってくれたおかげで、日本の読み物として、凄く自然に読めるし。
エスエフなのに、面白い。これって、結構普通じゃないんだよね。
なんて、学生時代SF研にいた僕が云ってはいけないのだけれど。
でも、僕が読んでいたのは、平井和正であり筒井康隆であり、小松左京でありといった日本のエンタテ作家であって。彼らの作品でホントのサイエンスフィクション=エスエフって言うのは、小松左京の復活の日や日本沈没や、そういうものだものね。その小松左京が本気でエスエフした「虚無回廊」は、僕はまだ読んでいる途中だし、日本のハードエスエフという人たちの作品も、ほとんど(学生時代には)途中で投げ出してしまっているものが多いし。
ホントにエスエフファンなのかな、俺、って不安になることもあるんだよね。
JPホーガンとかはよく読んだけど、これは「SFだから」面白い、って言う類の物語であって、間違っても一般の人たちが話題にして本屋で平積みになる様な、「エスエフなのに」面白い、ではないと思うんだよね。
そういう中でね、三体は。
まず、めちゃくちゃ面白い。
そして、サイエンスの匂いを真正面から纏っている。物理の法則や技術の進歩が、物語を前に進めている、って言う意味でエスエフ以外の何者ではない。のだけれど。
のだけれど、多分普通の人が読んでも、なんやら分からないけれど、これらの用語が物語に重要な事は分かるし、最低限理解したような気にさせてくれるし、何より物語が面白いから読んで行こう。って思うと思うんだよね。(考えてみると、これって京極夏彦の衒学小説と一緒だね)
それって、凄い。
小松左京の「日本沈没」がまさにそう云う感じだったのだと思うのだけれど、それを世界規模で巻き込んでいった、っていうのが、凄いよね。
エスエフ的に考えると。
ファンタジーはリアルに宿る、という言葉に則ると、空想科学小説(エスエフ)の中では、周りをリアル(これまでの科学技術の延長線あるいは十分に実現可能だと皆が考えるくらいの与太話)で固めて、ひとつだけ、乾坤一擲の大ボラを吹く、って言うのが望ましいよね。
あれもこれも「うそだあ」ではなく、なんとなくホントで固めた中に、「これは嘘やろ」って云うのが、あってもひとつだけ。これがエスエフのお作法。
って僕が勝手に考えているだけなのだけれど。
その意味で言うと、三体の、第1巻には、その大ボラが、まあ、ひとつといえる範囲に収まっているんだよね。
ここからは、なかなか中身に触れずに進めるのは難しいので、近い将来三体読むよ、とか、ドラマ見るよ、という方はそのあとの方がいいかもしれません。
ネタバレあるかも、です。
三体って、ファーストコンタクトの話、なんだよね。
ある日突然、四光年の先に、地球よりもちょっとだけ進んだ文明があり、それが地球を攻めようと迫ってくる。
存在確認と位置のやりとりは、光の速度で(片道4年)で行われて。
艦隊が攻めてくるまでには、(光速の100分の一で進むから)400年かかって。地球はそれまでに迎撃の準備をしなければいけない。
先発隊の無人機は、光速の10分の1で進めるから、到達まで40年かかる。
この時間軸が、魅力的でね。
「急げヤマト、地球の滅亡まであと○日」って毎週観ながら育った世代としては、壮大な人類のあがきを描くのに400年っていう設定は凄いな、と思っていたのだけれど。
ここで、ひとつの嘘が登場するんだよね。
「智子」
原子より電子より小さい、質量を持たない素粒子みたいな粒子が、光速で移動し、止まる、曲がる自由自在。フィルムを感光させたり、物理実験を邪魔したり。
なにより4光年離れていても、一組の智子はシンクロするため、リアルタイムで4光年先のことが分かる、コミュニケートできる。
この大嘘を、どのくらい許容するか、それが三体を楽しめるかどうかの分かれ目になるだろうね。
僕は、好きだけどね。
ファーストコンタクトに使った通信よりも速く、大容量の通信の確保と、先方の嘘がつけない、包み隠せないという「人類補完計画」後の世界のような性質で、科学技術としては全く勝ち目のない相手に対して「コン・ゲーム」を仕掛けて互角に持って行くところとか、ものすごく上手い使い方をしているし、なにより、そのとんでも理論(物語後半にはいろいろ出てくるのだけれど)も、全て事前に登場するVRゲームや、登場人物が語る寓話の中に伏線として入っているところは、ちょっと脱帽してしまううまさだよね。
人類の存亡をかけた大騒ぎと、そのための大がかりな基礎科学から応用科学への技術の進歩を、人工冬眠でスキップしながら俯瞰していって。
そしてたどり着くあっけない結末。
そこからの、なんてありがちで、なんてロマンティックな、もう一つの最終地点。
と思ったら、、、、
なんか、長い長い物語を読んできて。
最後の数十ページでどこまで行くねん、というこの広がり方。
そして、その落ち着き方。
これが、エスエフだよね。エスエフと関係ない人たちを引きつけながら、最後、堂々とエスエフの終わり方に持って行ったその力業。
感服です。
解説の方は、これってシンエヴァだよなあ、って言ってたけど。
いや、これは、
「トップをねらえ」だよねえ。
そのネタバレは、さすがにかけないけれど。
ただ、それだけの話。
ミッキーの、最後の定期 狂乱のショスタコ13 ― 2024年02月16日
小澤征爾が、なくなったね、
まずは、合掌。
僕は、小澤征爾を生で聴いたことが、結局ないんだよね。
高校の頃、カラヤンの来日公演をがんばって公衆電話からチケット取ろうとして。ようやくつながったのだけれど、10円玉がなくなってとれなかった公演が、結局カラヤンが体調不良かなにかで、小澤征爾が代役で指揮した事があって。それが一番近いニアミスかな。
大学の頃、後輩が入っていたジュニアフィルの欧州遠征かなにかで、小澤に振ってもらった、っていう話をしてたっけな。
それくらい、もう30年以上前から、小澤は誰もが知っているスーパーヒーローだったのだけれども。僕にはあまり近くなかった存在だったかな。
このごろは、小澤フェスで振ったとか振らないとか、聴けるのか聴けないのか分からない日々が続いていたけれど。
それにしても。
小澤征爾の訃報を伝えるニュースの多いこと。凄い存在だったんだね。
小澤征爾もそうだけれど、オーケストラの指揮者って、年齢を重ねてもできる職業だよね。あるいは、年齢を重ねてからの方が評価が高くなって、なかなか辞め時が見つからない職業でもあるよね。
朝比奈のじいさんも、93歳でまだまだ演奏予定があって、自分が振る予定だった演奏会の最中に、天に召されたしね。
そういう、辞め時の難しい職業である指揮者を、「来年いっぱいで辞めます」って宣言した人がいるんだよ。
人気の指揮者だからね、必然的に、「カウントダウン」とか、「最後の定期演奏会」とか、そういう演奏会が続くのだけど。
そういうキャリアの終わり方って、いいよね。
せっかく取ったチケットが、体調不良で中止になったり、生前最後の演奏会になるか、って不純な動機でチケットが取り辛くなったりするより、よっぽど建設的。
あ、それって、井上道義、ミッキーのことなんだよね。
ミッキーは、朝比奈さんの時代から大フィルさんの重要な客演指揮者の一人だったし、オオウエエイジの後を受ける形で数年間、首席指揮者もしてくれたし、アンサンブル金沢を率いて大阪に来てくれてもいる、生で聴く機会の凄く多い指揮者なのだけれども。
今年、2024年末で、指揮者を引退するんだって。
今回は、大フィルさんの最後の定期演奏会。シンフォニーホールでの「カウントダウン」コンサートはまだまだいっぱいあるのだけれど、でもひとつの区切りのコンサート、なんだよね。
プログラムは、ミッキーの区切りのコンサートと言えば、他に考えられない、ショスタコーヴィッチプログラム。
ショスタコーヴィッチは、ソ連時代の作曲家でね。中高生には、吹奏楽でも良く演奏される交響曲第5番「革命」で有名なのだけれど。
なかなかその音楽は、実直というか垢抜けないというか。縦のりの農耕民族の音楽なんだよね。
4番とか7番「レニングラード」とか。そういう大曲でも、鍬で地面を耕すようなリズム感が、ちょっと苦手なのだけれど。
でも、ミッキーのライフワークだからね。聴き届けようっと。
とはいえ、最初の曲は、シュトラウスのポルカ。
ウィーンフィルのニューイヤーコンサート以外では、あんまりポルカとかワルツとかに接する機会がないのだけれど、首席指揮者時代に頑なにドイツ語圏以外の音楽を取りあえげたミッキーらしいな。
この曲は、カッコーのさえずりを笛で、いろんなプレイヤーが吹くんだよね。曲の合間に、調子外れだったり、照れくさそうだったりする弦楽器や管楽器奏者の笛の音が挿入されて。
あれ、いつもは一部には出てこないホルンの高橋さんや、トロンボーンの福田さんがティンパニの並びにいる、と思ったら、こちら笛要員でしたね。珍しい姿を堪能しました。
続くショスタコは、映画音楽。
これはもう、トロンボーンの福田さんのスタンディングソロ。座っているときには背筋をピンと張って、ベルの位置をほとんど動かさずに吹く福田さんだけれども、くねくね系のミッキーに合わせたのか、身体を揺らしながらのソロ。これもまた良きかな。
映画音楽の組曲だけあって、いろんな場面の組み合わせが楽しかった。
休憩はさんで、同じくショスタコの13番。
バスのソリストと、海外から招聘した男声合唱。
唄の内容は、スターリン時代のナチスに迫害されたユダヤ人とソビエトへの反体制と。
「革命」とか「レニングラード」とか呼ばれる曲を作り、ソビエトへの批判とおもねりと身の危険と。そういう中で曲を作ってきたショスタコーヴィッチだと思うと、聞いているだけでもはらはらしてしまう内容なのだけれど。
曲はね、ショスタコの縦のり農耕民族っぽさは全く気にならず、男声合唱、それもヨーロッパの、プロの男声合唱の迫力と、バスのこれまた迫力に気圧されて。
ミッキー、最後にすごいもん持ってきたな。
って言う演奏だったよ。
もちろん、お客さんは、これがミッキー最後の定期演奏会だ、って百も承知で。
そしてなにより、曲と演奏が凄くって。
だから、
必然的に拍手の嵐なのだけれど。
その拍手を、堂々と、無駄な謙遜もせず、全霊で受ける井上道義。
歌手を、楽団員を、合唱団をたたえながら、今日の拍手は俺のモノだ、って全身で受けるその姿。
特大の花束をもらって、堂々と掲げて、最後にはばらばらにして全てを客席に投げ入れてしまうその姿。
千両役者やのう。
長身で、手足も長いから、腕を拡げたり投げキッスをしたりするその姿がいちいち様になるのだけれど。
そうではなく、正当な評価としての拍手を正当に喜びながら全身で受ける。それだけの演奏をしたんだ、という満足をみんなに伝えながら、拍手を会場の喜びにしていく。
やっぱり凄いな、ミッキー。
つぎは、カウントダウンのブルックナー、楽しみにしているよ。
ただ、それだけのはなし。
大フィル 大575回定期
井上道義
バス:アレクセイ・ティホミーロフ
合唱:オルフェイ・ドレンがー
J.シュトラウスⅡ世/ポルカ「クラップフェンの森で」
ショスタコーヴィチ/ステージ・オーケストラのための組曲(ジャズ組曲第2番)〔抜粋〕
ショスタコーヴィチ/交響曲 第13番 変ロ短調 作品113「バビ・ヤール」
2024年2月10日
@フェスティバルホール