完璧な、映画。 かぐや姫の物語2013年12月15日

 すごい映画を、観たよ。
 徹頭徹尾、1シーン、1カットにいたるまで、後悔はないんだろうなあ。そういう、映画。
 
 かぐや姫の物語。
 
 宮崎駿が、苦手でね。
 いや、カリオストロの城っていう、不朽の名作を創った宮崎さんだから、苦手なのは、最近の宮崎さん、なのだけれど。
 とにかく、もののけ姫を観に行って、あんな面白くない(=エンターティンメントではない)、救いのない話が、興行収入1位の責任をとれるのか、って憤って以来、宮崎さんの新作は苦手なんだよね。紅の豚とか、テレビでやってたら喜んで観ちゃうんだけれどもね。
 まあ、興行収入1位は、宮崎さんのせいではないから(おかげだとは思うけれど)、ただの八つ当たりなのは百も承知、なのだけれどもね。
 
 だから、この前までやっていた、宮崎駿の新作はパスして。
 でも、この。
 高畑勲のこの新作だけは、やっぱりパスできなかったんだよね。
 
 高畑勲は、僕が物心ついたときには、既に神格化されていた演出家でね。
 パンダコパンダとか、ホルスとか、そういう、僕がリアルタイムで観ていないような作品についてどういういうつもりもないし。
 セロ弾きのゴーシュとか、火垂るの墓とか。中学校の時の感想文コンクールを思い出すような、教科書的な作品をあげつらうのではないけれど。
 そういうのが無意識に積み重なって。
 そうして、大人になってから観た、となりの山田くん。
 確か、公開の次の日に観に行った筈なのだけれども、広い映画館に、4人。高校生の時に男の友達と二人だけで見たグレムリン以来の不入り。
 でも、打ちのめされたんだよね。
 すごい手間と、最先端の技術を使って、4コママンガで十分表現できる狭い世界、小さなエピソードを、大の大人が、真剣に映像化している。
 その真剣さに打たれた訳では、たぶんなくってね。
 絵柄と、矢野顕子の鼻歌が醸し出す、脱力した雰囲気。その雰囲気を、パッケージして届けるのにベストな、これしかあり得なかった手法。
 簡単にできそうなのに実際には手間暇もお金もかかる。しかも成果は4コママンガの雰囲気の再現。
 そんなことに、そんなバカなことに。
 大まじめに取り組む大人がいるんだ。って。
 寒空の中、鼻歌を歌いながらほっこりして帰ったのを、良く覚えているよ。
 
 ああ、かぐや姫の物語、だったね。
 
 もう、ね。
 完璧。
 絶世の美女。顔も姿も見る前から、声と琴の音だけで、既に絶世の美女。
 そういう存在を、逃げずに真正面から美女として描いて。
 そして、それだけではなく。
 血肉通った、感情を持った人間として、確かに存在させて。
 
 長い映画の、どの一コマをとっても、ポスターとして、絵はがきとして成立するような、そしてそれが動き回る、奇跡のような画面。
 芸達者な役者さんの、優しくてあったかい、声。
 
 いいたいことは、あるよ。
 かぐや姫の声が、どうしても島本須美の声に聞こえてしまうとか、
 
 最後のほう、画面が滲んで、きれいな絵が堪能できないじゃないか、とか。
 
 
 せつない、物語なんだよね。
 かぐや姫の罪と罰。
 月から降ろされた罪と罰。
 地球をあとにしなくてはいけない、罪と罰。
 
(このあと数行、まだ見てない人は、読まずに劇場に行ってね。)

 そして、
 全ての感情に、なんの解決も与えられないままに、無情にかけられる、月の羽衣。
 全ての、終わり。
 
 感情にけりをつけられないままの状態を、せつない、って、呼ぶんだよね。
 久しぶりに、泣いたよ。
 せつなさに、思いっきり感情移入して。
 
 
 唐突な終わりのあと。
 なんのおまけもないスタッフロール。
 こんな大阪の、満員のシネコンなのに、誰一人席を立つこともなく、終演後の明かりが灯ったよ。
 すごい、映画だね。
 
 僕は、明かりが灯ってもしばらくは、まだまだ滲み出る涙を、シャツの袖で拭いていた涙をハンカチで拭き直したり、あまっていたポップコーンを食べたりして、立つことが出来なかったよ。
 
 
 もし、これからこの映画を観に行く人がいたら。
 もし、その人が、映画のパンフレットを買って、開演前に読む、という人だったら。
 この映画に限っては、パンフレットを先に読まない方がいいよ。
 特に、高畑勲さんのお話は。
 高畑勲が竹取物語に振りかけたスパイス。パンフレットで細かく解説してくれているけれど、それは、映画を観て味わった方が、言葉で語られるよりもずっとずっと、ずっとずっと良いと思うよ。
 僕は、見終わったあとで我慢できなくてパンフレットを買って、本当によかった、って思うよ。
 
 高畑勲さん。
 ありがとう。本当にありがとう。
 そして、よかったね。こんなものを、後世に残すことが出来て。
 
 万歳。
 
 ただ、それだけのはなし。

大フィルさんの、真新しい、春の祭典 第474回定期演奏会2013年12月30日

 11月の、下野竜也の戦争レクイエム、結構よかったんだよね。合唱団を二つ使った、大がかりな音楽。ちょっと長いけれど、飽きずに聴かせてくれてね。

 

 そのつぎの月。

 12月の大フィルさん。

 僕は、とんでもない失敗をやらかしたんだよ。

 わーい、今日は大フィルさんの日だ、ってうきうきしながら、会社を少しはやく抜け出して。グランフロントのロータリーを横切ってシンフォニーホールまで歩いて。

 入場の列を作るホールの入り口に並んで。冊子になっている年間チケットをとりだして。

 あれ。

 なんか違和感を感じたんだよね、その時。

 今日って、こんな日付だったっけ?

 まあいいや、もぎりのヒトに差し出したチケット。

 でも、カウンターに置いてある半券と、僕の持っているチケットは、違う色。

 

 あれ。

 ああ、そうか。

 今日は、一日目なんだ。僕の持っているチケットは、明日のやつ。

「本日のチケットはお持ちではないですか?」

 っておねえさんは親切に聞いてくれたけれど。二日間聴くほどのマニアではないんだよ。と答えることも出来ずにそそくさと退散したんだよ。

 後で考えると、ちょっと後悔、なのだけれど。

 

 という訳で、次の日。二日目の公演。

 満を持して、また、同じルートを歩いて、今度は無事に聴いてきたよ。

 

 クシシュトフ・ウルバンスキの、春の祭典。

 


 日にちだけはフライングするほど楽しみにしていた、ように見えるのに、誰が、何を振るのか、全然知らなかったんだよね。

 だから、プログラムを見て。ああ、春の祭典なんだ、って。

 

 ハルサイは、もちろん僕の大好きな曲で、それは大歓迎なのだけれど。

 でも、オオウエエイジが最後の定期で振ったのって、まだそんな前じゃないよね。オオウエエイジの棒で、まだ片言が抜けなかったハルサイ。ポーランドの若い指揮者が、どうやって振るんだろう。

 楽しみでもあり、ちょっと心配。

 

 結果的には、申し訳ない心配、だったのだけれども。

 

 凄まじい、演奏だったよ。

 

 この、若いポーランド人の指揮は、すごくわかりやすそうでね。演奏者も見やすそうだけど、昔、ハルサイのスコアを買って、レコード聴きながら必死に譜面をおったことのある僕にとっても、後ろから見てても(やっぱり難しいことが)よく分かる指揮で。

 そういう指揮から出てくる音は。

 歯切れがよくて、煌びやかで、確信に満ちて、分厚くて。

 

 今数えてみたら、僕のiTunesには、ピアノ版も入れると48種類のハルサイの演奏が入っているのだけれど。

 あとから何を聴いても、僕の中でのベスト1の演奏は揺らぐことがなく、ムーティ/フィラデルフィアの演奏なのだけれど。

 

 歯切れがよくて、煌びやか。確信に満ちて、分厚い。

 それって、そのままムーティの演奏を形容する言葉、なんだよね。

 そう、この日の、大フィルさんが奏でるハルサイは、まるで若き日のムーティが、オーマンディに躾けられた、弦の派手なフィラデルフィアに、管楽器の咆哮を持ち込んだ、あの演奏を、生で聴いているかのよう。

 

 この曲に関しては、音の重なりとか重厚感とか、そういうことではなくって。

 エッジの効いた輪郭と、揃った縦の音が醸し出すみっしり感。ラッパの効果音。

 そういうものみんなが、ああ、日本のオケだなあ、って過去二回聴いたときの照れくささ感を全てぬぐってくれて。

 あとはもう、ただただ興奮。

 

 年甲斐もなく、終わった瞬間にブラヴォーコールしちゃったよ。

 

 クシシュトフ・ウルヴァンスキ。

 絶対に一流の指揮者になるね。名前、憶えておこう、っと。

 

 ただ、それだけのはなし。