オオウエエイジの、異形の、悲愴 ― 2011年11月07日
秋だね。
オオウエエイジの最後の年、それももう半分以上過ぎてしまって。いよいよ本格的にカウントダウンを意識する、そういう季節になってきたんだよね。
そういう時期に、僕の方は公私ともにいろいろなことが重なって。チケットと多のだけれども行けなかったコンサートとかも、結構あるんだよね。申し訳ないことに。
たとえば、このチャイコ選集の前回、5番。何で行けなかったかは忘れちゃったけれど、泣く泣くあきらめたんだよね。
だから、前々回、僕にとっては前回の4番。ロマンティックな大騒ぎのイメージから引きずった、今回の6番。結構楽しみにしていたんだ。
そういえば、オオウエエイジって、結構久しぶり、なのかな。
ということで、6番。悲愴。
ゲージツ的にチャイコフスキーがどうかっていう議論は置いておいて。感情の起伏の激しいチャイコフスキーの曲、僕は大好きなんだよね。ロマンティックな大騒ぎ、いいじゃない。
昔、朝比奈さんのインタビュー記事で、どっかで誰かがチャイコの5番を振って大不評の評論があった、っていう話をしたときに、「はて、チャイコの5番は、普通にやればみんなが喜ぶ曲なんですがね。その方がそんなひどい演奏をするとは思えませんが」みたいなことをいっていて。まあ確かに、チャイコでツマラナイ演奏って、そうそう記憶にないよな、って納得したことがあったのだけれども。
この、オオウエエイジの、悲愴。
僕は、好きになれないな。
もっとはっきり言うと、嫌い。
なんなんだろう。
確かに曲は悲愴なのに、何でこんなにざらざらするんだろう。
始まったとたん、そういう強烈な違和感が押し寄せてきてね。あまりにツマラナイから、どういう理屈でこういう風に聴こえるんだろう、っていう謎解きを一生懸命にしていたよ。
最初に考えられるのは、テンポの動かしすぎ。
僕のアタマの中の悲愴との対比でいえば、あるところでは遅すぎたら、あるところでは速すぎたり。それが1小節の中でも現れる、強引なテンポチェンジ。
決して心地のいいテンポが出てこないばかりか、演奏者だってついて行ってないよ。その結果の粗いアンサンブル。うやむやに流れるパッセージ。
特に1楽章は、聴いている間中、ゲルギエフの演奏を想い出していたよ。グロテスクな、ローマの松。
ゲルギエフの演奏は、たとえば人間の肉体。本来皮が被さっていて、その皮の上から鑑賞するべき筋肉の躍動を、生皮を剥いで強引に筋肉を露出した、人体の不思議展の遺体のダンスを観ているようなグロテスクさがあってね。
聴こえるべきところが聴こえない、内声にスポットライトが当たることによる違和感、みたいなものなのだと思うのだけれど。
僕の目の前で奏でられている悲愴も、そういう類のグロテスクさ、居心地の悪さなのかな、と思ったのだけれども、どうなんだろう。
ちょっと違いそうなんだよね。
つまり、ゲルギエフのおとの重ね方から来る違和感ではなくて、テンポのいじり方による違和感。確信犯的なゲルギエフに比べて、楽団員もついてこれないオオウエエイジの指揮に、確信と準備があったのかなあ。
ワカンナイや。
プログラムを見ると、4楽章、通常アダージョで演奏されているのだけれど、直筆のスコアをよくよく見ると、どうやらアンダンテのようで、今夜はそれで演奏される、っていうことなのだけれど。
それが奏功しているかどうか。
それまでのテンポに関する違和感がいっぱいで、とてもそこまで興味が持続しなかったよ。
終演後の、オオウエエイジのしゃべりは楽しかったけれど、演奏に対する拍手は、何人かのソリストに対するもの以外は、今日は出来なかったな。
5番って、どうだったんだろう。
聴いてみたかったな。
ただ、それだけのはなし。
チェロ:セルゲイ・アントノフ*
<プログラム>
ミステリーピース
ロココの主題による変奏曲 イ長調 作品33*
交響曲 第6番 ロ短調 「悲愴」 作品74
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