ジャック・ウェルチと日本的経営2005年06月07日

ジャック・ウェルチと日本的経営の比較で浮かび上がる
ゼネラル・マネージャー論

【導入】

 20年間、ゼネラル・エレクトリック社(GE)を率いたジャック・ウェルチ(ウェルチ)の経営手法は、GEに絶大な成長をもたらした。GEにおいて効果的であったその手法は、従来の日本的経営とは対照をなす、と語られることが多い。本稿は、GEの手法と日本的経営手法を対比させることにより、GEで起こったことを整理するのを目的とする。
 ここでいう従来の日本的経営(日本的経営)とは、終身雇用と年功序列に裏打ちされた大家族的な人間関係を基本的にした会社経営のことを指す。


【対比】

 ウェルチがGEで為したことの一つは、事業の流動的な再編成である。ウェルチは市場占有率で2位以内に入らない事業は高利益率を達成できないと考え、そうした事業は補正するかあるいは売却、閉鎖することを掲げ、実際にかつてGEの看板事業であった家庭用電化製品を含む多数の事業を惜しげもなく売却した。一方でGEのスケールメリットを用いれば大きなシェアがとれると判断した事業は積極的に買収を進めていった。
 この過程で、ウェルチ在籍中にGE従業員数は40万人から32万人に縮小し、大多数の社員が入れ替わっている。ウェルチの経営は、Don't fall in love with Buisinesses.という言葉が象徴するように、徹底した利益追求型である。
 一方の日本的経営においては、GEよりもはるかに従業員本位である。ある事業からの撤退や転換をするときにも、配置転換などにより可能な限り従業員をつなぎ止めようとするのが日本的経営といえる。この経営手法においては、従業員の持つスキルや技術により、事業転換の選択肢が制限される。100人の電子工学技術者を擁する事業を転換するためには、同じく100人の技術者を必要とする事業が必要になる。リストラという大義名分で従業員を減らす習慣のなかった頃の話である。
 このことは、日本的経営は、自ら事業転換の選択肢を狭めるという意味で変化する時代には向かない手技であるといえる。

 しかしながら、まさにこの方法により、日本的経営は従業員の忠誠心を得、それが高度成長期の躍進の原動力となってきたことは論を待たない。GEにおいては、従業員の忠誠心はストック・オプションを中心とした金銭的報酬に向けられていると考えられる。

 この忠誠心の拠り所の差が、GEと日本的経営を端的に隔てていると考えられる。すなわち日本的経営では、従業員と会社は家族のような関係であり、擬似的にでも利害が一致するという幻想を与えた。この幻想の範囲は従業員全員に及び、社長からブルーカラー、パートタイム従業員に至るまでが大家族という関係(の幻想)の中に含まれている。
 他方、GEにおいては、忠誠心の拠り所である金銭的報酬を直接的に得られるのは、一定以上の役職に限られている。その数は32万人の従業員数に対して数千人オーダーである。つまり、GE従業員の金銭的モチベーションは、一握りの上層部に限られていると考えられる。もちろん、安定した雇用、地元での評価などで下層部にもGE従業員でいることのメリットは当然あることは承知している。
 このことは、日本の大企業の社長が従業員を「家族」と呼ぶのに対して、ウェルチが「People」といった時に指すのは全社で500人程度のStuff職以上であるという事実に端的に表れている。

 フラクタルという言葉がある。本稿では全体も細部も同様の構造を持つ形状、ほどの意味で用いる。
 企業組織の形は、大抵の場合ピラミッド型をなす。社長の下に副社長、事業部長がおり、研究所長の下にはプロジェクトリーダー、研究員がいる。工場長の下には工程長、班長などがおり、この形態はGEでも日本的経営でもそれほど変わらない。そして、この形は全体としてピラミッドであり、また個々の部分をみてもピラミッド型を為している。すなわちフラクタルである。

 同様のフラクタル構造を持ちながら、GEと日本的経営はどう異なるのか。これについて考えてみたい。
 日本的経営の基本は、先に指摘したとおり従業員、あるいは技術オリエンテッドである。事業の多角化を目指す際にも「我が社の技術を生かせる」事業に拡大していくというコメントを新聞などでよく目にする。この場合、組織の形状は「下から上へのフラクタル」というべき物になる。つまり、従業員や技術が大事であり、それらを守る発想が組織の意志決定のプライオリティになる。
 一従業員からGMになる過程で、個人は様々なピラミッドを経験する。主任になり始めて部下を持ち、課長、部長、本部長となるに従い部下が増えていく。そしてGMとなり、自分の知らない分野の人間を、直属の部下として迎え入れる。当然のことであるが個人の経験は下方のピラミッドから上方のピラミッドの順番でなされるため、下位の従業員の頃の記憶を持ち続ける。
 日本的経営において、GMが家族意識を持ち続けるのはこの頃の記憶が過剰に作用しているのではないだろうか。

 もちろん、GEのウェルチにおいても、下位のピラミッドから上位にのし上がってきたはずである。しかし、伝記などを読むかぎり、ウェルチはそのキャリアの極初期から事業を、構成員や技術ではなく、市場規模とその中で生み出す利益として捉えていたように思われる。それは、常に大局から物を眺める視線であり、この発想から生まれる組織は「上から下へのフラクタル」であ、ここでは技術や従業員よりも利益や効率がプライオリティを持つ。そしてその視線こそが、マネージャーとゼネラルマネージャーを隔てる一線であろう。
 日本的経営のトップは、GMとしての視点に欠けている、ということも出来る。

 ウェルチの手法が日本的経営と反するのは、国民性と国の文化に負うところが大きい。GEを解雇されても、「GEにいた」ということで次の職を手に入れられるアメリカと、馘首になったというだけで白眼視される日本では、ウェルチの手法によるリスクが違いすぎる。
 にもかかわらず、産業構造において国際化が必須な現代においては、効率に勝るウェルチの手法を意識しないわけには行かなくなっているのが現状である。
 従業員、国民の意識改革と、雇用の流動化を促す施策が求められる。個人的には増えつつあるベンチャー企業がその役割を負うのではないかと考えるが、それは次の機会に論じたい。


【結論】

 以上、見てきたとおり、GEと日本的経営では、組織の形は相似であるが、その方向性が異なる。日本的経営の視線は内側、下側に向けられ自身の技術、従業員の継続発展を指向する。それに対しGEでは、ウェルチの視線は常に外側、上方に向けられ、外部の技術、事業を積極的に取り込む。
 GEをGEたらしめているのは取り込んだ事業は必ず自社の既存事業とのシナジーがあること、そして明確な価値基準が社内にあること、であろう。
 産業が成熟し、GNPの右肩上がりが伝説となってしまった現在、その状況下でも成長を維持し続けるGEの視線を、日本的経営は学ばなければならない。


【エピローグ】

 ゼネラル、とは将軍のことを指す。
 将軍は大群を指揮するが、その意識と指揮は大隊長に向けられ、一兵卒に向けられることはない。そして、指揮内容はもっぱら戦略的な物に限られ、戦術は隊長レベルに委ねられる。
 戦術指揮を大隊長のみに向ける将軍と、一兵卒の運命に気を遣う将軍。どちらも全員の運命に対して責任を負うことにかわりはない。
 どちらが、長期的により武勲をあげられるかは、自明のように私には思われる。
 ある局面において、どちらが一時的に多大な犠牲を強いるかも、また然りである。その犠牲を取らず、しかるに大局的に大きな武勲を追わない、という考え方もあるが、それは衰退の一歩をたどることにつながるであろう。

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